第72話 再。
私が宿に戻ると、待たせに待たせたエアの頬はプク―っと膨れてしまっていた。遅くなってしまい、怒っているだろうか。
ここの宿屋はそれぞれの部屋の中で食事ができるタイプの宿らしく、各部屋にはベットの数と同じ分だけ個人用のウッドデスクが備え付けられていた。見るとまだその上には何も乗って無い事から、エアは何も食べずに待っていてくれたことが分かる。……エア、待たせてしまって申し訳ない。
「おかえりロム!……あの人は、もう居ない?」
先ほどまでは破裂しかねない程に膨らんでいた頬も一気に萎んで笑顔になった。怒ってはいなかったらしい。
ただ、私の後ろからまたあの男が付いて来てはいないかと、心配になってキョロキョロと確認している。大丈夫だ。ちゃんと置いてきた。
「よかったー、あの人怖いからなんか嫌。ロムのローブも掴むし、思い出したらなんかむかむかする」
私が帰って来ると笑顔を見せてくれたが、今は『ガルルルル』とまるで唸る様な声を出すエア。
今日はとても表情豊かで、楽し気にすら私には見えるのだが、本人的には違うらしい。
良い出会いではなかったかもしれないが、それもまた出会いの一つだ。
人と人の出会いは何かしらの影響を大なり小なり与え合うものである。
何も見えない虚空の先に難き怨敵の姿でも幻視しているのだろうか、彼女はそれに向かって小さな威嚇をし続けていた。私にもそうだが、エアからも大部彼は嫌われたらしい。
……だが、なぜだかそれを面白く感じてしまうのは私だけだろうか。この評価を将来の彼がどれだけ払拭できるのかを想うと、少しだけ楽しくなってしまうのだ。
それにしても頻りにエアはあの男が私のローブを掴んだことを気にするみたいだが、何かあるのだろうか?私は何の気はなしに自分の着ていた白いローブを脱ぐと、よく観察して解れや汚れなどおかしい所が無いかと確認する。……だが、それらしいのは何も見当たらない。
はて?と私は首を傾げながら、何となく試しに未だ『ガルルル』状態のエアへと、ローブをスポッと全身が包まるように被せてみた。
「……はぁ~ろむだ~やわらかい~」
すると、なんと言う事でしょう。先ほどまであれほど荒々しかったエアの顔は、一瞬でとろけて穏やかになってしまったではありませんか。……長年愛用していたが、まさかこのローブにこんな効果があるとは知らなかった。
……因みにエアさん、ロムの本体はこちらです。そちらはローブさん。
『いや、そんな効果はねえって。旦那が普段着ている物だからでしょ』『あれ良い匂いするし、やわらかローブだよね!』『肌触り最高』『抱擁されている感じがしますよね』
君達か、いらっしゃい。二日程姿が見えなかったが、みんな元気そうだった。
皆とろけているエアを見て一緒に微笑んでいる。
エアがこんな感じでとろけてしまってはいるが、もう少ししたら外へと出てこの街の良い食事処を探し回る予定であることを私は彼らに伝えた。
そして、興味があったら君達もまた一緒に行こうと誘いもかける。普段目にしない光景とはそれだけで何かしらの刺激があるものだ。私は彼らとも一緒にそれを楽しみたいと思った。
それにこの街で美味しい食事処を見つけたら、『稼いだお金でロムにご飯を食べさせてあげるんだ!』とエアも今回は相当意気込んでいる。……今日の天気は一日快晴だと思っていたが、もしかしたら誰かの心に局所的な感動雨が降り出してしまうかもしれない。何か雨具を用意していた方が良いだろうか?大き目の手ぬぐいだけでは足りない?
『……あっ、ごめん旦那。そんなに楽しみにしているのに突然で申し訳ないんだが、実は少しだけ急ぎの案件?……いや、まあそこまで急いでるわけでもないんだが、一つだけ相談?したいことがあってさ。耳に入れておいて欲しいんだが。聞いて貰えないか?』
……だが、その途中でいきなり火の精霊は私へとそう話しかけてきた。
何やらその表情は言葉通り複雑な塩梅で、緊迫してるとは言ってもどこか微妙な雰囲気があり、不思議に思った私はすぐさまその言葉に了承を示した。
「……なるほど。そうか。ふむ。それならしょうがないだろう。──エア」
「ん~?」
「緊急事態らしい。すまないが、少しだけ一緒に森へ帰ろう」
「えっ!?う、うん!」
……という訳で緊急事態が起きた為、私達は大樹のある森へと急いで帰る事になった。
白ローブを着たまますっかりとろけていた白エアを、そのまま掬う様にして抱え上げた。
『わあぁっ』
……すると、いきなり抱え上げた事で驚いたのか、顔だけ赤く染めた赤エアが生まれる。
私はそんな赤エアを抱えながら、一緒に【転移】によって瞬時に大樹の中へと戻っていった。
未だ『あわわわ』としながらも赤エアの体幹はしっかりしているので、落ちる事無くガシッと私にしがみ付いている。そして、私が抱えやすい様にと気を遣ってくれたのか、バランスをとる為に私の首へと腕を回して楽な姿勢をとり始めた。
「…………」
「…………」
もう着いたので下りても構わないのだが、私が赤エアを見ると、赤エアもまた私を見ている。
暫く見ていたが、赤エアは抱えられたままジーっと見返してくるので、どうやら下りるつもりは全くないらしいと察した。
私はそのまま赤エアを抱えて大樹の外へと出る。
「わああーー!いっぱいっ!」
そうして、赤エアを抱えたまま外へと出た私達がそこで見たのは、各種山の様に積み重なったお野菜達と、その山々の間で円を作ってトボトボとゆったりなテンポで踊る──どこか元気ないまま回っている──お野菜達の姿だった(エア目線)。
毎年この時期になれば、あの円の中心にはエアが居て、お野菜達は仲良く踊りながら列を作ってエアの口の中に『こんにちはー!今年もやってきましたー!』と収穫を祝いつつ入っていくのだが……今年はその主役が居ない事で、どこか灰色の雰囲気を醸したままのお野菜達が、ただ回っているというだけの寂しいお祭りが、そこには広がっていたのである。
『エアのいない……お野菜イベント』の開幕。
一応、収穫を祝う為にも折角だからとお祭りを精霊達は開いたらしいのだが、やってる途中でみんなは気付いたらしい。やってるけど全然楽しくなくて、なんか少しずつ寂しくなってくる事に……。
『これじゃない』『何かが足りない』『エアちゃんはどこ?』とそんな声にならない声がそこかしこから聞こえてくるようであった。これではまるでお祭りそのものが泣いているかのようにも見える。
……確かにこれは緊急事態だった。
最初は普通に手伝って見守るだけのつもりでいた大樹の精霊達だったが、流石にこの状況を見逃す事は出来なかったらしく、致し方なくも冒険途中の私達に申し訳なさそうにヘルプを頼んできた、とそういうわけである。……まったく君達はいつも遠慮が過ぎる。最初から呼んでくれればエアも私も喜んで来たぞ。
「お野菜が呼んでるっ!」
といつの間にか赤エアから通常に戻っていた白エアは、私の腕の中からピョンと抜け出すと、『わーい!』と嬉しそうに円の中心へと駆け出して行った。
──その瞬間、エアの姿に気付いたお野菜達(精霊達)に激震が走る。
『主役が、やって来た!来てくれたっ!』『準備だ!今すぐ準備を整えろっ!』『並べっ並べー!綺麗に並ぶんだーっ!!』『エアちゃんが帰って来たぞー!』と、いきなり元気になったお野菜達は、さっきまでの元気のなさが嘘だったかのように、今は全力で喜んで踊り出すのであった。
円の中心で、列になってやって来るお野菜をいつも通りシャクシャクと美味しそうに食べていくエアと、そのエアに嬉しそうにお野菜を食べさせている精霊達。
毎年見ている光景ではあるが、大樹に寄りかかった状態から見えるこの光景が、私はとても好きで、今回もまた心を癒されるのであった。
またのお越しをお待ちしております。




