story:15
世界はこんなにも色鮮やかだったのかと、今だからこそ思える。いつものように朝目を覚まし、食事を取って、歯を磨いたり顔を洗ったりなどの登校前の支度を進めていく。
そうした一つひとつの行動が、とても有意義に感じた。加えて今日は快眠だ。精神的な負担も何も無い。心身ともに軽いと言い切れよう。
眠気や気だるさの一切を感じさせることなく、意気揚々と準備をこなしていく純哉。カッターシャツの中央にチェック柄のネクタイが映える夏仕様の制服に身を包んだところで、仕事に出る直前の冬田紘明がその旨を伝えた。
「ほいじゃあ、純哉ぁ、母さん、行ってくるでぇ?」
スーツ姿に磨き上げられた黒の革靴を履いて、純哉の父親は玄関から出ようとする。純哉はリビングからひょっこり顔を覗かせると、見送る際の一言を添えた。
「おう、行ってらっしゃい。父さん」
雲一つない青空のような穏やかかつ爽やかな表情で純哉は言う。対する紘明は、先日までの息子との心情の変化を察して指摘した。
「純哉、お前最近何かええことあったんじゃなぁか?」
「えっ?」
嬉しそうに問い掛けてきた父親に、純哉はたじろく。何か良いことがあったのではないか、確かにそれは当たりだ。
ずっと抱えてきていた課題、中学時代の想い人である峰村瑠花への好意が報われた。かなりの遠回りになってしまったが、純哉と瑠花は互いの背景を伝え合い、このたび晴れて和解し恋人同士となったのだ。
知らぬ間に幸せなオーラがにじみ出てしまっていたのか。言い詰まった純哉に、紘明は面白げに煽りを入れる。
「ほうか! 分かったぞ! 彼女できたかぁ!」
さすが、長年純哉を見てきただけあって予想も正確だ。当の純哉は図星とばかりに黙り込むと、頬を赤くして誤魔化し交じりの笑顔で父親を送り出す。
「それはどうかなぁ? ほらほら、さっさと仕事行けよぉ? 遅刻するぞー?」
「でへへへへへへ! 青春しとんのぉ! ええじゃなぁか、ええじゃなぁか!」
力士のように何度も張り手を繰り出して父親を外へ押す純哉と、ニヤニヤしながら尚も煽り続けて押し流される紘明。傍から見れば、親子の微笑ましい光景である。一応、父親からの質問には曖昧に答えておいた。とはいえ、あのような答えでは普通に肯定していると思われるだろうが。
出勤前の父親を見送ると、純哉は通学用の鞄を持って出るために一度リビングへ戻る。時間を確認してみると、そろそろ出る時間だ。彼もまた、母親に声を掛けて通学路へ赴く。
「じゃ、俺も行ってくるで! 母さん」
「うん! 行ってらっしゃい」
母親の声を受けて、純哉は履き慣れたスニーカーを履いて玄関のドアを開け、自宅を出る。すぐに見上げると、夏前の透明度が増した晴天が広がっていた。
「………………」
そんな当たり前の景色すら、純哉は感動を覚えてしまう。逆に何故今まで、この世界の美しさに気付けなかったのか不思議に思うぐらいだ。
瑠花と付き合い始めてからというもの、自分の見ている世界は驚くほど綺麗に映り、全てが満たされたと感じる。恋愛においてはもちろんのこと、家族や友人との繋がりに然り、普段の日常生活に然りと。
今の自分は、心の底から幸せだと自信を持って言い切れる。もう、欲しいものは何もない。ただ、何も足さず、何も引かないでいてほしい。
だが、状況は常に変化していくものなのだ。いつまでも続く幸せなんてものはないし、ずっと変わらないものもない。だからこそ、目の前にある幸せに感謝し続けるべきなのである。
考えてみれば、今に至るには自分だけでは無理なことだった。それこそ両親や連れなど、色んな人の支えがあったからこそここまで生きてこられたのだと思う。当時の自分を激励してくれた父親や、先日助言をくれた糸井や尼川には感謝しかない。
幾度かは死を望んだこともあったが、人生とは捨てたものではなかった。必ずしも全部が報われるとは限らないが、賭けてみる価値はある。多かれ少なかれ、生きてさえいれば希望が叶うことはあるのだから。
よって、報われた世界で感謝をもってして今日を生きる。
もうすぐ定期テストがあるが、その後には夏休みが待っているわけか。純哉たち3年生には、高校最後の夏休みだ。
中学時代から換算してかなり遠くなってしまっていた予定だが、夏休み中に瑠花を遊びに誘ってみようか。それまではラインや電話で話したり、同じ学区内なのでたまにふらっと会ったりしてみる。
花火や映画などデートコースはいくらでもあるが、具体的には日が近くなればまた一緒に考えればよい。ひとまず今は、何もない満ち足りた日々を過ごす。
学校に到着し、3年6組の教室に入ると糸井や尼川が純哉を待っていた。2人は窓辺にすがって駄弁っている。他のクラスメートたちも大体揃っており、今日も遅刻者は居なさそうだ。
第一に糸井が純哉の顔を見ると、表情を綻ばせて声を掛ける。
「おうおう、来ましたで! おはよ、冬田さん!」
糸井と尼川には、瑠花との決着の件は報告済みだ。本来ならモラルを重んじて仲間内にも共有したりすることはないが、一度相談する流れになったからこそ最低限度の経緯は伝えておく。
「はよー、糸井、尼川。どしたん? なんかえらいテンション高いじゃん?」
「いやいやぁ、冬田さんには負けるよぉね!」
柔らかく笑って挨拶を返す純哉に、糸井も大らかに答える。尼川もまた、本題を伏せて純哉に突っ掛かった。
「2人とも浮かれんなって! ほんまに……冬田というやつは……!」
不敵な笑みで純哉を見詰める尼川。なんだかんだというべきか、やはりというべきか、どちらにしても糸井も尼川も純哉が救われたことが自分のことのように嬉しいのだ。しかも純哉だけでなく、彼女側も良い結果となったのだから尚更である。
こうして気の合う友人にも恵まれ、ずっと繋がっていられるのも一つの幸せのかたちか。高校生でいるあいだは当然のこと、卒業後もともに遊んだり馬鹿を言い合ったり、時にはまた本音をぶつけ合ったりするのだろう。
実質18年間の人生の中で大きな課題を乗り越えたことにより、目標を失ったような喪失感は少しだけあったが、日々の感謝を忘れることはせず、手にした幸せをゆっくりと育てていくのだった。
放課後、1年4組の教室では由磨、小庭、富名が3つの机を囲んでテスト勉強に勤しんでいた。室内には彼等しか居ないが、時折3人のうちの誰かが発言をしたりしているので小刻みに話し声は響く。
夏休み前の定期テストということで学習する範囲は広いらしいが、どの教科もどんな問題が出るかの予想は具体的には出来ない。たちまち勉強をしておけば欠点は回避できそうだが、中々不安は尽きないものである。
各々が勉強している教科はバラバラで、英単語や文法を暗記しようとしている小庭が声を上げた。
「あーっ! 全っ然覚えらんねぇ! なんやこれ!」
ノートや筆記用具を投げ飛ばすほどの勢いで背伸びをし、小庭は1人で勝手に発狂する。突然大声を出したので、富名も由磨も軽く驚いて相手を睨んだ。
「お前うるさい、せっかく集中しかけとったのに……」
富名がキレ気味に文句を言う。ようやく気分が乗ってきた時にペースを乱されれば、それは不愉快にもなるだろう。機嫌を悪くした富名に代わり、由磨が小庭へ助言する。
「覚えられんのんなら意味を頭の中で唱えながらノートに単語を書いてみんさい? それを自分が納得いくまでやりゃ覚えられるはずじゃけ」
暗記系の教科に対して、由磨がいつもやっている勉強法だ。まずは見て覚え、あとは反復して書いて覚える。頭を使いながら身体で覚えるといったイメージか。
「マジで? 信じるぞ、由磨! これで覚えられんかったら、俺は人間不信になるぜ!」
「勝手になっとけや」
小庭がハイテンションで冗談を言い、富名が横から言い捨てる。更に由磨も、どうでもよさげに呆れて促す。
「いいけんやってみんさいや、小庭にとって良い方法なんかは知らんけど」
由磨の言う勉強方法が、小庭に合うのかどうかは分からない。それでも、言ってもらったからにはやってみてもいいのではなかろうか。とりあえず小庭はやってみることにした。
しかし、見てすぐに書いて覚えることを繰り返してみてもあまり手応えは感じられなかったという。集中力が切れた小庭は、再び声を張る。
「うーん! キツいわぁ!」
「じゃあ、あとは気合いだな。がんば」
こうなれば自分なりの学習法を見付けてやっていくしかない。思い付いたところからこなしていけば、自ずと学力もついてくるはずだ。寧ろ小庭は、中学時代から我武者羅にやって試験をこなしてきたのだから。
それからまた自主的な勉強に戻り、テスト対策に努める。しばらくして3人が一区切りついたところで、休憩することにした。
「あぁー、疲れた」
由磨は両腕を上げて伸びをし、富名は椅子に深く座ったまま足を組んでスマホをいじっている。先刻よりもリラックスした姿勢を取っている中、暇を持て余した小庭がまたしても可笑しげな提案を述べた。
「よっしゃあ、昂介! 由磨! ドッジしようぜ!」
まさに小学生の男児が大休憩に言うべき台詞だろう。あまりにも奇想天外な発言に、富名も由磨も当然の如く首を傾げた。
「なんかここにガキが居るで、ガキが」
「ドッジって、ここでかぁ? そりゃさすがにまずいだろ! それにボールは」
「ボールなら、ある!」
言いながら、小庭は自身の鞄からゴム製の青いボールを取り出して距離を空け、富名へ投げつける。
「いや、そもそも何でそんなもん持ち歩いてんだよ!」
由磨の突っ込みが飛び、富名はその場に座ったまま一歩も動かずに迫る球をガシリとキャッチした。そして、相手に便乗したわけでなく、小庭への皮肉も込めて思い切り振り被ってボールを投げる。
まるでレーザービームのような富名の豪速球が、小庭に向かって伸びた。しかしボールは軌道を逸れ、教室の前方にある黒板に激突する。更にそこから跳ね返ってきたボールは、威力をそのまま残して由磨の顔面にぶち当たった。
「んげっ!」
「あ、ごめん」
素直に謝る富名。ある意味凄い技が出た。これには富名のコントロールを疑う。
もはやこの時点で止めておいたほうがいいのではないかと思われるところだが、それでも小庭は零れ玉を拾った。しかも、懲りもせずにまた投げる。
「おぉーい、やる気じゃんかよぉ! ぅおりゃ!」
今度は横に振り被り、投げたボールに回転をかけた。これはカーブのつもりだ。緩やかに曲がる軌道は、富名の隣に居る由磨よりも、更に右にある窓ガラスの方向をなぞった。
そして、鈍い衝撃が響くと同時に、窓ガラスがけたたましい音を立てて飛散する。
「あ………」
教室内でボールを投げ合う時点で予測できていた事故であろう。3人は唖然とした。特にことの張本人である小庭は、焦りと罪悪感が入り混じった気味の悪い冷や汗を背中に流している。
「バカ太一が……」
「あーあ、どうするんよこれ……」
富名は溜め息を吐いて頭を抱え、由磨は笑おうにも笑えないまま小庭と割れたガラス窓を交互に見た。割ったのは小庭だし、そもそもいきなり始めたのだから全ての責任は彼にある。
こうもなれば間違いなく弁償は免れないだろう。果たして、このガラスを修復するのにいくらぐらいの費用がかかるのか。下手をすれば、バイトで稼いだ今月分の給料が一気にぶっ飛んでしまう。
不安をひた隠しにし、開き直った態度の小庭は堂々と事実を捏造する。
「よし! 突然ここだけに強い風が吹いて割れたってことにしよう!」
「無理がありすぎるだろ! 嘘を言うにしてももうちょい頑張れ!」
もはや言い訳にすらなっていない物言いに突っ込む由磨。その後小庭は、富名の密告によって教職員にバレてしまい、こっぴどく怒られた上にいくらか弁償することになったらしい。