第789話 別有天地。(アナザーストーリー)
これは元々『鬼と歩む追憶の道。』を書くにあたり、最初に描いていた別世界線の物語となります。
森でエアと出会ったエフロムは、彼女の好物となる『干し肉』を求めて王都に向かう所から話は始まります……。
本編と似た名前の登場人物もいますがほぼ別人だとご理解ください。
またエフロムやエアに関しても、お喋りだったり、とても幼くなっていたり、色々と拙かったりもします。
一話のみ、五万文字ほどの内容となりますので、気が向いた方だけ無理せずお付き合いくださると幸いです。
「――私はこれより王都へと赴き、旨い物を買って来ようと思う。……君は共に来るか?」
「……ゴクリ」
我ながら不器用な話し方であった。
基本的に私たちはどちらも会話と言うものがそこまで得意ではないらしく、未だ必要最低限の会話しか交わしていない。だから、それぞれの好き嫌い所か互いの名すらもまだ全然把握出来ていない状態である。
だがしかし、今回の場合においては蛇足となる言葉を交わさずとも彼女の考えは直ぐに分かった。
『旨い物』と聞いた瞬間、彼女の咽は大きく鳴り響き、それ以降涎が止まらなくなったのだ。
「これも美味しい!でも、他の美味しい物も食べてみたいッ!!」
まるで小動物が頬をパンパンに膨らませる様な状態になるまで干し肉を詰め込んでいた彼女は、その溜め込んだ干し肉を一気にごっくんと飲み下すと、突然私に向かって飛びついてきた。
最後まで手にしている食いかけの干し肉でペシンペシンと私の胸に干し肉を叩きつけてくる程には興奮しているご様子で、涎もダバダバと垂れ流したままなので私の服は一部水害等にも侵されている。
他者から突然干し肉で殴打され涎でべとべとにされれば、だいたいの人は憤慨して然るべきだとは思うが、私から見た彼女の行為はただの幼子の無邪気さにしか思えず、心に浮かぶのは微笑ましさのみであった。
時に、幼子がじゃれついてくるのに対して、こちらも適度に遊んであげたくなる心持ちというのがあるとは思うが、そんな親心的な感情を皆様も分かっては貰えるだろうか。
その後の、その時の、私の行動を表すのならば、まさにそれだったのだ。
普段から笑みなど表情を動かす事を殆どしていない私でも、心の中までは鉄面皮と言う訳ではないので、彼女のそんな無邪気な姿に自らの父性が働いたのだと、先に弁解もさせて欲しい。
私はただ、彼女の殴打武器(干し肉)を、じゃれつき返しの軽いイタズラとばかりにバクっと一口で丸のみしただけなのだが、その時の様子を第三者が見ていたとしたら間違いなく、冷徹な面貌の私が怜悧な眼差しと共に彼女の持っていた干し肉を取り上げ、意地悪でその干し肉を奪い食ったようにしか見えなかったのだ。
「――あああッ!?」
二秒前までの溢れんばかりの笑顔が一瞬で曇り、彼女の目尻には雫が浮かぶ。
後々考えてみれば、私の様な無表情の者が突然その様な事をすればただ怒っている様にしか見えず、相手を委縮させるばかりなのだ。
私の心情としては、ただ単に幼子とじゃれているだけのつもりであるからして悪意は皆無であり、ある意味で平和的な行動をしただけのつもりだったのだが、対照的に彼女の様子は刻一刻と変化していった。
私の突然の行為に驚き、尚且つ彼女の方は私に怒られたのだと錯覚し、大事に食べようと思っていた最後の干し肉も私に目の前で奪われたというショックを受け、俯いて今にも大泣きしそうになる直前であった。
人生とは後悔が先に立たない事象ばかりであるものの、この時の私と彼女どちらもまさにそれになりつつあった。
――だが。
(……あ、これはいかん)
ただその時の私にとって僥倖であったのは、彼女との距離が近かった為にその表情がすぐさま目に入った事と、故郷での経験から泣き顔の変化に敏感であった事で、彼女がもうすぐ泣くと言う事に一早く気づくことが出来た事であった。
彼女と出会ってから、幾度も昔を懐かしむ事があり、直前には故郷の森で幼き姉弟達の世話をしていた事を思い出していたのも追い風となったのだろう。彼女との関係が食物絡みで険悪となるほんの一歩手前に私は察するの事が出来たのだ。
言うに及ばないとは思うが、食物の怨みと言うのは存外馬鹿に出来ず、大人同士でも食が合わない事で険悪になるのは勿論の事、その後の人間関係までも決まってしまう事は多々ある。ましてや今回の様にその相手が幼子だったりすると、『三つ子の魂百まで』と言う言葉がある様に下手したら一生嫌われる事もあるのだ。
だから、私はこの危機を直感した瞬間、なんとかしなければと直ぐに思った。
『これはマズい。このままだと泣かれる。面倒な事になる』と。
彼女の顔がぐーっと何かを我慢するような感じになり、それでも我慢しきれずに崩壊する、そのまさに一歩手前の様な状態になって私は焦った。
きっとこのまま泣かれれば、どんな言葉を重ねても、どんな巧みにあやしても泣き止む事はないだろう。
全力で今すぐ、なんとかしなければ。
「……き、聞きなさい。食べ物を粗末にしてはいけない。悪さをする子には旨い物はあげられん。……だが、良い子でおるなら、旨い物たくさんだ。甘い物も食べきれない程にいっぱい。だ、だから……あとは分かるな?」
言葉は不器用だったが、私は泣き出しそうな彼女の瞳をしっかと見てそう伝えた。
対して彼女は、顔を上げて潤んだ瞳で私を見返すと、顔に力を込めて涙をググっと堪えてコクリと小さな頷きを見せた。
「……うん。ごめんなさい」
彼女は素直だった。素直に反省し、シュンとした顔で直ぐに謝った。私が言った旨い物に惹かれたと言うのは勿論あるだろうが、それでも自らの非を認め素直な謝罪が出来るというのはとても大切な事だ。私の様に偏屈に歳を重ねてしまった者にはその行いがとても難しい。それを素直に行った彼女は誰が何と言おうとも良い子で間違いない。
「分かれば良いのだ。……ちゃんと謝れるのは良い子だ。王都では旨い物をいっぱいあげよう」
悪い子は私の方である。明らかに物で誤魔化してしまった。
孫のじゃれつきに対して過剰な可愛がりをしたが故、逆に孫を泣かしてしまう爺の様な愚行をしでかしてしまった上に、物で釣っているのである。恥じを知れ私よ。
自分の過ちに気づいているのに、私は彼女へと謝れずひっそりと心中だけで猛省していた。
幼子に泣かれる厄介を避ける為に説教で誤魔化した上、謝る事すら出来ないとは、私はここまで歳を重ねてきて、いったい素直さをどこに置き忘れて来てしまったのか、彼女には本当に申し訳ない事をしてしまったと思う。
この埋め合わせに王都では特別に美味しい物を食べてもらおうと、そう心に強く決めた。
私が知る中で一番の秘店へと連れていき、どうにか埋め合わせをしようと思う。
☆☆☆
「……では、もう少し私の傍に寄って貰えるか。ここから王都へと跳ぶ。たくさん旨い物を食べに行こう」
「うん!」
涙も渇き、笑顔に戻った彼女は、私に言われるがまま傍へと寄って来た。
私が何をするのかまでは分かっていないようなので少々不思議そうな表情はしているが、『旨い物』と言う魅惑の言葉に釣られた彼女の瞳には既に期待で爛々と輝きが宿っている。
私はそんな彼女の肩に手を置き、静かに得意である所の魔法を唱え始めた。
『精霊よ。繋いでおくれ。王都にある我が家へと。私は望む、魔力を対価に空間の跳躍を。隣の彼女は今回の連れである。一緒に優しく運んでおくれ。……さて、最近の調子は如何かな?なに?王都方面の魔力が薄くてお腹が減っている、と?力が出しにくい?ならば、私からいつもより多めに持っていきなさい。いやいや、遠慮などする必要はあるまい。君達にはいつも世話をかけている。これは持ちつ持たれつと言うものだよ。君達が嬉しいと私も嬉しいのだから思い切り使って欲しい。そう言えば、前に頼んだこの家のまじないは素晴らしい出来になった。ここは私にとってこの世で最も落ち着く空間となった。素晴らしい場所だ。君たちの仕事はいつも素晴らしく本当に感謝に堪えない。今日も心よりの感謝を、ありがとう。これからもよろしく頼む。あ、そうそう、もう一つ頼みたいことがあったのだった。実は、隣に居る彼女なのだが……』
魔法の『詠唱』と言うのは、『特殊な魔力が込められた言語』であると言われている。
その言語は、日常的に使う言葉とは異なる性質を持ち、それを思うがままに扱うのは大変難しい。
だが、日常においては寡黙な部類であるのだけれど、こと魔法の言語分野においては私はこれに当てはまらず、友などからは『お喋り者』だとの評価を頂いている事からして、この『詠唱』と言うものをとても得意としていた。
魔法への親和性が高い私の種族においても、私程の『お喋り者』は早々居ないらしく、これは私たちの種族において最上級の褒め言葉に近しい。
『詠唱』の上手い者は、それだけで魔法の強者存在たる『精霊』との意思疎通が容易であり、魔法的な結びつきも自然と強くなる為、魔法分野において秀でる事が多くなるのである。
ただ、あまり勘違いして欲しくない部分としては『詠唱』の得手不得手だけが魔法の全てではないと言う事であった。
魔法と言う分野はあまりにも広く、その手法も多岐に渡る。
決して詠唱が得意とは言えない者でも、他の方法を用いる事で強力な魔法を扱う事は十分に出来るのだ。
声を出せない、話せないからといって魔法が全く扱えないわけではない。
そもそも魔法とは種族特有の得意不得意もあれば、個人個人においての体内魔力の貯蔵量や適性、本人の知識量や工夫、性格やその身を置く環境、その他諸々の理由により多種多様な影響を見せる。
不得意な分野だからと言っても覚える事が出来ないわけではなく、知識量や環境においては本人の努力次第で不得意者が得意者を技量で超す事は常道としてあるのだ。
かつてその昔、空を飛ぶ事に生涯をかけて挑んだ男が居た。
彼は生涯をかけて見事それを成し遂げた者ではあるが、元々魔法を不得意とする者であり、その魔法の適正すらも劣っていたと聞く。
だが、最後までその者はそれを見果てぬ夢と諦めずに挑み続け、遂にはその夢の到達点である『飛行魔法』を開発し、その道の第一人者として広く知られるようになった。
夢を追い続ける事は力が必要であり、努力や情熱無しには語りつくせぬ労苦が必ずやある事だろう。
何事においても通じる事ではあると思うが、正解のない道は険しく迷いやすい上に、同じ労苦をすれば誰でもその夢を叶えることができるわけではない。成長度合いもまちまちである。
ただ、それを実らせた者は地道な労苦を重ね、しっかりとした下積みの上に特別な一歩踏み出すことによってその夢を叶えている。
歩きもせず、羨まし気に眺めるだけの者では到底辿り着く事など出来はしない。
だが、最果てに通じるその道程は見つけ難いが、その道を見つける為の方法は――夢を実らせる方法は何も一つではない。
正解は無いのだ。夢追い人本人がその限界を決めるまでは。
時に回り道を進み、その回り道の中に近道を見つけては複雑に道を交差させて人は歩んでいく。
人一倍労苦を積み重ねても、時に運がその夢追い人の行く手を頑なに阻む事もあるだろう。
道の先に道がなく、どう足掻けども死して終わる事もあるだろう。死んだ後に叶う事もあるだろう。
だが、これらに限界はない。
壊そうと思えば限界は壊せる事もある。
限界は当人が決めぬ限り決まらない。見つけられてないだけだ。寿命だけでは言い訳にはならない。
本人が最終的に超えたい目標を定め、そこに辿りつく事を人は本当の夢として呼び、そしてそこに辿り着こうとして足掻くからこそ人は輝く。
その先に待つ結末が、夢が、例え本人にとって不本意なものになろうとも、その輝きは嘘ではないのだ。
そして私はこうも思う……もし気づかぬ内に意図無き道の上に立っていたとするなら、そこにはきっと意味がある。
その時は、きっと何かを必要とし、何かから必要とされている瞬間なのだと。
大事な何かを見落とさないように、大事な何かを見つけられるように、一番気を張らなければいけない時間なのだ。
だからきっと、長くを生きる私にも、何か意味が……。
――いや、話が逸れたか。話を戻そう。
つまりは、精霊を介せずとも魔法を扱う事はできるのだ。
近年においては、精霊達から伺ったところによると、略語を用いて魔法の発動速度に重点を置いた『高速詠唱魔法』や、魔力文字や魔法陣術を刻み込んで武器を扱う事で行う『術具無詠唱』なども流行であるとか無いとか。
若者たちは次々に面白い発想をすると感心するばかりである。
そしてそんな新しい発想が出る度に思う。
魔法にも、限界はきっとないのだ――。
☆☆☆
「――さて、では跳ぶぞ。酔わないようにしっかりと気を張っていなさい」
「うん!んんん?……ぐにぁにぃにぅにぇにぉにぃ!?」
精霊達と長々と話し込んでしまい、その間に共に編んだ魔法は張り切り過ぎた為か色々と大きく複雑になってしまった。
本来なら幾つもの工程を一つ一つに分けてこなしていく方が簡単であり安全なのだが、ものぐさな私の場合は面倒だからとついつい魔力で無理矢理一つに詰め込んでしまいがちになる。
それにより半径一キロ程にまで魔法陣が巨大になってしまったが……まあ、些細な問題であろう。
ただ、そんな巨大な魔方陣がいきなり現れ、しかも幾何学な模様の変化をしながら足元でクルクルと回り出せば何も知らない彼女にとってさぞかし驚くものであったらしく、彼女は奇怪な音を発し始め壊れた玩具の様になってしまったのだが、今は見なかった事にしておくとしよう……。
「うぁぁあああああーーー!!」
彼女は急に足元に現れたその魔晄の輝きに目を白黒とさせ、私の方へと形容し辛い顔――喜んでいるのか、怒ってるのか、不安なのか――そんな曖昧な表情で訴えながら、私の服の袖をグイグイと強く引っ張ってくる。
大丈夫。何も問題は無い。そう伝えるのは吝かではないものの、言葉では完全に拭えるものでもないかと、私は手のひらに特別な魔法を編んで小さな球体状にすると、それを彼女の小さな鼻先方へと近付けた。
「匂いを発するだけの球の魔法だ。それを嗅ぐといい。気分が落ち着く」
私がそう口にすると同時に、ポコンと生み出された橙色の球体。
その球に気づいた彼女は、その球へと鼻を近づけると香りをクンクンとまるで犬の様に素直に嗅ぎだし夢中になる。
自分が知る匂いを少しの間だけ再現させると言う使う場所がかなり限定される弱い魔法ではあるのだが、こういう時にはとても役に立つ。
誰にとっても気分の落ち着く匂いと言うものはあり、普通であれば花や土、木々の香り等を再現して気分を落ち着けてもらうのだが、彼女には特別に干し肉の匂いを組んで再現してみた。
それを嗅いだ彼女が喜んでくれたことは言うまでもないだろう。
☆☆☆
リーン。リーン。
――と、その屋内に約五十年ぶりの主人の到着を知らせる鈴の音が響き渡ったのは、とある暑い日の事であった。
屋敷の中に居る者達にとって、それは驚愕と共に歓喜の音であった。
その屋敷の中で最も立場の高い初老の男性は、すぐさま自らの服装の歪みが無い事を確認すると、一人確かな足取りでその部屋へと歩みを進める。
彼以外の使用人達は、まだ彼の様に直ぐには落ち着く事が出来てないようで、みんな未だどこか浮ついた表情をするものばかりであった。
そんな周りの者達を見つめる彼の表情は温かく、各役割の責任者達への指示をだして、目的の人物がお見えになるまでには落ち着いておくようにと伝える。
彼は一人歩む。
その一歩一歩に込められた思いの深さは、この屋敷の主人に対する思いに等しい。
懐かしさを感じずにはいられない。
昔を思い返すだけで、湧き上がる感情と、込み上げてくる熱がある。
だが、それら一切を堪えて、彼は普段の自分へと徹した。
周りの者達から見た彼は、いつも完璧であり、今もそれは変わらない。
屋敷の中で唯一の『開かずの間』と化していた主人の部屋の前へと辿りつくと、彼は少しだけ時を待った。
扉越しに気配を感じる。凍てついた筈の空間がゆっくりと時を刻み動き出していく。
主の帰還を確信した彼は、息を整えてノックをすると、静かに扉を開け放った――。
☆☆☆
私は、彼女を連れ王都にある我が家へと【空間魔法】を用いて一瞬で戻ってきた。
そこは沢山の本が詰まった書棚が部屋の両脇にズラッと並び、部屋の中央には質の良い執務机が長らく使われてなかったことで独特の哀愁を帯びた様相を呈している。
部屋の中の時間は少しの間だけ凍結させていた筈なのに、私はこの場所が凍結する前とはどこか少し変わってしまった様に思えた。
変わらない筈の部屋が違って見えるのは、果たして見る方が変わったのか、それとも見られる方が変わったのか、私にもまだ分からない。
暫し懐古の念を記憶に刻み付けていると、隣にいる彼女が徐に私の服の袖を強く引っ張るので、自然と視線はそちらの方を向くことになる。
「……ん、どうした?」
「ここに旨い物あるの?」
「ああ、ある。この後、屋敷の外へと買いに行こう」
「たくさん?」
「ああ。たくさんだ」
「やった!!」
私たちの会話はどことなく不器用な気がする。
だが、まあたったそれだけで彼女の顔はキラッキラと光を帯び、腹を『ぐーぐぐー!ぐーぐぐぐー!』と軽快なリズムで鳴らし準備は万端であると嬉しそうに自己主張を繰り返す。
確か来る前にたらふく干し肉を食べた筈なのだが、彼女の腹の中は底なしなのだろうか。なんとも微笑ましく恐ろしいものである。
――と、そんな風に、私が彼女の腹の内の怪奇へと思いを巡らせている時だった。
突然部屋の扉がコンコンコンコンと小さくノックされたのを私の耳が捉えて、私は直ぐに返事を返す。
「入って良い」
「失礼いたします」
部屋の主である私が入室を促すと、ノックした人物は丁寧な礼を見せつつ、優しい笑顔と共に足を踏み入れてきた。
「ご主人様。お帰りなさいませ」
私の事を『主』と呼んだその人物は、白くなった頭髪をピシッとオールバックに決めた執事服姿の初老の男性である。
私は、彼のこんな立派な姿を見たのがこれが初めての事だったので少しだけ目を瞠る。
が、面影からその人物が誰であるのかは問うまでも無く直ぐに分かった。
「久しいな、ニケ。随分と立派になった」
「ご主人様……」
そう名を呼んだ瞬間の事。
立派なその人物の両の瞳からは、思わずといった感じでつつーとあたたかい雫が流れ、静かに床を濡らしたのである。
「こ、これは失礼を。無礼をお許しください。歳のせいか最近は涙腺が緩くなってしまったようでございまして。……まさか、生きているうちにこうしてまたご主人様とお会いできて、名を呼んで頂けるとは夢にも思わず、今日と言うこの良き日に、喜びがこみ上がりまして……」
私の目の前で、精悍な顔つきの執事が溢れ出る涙を拭いきれず恥ずかしそうに『わたしくがこんなでは、他の使用人達に示しが尽きませんな』と涙ながらに綺麗に笑う姿を見た。
その笑みは昔と変わらぬ屈託のなさが重なる。
私はそんなニケの姿を見て、自分の胸の奥が殊更に熱を帯びるのを感じた。
感情の発露が乏しいこの表情では分かり難かろうが、私も心の中で温かな涙を流している。
「無礼などとは思わぬ。それに私も胸にこみ上げる熱さで、上手く発する事が出来ない。無口で無愛想なこの顔では分かり難かろうが……すまないな」
「いえ、ご主人様のお変わりない姿に、私めは安心するばかりでございます。本当にお久しぶりになります。……改めまして、ご主人様のお帰りをこのニケめが、館の者達一同を代表してお喜び申し上げます」
「私も嬉しく思う。この場が保たれていることが何よりもの証だ。皆が見事に勤め上げてくれたのを確と感じているぞ。……ニケ、色々と苦労をかけた」
「――勿体ないお言葉で御座います。……いけませんな。私は自分がこうまで涙を抑えきれぬものだとは思いませんでした。まだ日も明るく、仕事も残っておりますれば、今ここで泣き崩れるわけにはいかないというのに……まったくお恥ずかしい限りで御座います。父も、私めも、ご主人様から頂いたものがあまりに大きい故に申し訳ございません。……わたくしの老い先短いこの命も、父同様に最後まで尽くし続けられれば、これに勝る幸せはなく。何卒、これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます」
「ニケが居てくれる、それだけで私も心強い。こちらこそ、引き続きよろしく頼む」
「はっ、この命に代えましても」
「いや、館よりもお前の健やかさの方が大事だ。もしもの時は手筈通りに頼むぞ」
「はっ、畏まりました」
「……アルは、どうだったのだろうか。奴は最後まで変わらなそうだが」
「はい。父は二十年程前、後進への全てを引き継ぎ終え、仕事納めとしたその日の晩に、静かに息を引き取りました」
「……そうか。ここに居ない事に少し違和感があった。いつも傍にいてくれたから。……最後はどうだったろうか。苦しんだりしなかったか」
「はい。病も無く、とても穏やかな顔つきでございました」
「……そうか。穏やかだったか」
「はい。『この館を守る様にと、だがここで働く者達の事を第一に考えよ』と、父はご主人様からのその命を最後まで守り続けました。父の最後の言葉は『エフロム様。全てに感謝を……あの日出会えてから、今日まで、絶えず幸せでございました。今度は空の上より仕えさせていただきたく存じます』との事でございました」
「感謝するのはこちらの方であるというのに……。
『――精霊よ。家族へと心から祝福を送りたいので少し手伝って欲しい。場所は不定だがこの気持ちだけでも空へと飛ばして欲しい。……ん?ああ、そう彼だよ。君達も覚えていてくれたか。この屋敷でいつも私の傍に居てくれたあの立派な男に、私も最後の言葉を送りたいのだ。安らかな眠りを覚ますわけにはいかないから、ひっそりと頼む。彼に光あれと、そして『最後までありがとう。そしてこれからも空から見ていてくれ』と――』」
「ご主人様……」
私が急に膨大な魔力を使って手のひらを空へと向け魔法を使ったのを見ると、ニケは頭を伏して嗚咽を殺した。
私が使った魔法はとても曖昧であった。
死者の魂がどこに眠っているのかなど私も知らない。
これがただ単に自己満足でしかない事も分かっていた。
だが精霊は皆気の良い者達ばかりで、私の思いを直ぐに酌んでくれると直ぐに想いを光と変えて空へと託して飛ばしてくれた。
その光の特別な意味を察し、ニケの涙腺は更なる崩壊をさせててしまったかもしれないが許して貰おう。
部屋の中では数多の淡い光の粒が空を舞い、静謐な空気が辺りに満ちている。
私の隣では小さな光を沢山抱きしめる様に包み込んでいる彼女の姿があった。
そんな彼女の微笑む姿をみて、私もまた微笑ましさを感じる。
鉄面皮と言われがちな私でも湿っぽいのは苦手であるので、今は彼女の無邪気さを見ているだけで少し救われた気持ちになった。
――暫くして光が治まると、ニケは排熱の吐息と共に目元を拭いながら身なりを元通り整え、その仕草で仕事へと戻る合図を私へと示した。
もう充分であると、私へそう伝えたいらしい。
そんな彼の想いに支持し、私は意識を他へと向ける為、彼へと業務連絡よろしくここ最近の情勢を尋ねることにした。
「……厄介な案件はあったか?」
「……はっ、貴族がらみでいくつか。ですが、この家の利を己にも噛ませろと宣ってきた愚かな部類には相応の処理を、それ以外の友好目当ての者達には適宜対応致しました」
「そうか。無理だけはしないように。この家にある物は全て使って構わぬ。金子は足りているか?」
「十全にございます」
「分かった。危うくなったら、いつでも私の事を呼ぶように」
「はっ。全て主の御心のまま」
「……今のはアルにそっくりだった。こんなやり取りを昔にもした覚えがある」
「ふははは、そうでしたか。私にとってそれは最上級の褒め言葉に御座います」
私は少し昔を思い返していた。
王都で暮らして居た時分、この屋敷に居る時はニケの父親であるアルが、こうしていつも傍にいた。
優秀な男だった。当時の私は研究や魔法等を得意とし、幾つかその功績を讃えられこうして家を持つことになった。
ただ、ものぐさな自分ではこの屋敷を管理する事など不可能であると、たまたま知り合う事となったアルにこの家の事全てを任せて、自分は好きな事に没頭したのである。
アルはその当時、酷い状況であり、それを結果的に救う形となった私へ生涯返せぬ恩義があると、全身全霊からの忠誠を誓った。
私はそんな彼の忠誠を受け取り、彼の人柄を含めて全幅の信頼を寄せ、全てを任せるに至った。
その時既にアルの妻は病で亡くなっており、彼には一人だけ息子が居た。
それが今、目の前に居るニケである。
ニケは今でこそこんなにも立派な歳を刻んでいるが、出会った当時はまだ十歳そこそこであった。
瞼を閉じれば、まだあどけないあの日の顔つきが直ぐにも思い浮かんでくる。
普人族の宿命ではあるとはいえ、自分との寿命の差をこうした時に感じずには居られない。
月日とは残酷なものであり、また尊いものであると言うが、この胸を包む寂寥感にはいつまで経っても慣れる事が無いだろう。
「ところでご主人様。そちらのお方は」
私が遠くを見つめだし物思いに耽りかける寸前で、ニケのそんな声が届いた。
私はニケの視線を追い、そこで涎を垂らしかけながら瞳を潤ませ『グっグッグっグッグっグッグっグッ』と腹を器用に小粋なリズムで鳴らし続けている彼女と目が合う。
いかん、存在を忘れかけていた。
「彼女は客だ。共に王都で『旨い物』を食べに行く為連れてきた」
「了解致しました。私共は通常業務で宜しいでしょうか」
「ああ。後を頼む」
「はっ、畏まりました」
私が『客』と言った瞬間から、ニケは先ほどまでより凛々しい表情を浮かべる。これが普段の彼の仕事用の顔なのであろう。とても老い先短いと言った者の風貌には見えず、凛々しさは三割増しになっていた。
私が話さない事は知らずとも良い事だと、直ぐに切り替える頭の早さは、アルに勝るとも劣らないものがある。綺麗な一礼を残して部屋を去っていくニケの姿に私は心の中で称賛を送り続けた。
「待たせた。それでは旨い物を食べに行こう」
「うんッ!」
彼女はその言葉にこれまでで一番の返事を返すと私よりも前に立って部屋を出て、廊下をズンズンと進んでいった。
それほどまで待ち遠しかったのかと、私は微笑みながら彼女の後を追いかけた。
☆☆☆
私達は王都で一番賑わう通りを歩いた。
日差しが強いが、乾いた風は気持ち良く、肌に浮かぶ汗を熱と共に攫って行く為に不快は少ない。
自分が良く知る通りが、少しの間(数十年)で違った街並みを映していることに時間の流れを感じ、少しだけ感慨深くなる。
ただ、そんな私の感慨も隣に居る彼女には関係のない事であり、彼女は道の左右に並んだ沢山の屋台から漂ってくる香りや屋台の店主たちの呼びかけにフラフラと誘蛾灯に誘われる蛾の如く直ぐに近寄って行ってしまう。
「これこれ、そっちではない」
私は、その度に彼女の頭をガシッと鷲掴むと、グイっと正面へと向けて無理矢理にも前進を促した。逸れて迷子にさせては大変だしな。
何も食べさせたくないわけではないのだが、彼女の様子からは全部の屋台を巡りかねない勢いだったので、さすがの彼女でも『旨い物』を食べる前に腹がいっぱいになってしまう恐れがある。せっかくこれから『旨い物』を食べに行くのだから、先ずは目的地へと向かわせてもらおう。
「うううううううううう」
前を向かせる度、彼女は恨めしそうに私へと抗議の唸り声をあげる。
目的地はまだなので、まだ暫しの我慢はして欲しい。
私と彼女は互いに言葉足らずの上に結構な頑固者同士であるらしく、天下の往来で彼女は諦めずに何度も何度もフラフラしては私に頭を鷲掴んで軌道修正されるというのを繰り返した。
王都の大通りを牛歩の歩みで奇妙に進む私たちの姿は、周りからはさぞかし珍妙に映った事であろう。
遠巻きにざわざわとした喧騒が聞こえる様な気はするものの、今の私達にはどこか意地の張り合いに夢中になり始めており、周りの事などは蚊ほども気にしておらず、何故かその時の私たちは己の我を通す事にただただ不思議と集中してしまっていた。
だからか、当然その呼びかけにも中々反応を返す事が出来なかった。
「――おい、聞こえてないのか!そこの長身エルフッ!!……お前、ほんとは聞こえていて無視しているんだろう!おいそうなんだろうッ!いい加減にこっちを向けッエフロムッ!エフロム・アマルガムッッ!」
何度呼ばれたのか分からぬが、私が『ん?今、名を呼ばれたか?』と気づき、彼女の頭から手を放して後ろを振り返ってみれば、そこには額に青筋を浮かべてこっちを憤怒の眼で凝視している武装した二人の男の姿があった。
「……おお。まさかこの様な場所で会おうとは、思いもしなんだ。友よ」
その上、なんと奇遇な事もあったものか。その武装している男の片割れは私が良く知る同族の者であり、後々尋ねようと思っていた一人であったのだ。赴く手間が省けて何よりである。
私は友との再会を喜び、出来る限りの笑顔(無表情)を作ってそう声をかける。
だが、彼の方は眉間に寄った皺をグニグニと揉み解す所作を見せている所から見て、少々怒気を孕んでいるらしい。はて?どうして彼は怒っているのであろうか?
「……俺とてな、『大通りで人相の悪いエルフが普人族の少女を力ずくで誘拐しようとしている』などとの聞いて慌てて来てみれば、それがまさか知り合いだったなどとは夢にも思わなんだ。それも約五十年ぶりの再会がこれとか……再会の喜びも怒りで瞬く間に消し炭となったわ!」
そんな友の言葉に、私はクルっと周囲を見渡した。
なんと、『彼の知り合いの同族の者が、普人族の少女をかどわかしている!?』などと聞けば、幾らものぐさな私とて友に協力するのも吝かではない。
大通りにはかなりの人が居る様で、一見この辺りに我々以外の同族の姿は見えはしないし、その様な不埒な輩が本当にいるのかの判別も難い。
だがしかし、そこは私の得意である所の魔法に任せて貰えれば犯人など直ぐにでも探知でき――。
「――いや、お前の事だお前の!」
探索の魔法を用いて捜査に協力しようとしていた私の腕を掴んだ友は、私に向かっていきなりそのような事を宣って来た。ちょっと何を言ってるのか意味が分からない。
「何が私だ?」
「だから、私が来た目的である問題の人物はお前だと言っている!」
「何で私だ。人相の悪いエルフではなかったのか?」
「お前は鏡を見た事が無いのか!鏡を見て来い鏡を!」
「それに、普人族の少女をかどわかしているのでは?」
「さっきまでの自分の行いを思い返してみろ。隣に居るそこの少女の頭を鷲掴んで無理矢理動かしていたのはお前だろう!」
「……むむ?」
「……自覚が、ない、のか?」
「もしや今のは笑うところだったか?」
「……はぁ、ほんとにお前と言うやつは、まったく!まったく!まったく!!」
友は深いため息を吐きそう呟いた。だが、私の方はいまいち何が何やら釈然としない。
もしかして、これは急な再会に際しての彼なりの冗談か何かなのだろうか。
そうじゃなきゃ、まるで本当に友が私の事を不埒な輩だとでも言っているかのようだ。ありえないありえない。
「少し会わぬ間にまた随分と愉快な男になったようだな。友よ」
「そう言いたいのは、俺の方、なのだが――まぁ、ある意味ではお前で良かったのかもしれない。お前ならばちんけな悪さなど働かないと知っているしな」
そう言った友は肩の力を抜いて緊張を解した。
どうやら随分な警戒をもってここまで赴いてきたようである。
「……あの、ガリア様?如何いたしますか?」
「あー……そう言えば君も一緒に来てもらっていたな。済まなかった。この男の事は俺に任せておいて欲しい。君は先に戻って、大臣方へ『問題の人物は確保した。後はガリアの方で適切に処理をしておく』と、報告しておいてくれるか?」
「ハッ、畏まりました」
「よろしく頼むよ」
友の隣に居た武装した若い普人族の青年は、尊敬の眼差しと共にガリアへと敬礼をし、足早に大通りを戻っていく。
「――さて、では色々と話を聞かせてらもおうじゃないか、なあエフロム?」
そう告げて私の方へとジト目を向けてくる友は一見しただけで少し不機嫌だと分かる表情をしている。
やはり私と同世代とは思えぬその血気溢るる若々しさは健在であり、変わらぬ元気そうな姿に私は心からの笑み(無表情)で応えた。
「友よ、壮健そうでなによりだ。だが私はこれよりこちらの客の案内をし、旨い物を食べに行く予定なのでな。ここらで失礼させていただく。では――」
「――いや、待て待て待て待て。そのまま行こうとするな!行かせてなるものか!少なからずお前のおかげでこうして迷惑を被った俺が居るのだ。せめてもの償いとして説明位はしてもいいだろう!」
「……ん?また後日ゆっくりとしてもいいのではないか?」
「駄目だ駄目だ!お前は確か五十年前も『干し肉を買いに行く』と言ったきりそのままどこかへと消え去ったではないか!今回もそのまま旨い物を食ったらさっさと帰ってしまう腹積もりであろう!」
「…………」
「こちらを向けこっちを、目を背けるな!……まったくもう。エルフ一の変わり者め。……せっかくだ、私も共にその旨い物とやらを食べに行こうではないか。そこでじっくりとたっーーーぷりと話を聞かせてもらう。それならば問題あるまい?」
「私はそれでも別に構わぬ。が、今回は客がいるのだ。幾ら友とて、少し遠慮と言うものをした方が良いのではないか?親しき中にも礼儀は必要で――」
「お前がその科白を吐くか。もし今ここに里のエルフ達が居たとしたら『お前が礼儀を語るんじゃない!』と即憤っておるところだぞ。……ただ、確かに今回はお前の言う通りではある。――ごほん。失礼、御令嬢。私はガリアと言うものであります。誠に勝手な願いとは存じますが、どうか私もこの後ご一緒させて頂けませんでしょうか?」
「……ん?」
王都でもそれなりの地位に居る筈である友は、明らかに平民だと分かる彼女に対しても慇懃無礼な態度はとらず、礼をもって接した。私が権力を笠に着た態度を嫌うと言う事を勿論知ってはいるだろうが、同族達が押し並べて自尊心と権力欲が強い傾向にある中で、彼の様に面倒見が良く性格の穏やかな者は希少である。
ただ、友から同行の可不可を尋ねられた彼女の方は、私達の会話なんかよりも未だ辺りの屋台の方が興味深かったようで、内容を全く聞いていなかったらしい。私へと向けてくるその視線が『何を聞かれたのかわからない。聞いて無かった』と雄弁に語っている。
「彼は、私達と一緒に旨い物を食べたいのだそうだ。いいだろうか?」
「うん、良い。『旨い物』早く行こうっ早く!」
「良いそうだ」
「そ、そうか。ありがとう」
彼女は友が居るかいないかよりも早く食べられるかどうかの方がよっぽど気になるらしく、二つ返事で了承をだした。私と一緒に居た彼女に対して見た目だけで判断したのであろう友は、返って来た彼女の無邪気な反応に毒気を抜かれた様な表情である。
ただその時、今のやり取りのすぐ後、友は彼女の頭の上へとジーっと視線を向けているのを私は見た。
王都へと来る前についでとばかりに彼女へと施した幻惑の魔法にて、周りからは彼女の今の姿が普人族の少女にしか見えなくしてある。彼女を見て、その正体に気づく者はほぼいないだろう。
友は果たしてその事を見抜いたのであろうか。幾ら友とて、そう易々と見抜ける魔法ではないつもりだが。
だが、彼であれば彼女の本当の姿に気づいたとしても私に小言を言う位で大騒ぎするほどではないと確信している。そう言う男である。
私は、何度かもの言いたげにこちらへと視線を向けてきた友のあえて無視して、『旨い物』を連呼する彼女の隣を歩く。聞かれたら答える位でいいだろう。
☆☆☆
私達は旨い物を食べる為にとある大きな建物へと入る。
そこは、一般的に『冒険者ギルド』と呼ばれている場所であり、その建物の中にはギルドの受付の他に酒場のスペースがあり、冒険者達などは仕事の帰りにまず間違いなく足を運ぶ場所であった。
「エフロム、お前……」
「旨い物……?」
私の傍で、同行者二人から懐疑的な視線が送られてきている気がする。
恐らく彼らはこう言いたいはずだ。『本当にここで合っているのか?』と。
冒険者達が食す料理など凝っている作りの物は少なく、大雑把な味付け、大盛り、低価格、と言うのが周知の事実であり、王都まで足を運んで態々食べに来た『旨い物』がここにあるわけがない、と二人は視線だけで訴えてくるのだ。
だが、世の中と言うのは、知っている者と知らない者の間にある種の見えざる壁を作り出すものであり、それを偶々知り得た私からすればこの後二人がどんな表情をするのかが楽しみなぐらいである。
私は、二人を酒場の一席へと座らせると、一人カウンターの奥へと臆面もなく入っていった。
当然、何も知らない酒場側の者達からすれば、いきなり入って来た私に驚き、荒々しい冒険者達への対応で慣れているのか咄嗟に警戒までしているのは見事としか言いようがないが、『知っている』私はそこで料理長の立ち位置にいる者をサッと見つけると、一言だけこう呟く。
「『料理長、いつもの』を頼む。」
「!?」
「おいアンタ!いきなり奥に入って来るんじゃねえ……って、おやっさん?」
「いいんだ。」
私の一言を聞いた料理長は一瞬だけ驚愕とも言える表情を浮かべると、店の奥へといきなり入ってきた私を追い出そうとした男性店員を遮って、私へとニヤリとした笑みを返した。
それを見て私は、大丈夫そうだと確信を得る。
「あいよ。『いつもの』で御座いますね。承りました。少々お待ちくださいませ」
そう言った料理長はすぐさま何かしらの作業へと取り掛かり、私は直ぐに同行者達が待つ席へと踵を返す。何も分からない酒場の店員達だけが首を傾げ合い、動きが止まってる事を見咎めた料理長が彼らを嬉しそうに叱責する声までを聞き、私は懐かしさで心の中を笑みを満たした。
「ロム、いったい何をしてきたんだ?」
酒場に入ったことでか、友が昔懐かしい呼び名をしてきたので私はついついと少しだけ口を滑らせることにした。
「昔の符丁だ。私がここで世話になって居た当時のな。」
「なにっ!?お前がここで冒険者まがいの事をしていたのは一体何世代前だと……いや、その頃の名残がまだ残っているというのか?驚きだな」
「ああ、確りと伝わっていてくれて、とても嬉しく思う」
時代は巡り繋がる。働く者の顔触れは一つとして同じではないが、そこに残る味や伝統に敬意を持ちたくなるのはこういう時である。途切れてもおかしくない物がこうして確りと人の間で繋がっている事にこそ、本当の歴史を感じる。
「それで、いったいどの様な符丁なのだ?」
「いくら友とて、それは言えん」
「ふははっ、そうか。お前は昔からほんとそう言うところに可愛気がない」
「……友よ。しばらく会わぬうちに、男色の気も目覚めたのか?」
「ぶふッ!馬鹿を言うな馬鹿を!!たくっ、これでも俺は相応の立ち位置にいるのだぞ。もしこれで変な噂がたったら、お前の首を絞めて故郷の森に吊るしてやるからな」
「おお。それは恐い恐い」
「くくくっ、まったく。その無表情で口にしても全然恐れている様には見えんと言っているだろうに――」
友は笑顔を見せた。まだ私達が幼少のみぎり、彼と共に野山を駆け回った際にもこんな表情をしていたとふと思い出す。私もそこ頃はもう少し今よりも表情が年相応に柔らかかった筈だが、そう言ったら彼は『お前は昔からずっと仏頂面だったよ』と更に笑みを強めた。
思い出話に花を咲かす私と友をしり目に、彼女は次々と運ばれてくる料理に舌鼓を打ち『旨いー!』と歓喜の声をあげていた。
冒険者でもない我々の真昼間からのそのささやかな宴は、冒険者ギルドの受付嬢達などからはさぞかし奇妙に映った事であろう。
彼女が大部分を口に入れたとはいえ、私と友も料理を存分に堪能し、舌が少しお馬鹿な私とは違い友はその味に大層満足したようで、口を美麗に拭いつつも普段以上の弁舌を振るっていた。
「いや、まさか。冒険者ギルドの酒場にこんなにも美味しいものがあるとは知らなんだ。特にこのローストされた肉に掛かっているソースの深みが堪らなく心地良い。肉の柔らかさと食べ終わった後の余韻まで含めて、ここまでの味わい深いのは今まで口にしたことがないぞ。口にしたら忘れらない味とは、きっとまさにこう言う一品にこそ相応しいのだろうな。おい、ロム!見直したぞ!舌音痴のお前がこんなに素晴らしい料理を知っているとはな!!」
友、大興奮である。
だが、そう言う言葉を送る相手は、私などよりももっと相応しい相手がいる筈だ。
「友よ。その言葉はあちらの御仁に向けるべきではないか?」
「――うむ?おお!確かにそうだ!」
私の言葉を聞いた友が振り返ると、そこには先ほど私が酒場の奥で出会った人物、料理長の姿があった。
料理長は友の言葉の殆どを聞いていたのだろう、強面を少しだけ赤らめると、頬を掻きつつ照れくさそうに私達へと軽く一礼をしてみせた。
「料理長殿。友がもう全て口走ってしまったようだが、私からも感謝を。素晴らしき料理であった」
「勿体ないお言葉で。ガリア様、そしてエフロム様。お二人にそう言って貰えるだけで歴代の料理長達も報われるでしょう。でも、まさか、本当にこんな日が来るとは、正直思っても見なかったってのが素直な心持ちです。『作り話』や『伝説』の類だとばかり思っていましたから――」
そう告げる料理長は、感慨深げに私へと視線を送ってくる。
事の始まりを知っている私からすると、その想いも一入であり、料理長へ対して頷きを返すと料理長もまた頷きを返してよこした。その時の私達の心境を一言で表すならばそれは深い『喜び』である。
「ほう、その『伝説』とはいったいどんな秘密ですかな?――料理長殿?」
当然何のことか分からない友の方は詳細を聞きたそうに視線を送って来るが、私の口が堅い事を知っている彼は直ぐに料理長の方へと訴えかける様に見つめている。料理長はそんな友の視線を受けると、堪えきれなくなり、ぷっと小さく吹き出した。
「ぷははは。いやいや、そんな秘密と言う程の大した事ではないと聞き及んでおります。それに普段は酒場の『親父』としか言われてない俺なんかが、『料理長』と呼ばれるのはどうもこそばゆい。俺の事はどうぞ『モルド』と呼んでください」
料理長もといモルドは、代々このギルドの酒場に伝わるちょっとした小話を語ってくれた。
それは私にとっての過去にまつわる話であったが、彼からするとまるで夢の一説を語るが如く、それはそれは大切そうに話し始めてくれたのだ。
「事はギルドの黎明期、初代の『料理長』から始まる話――当時ただの酒場として簡単なパンやスープ等の軽食しか置いて無かった時分、初代は料理が大層下手だったと聞いております。酒場なのだから酒さえちゃんとしてれば料理が下手でも別に問題は無いと、冒険者達も料理長本人もなんも気にしていなかったそうですな。飯なんか腹が膨れればなんでも一緒だとまで思っていたそうですわ。……ただ、そんなある日、『おかしなエルフ』が何を思ったのかこの酒場に毎日通って来るようになったんだとか――」
『おかしなエルフ』とモルドが言った途端に、友は一瞬で私へと視線を送ってくる。こっちを見るんじゃないこっちを。
「そして、そのエルフは毎回毎回何故か酒も頼まず、まっずい料理だけを必ず注文するのだとか。初代は最初、このエルフは嫌がらせをしてるんじゃないかと不審がったそうです。誰もこんなマズい食い物に態々金払ってまで食べようなんて思わないだろうと……。気にせずマズい料理をそのまま出していたそうですが、あまりにもそのエルフが毎日毎日飽きもせず食べに来てくれるので、ある日聞いたそうです。『俺の出す料理、マズくないのか?』って」
「ほう。それで?」
「エルフはこう返したそうです。……ただ一言『旨い』と。」
「ぶははははは。」
おおよその同族達がしないであろう大笑いで、友は盛大に腹を抱えて苦しそうに息をしている。
第三者から聞かされる自分の話とは何故こうも面はゆいのだろうか。
それにその当時の私は、彼の料理を本当に旨いと思って食べていたのである。
ギルドの中にある事の利便性も含めて、私が毎日通っていた事のなんの恥じる事もなし。
ただ、自分の舌音痴具合が相当なものである事には少し思うところはある。
「初代はそのエルフを相当気の毒に思ったそうです。そして、同時に『旨い』と言って貰えたことに、初めて喜びを教えて貰えたのだとか。初代はそれから、少しずつ自分の料理を改良していったそうで、その度にそのエルフに食べて貰ったと聞きました。『スープの味はどうだ。パンだけじゃ物足りないな。エルフならサラダも好きなんじゃないか。逆にメインには確りと味わいのある肉がいいかもしれない。偶には口直しで最後に甘未でも出してみるか』と、今の俺なんかからすると当たり前だと思えることは、当時では中々出来る事じゃなかった。初代はそれらを一つ一つ改良し、新しいレシピを生み出し、最初の味を作っていった。やがて、一人の力では限界がくると、二代目に引き継ぎして、二人で協力して腕を上げていった。普段はただの酒場のオヤジでしかない我々の、密かな密かな挑戦ですわ。そのエルフに、少しでも本当に『旨い物』を食べて貰おうというね」
いつの間にか、友だけではなく、未だ料理を夢中に貪っていた筈の彼女でさえも、真剣な顔でモルドの話へと耳を傾けていた。彼女が料理を前にしてこんな表情をするとは正直意外だ。
「料理が旨くなってからは、他の客にも料理を出す様にはなったそうですが、そのエルフだけはいつまで経っても我々にとっては特別な存在であると伝え聞いております。冒険者としての活動を控えるようになってからも、時たまこうして足を運んでくれるからと、そのエルフがいつ来ても良いように、我々は密かに初代のレシピを伝えていこうと。……正直な話、先々代の時から貴方がもう来なくなった聞いて、私と先代はとても残念に思っていたのです。特別な方に特別な初代のレシピを作る機会はもうないのかもしれないと。失礼な話、もう亡くなってしまったのだと思っておりました。……だから、先ほどいらっしゃって下さった時、そして初代の時から変わらずに我々を『料理長』と呼んでくださった事、本当にありがとうございます。先代には申し訳ないが、俺は今この時に初代と同様の感動を感じている事でしょう。普段はしがない酒場のオヤジですが、あなたにあの料理を作れることは心からの喜びですからね。……エフロム様、初代から当店をご贔屓にして頂き、まことにありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いします。」
「こちらこそ。いつも『旨い物』をありがとう」
純粋な味もさることながら、いつ来てもここは人も旨くて敵わん。私にとってもここはまた特別な場所であるのだ。
一頻り語り終わった料理長は、酒場のオヤジとしての仕事も残ってると言って晴れ晴れとした顔で戻って行った。彼のおかげで、私達も良き時間を過ごせて大変満足である。
彼女にしても、『旨い物』を充分に堪能したようで今は少し眠たげな雰囲気がある。これは早めに屋敷へと戻った方が良さそうである。
帰りに代金を払いにいくと、酒場の店員から『料理長から、例のモノも確りと準備してありますので、帰りにどうぞ』と沢山の干し肉をも受け取った。これには私も思わずにっこり(無表情)である。
「それでは、また後日伺う。……くれぐれも一言も無しに居なくなるなよ」
「もちろんだ、友よ」
友は彼女が眠たげなのを察してくれたのか、今日の所は帰って行った。いや、元々何かを問い質す気などはさらさらなかった様に思える。久々に語り合いたかっただけなのだと私は察した。それぐらいが互いに伝わる程の関係を、我々は築いて来たのだから。
行きとは違った意味でフラフラしている彼女を見て、心配になった私は彼女の前でしゃがみ込んだ。
ふらついて歩くよりは、まだ私の背の方が安全であろうから。
「ほら、背にお乗り。」
「……ぅん」
私が促すと素直に頷いて背に乗った彼女は、直ぐに小さく寝息をたて始めた。どうやらギリギリであったようである。
屋敷へと戻るとニケが、彼女の分の部屋まで既に整えてくれていた。
こちらの安心感も言うまでもなく素晴らしい。
王都は様々な思い出が積もる地ではあるが、今回の帰省は心から来てよかったと思えるものばかりだ。
「うまぃものぉ……」
寝言の中でも旨い物を貪っているのであろう彼女を静かにベットへと下ろすとその瞬間少しだけ寝ぼけたのか彼女は私の手を掴み『……おかあさん』と呟いた。
その言葉に色々な思惑が走った私ではあるが、そこはせめてお父さんが良かったと思うのは男の性であろう。
☆☆☆
翌日、私達はまた大通りを歩いていた。
今度は『旨い物』を食べに来たのではなく、私の個人的な用事の一つに彼女が付き添う形となっている。
ただそれも急ぎの用事ではないので、彼女の興味を引いた屋台の食べ物を適宜捧げながらの、ゆっくりとした道行きである。
王都の中でも治安が良い方の通りであるとはいえ、大通りで人も多いとくれば時たまスリにも会おうと言うものであるが、機嫌の良い今の私はそんなスリにも少しだけ干し肉を掏らせてあげる位の余裕はあった。是非ともご賞味いただきたい。なんとも平和な一時である。
そんな緩やかな時間を感じつつ、私達は目的地へと辿り着き、私を先頭にとある一軒の薬屋へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
若い女性の声が、少し薄暗い店内の奥から聞こえてくる。その声が自分の想像する人物のものであると分かり、私は返事を返しながらゆっくりと薄暗い店内を進んでいった。
「……弟子よ。邪魔をする」
「……えっ、えええっ!?エフロム!!お、お師匠様ッ!!」
古くからの友であり、また薬師においては弟子でもある同族の女性ティリーニアは、頬杖をついていた姿勢からいきなり立ち上がると、目を最大まで瞠り声を大にして驚きをあらわにした。
その変わらぬ雰囲気と元気そうな声と姿に、昨日に引き続いて私の表情はこれまた一層柔らかくなった(悲しい程に無表情)。
「君も相変わらず。壮健そうで何よりだ」
そんな私の言葉を聞いた友ティリーニアは、一瞬の間に様々な思惑を浮かべたのか口をパクパクと何度も開閉させては百面相の様に表情をコロコロと変え、果ては何を思ったかはぁぁぁぁぁぁぁと長い長いため息を吐いた。
「……今まで、いったいどこにいたんですか?」
おかしい。彼女の顔は久方ぶりの友との再会を喜ぶにしては、些か表情が硬い気がする。
もしかしたら体調でも崩しているのだろうか。まさか風邪か。
「うむ、森にほど近くそして人里からは遠い、とても落ち着ける場所を見つけてな。そこに居をかまえ、暮らして居た。……だが、それがどうかしたのか?身体の調子が思わしくないのだろうか?」
「悪くありません!それにどうかしたのかですって!それは急に貴方が姿を消したりなんかするからです!誰にも何も告げぬまま!五十年ですよ!五十年!!五十年も音信不通だったのです!私とガリアがどれだけ心配したと思ってるんですか!」
「……おおそうか。心配をかけた」
「もうっ!ちゃんとわかってるんですか!私は今、怒っているんですよ!」
「そうかそうか。それはなんとも面映ゆいな」
「な、なんで喜んでるんですかっ!変態ですか!まったく、エルフ一の変わり者はこれだからもう……」
「久々にあったが、本当に君もガリアも変わらないようで安心したよ。」
「はぁぁぁ……私もです。とりあえず安心しました。ほんとはまだまだ言い足りないくらいなのですけど、今日の所はこれくらいで勘弁してあげます。」
「そうか」
「はい。でもまさか、こんな日に訪れてくるとは思っても見ませんでした。これもまた貴方らしいと言えば貴方らしいのかもしれませんけど」
「ん?今日は何かあるのか?」
「はいえっと、そのですね――」
彼女ティリーニアが丁度口を開こうとするのと同時に、店の入り口の扉が古い音を立てて静かに開き、一人の若い人族の男性が入ってくる。
「失礼するよティリーニア。――おやっ?この店に人がいるなんて珍しい。こんにちは」
魔導士や薬師が良く身に纏う黒めのローブを着用し、朗らかな表情と共にその人物は私へと小さく会釈をした。
「こんにちは」
一方、私も精一杯の笑顔(凍える様な無表情)で初対面である彼へと爽やかに返礼を返すと、その途端に友ティリーニアが慌てたように彼へと弁明をしだす。
「こんにちはレイド!あっ、こっちの人はねこんな顔をしているけど、怒ってるわけじゃないから!これが普通なの、それにとっても口下手!可哀想だけど、勘違いする人が多いから先に私からこの人について説明しておくわね!元々のこの店の持ち主であり、私の薬学の師匠でもあるエルフ一の変わり者と名高いエフロムよ。気難しく見えるけど、全然そんなことはないから、普通に接してくれればいいからね」
友ティリーニアよ。君は私をなんだと思っているのだ。
「おおっ!師匠の師匠であられましたか!それはなんとも素晴らしい。この良き出会いに神に感謝しなければ。豊穣の尊き女神アウシャリリアよ、今日のこの良き日、この出会いにどうか祝福をお与えください。」
師匠の師匠と言う事は、彼はティリーニアの弟子と言う事だろうか。
これはなんとも、快活で利発そうな青年だろうか。見た所、魔法に対する才能もそこそこ有りそうだし、有望だと見える。
「エフロム、こっちはレイド・エル・スティアルカ。一応、私とガリアの弟子と言う事にはなってるんだけど、この国の第一王子で小さな時から先生として教えてて、私とガリアで面白がって色々と教えてたら今ではこの国の宮廷魔術師も吃驚するくらいの使い手になっちゃった人。それに文武共に優秀な人でこんなひょろひょろに見えるけど、槍の名手で騎士団でも上位のレベル、それに法や歴史にも精通し礼儀作法等も完璧。私やガリアも教えがいがあったわ!」
「ははは、師匠方の厳しい教えの賜物です。……ほんとに厳しくて、何度か逃走したこともあります」
「一度も逃がした事はないけどね!」
「はい。逃げられたことは一度もありませんでした」
過去を思い出すと涙が零れそうになるのか、レイドと呼ばれたこの国の王子は少し上を向いて目を閉じる。だが、その後も続く話を聞く限り、両者の関係はとても良好の様で、私はそれを慈愛の笑みで見つめていた。
「それでね。この度、私この人と婚約する事になったの」
「……おお、そうであったか」
それはなんとも驚く話であった。
私が知る限り小さな時から知っているこの友が、今まで誰かと良い仲になったと言う話はとんと聞いたことが無かった。そんな友にもついに春が来たのかと嬉しさは一入である。
だが友ティリーニアの表情は、はにかんで嬉しそうではあるものの、またどこか悲し気でもあった。
おや?と私は、そんな友の表情をこれまで見た事が無かったので、まだなにかあるのだと察する。
私が友の話の続きを促す様に無言でいると、彼女はそれに気づき少し遠くを見つめるようにしてから、静かに続きを語りだした。
「今日で、この店も閉める事にしたんです。貴方から、お師匠様から受け継がせてもらった、このお店を勝手に……あの、私だから、貴方に謝りたくて。その、ごめんなさい――」
「構わぬ」
「……えっ!?」
いったい何にそれほど気を砕いていたのかと思っていればそんな些細な事であったかと、私も思わず嘆息する。
私の許しを得た彼女の方は驚いておる様子だが、そんな事で怒る様な狭量な人物だと思われていた事の方にこそ、私はよっぽど怒りたい気分になった。
だが、それほどまでにこの店を大切に思って居てくれた事に対し、より大きなあたたかみを私は覚える。
この店を、薬師として一時期なりともやっていたのは元は私の方であった。
だがそれは、この国がまだ黎明期と呼ばれる時分にケガや病気に対しての療法が遅れがちであった頃、故郷の森で多少なりともその分野の研究をしていた私が、冒険者と言う生業の傍らに隠れてなんとなく個人で始めた事の名残でしかなかった。
薬師と言えば聞こえは良いかもしれないが、当時の私なんぞは気紛れにやっていただけの半端者でしかなく、そんな私の後を喜んで引き継いでくれ、この国に医療の知識と力を広め、数多の発展を遂げさせたのは目の前にいる友ティリーニアの偉大なる功績であると私は知っている。
この道でずっとやってきて、心血を注いできたのは友ティリーニアなのだ。
この店の事も、弟子として譲った瞬間から全て彼女に委ねていたのだから、私に謝る事など何一つ無いというのに、なんとも義理堅いものである。
だから、当然の様に気にする事はないと即答してやった。驚きで目を丸くする友の姿に私も少しイタズラな笑みが浮かぶと言うものだ(無表情)。
そもそも、幾ら彼女が原点となる基礎的な分野の教えを私から得たとは言っても、もう師と仰ぐ必要もなかろうに、ついついからかいの気持ちで入店時に弟子と呼んで訪問してみたら、未だに変わらず彼女が私の事を師と仰いで来たので逆に驚いたほどであった。
このなんとも素直で義に熱い部分は昔から変わらぬな。
「お、怒らないのですか」
「ああ、構わぬ」
「私、貴方に何の相談もなく、勝手にこの店を閉めようとしているのに?」
「ああ、構わぬ」
「ほんとうに本当?本当に本当に本当に?ほんとーの、ほんとーの、ほんとーによ?」
「……本当に、構わぬと言っている」
前言を少しだけ撤回したい。しばらく見ないうちに随分と疑り深くなった様である。
元々、騙されやすいにも程があるという位の素直な性格だった故、このぐらいならまだ可愛気があると言えるのかもしれず、良い成長であると笑って良いのかもしれないが、目の前でそこまで不審そうなジト目を向けられると、さすがの私でも多少は心がざわついてくるのである。
ただ、彼女の方はそんな私の答えに満足したのか、微笑みを浮かべると胸を撫で下したかのように一つ大きな息を吐いた。
「……そう、良かった」
「そこまで閉めるのが心苦しかったのならば、誰ぞ後進に譲る事は考え付かなかったのか……友は、この国に多くの弟子や生徒を抱えていると、いつだったか友ガリアに聞いた気がしたのだが」
「それは、全く考えなかったわ。……ううん、違う。考えたけどダメだったの。このお店を、この大事な場所を誰かに譲る事は出来ないって思った。このお店は、『貴方の弟子』のみに与えられた大事なお店。『私の弟子や教え子』にはまだ過分なものだと、そう思っているの。……ふふ、薬師の腕に関してだけは、私もエルフらしく自尊心が高いみたいね」
「それは対しては、なんとも言えぬ……が、そちらの人物にならば良い後継になるとは思うがな」
「えっ、彼?レイドの事?彼はダメよ。そもそも私がなんで店を畳むと思ってるの?」
「む?」
「申し訳ございません。大師エフロム様、私が彼女に王宮にその身を置いて欲しいと言ったものですから」
「ああ、そうか」
「もうっ。エフロムはいつも真面目な顔しているくせに、話を聞いるようで全然聞いてないんだから!小さい時から私とガリアはいつもいつも――」
彼女は彼に嫁ぐと最初に言ったではないか、それはつまり彼女は王太子妃になると言う事だ。
私達耳長族とは馴染みのない習慣で忘れていたが、彼ら普人族には身分と言う差があり、彼女が彼に嫁ぐと言う事はもう市井の薬師として自由に活動できる身ではなくなると言う事なのである。
その技術と知識は王宮に入っても無くなる事はないだろうし、もっと国に広め豊かにする為にも良いかもしれない。
愛も深いのだろう、二人を包む精霊の表情からもそれは嬉しい程に伝わってくる。
はにかみつつ、昔話を持ち出して私へとなじってくる彼女ではあるが、こういったやり取りも出来なくなると思えば、今だけは存分になじらせておこうと思う。
反論したい内容はチラホラあるものの、淑女に対して私が口で勝つことは出来ぬし、隣に居る青年と二人楽し気に語る様を一々邪魔するほど私も愚かではないつもりである。
それよりもだ、入店からここまでずっと息をひそめて静かにしている彼女の方が私は少し心配になった。
彼女は私の背後でギュッと強く服を掴みながら幸せそうに語り合う目の前の二人を興味深そうに見つめていた。
森で生きて来た者の術の一つだろう、その隠形の魔法の一種は他者に魔法を感知させないほどに自然且つ見事な技であり、驚くべきことに友ティリーニアでさえ未だ彼女の存在に気づいていないのだ。
出会いからここまで疑問にも思わなかったが、私は未だに彼女の名前すらも知らぬ。彼女も言わぬ。だというのに、それでいいと思えてしまうこの不思議な関係性をどこか嬉しくさえ感じてしまうのである。
不快に思えない何か絆のような繋がりがあるのだと思いたかった。
彼女には純粋さしかなく、色々な事に興味があるだけの幼子だと私はもう思ってしまっているから。
その興味深そうに見つめる瞳に知識の色が浮かびだし始めている事に、傍に居る私だけが気づき嬉しく思う事が出来た。
未だ幼子の様な彼女がその見目に相応しい理解を得た時、彼女はいったい何を思うだろうか。いずれ色々と語り合う時が来るであろう。
「――それで、この店には【保存と停滞】をかけておけば良いか?」
しばしの雑談の後、私は友ティリーニアへとそう尋ねた。
「はい、お願いします。今日貴方に会えてなかったら本当はガリアに頼むつもりでいたけど、ここのお店の事だから貴方にお願いしたいとずっと思っていたの。……改めましてお師匠、お手数をお掛けしますが何卒どうか、エルフ一と名高いその『お喋り』の御業をよろしくお願い致します」
「私に感謝は要らぬよ。それは彼らに――」
礼を言われるのは精霊達の方であると、私は暗に含めておいてそっと詠唱を始めた。
光の粒が段々と膨らみをみせ踊り舞うかの様な様相を呈し、薄暗い店内を幾条もの光の帯が駆け巡る。
『精霊達よ。済まないが少し大きな力を借りたい。時と空間の魔法の力をこの店の中に少しだけ分けて欲しい。対価には私の魔力を、あとは王都の魔力が最近薄くなっている分を含め、君達自身の為にいつもより多めにもっていって欲しい。……えっ?この前の分でギリギリ賄えると?いやいやいや、君達に無理はさせられぬよ。君達はいつも謙虚である。その気配りだけ余すことなく受け取らせて欲しい。嬉しく思う。本当にありがとう。ああ、そう言えば私の目の前の友ティリーニアも覚えているか?……そうそう。私と友ガリアよりは少しだけ歳が下の薬師の子だ。小さな頃は能々泣き虫であった。そんな彼女は薬師として君達の力を借りる事も多かったかとは思うが――なにっ!?少し扱いが粗くて恐いと思う時があると!?それはいかんな。私の方から、後程必ずこってりとしぼっておくから安心して欲しい。ああ、それと――』
そして、この国の王子レイドはその光景を見た。
幼き頃より優れる二人のエルフから薫陶を受け、大人になり成長して己でも彼らの高みに少しは近づいてきたかと、そう思いかけていたそんな時分の話。
だが、そんな思いが如何に浅はかだったのかを知る。
身の震えが止まらず、その果てしなき大きさを感じずにはいられない程の人物に出会ったのだ。
その人物が急に語りだしたのは聞いたことも無い言語(詠唱)であった。
彼がその言葉を発した途端に店内の魔力の密度が増した様に感じる。
喜びが溢れ出ているかのように、パッパッと急に花が咲くみたいに光が何もない場所でいきなり生まれた。
店内で、光は踊った。
幾条、幾数もの光、光、光。
店いっぱいに広がり、沁み込み、溶け込み、紡いでいく。
眩くも優しいその数多の光はレイドの心を感動で満たしていった。
その軌跡が描くのは奇跡の御業。
到底人では辿り着けない神秘の深淵。
その呼び方は最早何でも良い。ただただ圧倒され、レイドが絞る様に発した言葉は呟きにもならない。
だが、そんなレイドの緊張をほぐす様に、彼の手を握ってくれる存在が彼の隣には合る。
レイドが顔を向けるとそこには恩師であり、最愛の人でもあるティリーニアの微笑みがあった。
「すごい……こんな、こんなにまで。いっそ恐ろしいと思うほどです」
「ええ。これこそ、エルフ一の変わり者、エルフにおいて最も精霊に近しき者と評されるエフロムアマルガムの本当の力。その実力の桁違いさに同族ですら畏怖を抱いてしまう程に凄まじい力。彼がこうやってその力を使ってみせてくれる機会は本当に少ないから、この力をちゃんと知っているのはほんの一握りだけ。私達は今、人が到達しえないだろう奇跡を目の当たりにしている。……本人は何もしてない、凄いのは精霊達だけだと言っているはいるけれど、この光景を見るたびに思うわ。彼は私達とは見ている世界の深さが違うと」
「深さ……ああ、まさにその通りだ。驚きしかないよティリーニア。不可視である筈の、精霊の力の可視化。……いや、違う。行使している力があまりにも強力すぎて、その一片が漏れ出しているだけなのだろう。だけど、いや、それなのにここまで凄いとは。……ティリーニア、常々僕は貴方が話す師匠の事を大袈裟だと思っていましたけど、これをみてはもう何も言うことはありません」
「そうよレイド、覚えておいて。そして出来れば国王様や大臣達にも強く言っておいて欲しいの。エルフには彼がいるって事を。あの方たちが私達の婚約を認めた事に、少なからず思惑がある事はうすうす気づいているわ。けど、そいうのは一切諦めた方が良いと分かって欲しい。だってそれはきっと無駄な労力でしかないから。……小さい時から私達は彼に守られてきた。同じ種族の筈なのに、その頂きはあまりに遠すぎて、共に見る事さえ叶わない人。エルフの中でもその行いの異質さと力故に爪弾きにされたり多々あるけど、傍に居れたガリアと私は良く知っている。あの人の素晴らしさを。そして誰よりも優しいってことも」
「分かりました。僕も今日のこの日を忘れない。陛下にもしっかりとこの事は伝えようと思う。……そう言えば、君の初恋の人でもあるのだったか。幼き頃それを聞いた当初は随分と妬いたものだが、今では当然だと思うよ。嫉妬すら浮かばないほどに凄い御仁だ。僕も憧れずにはいられない」
「ふふ、私の事よりも好きになっちゃダメだからね。それに、あの人鈍感だから私達の気持ちなんて考えた事もない筈よ。まったく、少しも気づきやしないんだから。ほんと腹立たしいわ。どれだけ大切に思っていたのかなんて全く分かってないのよ、あの朴念仁。いくら頑張っても届かない。憧れ。見えてるのに遠い人。……でも、今はそれで良かったと思えるようになった。私には貴方が居るから」
「――光栄です。大切にします、ティリーニア」
「ありがとう、レイド。私もあなたが凄く大切。ずっと一緒にいましょうね――」
私が魔法の構築の為に精霊達とお喋りをする間、私の後方では友ティリーニアとレイド王子が額が触れ合う距離で何やら話をしていた。私はそれを背後で彼女と精霊達が食い入るように見つめていた事には気づいたが、その話の内容までは聞かなかったので何がそんなに興味深いのか、その時の私には全く与り知らない出来事なのであった。
数分の時を要して、魔法の効果が段々と店内へと浸透していき、内部に何者も居なくなった時点で魔法が発動するように調整しておく。
私は精霊達の素晴らしい働きを見つつ、皆に店の外へと出るよう促しながら口を開いた。
「それはそうと友よ。今、精霊達から聞き及んだことだが、何やら随分と杜撰な行いをしていたようだ……君らしくない。いったい何をしていたのだ」
ただの世間話の一つ、ちょっとした配慮のつもりで発しただけの言葉であった。
だが、何やら心暗い部分でもあったのか、友ティリーニアは予想以上にビクッとし怯えた様な表情を私へと向ける。
「――えっ、なんのことかしら?」
そして、彼女はそれを誤魔化そうとした。
「…………」
私は、一見して友がこれは何かを誤魔化そうとしているのだと見抜き、あえて沈黙する事を選んだ。
目の前の友ティリーニアは昔から嘘や誤魔化をとても苦手としていて、私がこうして沈黙して居ると自分から色々と説明してくる気質がある。
元々の無表情さと相まって私が無言でいると相当に怒っている様に見られるらしく、昔から友ティリーニアは怒られたくない一心で直ぐに自分から理由を喋り出すのである。
「…………」
「…………」
だが、今日に至ってはどうにも少し様子がおかしかった。彼女も無言を貫き返したのである。
いったいどうしたことであろうか、彼女の傍に居る青年も少し心配そうに彼女を見つめていた。
「話せない事ならば、無理して聞くつもりはない」
それは私の素直な言葉である。
「だが、それが精霊を蔑ろにするもので、反省が見られないならば、私は君との付き合い方を考え直さなければいけない。……友よ」
そしてそれもまた私の本心からの言葉であった。
幾ら親しき者とは言え、精霊に対する狼藉は見過ごすわけにはいかない。
幾分か冷めた眼差しで諭すように発した私の声音の鋭さは慣れない者にはとても効く。
そしてそれは初対面であるレイド青年には特に効いたらしく、彼はティリーニアを守るかの様に彼女を支え並び立つと、彼女の目を見て優しく問いかけ始めた。
「ティリーニア?僕には何が何やら分からないのだけれども、貴女が何か悪い行いをしているわけでは無い事だけは確信しています」
「ええ、誓って悪い行いはしていない。それだけは本当です。ただ、精霊に負担を掛けていたのは本当の事。お師匠様ごめんなさい。私も自らの行いを見直し改善します……だけど、何をしていたのかだけは今は誰にも話したくないのです……レイドもごめんなさい」
「いや、いいんだ。君がそういうなら僕は信じるよ。いつも国を思って何か素晴らしい物を開発している時、君はいつもそんな感じだから。君が思う様にやってくれる方がきっといい結果に繋がると、僕も心からそう思っている」
「レイド……」
「エフロム様、僕はまだ未熟で何か意見を挟める様な者ではありませんが、彼女の夫となる者としてどうか彼女の考えを尊重したく思います。出来得る事なら、このまま彼女を見守って頂けないでしょうか」
「……そうか」
なんと言う好青年だろうか。
友ティリーニアは良き御仁と仲を睦めたようである。
互いを支え合う二人のそんな姿には、私も思わず微笑み(一見は極寒の無表情)を浮かべざるを得なかった。
「――友よ。良き伴侶に恵まれたようだ。……二人に祝福を」
そう私が言うと、友と青年は明らかにホッとした表情を浮かべて互いを見つめ合った。
そして見合った二人は顔を赤らめ、互いの手の繋ぎ合わせをより一層深いものとする。
そんな二人の幸せそうな姿を見れば、私の心配などは最早無用の長物だろう。
精霊に悪さをする心積もりがない事は見れたから、今はそれで十分だった。
ただ、ティリーニア程の者が不可抗力とは言え精霊に害を与えてしまった程のその行いに、気が向かないわけではない……。
だが、それはとりあえず横に置いておき、今は耳長族と普人族のこの仲睦まじい二人に、何か贈り物をしたくなった。
「細やかながら贈り物をしたい。……受け取ってくれるか?」
「はい!嬉しいです」
「ありがとうございます」
「では、二人とも手を、私の掌の上に重ねて欲しい」
友とその伴侶は私の急な言葉に少しだけ驚きつつ、促されたままに手を乗せてくる。
私はそんな二人を繋ぐ鎹の役割を担いながら、とある一つの魔法を細やかに発動した。
二人の掌の熱を分け合う様に、それを循環させ二人の身体が魔法でポカポカと柔らかく温められていく。
暫くして、全身を包むその温かさと心地良さに受けた二人は自然な微笑みを見せた。
「これは、とても気持ちが良いものですね。身体を温める魔法?――ティリーニア、これも回復魔法の一種なのですか?」
「いえ、これは……。ううん、私も初めて受ける魔法なので、全ての効果までは分からないのですが、そんな単純な構成じゃない様に見えます。うーん、探り切れない。ただの回復魔法ではありませんね。お師匠様、これは?」
私が魔法をかけ終えて二人から離れると、私が使用した魔法の分析をし合いながら、二人は興味深そうに私へと訊ねてくる。魔導士としてその効果が探れない事がどうにも気になるらしい。
そんな訝し気な二人に対し私は隠す気はさらさら無かったので素直に答えを返した。
「いらぬお節介かもしれないが、いずれ育まれる命へと導きをかけたのだ」
「育まれる命に……?」
「導きとはいったい」
「種族が異なると、その間に子を成すのはとても難しい。その事は二人とも良く知っている事だろうと思う。だが、これにはそれを助ける効果がある」
「まさか……」
「そ、そんな事が可能なのですか!?」
私が二人にかけたのは、子宝に恵まれやすくすると言う類の魔法であった。
だが、それを聞いた二人の顔は驚愕に染まった。
ただそれも当然の事で、魔術師の世界において、こと生命にかかわるモノは異端と考えられがちであり、その難易度の高さから失敗も多く、今までに幾つもの人道に反する事故が起きてきた歴史があるのである。
私がした事もそんな世界では幾度となく挑戦されては失敗を繰り返してきたものの一つで、未だ成功した者が居らず不可能であると言うのが世間の常識であった。
「やがて王となる者には跡継ぎが必要となろう。その時、二人が悩まぬようになればと思いかけた。迷惑だっただろうか?信じられぬならば、直ぐ解く事も可能にしてある。解除したい時は互いの手を同じように重ね合わせて――」
「いえ!いいえっ!ありがとうございます!凄い!感謝します!ああティリーニア、夢みたいだ!」
「エフロム、あなた……」
魔術師の世界に通じている二人にとって、私が宣った事は直ぐに信じられる様なものではなかった筈だ。
だが、それを断じる事無く危険な所業に対し怒りを覚えるでもなく、二人は素直に受け止め喜びを見せてくれた。
幾ら私の弟子とそのまた弟子であろうとも、なんとも心配になってくる素直さだ。
誰かに騙されたりしなければいいのだが……。
「因みにだが、行為に及ぶ際、両者の願いをもって事を成せば、その子の性別も願う方になるよう導きを強めている。完全ではないが、男児が欲しいと思えば男児を、女児の場合もまた然りと。……あと、腹の子の生命力も高めているので死産も少ないだろう――」
「「…………」」
「――二人の子が聡明に育つよう願っている。……友ティリーニア、そしてこの国の未来の王よ、末永く健やかにあれ」
私のそんな説明の途中で、友ティリーニアは思うところがあったのか、その嬉しさからか遂に涙を止め切れず伴侶の胸の中で嗚咽を漏らし、伴侶の彼もそれを受け止めて同じく泣き笑いの様相を呈した。
そこまで喜んで貰えるとは私も予想だにしてなかったが、その時の抱き合う二人はとても幸せそうで、私は二人を邪魔しないようにと咄嗟に更なる魔法を使いながら二人から距離を取った。
余計な音を消し、自分達には認識阻害をかけ二人きりになれる様に空間を作ってから立ち去る。
変わり者だなんだと言われる私ではあるが、こういう時位は多少は空気が読めた。これ以上の言葉は無粋だろろうと。
私に促されて共に帰る彼女の方はまだ少し名残惜しそうであったが、館へ帰り甘いものでも食べようかと言うと直ぐさま笑顔を見せる。
私の背後で服をギュっと握りしめてくる彼女は、あの二人に影響されたか多少いつもより掴む力が強かったが、私はのんびりと帰途へと向かって歩を進めていくのであった。
――――――――――
「お帰りなさいませ御主人様」
「ニケ、ただいま」
「ただいま」
「お客様はいかがでしたでしょうか。王都は満喫されましたか?」
「うん、楽しかった!でも、もっと食べたい!甘いのも!」
「そうですかそうですか。それでしたら、本日の夕餉は料理人達に沢山働いて頂く事といたしましょう。ご主人様方に振る舞えるとあって、彼らのやる気もひとしお高いですから」
「楽しみにしている」
「はっ、畏まりました。お時間になりましたらお呼びに伺います。それまではお部屋にてどうぞお寛ぎ下さいませ」
「ああ、それでは後で」
私達が屋敷へと戻ると、家令のニケは笑顔で出迎えてくれた。
その背後に付き従う使用人の数人もニケ同様に格式ある佇まいを見せ、彼らの仕事に対する意識の高さを見る事が出来、私は嬉しく思う。
五十年に一度、彼らにとっては一生に一度あるかないかの初めての主人との邂逅だという事を思えば、そこに宿る熱意が上がるのも当然なのか、無理はして欲しくないとは思うが彼らの気持ちは抑えきれない如何ともしがたいものがある様に見えた。
そんな彼ら一人一人を見て私は喜びを感じずにはいられなかった。
私は良い主人だとは言えないが、いっそその真逆に居るとは思うが、そんな彼らの視線と熱意に応えたいと思う気持ちはある。
私はそう長い時間ここに居ないだろう。彼らと会えるのもこれが最後となるかもしれない。
だから、時間の許す限り今の私は主人らしくあろうと思った。彼らの偉大な誇りを向けられるに相応しい人物として振る舞いたく思った。
人の世界は真に不思議な事が多い。
森の中で得られる安らぎを私は好んでいるが、それに等しくこの場所もまた私にとって大事な場所なのだと、強く思い馳せるのである。
私達がここに来た時に転移してきた部屋――閉ざされた間の中で私は彼女と共にお茶を啜っていた。
彼女は私が入れた熱めのそれに息をふーっふーっと吹きかけ冷ましながら何故かその瞳は私を凝視している。不思議な子だ。
魔法で隠蔽しており、他の者の目に触れ得ないその二本の見事な『結晶角』を見つめながら、私はまた魅了されていた。
幾度見ても、何時まで見ようとも飽きぬその朱色の鮮やかさに、私は過去の出来事を映している。
自分の所業によって成された事とその結果を私はその朱色の中で何度も何度も思い返す。
彼女が何者であるのか、なんで私について来ているのか、その答えをきっと私は知っている。
だが、過去の記憶が私にそれを良しとしない。思い返すのを阻んでいるかのようだ。
良い思い出ばかりではなく、悲しく辛い出来事が多かったあの頃、そこに答えがあると分かりながらも、私はその朱色に求めようのない慰めを覚えていた。
「おいしいよ」
彼女は紡ぐ。綺麗な声音で拙い言葉を私へと響かせる。
歳に不相応な無邪気さで微笑みを浮かべながら、彼女は私の傍にいる。
美味しいものを食べれば幸せ。もっと楽しい事を考えた方が良い事があるよと、その拙さながらも私へと何かを伝えてくれている様な、そんな気がしてくる。
勝手な思い込みかもしれないが、私達はどちらも口下手らしく、素直な気持ちは中々はっきりとした言葉となってこの口からは出て来てくれない。
だから、その分相手の気持ちを推察し勝手に補完し合うのである。きっとこういう風に言いたいんじゃないだろうかと考えながら。
「ああ。おいしいな」
私が精一杯の笑顔(一見すると凍るような無表情)で言うと、彼女は笑みを強めて応えてくれた。
私の表情の変化を分かるものはそう多くはない。昔からの馴染みである友でさえ理解できないくらい難解なのだから。
だが、そんな私の変化に彼女は気づいているような様子で微笑みを見せてくれる。
殆ど会話の無い、ただ粗茶を啜る音だけが支配するそんな部屋の中で、私達だけは小さな幸せを満喫しあっていた。
――コンコンコンコン。
規則正しいリズムで部屋に響くノックの音。
まるでその人物を真っ直ぐさを表すかのような心地良さ含んだ響きである。
「ニケ。入ってくれ」
「失礼致します。お待たせいたしました。食事の用意が整いました」
「ごはんっ!」
「ああ、分かった。共にいこう」
「はい。畏まりました」
ニケは私達と一緒に歩む。
その歩幅は昔よりも随分と大きく、そして年季を感じさせるものになっていた。
「ニケ、背が伸びたな」
私が知っているニケは幼き頃の印象が強く、彼を観ていたら自然とそんな言葉が漏れていた。
「おほほほほ、ご主人様。わたしくも良い年した爺でございます。まさかこの様な歳になって、そんな言葉を言われる事になろうとは思いもしませんでした」
「お前がいくつになろうとも変わらぬ。アルと私が生涯友であったのと変わらない様に、私にとってニケはまるで己が子の様に近しい存在だ。唯一変わった事を言うなら、先にも言ったが随分と立派になった事だけだ」
「……ご主人様」
そう言われたニケは急に間の抜けた素の表情を見せた。
その顔は喜んでいる時の幼いの頃の面影そのままである。
「っ……いやはや、参りましたな。エフロム様。お戯れが過ぎます」
するとハッとしてニケは多少の恥ずかしさを覚えたのか、少しだけ私を咎める様に顔を赤らめた。
そんな変わらぬやり取りに、私は思わず懐かしさを感じて――。
「ですが、申し訳ありません。わたくしもきっと、もうそう長くはないでしょう」
――同時に、そんな悲しい言葉を聞いた。
そんなニケの声で私は歩みを止め、彼の顔をジッと見る。
だがその時に見たニケの表情は、とても悲しい事を告げているとは思えない程に笑顔で、幸いのみが映っていた。
昔の面影を残す間の抜けた素の表情のまま、親と子の間にある様な甘やかで恥ずかしい情景の一場面から切り取った様な儚さで、きっと最後となるであろうやり取りをニケは静に述べてくる。
「エフロム様、少しお手をお貸し頂けますか?」
私はそれに有無も無く手を差し出すと、ニケは両手で私の右手をギュッと握りしめてきた。
硬くなり、皺が増え、幾らかかさついたその手は、温かくてとても優しい手だった。
「……きっとあなた様を残して、私は先立つでしょう。父と同じように私も、貴方を残して……。寂しい思いをさせます。先に謝らせてください。ごめんなさい」
「分かっている。謝る必要などない」
ああ、またか。と悲しい気持ちを抱きながら、私はニケの言葉に耳を澄ました。
「……今の歳になって、亡くなった父の言葉が良く分かるのです。あなたは人一倍優しいお方です。五十年前、あなたがいきなりこの家を去ってしまう前、最後に会ったのが父アルだと聞いております。そこで何を話したのかまでは終ぞ教えて貰えませんでしたが、きっとあなたがこの家を離れたのも何らかの父の気持ちを慮っての事、そして今になって帰って来てくださったのは恐らく私を思ってくださっての事でしょう。この王都で、悪意が少なからずあるこの場所で、いつも安全に暮らしてこれたのはあなた様のおかげです。遠く離れた地からでもいつも私達の事をずっと守っていてくださったのでしょう。そんな大恩あるお方に我々親子がお返しできるのはとても少ない。返せたのはとても儚いものでしかなかった。この感謝を伝える術がないこの身が恨めしくてなりませぬ。だから、せめて少しでもあなたを悲しませたくないという父の気持ちが、私にも今、痛い程にようやく分かったのです」
「…………」
「エフロム様、厚かましくも、また一つだけお願いしたいことがございます」
「ああ。聞こう。なんでも言って欲しい」
「"次の旅は少し長めにお楽しみくださいませ"」
そしてニケは、かつてアルが言った言葉と全く同じものを、私へと言ってきた。
その言葉に込められた本当の意味はアルにしか分からないが息子のニケが知っていてもおかしくはない。
アルは何でも器用にこなす男だったが、別れの仕方だけはとても不器用で、この言葉が彼のサヨナラの代わりとなった。
「"そうか、それならば、少し足を延ばそうか。ニケ、留守は任せる。……達者でな"」
だから、私もかつてとほぼ同じ言葉で返答した。
私のその言葉を聞くと、ニケはホッとしたような表情で柔らかに微笑む。
「ご主人様ありがとうございます。これでもう思い残す事はありません。……そして、お客様。どうかご主人様の事をよろしくお願い致します」
「うん?うん!」
「おほほほ、安心いたしました。……それでは、少し遅くなりましたがお食事の方へ向かいましょう。甘いお菓子もたくさん用意して御座います。因みに本日のメニューは――」
ニケに私の事を頼まれた彼女は良く分かっていないままに良い返事を返した。
だがそんな彼女の返事にニケは充分満足したようで、彼は今までに見た中で一番の笑顔を浮かべたのである。
その時の私はそんなニケを見て、言いようもない想いを抱いていた。
私達を食堂へと先導して案内するその後姿に、以前押し込めたものと同じ気持ちを再度心の奥底へ封じ込めた。
本当ならば、このまま家に残っていたい気持ちはある。もっと言いたい事もある。
それこそいい歳になったニケの様子を最後まで見る心積もりもあって王都には来たのだ。
だがそんな想いは全部、アル同様にニケにも同じセリフを言われてしまって叶わなくなった。
そして、叶わない事をまた私は受け止める事が出来た。
心の中には残念に思う部分と、救われた部分がある。
彼らは私にとって大事な者達だ。人種は違えど家族だと思っている。
そしてこれは、そんな大事な彼ら親子の、私の家族の最後の願いであり我儘だった。
普段は我儘など口が裂けても言わない癖に、もっと他の事でいくらでも頼って来て欲しかった我儘を、こんな最後の時に彼らは使うのである。
ある意味でとてもズルいとは思う。
だが、それらが全て私を慮っての事だと知れば、否定など出来ようも無かった。
『エフロム様、人とはなんと脆い生き物で御座いましょうか。主を残して先に使用人の方が居なくなる等、不出来の極みでしょう。私は情けなくて涙が出ます。それならば、いっそ猫の様にひっそりと一人で最後を迎える方がどれだけ良いかと何度思った事か。……大好きな家族に、自分の死目だけは見せたくありませんな。大事であれば大事であるほど、その悲しみはきっと深いものでありましょうから……』
いつだったか、アルはそう言った。
親しい者と死に別れるのはとても寂しく悲しい事だ。
やがて命は尽きる、それは仕方のない事だと分かっていても、それを完全に納得する事はとても難しい。
そしてその想いは残される者の方に強く強く刻まれる。
だから、残される者の辛さや痛みを、彼らは出来るだけ少なくしたいのだと言う。
死に近づくにつれて一刻一刻と変わって行ってしまう様を、死ぬ前の弱さを、彼らは私へと見せたくないのだと言う。
私がそれを見て悲しむ事を彼らは何よりも嫌がった。
私の記憶の中で、彼らは最後の時まで元気な姿であったと、いつも幸せでしたと、素晴らしく立派な使用人であったと言うその誇り高い姿の方を強く覚えていてくださいと、彼らは言うのだ。
そんな想いを汲まないわけにはいかないだろう。主人として、友として、何よりも大事な大事な者達のそんな最後の愛しい愛しい我儘を。
長命者である私は今まで何人もの命の終わりを見て来た。その事を彼らは良く知っている。
私を思ってくれるその気持ちはとても優しく、最後の記憶を元気な姿で残したいと言う彼らの誇りを私は愛した。
アル、ニケ、二人とも今までほんとうにありがとう。
最後まで私を家族と言ってくれた特別な二人。そんな彼らが想う以上に、私は彼らへと感謝している。
感謝と言う言葉は、いつまでも忘れず想い続けると言う事。
沢山の思い出をくれた親愛なる彼らとの想い出が、いつまでも私の胸の中では巡り続けていた。
すると――立ち止まっていた私の袖を、クイクイッと突然強く引っ張る者が居た。
どうやら、少し感傷的になって進めずにいた私を、彼女が強引にも引っ張ってくれているようだった。
「ごはんいこっ!」
美味しいものを食べて元気をだせと、楽しい事を考えた方がいいよと、再びそう言われている様な気がした。
「ああ。そうだな。行こうか」
彼女に引かれながら私も食堂へと向かう。
遠く離れても繋がる想いと感謝は変わらぬ。
今はまだ悲しむその時ではないのだ。
美味しいものを食べて元気を出す事としよう。
――――――――――
「いってらっしゃいませ」
良い夜を超えて明くる日。
ニケの微笑みに見送られながら、私と彼女はまた元の森へと【転移】し戻っていく。
昨夜は、良き料理を楽しみながら色々と穏やかな時間を過ごし、また一つ思い出を積重ねる事が出来た。
食後、満腹になった彼女を早々に寝かせると、ニケと二人で初めて酒を酌み交わし沢山の事を語り合ったのだ。
私は口下手で相槌を打つばかりだったが、ニケは話し上手で色々と今までの事を教えてくれた。
この屋敷に居る者達の事や面白かった出来事、アルとの思い出、王都にいる貴族たちと実はやんちゃにやり合った事。
密かに結婚もして子供もいると聞いた時には驚いた。
一目会わせて欲しいと言ったら、屋敷で働いている者の中に居るから、どうぞ見つけてくださいと茶目っ気交じりにそう言ってきたので笑いあった。
次の家令の仕事も既にその子へと引き継ぎは済ませてあるとも聞いた。
五十年分、全てを語ろうと思うには長く、そして短いが、ニケはずっと嬉しそうに語り続けた。
終いは酒が深くなり、ニケが酔い潰れた所でお開きとなる。
白いものが多く混じる髪を撫でつけてから、私はニケを背負い彼の寝室まで運んだ。
本当に大きくなった。背中にかかる重みの分だけ私は嬉しくなり、目には人知れず雫が溜まる。
ベットへと運び終えたニケが幸せそうに鼾をかくまで、私は彼の寝顔を見守りながら翌日に酒が残らぬように弱く回復魔法をかけ続けた。
きっとこれが見納めになるであろうと、私は忘れないようにニケの寝顔を時間が許す限り何度も記憶に焼き付けてから寝室を出ていった。
一緒に過ごした時間は決して長いものではなかっただろう。
だが、交じり合うその短い時間の中で良き関係を育めた様に思う。
種族は違えど、私と彼らは確かに家族だったのだ。
繋がりの形は人それぞれで、完璧な正解はあるようでない。
ただ一つ変わらないことは、大事な者達の事を私は忘れない事。
だが、再びここに来れる様になるまで、私はまた少し時間を要する事になるだろう。
アルとの別れを受け止める為に五十年費やしたように、今回もきっとまた……。
――――――――――――――
「戻れたな。具合は悪くないか?」
「うん!」
「腹は減ってないか?」
「減った!何か食べたいっ!」
「そうか、では森で何か見つけよう」
「うん!」
森家へと帰った私は彼女を引き連れて、森の様子を見に行くことにした。
そのついでと言う訳ではないが今度は森の食材で彼女へと美味しい物を食して貰おうと思う。
もしかしたら彼女の方が詳しいかもしれないが、その時はその時で私の方が美味しいものを教えてもらう事にしよう。
それから私達は、暫く森の家を中心にゆっくりとした日々を過ごした。
時に森を散策し、日向ぼっこで身体を温め、限界まで惰眠を貪っては至福を得る。
時に川で遊びながら魚をとり、王都で仕入れた食材や調味料をもって創作料理に励んだ。
私が料理をする度に彼女は不思議と怒りだし、暫くは口を聞いてくれない時などもあったが、そういう時には甘いもので機嫌をとって許してもらったりもした。
私が得意とするところの魔法に彼女が興味を引かれた時は目の前でやってみせ、友ティリーニアに教えた薬師の真似事の手ほどきなども含めて色々と教えた。
花の咲く頃には、森の中の花畑で共に昼寝を楽しんだ。
日差しが強くなる頃には、水辺に行き水の上で昼寝を楽しんだ。
紅葉が美しくなる頃には、食欲に全力を費やす彼女を横目に昼寝を楽しんだ。
雪がちらつく頃には、態々雪の降り積もる山に向かい、雪で小さな家を作ってその中で冬眠しかけ彼女に起こされた。
彼女は年々賢さを増し、色々と言葉を覚え、料理や掃除なども出来る様になり、ゆっくりとだが段々と年相応に追いつく感じで成長を重ねていく。
未だに幼さが顔を出す時はあるが、彼女は時間の流れを上手く受け止めているようだ。
一方、私の方には特に此れと言った変化は無い。
屋敷に戻って数年後、ニケが息を引き取ったのを精霊から伝え聞いた時などは一晩中夜空に浮かぶ星々を見上げ続けたり、その日から幾分か睡眠や瞑想する時間が増えたりはしたが、その度に彼女が美味い物を私の口にねじ込んで来るので、軽々と落ち込んでばかりも居られない毎日を過ごした。
私が彼女と知り合ってから、数十年が経っても私達は変わらず無口で、静かで気ままな生活を繰り返している。
「エフロム!朝だよ!森行こ!」
「……む……まだ早いのではないか?」
未だ私は彼女の名を知らぬが、彼女はいつしか私の名を覚え呼び出すようになった。
日付が変わってすぐ一般的には深夜と呼ばれる時間帯に、彼女は朝だと言って私の部屋へと楽しそうに突撃してきた。
私は寝床に入ったまま、出る気はないぞいうアピールも込めて身を起さず視線だけを向けてそう応えると、彼女は入口から伸身二回転宙返り一回ひねりを決めて私の腹へと綺麗な着地を決める。
「グフッ……」
「ねえねえエフロム!行こーよ!ねえ!」
年相応の成長と言ったな、あれは嘘だ。まだまだ不相応な幼子のまま。
これこれ。いくら引っ張っても、腹に乗っかられた状態では起き上がるのは無理だぞ。
「何しに行くのだ?」
「あのね!森でね、遊びたいッ!」
と良い笑顔で彼女はそう言った。
元々身体能力と回復力に優れる鬼人族は睡眠時間もそれほど長くなく、闇夜でも普通に暗視が効くのでなんら日中と変わらず行動する事が出来る特性を持つ。
未だ私の腹に両足で立っている彼女の様子を見る限り彼女も元気溌剌状態であった。
私が渋々ながら身を起こすと、彼女は食糧庫から自分で持って来たのであろうサンドイッチを取り出すとハムハムと美味しそうに噛り付く。
ある程度家の中の事にも慣れた彼女は少しずつ自分で料理をすることも覚えてきて、自分で食べたいものを自分で作るようになった。
「材料はまだ足りるか?」
「んー、そろそろ無くなってきたかも」
「そうか」
そろそろ王都へと赴き、色々と調達して置いた方がいいだろう。
早いものであれからまた数十年近い年月が過ぎている。本当にあっという間だ。
持ってきた食料は魔法で保存していた為悪くなりはしないが、如何に少しずつとは言え食べれば当然の様に無くなるのだ。
また友の元気そうな顔を見に行くのもいいだろう。
彼女も久々の王都となれば、また色々と美味しいものが食べられると喜ぶ筈だ。
また顔ぶれは多少変わっているだろうが……。
いや、今は楽しい事が増えていると期待しておこう。
「エフロム見て見て!月火草!」
「良く見つけたな」
「うん!」
「好きか」
「うん!好き!きれい!」
「君の角と同じ色だな」
「うんッ!!」
一般的に深夜と言える時間帯、彼女に引っ張られるように森へと入った私達は遊んでいた。
専ら私はその時一番高い木の天辺近くの枝に座り、幹にもたれ掛っては夜を好む精霊達とお喋りに興じる。
彼女の方は私の隣で精霊を興味深そうに見てる時もあれば、自分用の食料調達の為に森を駆けまわったり、今みたいに何か特別なモノを見つけては私にそれが何なのかと教えを斯うようになった。
そんな中でも、彼女が今一番のお気に入りはその手の中にある『月火草』と呼ばれる赤く灯るエノコログサ――猫じゃらし――に似た草である。
この草は日中に森の魔力と太陽の光を十分に吸い込み蓄えると、深夜の短い時間だけ月の光に反応して彼女の角に似た綺麗な赤色を灯す草で、その数の少なさから大変貴重なものだと一部では知られている霊草だった。
彼女がそんな貴重な草を取って来るのは何もただ単純に愛でる為だけではなく。時々それを見つけては私達が今居る家の傍へと持ち帰り、その周辺に植え直して少しずつその数を増やそうとしているのである。
この草はちゃんと生長しても灯るとは限らず。一度灯ると次に灯るのが何年後になるのか分からないと言われるほどに大変気紛れな霊草だ。
栄養さえあれば一年を通して枯れる事無く在り続ける為、『不滅草』とも昔は呼ばれてもいたが、今はそれを知る者は少ない。
絶滅寸前と言っていいような草を抱える彼女の姿を見て、その草に彼女が自分の種族の事を想い重ねているのかもしれないと見れば、顔には出ないものの私の胸中には小さな鈍痛も浮かぶ。
「んー!まずいっ!」
だが、そんな貴重な草をパクっと、時々彼女は食べようとしてしまう時があるので、そこまで長くは気も病んでもいられない。ぺっしなさい。ぺっ。
その草の不味さでケタケタと笑う彼女に手渡された『月火草』に、私は家までもつ様にと回復魔法を掛けてやり、精霊達に保護をお願いしておく。家の木の周辺に作った小さな畑をもう少し広げておいてもいいかもしれないと私は手の中の赤い光を見て思った。
「近々、王都に――」
「行くっ!」
「そ、そうか」
家に戻って食事時、私が王都の事を切り出すと、彼女は思いのほか食い気味で返事をし、瞳をキラキラと輝かせた。
そんなに行きたかったのだろうかと思わず私は驚きを覚える。
もっと連れて行ってあげれば良かっただろうか。今後はそうしようと思う。
森で採取した果物の一つを彼女へと手渡すと、彼女はどこか遠くを見つめ涎を垂らし何かを思い浮かべながらそれをシャクシャクと美味しそうに食べ始めた。
最近の甘い物と言えば果物類や蜂蜜ばかりで、それはそれでむしゃぶりつく様に食べてはいたのだけれども、あの様子からは都会の甘い甘いお菓子類に大層な想いを寄せていると見える。
素材の味も良いが、時には料理人の手で施された輝きを味わいたくなる気持ち、私にも良く分かるぞ(舌音痴が語る)。
食後、彼女はしばしの休憩を終えると、今度は魔法を使って空を駆けだした。
精霊と共に走り回る彼女は朝日を身に纏い心底楽し気に笑みを零す。
この五十年で彼女も大部魔法が上手くなった。
初めて会った時は全く使えてなかったのだから、この成長は驚くものがあるだろう。興味がある事にはとことん全力で挑む気質であるらしい。
そう思えば、彼女との付き合いもそこそこ経ったが、彼女の見た目は我々の同族達と同様に歳をとる気配がない。相も変わらず、彼女は初めて会った頃と同じで美しいままだった。
「いや、正確には違う……私が忘れてはいけない事だ……」
一瞬だけ本当に忘れかけていた記憶。
だが、それは辛い記憶の一部で、それを思った瞬間から胸には鈍い痛みが疼き、決して忘れてはいけない深い傷として未だ風化されていない事を知った。
それは喜びであり悲しみである。
かつて、絶滅した鬼人族と耳長族には一般には語られぬ深い関りがあった。
それは真相を知る一部の者達にとっては忌むべき話で、我々の種族でも若い者達には教えられぬ類の物である。
あれはそう、私がまだまだ馬鹿をやって居た頃の話だ。探究心が何よりも優先し周りが見えて無かった。
あの頃はまだ、互いに森で生きる耳長族と鬼人族は、生存領域を隣にする近しい間柄として仲が良かったのだ。
耳長族は森人、或いは守り人とも言われ、森を守り木々と共に生きる種族だった。
鬼人族は整者、或いは均整者とも言われ、森に生きる者達の均衡を保ち、生態系を整える種族だった。
元々我々はどちらも持ちつ持たれつ、互いを支え合い助け合う間柄。
だがしかし、そんな関係もある日を境に大きく崩れてしまった。
森は生長はその歩みは遅くとも邪魔が無ければ延々と広がっていく。
命は紡がれ、数を増やし、生きる為に更なる実りをつける。
そして、木々と共に生きる我々もまたその成長に合わせて数を増やしていった。
命を脅かす者が居なければ、十分な食糧があれば、自然とその数は増え、生活圏も広がっていく。
だが、求める物が多くなってくるとどうしても森の木々の実りだけで賄えなくなってくるのもまた当然の事であった。
そうなれば、当然その目は他へと向けられ、森に生きる動物達をも我々は狩る様になる。
元々、鬼人族たちと物々交換等をしており森の実りと動物とを交換し合っていたりもしたから、肉を食すことにも忌避感は抱かなかった。
だが、我々が狩りをする事によって割を食うものが出てくる。
それは当然同様に森で生き、森で狩りを生業として来た鬼人族達であった。
そして、強靭な肉体と精神、耳長族よりも長い寿命を持つ彼らもまた似たような状況に置かれていた。
彼らもまた命を脅かす者が居ない森の中で、その数を増やしていき、狩る獲物の量を増やしていった。
当然、彼らも狩りだけで全てが賄えなくなってくると、森の実りを取る事を考えるようになった。
森を守り、森の均衡を保つ為に生きて来た筈の者達によって、皮肉にも森の中の均衡は段々と崩れ始めて行ってしまった。
そして、互い種族はいつしか気づいてしまったのだ。
耳長族は鬼人族を、鬼人族は耳長族を見、表には出さずとも互いを存在を邪魔に感じ始めた。
『あいつらさえいなければ』と心の奥底で思う様になってしまっていた。
これまでずっと助け合って来たのに、そんな悲しい事はないだろう。
仲は良かった筈なのだ。余裕さえあれば本来はそんな事が起きるはずも無いのだ。
私にもかつて歳を同じくする鬼人族の友が居た。
友ガリアやティリーニアとも共に一緒になって彼らと森の中で良く笑いながら遊んでいた記憶がある。
互いの種族が争いになりそうな空気を察した当時の子供世代は、先ず解決策を探る道を選んだ。
協力して問題を解決しようと奔走したのだ。
――だが、そうした奔走の結果として、二つの種族の関係を大きく変えるきっかけとなってしまったのは、とある耳長族の研究者が発明してしまった魔法薬が原因だった。
その耳長族は野山で採取した数多の素材を元に、互いの種族の良い部分も取り入れ、様々な物を魔法で掛け合わせて『抑制薬』と呼ばれる物を作った。
食べ物で争う事が無いように、悲しい事が起こらない様に、種族が異なろうが友といつまでも仲良く暮らして行けるようにと願われて作られたそれは、食事で賄えなくて不足する栄養を大気中の魔素から吸収変換できるようにし、その薬だけ飲めば最低限は生きていける様にと、身体を少しずつ作り変える魔法の薬であった。
聞けば恐ろしい薬にか思えないが、研究者は使用者の身体に重い害が及ばない様に、精霊の力を借りながら何度も何度も地道な実験を重ね、安全なものが出来上がるまでは誰にも使用させなかった。
己の身体で何度も薬を試し、調整し、毒にならない様にしっかりと改善し安全性を確認しながら少しずつ少しずつ改良し、鬼人族の友にも協力を仰いで、薬効を高めていった。
そしてその地道な実験は実を結び、遂に二つの種族が争う前にはその魔法薬を完成させることが出来たのである。
研究者本人は実験の影響で味覚を壊し、感情は抑制されたのかの様に無表情で居る事が多くはなったが、仲間達の命を思えばそんなものは些細な問題だと簡単に割り切った。
研究者は仲間達の笑い合う姿を見るのが好きだった。それだけで充分だったのだ。
薬の成果もその願いに応えるかのように素晴らしい効果を見せた。
その効果によって、互いが消費する食糧は元の一割以下にまで減少し、粗方の食料問題は解決に向かい互いの種族は再びの安寧を取り戻していったのだ。
日に何度も食事をとる必要は無くなり、服用する量を増やせば暫くは何も食わずとも元気に動き続ける事が出来る。そんな神秘の薬に皆は一様に歓喜した。
最も、その研究者は服用量が増える事によって想定外の危険が起こる事を考慮から外してはおらず、そこだけは注意しなければいけないと十分に周知し、最低限に留める様にと何度も何度も念を押し、皆にそれを徹底させた。
問題の先延ばしにしかならないが、これで充分な時間は稼げる。
この間に本格的な問題の解決を見つければいいのだ。
数年が経ち、十数年が経ち、数十年と経った。
研究者の薬に問題らしい問題は起きなかった。
ただ、問題の解決にも未だ至ってはいない状態である。
だが、地道でも確かに一歩ずつ前進している事で、研究者は胸を撫で下ろしていた。
――だが、研究者はやがて知る事になる。
問題と言うのはいくら注意していても起こる時には起こるもので――。
自覚してない時と場所は多く、全てを把握する事など不可能で――。
根本が解決されない限り、本質は何も変わらなくて――。
問題は先送りにしても意味がなくて――。
問題とは時に、悪意が隠れ潜んでいるもので――。
悪意とは、誰もが心に芽吹く為の種を持っているのだと言う事を……。
研究者は優れた魔法使いでもあった。
創薬でも魔法でも他の追随を許さぬ天才であると密かに呼ばれた。
そこには憧れで研究者を見る目もあったが、当然良好なものばかりではなかった。
そして、それはある意味で当然の行いであったのかもしれないが。
危険であるが故か、はたまた禁止されている事の意味を曲解したか。
研究者が禁止しているその行いに隠された意を求め、進んでそこに足を踏み入れる者が出始めのだ。
あいつが優秀なのはこの薬の恩恵なのではと、いつしか抑制薬には多く服用すればするほど魔法の力を高めてくれるのではないかと言う噂が流れ始める様になってしまっていた。
不足する栄養を大気中の魔素から吸収出来るのならば、その服用量を増やす事でより多くの魔素を身体へと取り込む事ができるのでは?それによって、より大きな魔法を扱えるようになるのでは?そんな可能性へと思い至ったのであろう……。
実際、密かに服用量を増やしていた者の中には取り込んだ魔素の多さで己の魔力増大を誤解し、ある種の思い込みの力によって成長を遂げてしまった者もいる。
だがそれは、その者に元々あった才能が思い込みで発揮されただけの事でしかなかった。
ただ、そんな曖昧な信憑性でも成功者を得た事にもよって、噂は加速度的に広がっていってしまった。
その薬はそんな目的の為に作られた物ではないのにも関わらず……。
噂を聞いても、最初は誰もがそんなありもしない眉唾の話と一笑に付していた。
そんな簡単に魔法が上手くなる方法など無い事を誰もが分かってはいた。
……だが、その研究者があまりに高みに居た為に、もしかしたらと言う思いに惹かれ、研究者から隠れる様に耳長族にも鬼人族にも過剰服用者は増えていった。
研究者の様になれるのではという憧れに引き寄せられてしまう。
あいつだけが称賛されるのは気に食わないと、嫉妬から進んで行う者もいる。
森で生きる上で、魔法の恩恵とはそれ程に魅力的なものでもあった。
身を守る上、糧を得る為にも必要なもの。あればあるほどに良いの能力であり、それが高い者程に優秀な子を残せるという暗黙の了解もあった。
求められるならこれほどに求めたいものはない。
その願いは毒であると知りつつも、求めずには居られない者も居た。
毒は積み重なり、着実に重みを増していく。
だから、問題が完全に表に出た時にはもう、全ては遅かったのだと言う事を過ちを犯した者達は感じた。
引き返す事などできない程に、崖の下に落ちるかのように、全ては手遅れであった。
研究者の耳に入ったのはその頃になってだった。
皆最初は隠していたが、いつからだったか二つの種族で隠し切れない変化が起き始めたのだ。
先ず、どちらの種族にも共通して見られたのは新生児の減少であった。
元々どちらの種族も人間より子供が出来にくい種族ではあったが、更に輪をかけるかのように子供ができにくくなっていた。
そして、性欲の抑制の代わりとでも言うかの様にそれぞれの種族では更なる異常が起こり始めてもいた。
昼夜を問わず、耳長族の者は少しずつ眠気を訴え木に寄添う時間が多くなった。
昼夜を問わず、空腹でもないのに鬼人族の者は糧を一心不乱に食べ続けるようになった。
比較的若い世代ほどになり易いその変化の原因を探り始めると、研究者はすぐさまその答えが抑制薬の過剰摂取によるものだと突き止め、精霊にも協力を仰いで抑制薬の服用を急ぎ禁じる事を対応とした。
だが、何十年と隠れて蓄積されてきたその薬の効果は想定していた物よりも余程深く残り、今更服用を止めた所でどうにもできない状態だった。
もし自分が居なくなっても両種族が困らない様にと、信じて製法を教えたことが逆に仇となった上での結果であった。
友の中にも隠れて作っていた者達が多く、長い間研究者に秘密にしていた。
森に生きる者達の魔法の強さは、増せばそれは種族を守る事にも繋がる。
彼らは良かれと思ってやったのかもしれない。
だが、長い期間過剰に蓄積された事で新たに発症したその病は、強い抑制の効果が途切れた時に一気に変質して真の地獄を見せた。
耳長族の者達は寿命でもないのに、己の死を錯乱して次々と友や親しく愛する者達と共に心中し始め、その命を草木へと捧げる様になった。
鬼人族の者達は自我と意識を保てなくなり、友や親しく愛する身近の者達で殺し合い貪り喰らい始めた。
森に死の連鎖が始まったのだ。
研究者の言葉を確りと守り続け、既定の量で留めていた者達は服用を止めても何も起こらなかった。
だが、全員がそうなったわけではないにもかかわらず、否が応でも両種族は皆巻き込まれてしまった。
死者が全体の約五割を超えてしまえば、もう些末事とは言えない。
一部の者達によって引き起こされたその惨劇は、二つの種族の袂を分かつには十分だった。
耳長族からしたら、鬼人族は我が子や親しい者達を喰らった化け物だ。
鬼人族からしたら、耳長族は親しい者を怪しげな薬で狂わせた怨敵であり集団自殺をする狂人だ。
どちらの種族も薬を服用しなくなったことで解決に至ってなかった食糧の問題も再燃し混乱は膨れ上がった。
互いに止めようと思っても中々に止められぬ程に、その争いは激しかった。
何とかして狂ってしまった仲間を縛りあげ、とりあえずの収束を得るも、両種族の混乱が治まりきる事は無かった。
研究者は、自分の薬で変化させてしまった鬼人族と耳長族の多くの友の亡骸を抱きかかえ、表情の変わらぬその顔で延々と涙を流し続けた。
どうにかするには、狂った者達を止める為には、新たな魔法薬を作るしかない。
そう思った研究者は誰よりも早く行動を開始した。
過剰摂取による変質から、再び元の状態へと戻すための薬を作る為に、物も時間も不足していたがやるしかなかった。
自責の念に駆られ、研究者は涙そのままに森を駆けずり素材を集め回った。
精霊の助けを借り、色々な物を集め、時間に追われながらも必死に必死に薬を作っていった。
使える物は何でも使った。
死者の血肉だろうが、劇薬と呼ばれる類の物だろうが、禁忌と呼ばれる魔法だろうが、己の体だろうが。
自分の身体に抑制薬を致死量何倍かも分からぬほどに打ち込んでは魔法で部分的に仮死させ強制的に安定させながら、考えられる全てをもって実験を繰り返した。
傍から見た研究者の姿は、それこそ狂人の極み、異常そのものの様に映った事だろう。
原因となった抑制薬の生みの親と言う事もあり、その頃にはもう耳長族からも鬼人族からも忌まわしい存在であると、手のひらを返すかのように扱われた。
幼き頃からの仲間である友ガリアやティリーニアはそんな研究者を必死に庇って守ってくれたが、庇う事で彼らの身にも危険が迫るのを恐れた研究者は、更に一人森の奥へと離れて己が身体で魔法薬を作りあげ続けた。
研究者は優秀だったのだろう。
異常とも呼ばれる魔法力と、哀れに思った精霊による恩恵、奇跡と呼ぶような閃きを手繰り寄せ、通常では考えられない程の早さをもって、その奇跡とも呼べる薬を製作してしまったのだから。
その薬が完成した時、研究者は心から喜んだ。
また再び皆が笑顔になれるだろうと思った。
両種族には再び安寧が訪れるのだと信じていた。
――だが、ようやく完成させた薬をもって戻った時には、既に事は起こりきった後であった。
新薬など、幾ら早く作れたのだと言っても、それはなにも数日で完成出来たわけではない。
研究者が気づいた時には、もうそれなりの月日が経過していたようで、仲間達から離れていた研究者が故郷の森で久しぶりに見たのは、……倒れ伏せる仲間達と積み上がる死体の山でしかなかった。
両種族の争いは、種族間の戦争にまで発展し、それは既に終わってしまっていたのだ……。
その激しき戦いは僅差で耳長族が勝ったようであった……。
恐らくは、身内が勝手に死んでいく耳長族よりも、意識が無いまま同族すらその手にかけ襲い掛かる鬼人族達の厄介さの方が言うに及ばず、戦いの場において彼らは不利過ぎたようであった……。
ほぼ全滅と言っていい程に燃える死者の山を築いた鬼人族。
だが、耳長族も半壊と言っていい程の被害を負っていた……。
ただの一人さえ、まともに立って居る者はおらず、皆が何らかの負傷し倒れている様だった……。
研究者は、その光景を目にすると、咽が裂ける程に叫んだ。
その叫びは魔法となって瞬きを越え発動した。
倒れている者達全てに向けて発動された魔法。それは自分が魔法薬を作る際にも使った仮死の魔法。
処置をする為の時間を得る為に、これ以上の死者を出さないよう、生き残っている者達の命を少しでも長く繋ぎとめる様にと、何かを代償にその魔法を使って全員を深い眠りへと誘った研究者は、すぐさま新たな魔法薬を取り出し全員に行き渡る様にする為に薬を希釈して飲ませていったのだった。
――後の世で、記録のみに残る『生命回帰の秘薬』と呼ばれる伝説の"不変魔法薬"。
空中に漂う真紅の混淆水。それ自体がとんでもない魔力の塊であり循環し続ける生命のスープ。
肉体と精神を常に最善の状態へと保つ事の出来るその秘奥の魔法薬は、希釈されてもなお凄まじい効果を齎すとされる。
死者達を蘇らすことにまでは至らぬものの、四肢の欠損は勿論の事過剰に抑制薬を服用したことで発した状態異常等もたちどころに全て治していく神秘の薬である――。
研究者自身の"血肉"と魔力を多分に用いて作られたそれは、研究者の生命力の割譲でもあった。
足りなくなれば何度も何度も作って、作っては飲ませ、作っては飲ませ、一人でも多くを救おうと躍起になった。
だが、いくら優秀であるとはいえ、研究者にも限界はあった……。
朦朧としながらも、それでも仮死状態にした耳長達全てを治療し終えれたと見るや、今度は諦めきれずに死んだ鬼人族達にすら研究者は薬を与えだした。
無数の鬼人族たちの死体へ、何かしらの軌跡を願うかのように徘徊する。
その姿を見た者は、彼がまるで幽鬼であるかの様に映った。
そんな懸命な研究者の姿を、目を覚ました耳長族の者達は見つめていた。
薬の効果が希釈され過ぎたのか万全とは言えず皆未だに気だるくはあったが、自分たちが負った筈の重傷が消えており、それが研究者の手によって救われた事だけは直ぐに理解していた。
だが、そんな彼らの傍らには手遅れで既に亡くなってしまった同族達の死体もあった。
上と下に身体が別たれ、それに縋り付く様に泣き続ける親族の姿があった。
仲間を守るために必死に戦った者達の、千切れ食われ原形を留めない成れの果てが、そこにはあった。
それを見ていると、彼らには自然と湧き出てくる感情と敵への激情でいっぱいになった。
その激情は抑えようと思っても抑えきれるようなものではなかった。
そして、そんな敵を未だ癒そうとする研究者の姿がそこにはあったのだ。
同族でありながら一人だけ逃げ、戦いに参しなかった卑怯者の姿が……。
異常とも言える様な、まるで鬼の様にも見える銀髪のエルフの姿が……。
戦いが終わり、皆を救って回るその高尚な姿に、思うところが全くないわけではない。
だがしかし、それを踏まえたとしても、どうしても、どうしても、どうしてもどうしてもどうしても、噛み殺しきれぬ想いが、生き残った者達にはあった。
許せぬ想いがあった。
そして、そこに悪意の種は芽吹き、声と咲いた。
「……裏切り者め」
元々はあいつが作った薬が原因でこうなったのだと。
あいつが居なければこんな事にはならなかったのだと。
言うつもりのない言葉までもが、スラスラとまるで嘘の様に言の葉となって飛び出ていく。
「「裏切り者め」」
誰もが本当にそう思っていたわけではない。
だが、戦いの後の高ぶりと共に、殺し合ったばかりの敵を癒そうとするその姿が、彼らには理解できないとても悍ましいモノの様に映った。
誰が言い出したわからぬその小さな呟きは、瞬く間に広がりを見せてしまった。
睨みつけるだけで人を殺さんばかりに、数多の目が研究者を見つめ貫いていた。
「「「裏切り者めッ!!」」」
悪あがきの様に死者へと薬を飲ませていた研究者にもその声はしっかりと届いていた。
どうしようもない事だとは分かってはいた。
自分が間に合わなかった事も、もう全てが遅すぎる事も分かっていた。
同族たちの怨嗟の声を聞きながら、それでも研究者はひたすらひたすら動き続けた。
もうここに自分の居場所はないと悟りながら、何かに祈る様に動き続けた……。
―――――――――――――
「…………」
そして、次に気づいた時には友の家のベットの中にいた。
研究者はいつの間にか気を失っていたのだろう。
「目が覚めたかッ!」
「起きたのね!」
ベット脇に居た友二人は研究者を見ると嬉しそうな顔をした。
そして彼らからは『救ってくれてありがとう』と言う感謝の言葉を貰った。
それは素直な言葉で、偽らざる彼らの本心だと後々分かったが、その時の研究者にはその声を素直に受け取る事が出来なかった。
いつも居たはずの仲間達の姿が、目の前の二人以外もうそこには無かったからだ……。
同世代で最後の生き残りとなった二人の友の言葉に、研究者は首を横に振って応える事しか出来なかった。
「すまなかった……」
友二人はそんな研究者の姿を見て、義憤を感じ、悲しみ、声を荒げた。
お前は悪くないじゃないかと、周りの者達が研究者を悪し様に言ったのも我慢ならないと。
だが、それに対して研究者は込めようと思っても感情の込められぬ顔で精一杯に応えた。
行動には責任が伴うものなのだと、皆は悪くない、自分が失敗しこの結果を招いたのだと。
燃え上がる友二人を宥める事には中々に困難だった。
それも更には研究者はこの地を離れる事を告げたとならば一層の事燃え上がる始末だった。
研究者が幾ら言葉を重ねても、友二人は子供の癇癪の様に涙を浮かべながら罵った。
理解できないものを詰る様に、納得がいかない激情を研究者へとぶつけた。
自分を想って怒りをぶつけてくる二人を有難く思いながら、研究者は精霊に二人を魔法で眠りにつかせてもらうと、ベットに二人を寝かし自分は森を去った。
その日から、その深い森の中からとある鬼の一族の存在は消え、研究者こと銀髪の耳長族エフロム・アマルガニは追放され、彼の存在と彼の薬の事は耳長族の間で永遠に秘する話として黙され続ける事と決まった。
「……愚かだった」
こんな男の何が賢いと言うのだろうか。
私はただ愚直だっただけだ。知識もなくただただ足掻き続けただけだ。
その己のこの愚かさが犯した過ちは永遠に消えてくれはしない。
如何に前を向けるようにはなっても。繰り返さないようにといくら気を付けても……。
長い間、逃げる様に色んな場所を転々とした。
冒険者として危険な場に身を置き、幾つも夜を越えた。
生き急ぐような戦いの日々に没頭し、そのまま消えてしまっても良いとさえ考えていた。
だが、そんな自暴自棄の様な日々を過ごしていたら、何十年かぶりに友二人と再会した。
友二人はそんな私を見ると懐かしくも叱り怒り泣き出し、暫くは三人で行動するようになった。
そんな優しい彼らのおかげで今の私がある。
彼らには感謝しかない。
そして、それをきっかけに改心し多くの出会いも得る事が出来た。アルとの出会いもその時だった。
種族が異なる家族を得た。
彼らと過ごす時間は新たな救いとなった。穏やかな時間を得た。
その時間を過ごすうちに、段々と昔の事なのだと思えるようになった。
時の流れは早く、眠る間に様々な事が変わっていく。
悲しい事もあったがそれ以上の嬉しい事も沢山あった。
魔法薬の影響を一番強く受けた為だろう。私の寿命と言う概念は最早あやふやになっていた。
王都から離れる事になったのは、私にとってもその点では都合が良かった。
私は気を抜くと時々自分が何をしているのか分からなくなる時がある。
ふとした時、気を抜くと一日中無心のまま立ち続けていた事もあった。気が付いた時、自分でも心中で苦笑するしかなかった。
森に一人で住むようになり、眠る事が多くもなった。
ただ私は抗わず、木々と精霊の声に耳を傾けるままに任せ、生きたまま自然に帰る事に決めた。その時が来るのを粛々と待つことにしたのだ。
時たまに目を覚ましては、終活と言える準備を一つ一つ緩やかに熟して行った。
一日の大半を眠りへと費やし、自意識を完全に草木へと委ねようかとも思うようになった。
だが、もうそろそろだと思った矢先の事、とある異変が起きた。
彼女と出会ったのである。
あの日はふと気づいた時には森に居たので、そのまま森を散歩し精霊へと最後の挨拶参りをしていた時の事だった。
彼女の、その姿を一目見た時に、私の胸中に走った痛みと驚きは筆舌に尽くしがたいものがあった。
彼女はまるで幼子の様だったが、私はその姿にかつての鬼人族の友の一人の面影を重ねていた。
あの時、彼女が奇怪な事をしでかしてくれなかったならば、私はあの時どうしていいのか分からなくなっていた。もしかしたら涙でも溢れさせていたやもしれない。
だがそれも突然クマの真似をしてきたあの瞬間、私の心の片隅に巣食っていたしこりの様なものは吹き飛んで、どうでも良くなった。
故郷の森から、あの争いのあった森から、ここは遥か遥かに遠く離れた地。
そんな場所にまでどんな奇跡をもって逃げてきたのかと思えば、その大変さを思いをはせ、幼き彼女に対して私が無防備になるのも当然だった。
彼女に連れ添う者は誰も見えなった。一人でここまでやってきたのだろうか。
彼女の他に誰も居ない事で、その時から私の心配は尽きなくなった。
だが、『他の者はどうしたのか』などと、私が聞く事などは出来はしなかった。
一族が消えたその元凶とも言える存在は、目の前にいる私なのだから。
こんな遠くまでごめんと謝る事さえ私には許されないだろう。烏滸がましいにも程がある。
だから、私は彼女が好きに過ごすに任せた。
彼女は活発で手を焼かされる事も多く、深く眠っている暇も無かった。
いつ離れるのか分からない彼女に私は何も聞かず何も話さずにいた。
聞かれればなんにでも答えるつもりではあったが、彼女は何も聞かなかった。
彼女の関心は専ら食に関する事だけ、最初は魔法薬の影響が出ているのかとその暴食に身構えたこともあったが、ただ単によく食べるだけで忘我のままに貪るような姿は見せず、私は安心を覚えた。
王都に向かった後はいい刺激を得たのか、色々な事を積極的に覚えるようになった。
彼女が知りたいと思う事は全て教えた。
精霊達にも能々(よくよく)頼んだ。
何においても彼女を守って欲しいと。
私に出来る全てを持って彼女が幸せになれる様にと願った。
今度の王都行きでは友にも彼女の事をよろしく頼む心積もりである。
私はもう、いつ私でなくなるか分からない状態なのだから……。
――――――――――――――
「着いたか」
「着いた!旨い物沢山買おうね!」
密かな思惑はあるものの、私は彼女と再び王都へとやってきた。
彼女は大部魔法の扱いに慣れたようで、今回は私の転移魔法の魔力の揺らぎに耐えて酔う事も無く元気な笑顔を浮かべている。
王都にある屋敷の一室。閉ざされた間。ここは時間を止めている筈なのに、また少し空気が変わっている気がした。また少し私の感じ方が変わっただけなのだろうが、この場所がとても遠くなったように感じる。
ここは大切な場所であるが、私の匂いも薄くなった。
癖で屋敷内に自然と【探知】の魔法を走らせてしまい、屋敷の中にいる者達の観察もしてしまう。
思わずそこに無い姿を探してしまったのだ。愚かしい事。アルもニケももうここには居ないとほんとはちゃんと分かっているのだが……。
――コンコンコンコン。
だがその音によって、閉ざされていた部屋の静謐な空間は人の存在が波紋として響き渡り動き始めた。
そして、同じくして扉の外からはどこか良く知る者達に似た空気の人の気配を感じさせる。
私はその人物へと向かって自然と声をかけていた。
「入ってよい」
「――失礼します」
すると、透明で落ち着きのある声と共に入って来たのは、初老と言える年頃の女性だった。
どことなく優し気なニケに似た目をしていると感じた私は、直ぐに彼女があの子の血縁者だと察する。
「ご主人様、お初にお目にかかります。わたくしが当代の家令を務めさせていただいております」
「そうか。名はなんと」
「アトでございます」
「アト……良き名だ。ニケの子孫だな」
「はい。孫にあたります」
「そうか。王都には買うものがあって寄った。こちらの事は過分に気にせず普段通りを徹して欲しい」
「伝え聞いております。畏まりました」
「何か問題はあったか」
「いえ、とりあえずは何も」
「……そうか。では後は任せる」
「畏まりました」
私は一目で、ニケの孫には少し怖がられているなと感じた。思えば彼女とはこれが初対面である。いきなり私の様なものと対面すれば困惑するのも当然であろうなと私は心内で笑した。
この家はアルとニケを守るためだけに作ったが、今後は彼らの子孫が安心して暮らしていける様にもっと自由に使っていって貰う様に言うべきだろう。そして私も距離を置いた方がいい。彼らを怖がらせたくなどはないのだから。
私との繋がりの深い二人が居なくなった事で、この場所がまた少し違って見えてしまうのは当然の事だ。寂寥感に包まれるのは仕方ない。これは今までも何度もあった事なのだと思い立ち直る。
何よりも今は、隣にいる彼女のソワソワが止まらないので早々に屋敷を出て買い物へと向かう事にしよう。
「久しぶりー!」
王都の街並みや空気はどれほど変わっているだろうかと、扉を開けて外へ出る浮かれた彼女同様に私も少々の期待があった。
――だが。
「なんだこれは……」
屋敷を出ると彼女は記憶を頼りに商店が多く並ぶ方面へと一目散に駆け出していった。彼女は地頭も良いので昔通った道も覚えているのだろう。
最近では森の低空を飛ぶ時にも使っている【飛行の魔法】をここでも巧みに使って、数センチだけ身体を浮かせると人並みを縫う様に凄まじく軽快に駆けだして行ったのだ。それほどまで甘未が欲しいか。
ただ、今はそんな彼女の事を少々心配しながらも、私は王都の上空の方へと気を引かれ、そちらへと厳しく視線を移した。
そこには凡そ常人では目に出来ない隠遁された複雑な魔方陣が、王都全域を覆う程大きさで緩やかに回転しながら存在している。
それを私は初めて目にしたわけではあるが、流石に長い事魔法に携わってきたものであるからして、それが一体どのようなものであるのか位はすぐさまに察する事が出来た。
「大量消費と循環制御、搾取、保全、改竄、洗脳……そんなところか」
一目で私はその魔方陣へと嫌悪感を抱いた。
王都に居るもの達にとってはそこまで大した影響ではない。いっそ好ましいものとまで言えるかもしれないが
あれは精霊に干渉する類の魔法らしく、精霊の働きが著しく阻害されていることによってこの地域の魔素が上手く循環できていないのだと察した。
それに王都の空気が淀んでいるように感じた。
「なんと……愚かな」
そして、私が思うのはそれである。
あれの効果を簡易に言うとするならば『補助』。
精霊達から力を少しずつ奪い集め、きっとそれを何某かに分け与える為に存在している。
あの大きさの魔方陣を発動するためには、それ相応の実力が必要であり、この王都全域にまで広がる大きさからして、あれを行なったのが一体誰の仕業であるかなどは察するには私にはあまりにも容易であった。
信じられぬ話だが、おそらくは友二人の内のどちらかであろう。
だが、自分が良く知るあの二人がなんの意味もなくこんな事をしでかす存在でない事は分かっている。
何か理由がある筈である。
これを使用している者がそれほどまでして何かを守るとしているのなら、その守ろうとしている者も恐らくは一番効果が高いこの魔方陣の範囲内に居る。
犯人捜しをしようと思えばそれも楽に行う事が出来るとは思う。――が、それをするつもりで王都に来たわけではないので、こちらから態々動く事はしない。
ただ、このまま見逃すと言う択もなし――よって。
『散れ』
――パキン。
態々言う事でもないわけではあるが、防御用の術式等と一緒に天空に隠れていた魔方陣は光と共に消え去った。ある程度力のある者じゃないと破壊された事にすら気づかないとは思うので王都の住人達が騒ぎ出すことも無い。
そして、壊されて都合の悪い者達がいるならば、犯人は勝手にこちらを見つけてやって来るであろう。こちらが出向く面倒もなく一石二鳥である。
(おや、彼女は大部遠くに行ってしまったか。追いかけなければ)
森の中とは違い障害物が少ない王都の低空を気持ちよさそうに疾走していく彼女の後姿を見て、私も空を駆けた。
――――――――――
「陛下。報告いたします。天空陣が消滅したとの事であります」
「言われるまでも無い。気づいている。……で、何者の仕業かは分かったのか」
「それはまだです。ただ今調査中であります。ですが、あれを破壊した者とあればそれ相応の魔力値が検出される筈でございます。使役精霊達を王都中に飛ばしましたので、その相手を発見も時間の問題かと思われます」
「だが、まさかあれを視認するだけならまだしも破壊できるようなものがまだこの王都内に居るとは思わなんだ。それほどに力があるものが国に入れば直ぐに情報が届く手筈としていた筈だが、それについてはどうなっている」
「その事なのですが、直に転移してきた場合はその限りに含まれません」
「転移妨害があるだろう。それはどうしたのだ」
「恐らくそれも超えてきたのではないかと」
「ふむ。中々の使い手で間違いないと言う訳か」
「恐らく」
「恐らくばかりだな。だが、分かった。続きは相手が判明してからするとしよう。それよりも今は森と隣国にどう対処していくかについてのほうが重要だ」
「御意……」
──王都において、それぞれの思惑が絡んだ醜い戦いが始まろうとしていた……。
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