第98話 点睛。
注意。この物語はフィクションです。実在の人物や団体や事象とは関係ありません。
また作中の登場人物達の考え方や魔法等も、同様ですのでご了承ください。
突然の顔面に痛みに、私は目を覚ました。
まだ少し辺りは薄暗い。朝の澄んだ空気を吸い込むと肺には冷たい空気がしみ込んでいくように感じられる。
そんな中でよくよく目を凝らして見てみると、『うっぐ、ひっぐ』と何やら誰かの嗚咽の様なものが聞こえた。
私は身を起こそうとするが、気づくと自分のお腹にエアの頭が乗っている事が分かり動きを止める。エアは未だスヤスヤと眠っているようだ。
私は一旦身を起こすのを諦め、再び地に横たわると、先ほどまで私が寝ていたと思われる頭の位置の隣に、大きな木の板が倒れているのを見た。
質感といい、重さといい、恐らくは私の顔に倒れて来て、痛みを与えたのはこの木の板だろうと思われる。
私は『ふぁー』と一つ大きく欠伸をして、自分がとても珍しい起こされ方をされたようだと認識した。
さて、どうやら起こしたのは恐らく今嗚咽を零して私を見ている画家タマの女性だろう。
何やら言いたいことがありそうな顔だが、上手く言葉が出ないのか、『ひっぐ、えっぐ』と嗚咽で訴えかけている。……すまんな。流石にそれでは何を言っているのか分からん。
ただ、状況から察すると、ガカタマの彼女が話を聞いて欲しくて寝てしまった私を起こそうとしたのだとは思うのだが、なんでこの子は泣いているのだ?……んー。見た所一睡もしていないようだが、もしかして怖かったのだろうか。
……考えて見れば、私とエアはもう慣れたものではあるけれど、一切夜営準備をしない夜営は普通は珍しいのだと私は気づいた。
ダンジョン都市に来るまでは確りとテントを張ったり、焚火に焚き木を一晩中絶やさないように加えると言う事もやったりはしていたのだが、正直な話、魔法で警戒しているので実はそんな事をしなくても問題がなかったりする。全ては気分の次第だった。
なので、昨日の様な突発的に眠たくなったりすると、エアも私もそのまま寝る事が出来る。
これは中々難しい事だったり慣れるまでは少し訓練が必要だったりするのだが、まあ今は割愛しておくとしよう。
だが、ガカタマの女性にとってはそんな技能を修めているとは思えないので、野生動物も普通に現れるこの何も頼れるものがない夜闇の中で、きっと一晩中眠れずに朝が明けるのをずっと待っていたのではないだろうか。
そうして今、ようやく私達の顔が見れて安心して泣いているのだと思えば、一応の説明はつく。
彼女からしてみれば、『私は一晩中あんなに心細かったのに、二人は仲良く寝ててズルい』みたいに思ったのかもしれない。
……ただまあ、しょうがない事だろう。そもそも自然と相席している感じだが、私達はなにも同行者と言う訳ではないのだ。
勝手に彼女がエアに付いて来て、勝手に一緒に夜営して(していない)、勝手に怒っているだけなのだから、私達は何にも悪くない。
だが、泣いている女性を見ている趣味もないので、私は彼女に【浄化魔法】を施した。……少しは落ち着きなさい。
「あっ……」
たった一瞬の出来事だが、彼女の嗚咽はそれで止まった。
先ほどまでの不安だった精神状態がスーッと一気に安定した為だろう。
不思議そうな彼女に私は朝の挨拶をすると、魔法を使った事、エアが起きるまではこのままでいる事、それから『良かったら、少しの間だけでも話をしないか?』と問いかけた。
そんな私の言葉に、彼女は『男性恐怖症だから上手く喋れないって昨日説明したのに!』と言いたげな少し嫌そうな顔をしている。
だが、私はそれに構わずに、ゆっくりとした言葉で返した。
「話とは、なにも片方が喋らなくても出来る。一方通行でも、ちゃんと相手には届くものだ」
だから、『私が話すから、君は頷くか、首を横に振るかしてくれればいい』と告げると、彼女は渋々とだが一度だけ頷いた。
「男性が嫌いか?」
「こくん」
「そうか。エアは好きか?」
「こくん」
「そうか。それは良かった。画は好きかね?」
「……こくん」
「そうか。素晴らしい事だ。……だがもし、答えにくい事、答えたくない事があったら、その時は沈黙したままでも構わないぞ?」
「こくん」
そうして、私は『はい』か『いいえ』で答えられる質問を繰り返した。
そのほとんどは他愛無い内容だ。
エアが起きる時間までの、ちょっとした遊び。
のんびりとした朝の時間を、その空気を、身体に沁み込ませる為の、ささやかな準備運動のようなもの。
浄化が効いているのだろうか、それとも首を振るだけならば問題ないのか、彼女の表情は昨日とはだいぶ違い、普通にしか見えない。
これが元々の彼女の姿なのだとしたら、それはなんとも勿体ないと、正直感じるほどである。素直で真面目な良い子なのだろう。
ただ、浄化の魔法は心の傷までは消してはくれない。彼女に何があって、男性恐怖症になったのかは分からないものの、恐らくは最初からそうではなかったのだろう。
今、こうして私とも普通にお話が出来ているのだから。
人の経験とは良くも悪くも残る。
悪い思い出をどんなに消し去りたい、忘れ去りたいと思っても、そんな都合良くはいかないものだ。
それは傷跡だから。心に残り、跡になってしまったものだから。
身体の色々な怪我を治せる【回復魔法】でも、その傷跡は簡単には元に戻せない。
……だが、治せないことも無い。
「魔法を使えば、君の男性恐怖症も治せると思うが……君は、治したいか?」
「…………」
今まで、一度も沈黙する事が無かった彼女はその時、初めて固まった。
『そんな事出来る筈がない』、『でも、出来るなら治したい』、そんな二つの心が見て取れる。
気持ちは惹かれるが、彼女にとっては聞いたことも無い話だったから信じられないと言う感じなのであろう。
それでは少しだけ、その魔法を説明する事にしようか。
「君を治す為に使うのは【呪術魔法】。とある界隈では、"呪い"とも呼ばれる忌み嫌われた技だ──」
「ブンブン」
──私がそこまで言ったところで、彼女は急に今日一番の首振りをした。『呪術は怖い』と、『そんな魔法は嫌だ』と、思ったのだろう。
だが、呪術には幾つか種類があって、君に掛けようと思ったのは『剣と盾のおまじない』と呼ばれるとても優しい魔法である。と言う事を説明してみると、彼女は私の話に少しずつ耳を傾けてくれ始めた。
『呪い』も、『おまじない』も、その中身は一緒。違うのは読み方だけである。
だから『良かったら説明を聞きながら実際に受けてみる気はないか?決して悪い様にはしない』と私が尋ねると、彼女は暫く考えた後に、ゆっくりとだが頷いてくれた。
……どうやら、呪いとおまじないの違いが、読み方だけと言う言葉に興味を引かれてくれたらしい。
そんな表面だけを気にするのではなく、中身をみてちゃんと判断して欲しいと言う、私の言葉が少しは通じてくれたようだ。
そこで私は彼女に実際に呪術の説明をしながら、それを施し始めた。
……因みに、私は寝転がったままである。エアの眠りは妨げたくない。
私は、彼女に、手のひらを上にして、私の傍で見える様に地面の上に置いてもらった。
呪術は、怖い事に使う者も居るが、それだけが呪術本来の姿ではない。
この魔法は、元々は人の心を元に考えられた優しい魔法なのだと。これを使えば君の男性恐怖症は良くなると。私はそんな言葉を語りながら、彼女の両手の親指の付け根辺りを人差し指で、ツンと一回ずつ触れて魔法を発動させる。
未だ寝たまんまでマヌケな姿を晒している私からそんな説明をされても、彼女からしたら微妙に感じたかもしれないが、素直に話を聞いてくれるのはありがたかった。
私が魔法を発動させると、彼女の両手の掌、その右手の親指の根本の方には小さい矢印みたいなマークが、左手の親指の根元の方には小さい四角のマークが、殆ど言われないとわからない位の大きさの印として表れた。
呪術は人の心に寄添い、人の心と共にある魔法である。
そして、その中において、剣は未来を、盾は過去を表す。
未来を切り開くための術と、これまで積み上げてきた自分の過去を守る為の術。
それがこの『剣と盾のおまじない』の根幹である。
彼女は男性恐怖症である。
だが、元々そうであったわけではない。
だから、彼女の理想とする自分の中には、本来は男性を怖いと思う自分は居ないのだ。
けれど、今の彼女はそんな理想とは違い、男性を怖いと思ってしまっている。
それはつまり、彼女は今、理想の姿を失っていると言う事であった。
私は思う。
何故、彼女は画を描けなくなってしまったのかと。
何故、理想を描くのが苦手なのかと。
それは男性恐怖症だからなのか?……いや、違う。
恐らくそれは、彼女が今の自分は理想とは違うと、自分で自分を否定してしまっているからではないかと。
『こんなのは自分じゃない』と言う、ご令嬢たちの依頼の画を描きながら、誰よりも、本当にそれを想っていたのは、彼女自身だったからだ。
理想を失ってしまったから。本当の自分を見失ってしまったから。
だから理想を描く事が上手く出来ず、苦痛に感じてしまったのである。
男性を怖がる事と、彼女の画は繋がっている。
そこにどんな理由が隠されているのかまでは私にはわからない。
だが、初めて会った時から、彼女は無邪気なエアに惹かれ、エアの事を見続けていた。
エアに自分の理想を重ねていたのだ。
私もこうありたかったと。こうであったはずなのにと。
彼女はエアを描きたかったわけではない。本当は自分の理想を描きたかったのである。
その右の手にある絵筆は彼女にとっての剣であった。
彼女の未来を切り開き、己が理想とする姿を取り戻す為の剣である。
その左手にある木の板は彼女にとっての盾であった。
彼女の理想とする画を支え、本当に手にしたいと願った姿、理想の自分を守る為の盾である。
男性恐怖症なんかに負けたくはないと、彼女はずっと画を描き続けて、戦って来たのだ。
だから、私はそんな彼女に、魔法を施した。
理想を掴むためのおまじないを。
剣を使うたびに、彼女は理想とする心を取り戻していく。
盾を使うたびに、彼女は理想を支えていける。
彼女は画を描く度に、強くなれる。
画を描く度に、彼女は自分で自分を救う事が出来る。
剣と盾がある限り、君はもう二度と理想の姿を失くさない。迷わない。心をまま進んでいける。
その手の中には常に彼女の理想が守られている。
理想の中の君は、男性に恐れを抱くような存在ではない。
だから切り開きなさい。その手で。自分の画で。
そうすればこのおまじないで、君の心は元の形へと少しずつ戻るだろう。
そして、いずれ君の心が完全に戻った時に、このおまじないは役目を終える。
その役目を終えた時こそ、君は自分がずっと思い描いていたその理想の姿になっている筈だ。
それがこの『剣と盾のおまじない』。
人の心を救いたいと願った呪術師達によって編み出された最高の妙技、"心に特化"した【回復魔法】なのである。
これは呪術師達以外では、到底考えられない分野だった。
使用者の自己研鑽を対価に永続に発動し続ける魔法──心を守るが、とても優しくて厳しい、世にも珍しい呪いなのである。
後は君次第だけれど、君ならば大丈夫だと、私は思った。きっと負けない筈だ。
「……なんで、そんな、魔法を?」
彼女は私に問いかけた。
なんでそんな魔法を自分なんかに使ってくれたのかと、私は何も言っていないのにと。
ただ、彼女の質問自体への解答は簡単な話であった。
単に私が彼女に頼まれたからである。
「へ?いつ?頼んで、ないです」
「……いいや、先ほど、朝起きた時に、頼まれた」
「──えっ?」
君は私の顔に"盾"を置いていただろう?
自然とやったことかもしれないが、盾を私に託してくれたのだと私は思ったのだ。
どうにかしてほしいと、理想を守るために力を貸して欲しいと、男である私に、男性恐怖症である君は自分から一歩を踏み出して助けを求めて来たのだ。
それならばと、私は少し力を貸しただけの話である……。
どうやら彼女もだいぶ負けず嫌いな性質を持つらしい。
負けず嫌いはなんとなく同族が分かるのだ。
そして、冒険者の習性なのか、そういう同士には力を貸したくなるものなのである。
それは理屈じゃなくて、私の冒険者としての矜持と理想であった。
その言葉で、彼女からは返事が無くなってしまったけれど、ちゃんと納得してくれたらしい。
……この時の彼女の表情には、あえて触れないでおこうと私は思う。
因みにだが、少々かっこつけて『力を貸しただけだ』とか言っていた私は、未だに間抜けにも地面に寝っ転がったままだったりするのだが……そこだけは忘れておいて欲しい。
またのお越しをお待ちしております。




