エンディング02
愛するひとよ なかないで。
貴方には私の幸福を 私には貴方の不幸を
貴方は私を拒絶して 私は貴方を求受する
たったひとつの されどひとつの
どこまでもひとりよがりの あいのいのり
どうかどうか おねがいだから あなたはいきて
復讐者への祝詞の一部
その老人は老いていた。それは老いていたというにはいささか、いやかなりの老い方をしていた。
眼窩はくぼみすぎ、頬はこけすぎており、そして顔全体には深く刻まれたしわしかない。
それはまるで骸骨にしわだらけの皮膚を貼り付けただけのような、様相をしていた。
そんな老人がひとり寝台の上で眠る。
老人の顔に差すそれは、窓から弱く集光された優しく赤い夕焼け。
窓の先の地平線に差し掛かる赤光は見るものをただ感情を動かす光。
その赤く輝く光に照らされてか老人の息は浅く早く。
額にはたまのような汗水がただ浮き、額のしわに沿って身体の下の寝具に染み込む。
――あ、と似た声がそのしわが刻まれた唇から発せられた。
――う、とも似た音も発せられる。
眉は固く瞑られ、それはまるで目に入れたくない、実在する悪夢からそむけるかのよう。
――や、め。
しゃがれていたその声はだんだんと形を成していく。
――しかたが……。
つぶやく。刻まれた唇からのそれは、
――しかたがなかった。しかたがなかった……んだ。
釈明じみた、謝罪。
汗が落ちる。声も落ちる。
スッと落ちる、影が。ひとつ。
窓から光に照らされた家具によって、象られた自然現象である変わらない影像。
落ちる。影像がもうひとつ。
本棚。そして、またもうひとつ。
暖炉。またもひとつ。
日が沈む。
――しかたがなかった。
老人がただ熱病に冒されたときのたわごとのように、つぶやく。
陽が沈むまでただたわごとをつぶやく。
差す光は消えた。
あるのはただ濡鴉のような闇と、遮るものがない星天の光と、しゃがれたそれ。
老人の目から溢れた星は寝具へ落ち、弾ける。
――すまない。
しわが刻まれた枯れ果てた井戸のような喉から絞り出されたそれは、――謝罪。
仕方がなかった、故の謝罪。
誰に対してか。
――すまない、すまない。
謝るだけの、
――俺は……。
星が落ちる。流れる星が。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――あ……――」
たわごとではなく、芯が入ったのが井戸から発せられた。
衣擦れが夜暗に溶ける。
「虫のこえ……か」
リーリー、と虫の音が窓の外から聞こえる。
「もう夜か」
しゃがれた老爺が嗤う。
「虫の音を聞かねば、昼夜がわからぬとは」
嗤う。嘲け、嗤う。
自傷するように嗤う。
ぜえぜえとかすれるように嗤をする老爺。
「俺も、もう――」
長くないな、と呟きが空に溶ける。
老爺の脳裏に浮かぶのは、
「長く生きた。生きてしまった、な――友たちよ」
かつての友人たちであった。
老爺はただ指折り数える。
「ウェス――は俺の学友……だった。あぁザイナフィールは、俺と同じ協会員だったな――」
かつての友人たちを。
「――忘れてはいない」
脳裏に浮かぶのは強烈な印象。
「忘れてなるものか」
数えのための最後の指を曲げる。
「最高の親友である――」
――……。
音が聞こえた。
「――客……か――」
しかし、それは、窓の内側、から。
死神だろうか、と胸中に浮かぶ。
再度の衣擦れ。
「誰だ、この老いぼれには金はないぞ――」
井戸から発しながら、寝ていた身体をむくりと起き上がらせる老爺。
――奪われるようなものは何ひとつないとばかり。
しかし胸中に浮かぶかけがえのない、奪われたくないものが浮かぶ。
故に、
「誰だ。老いぼれと侮るな。金もなにも無いが、俺は――抵抗するぞ」と凄む。
枕の下に隠していた短めの片手剣を手にする。
老爺にとって長年愛用してきたものだ。故に手にしっかりと馴染む。
しばらくの無音。
音もなにもない。
ただあるのは老爺の荒れた呼吸。
――なにかがいる。
老爺はそう確信する。
――虫の音が聞こえない、と。
気配もない。呼吸もない。音もない。
――暗殺者か、それとも。
老爺の胸中に去来するのは過去の自分の業についてだ。
――!
気配が大きくなった。
この部屋にいる、と老爺は悟る。
額のたまが落ちる。
それは体温以上に熱いが、体表はただ氷に接したかのようにただ冷たくある。
――気配が。
吸い込まれることが老爺に分かった。
手にとるように分かった。
分かってしまった。
死神であることが。
「死神か――」
それもまた良しと胸中に現れる。
しかし。
「久しいな友よ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
怪訝な表情をする老爺。
それもそのはずであった。
「死神が、喋るだと――」
死の間際にみた、幻覚・幻聴か。老爺はただ混乱するが、構えは解かない。
「先の戦役以来だな友よ。それと私は死神ではない」
自己申告する死神。
しかし老爺の友人らは死んだ。
「悪いが死神ではないと名乗る友人は知らないし、そもそも友人はすべて亡くなった。自称死神ではないという――」
――お前は誰だ、と老爺は問う。
今までに会ってきた友人の最期はみな見届けている。
それがこの老爺にとっての人生でもあった。
ふ、と死神は笑った。
嘲るでもない笑いであった。
――そもそも、と。
第一に、と。
「先の戦役以来と言ったが、戦役は二百期齢前だ。その前後の友人はみな死んだ。この目で見ている」
老爺は続けた。
最近の死神はたちが悪いとばかりに応える。
老爺は必殺の範囲を待つ。
死神を、友と名乗る不審な死神を断つために。
しかし、死神は動かない。
「はははは」と笑う死神。
女の声であった。よって殊更に、
「悪いが死神の貴様、俺の友人どころか知り合いに女は何人かいたが、お前の声は聞いたことがない」
対して疑いを晴らすようなことはせず、ただ笑う自称死神。
その笑い方はまるで多人数でわらい転げる、そう爆笑だ。
「勇者、トゥーレ。英雄トゥーレ・フェケル。英雄として語り継がれ、延命し続けたようだな」
「――な、」驚きを隠せずにただ発する老爺。
――その名は――。
「ふ、その姿を見ればわかる。さぞかし楽しかったのだろうな」
爆笑の渦は止まらない。
まるで本当に老爺の周辺に人々がいるかのように。
「――お前は何者だ」
老爺は問う。
死神にだ。
「ふ、」と口の端に上げて、不敵に笑んだかのような死神。
――その名は。
「その名は戦役の最中に捨てた名前だ。なぜお前が知っている――死神!」
叫ぶ老爺。
幻覚・幻聴ではない。それは間違いない。
気配の吸い込まれ方から確実に死神はいる。
「言っているだろう、我が友よ。それともこういえばいいか。
高き陽のもとで、沈むまで共に。と」
「死神に知り合いはいない」と凄む老爺。
しかし、"まさか"というものが老爺の心に浮かび始める。
「覚えていないか。それならそれでも――」よい、というセリフは死神から発されず、代わりにあったのは老爺の、
「まさか、クレウ……ス……なの――か?」とひとりごちだ。
覚えていたかと笑む死神。
そんな、まさか、と。去来するのはもっと前の記憶。
色あせて白く染まり始めたぐらいの記憶。
「ち――ちがう。アイツは俺が――俺が、俺が」
「ああ、殺したはずだ。この私をな」
「違う。殺した。ああ、そうだ殺した。首をはねた」
老爺の剣を持つ手が震える。
「そう、その剣で。柔らかい肌に滑り入れて、赤い肉を裂き、首の骨の関節を正確に射抜いて――」
老爺の手は震え、剣を寝具へ落とし、
「断った」死神はただ経験してきたことを独言する。
忘れるようにしてきた感触を思い出してきた老爺。
「あ、ああ……ああ――ああああ――」
「血煙は空を食んだ」
「お、俺……俺は――」
「痛かった、ってことはない。ただあぁ死んだと思った。それと呆気ないな、と」
死神の独り言ちは続く。
しかし、
「すまない。すまない、クレウス。すまない」
謝罪を述べる、老爺。
しかし、
「最期に見たのは――」
止まらない。
「怒っている――よな。あのときはそうするしかなかった。わか……わかって、――」
「ああ、それは知っている。お互い軍にいた、故に命令は絶対であり、最優先だ」
「で、では――」
許しが欲しかった。
そう、赦しが欲しかった。老爺にとっての後悔がそれなのだから。
「許される。とお前は」
そう一度切って、
「謝って済むと、本当に思っているのか」
夜闇に溶けていた笑いは絶えた。
ただあるのは詰りもない、ただの純粋な問い。
「あとで謝れば、あとで謝罪すれば赦される。と、子供じみたことを本当に思っているのか」
「――――……、」
「謝罪は消費期限がある。お前はその消費期限が切れていないと本気で考えているのか?」
「――――――」
「もう遅い。謝罪の意味などとっくに消えている。死出の門出前に心残りを潰そうとしたのだろうが、もう遅い」
断ずる死神。
「死出の門出……、クレウス……お前は俺を殺しに――」
老爺はそれでもいいと考えた。
赦されないのであっても、自らをそうであると納得すれば満足するからだ。
しかし、それをはっと鼻で笑う死神。
「くたばり損ないのお前を殺すほど私は落ちぶれていない。
それともお前のなかの記憶の私はそういったことをする者か」
違う。
そう死神に答える老爺。
故に。
「では、」
「なぜここに。だろう」
ああ、と短く答える。
「友を見に来て何が悪い」
悪意もなにもない、あるのはただ一途な空虚な想念。
「門出を見に来た。お前には既に私ぐらいしかいないだろうからな」
笑う。
老爺にとってそれは懐かしい音であり、掠れていた記憶の中で死神の顔が浮かぶ。
それは日に焼けた好青年の顔だった。
一途な青年であったと老爺は思う。
真面目で融通の利かない自身とは違う青年。
「なあ」と問う。
死神は「ん」と返して促す。そして「クレウス、お前は『魔族』になったのか」問いかけた。
対して死神は「ああ」と、短く答えた。
「なるほど」
ならば、と老爺に思い当たるものがった。
――結魂か。
これならば、女の声でありつつクレウスであることの辻褄が合う。
となれば、女も誰であるか想像がつく。
業だ。業でしかない。
赦すす赦されないではない。
彼の精神、彼女の身体が背負い込んでいるものは間違いなく――。
「復讐か」
ただ赦されるものではない炎。
「知っているか。クレウス」
問いに応えず、とも続ける。
「『魔族』は既に滅んで久しい。
今やこの世界は人族、獣人族が闊歩して『魔族』は想像上の荒れ狂っていた神々、いや精霊として崇められるものとされた」
お前は、
「何者だ、クレウス」
瞼が重く閉じていく老爺。
それが老爺にとって最期の今際の――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――私はクニースムニース。追われることのなき世界で良い夢を。それが我が旧き徒への願いである」