第638話 充行。
「──雨があの場所を通ったのはただの『偶然』だったのかもしれません。……ですが、わたくしにとってあの出会いはきっと、特別な『必然』だったと思うのです」
仲間を失った『毒』は呆然自失し、その場から動けなくなる程にショックを受けていた。
……だが、誰にも気づかれなくなったその場所にたまたま『黒い雨』が降り注ぎ、その雨に染まる事で彼女は我に返れたのだという。
気づけばいつの間にか目の前には見た事も無い様な存在が居り、彼女はその存在に一目で目を奪われる事になったと。
これまでずっと彼女は『神々』を憎み、憤怒してきた。敵と戦い、喰らう喜びも享受してきた。
……だが、それ以外を知らず。『悲しみ』という感情や、突如として現れた目の前の存在に対しては、どう対応すれば良いのか全く分からなかったそうだ。
「…………」
精神的に弱っていた為か、現実を見ない様にしていたのに……。
……容赦なく雨は降り注いできて、見ないふりはもう出来なくなっていた。
何かに縋りたかった訳ではないけれども、弱っていた彼女は空虚になりかけていた『心』を『黒い雨』で染めてしまったのだ。
『走れ』と。『生きろ』と。『まだ終わりじゃない』と、『心』の中ではそんな仲間の最後の言葉が繰り返し聞こえてもいた。それはまるで彼女の背を押してくれているかの様な感覚だったと……。
何がきっかけになるかは分からない……でも、きっとそれは彼女にとって悪い事ではなかったのだ……。
──とまあ、聞いていると何ともちぐはぐさも感じたが、要はその『黒い雨』に触れて、彼女も『一目ぼれ』をしてしまったのだという、そんな話をしたかったらしい……。
舞い降りた存在を一目見て、『毒』は自らに『恋心』がある事を知ったのだと。
そして、それが彼女の『生きる』支えとなってくれたのだと。
無論、それが本当に『恋心』かどうかは 初めての感覚過ぎてすぐには分からなかったそうだが。
その存在を目にして一瞬で『魅了』されてしまい、胸が高鳴っている自分の変化には気づけたらしい……。
『あの方は美しく、気づけば自然とその後を追っていました』と。
『恋をしたわたくしは、その日からあの方の後ろに居られるだけで幸せを感じられたんです』と。
「──だから、こんな素敵な気持ちがある事を他の方々にも自慢したくなってしまったんですわ!」
……と、そんな何とも傍迷惑な話を彼女は『ニタリ』とした微笑みを浮かべつつ、嬉々として語り続けるのだった。
「…………」
「…………」
という事はだ。つまりは此度の『暴動』騒ぎも元を正せばそう言う訳で……私達にそれを自慢しに来たかっただけなのである。『好きな相手ができました』と。我慢しきれずに知り合いに報告したかっただけらしい。
その為、それを知った私とエアは自然と視線が重なり、内心で深いため息を吐いたのだった……。
……どうやら今の彼女の状態は、『恋心』を誰かにお喋りしたい感覚に突き動かされているようだ。話したくて話したくてウズウズしているらしい。
だから『泥の魔獣』が無事だという情報を聞きつけて、それをきっかけに折角だからと私達にも挨拶に来たのだと。
……ただ、その際に何を思ったか普通に話すだけでは物足りないとでも感じたらしく、『毒』はちょっとした悪戯心を思い付き『再会のお祝い』も込めて、自らで『魅了』を振り撒いたのだという。
彼女からすると『魅了されているのは幸福だ』と感じる様な状態なので、周囲にもその素晴らしい感覚を『おすそわけ』したかったようだ。そこには当然の様に悪意も皆無であり、寧ろ善意しかない。
それに、彼女の言う『魅了』自体も『人』を好き勝手操るような類のものではなく、ちょっとした『暗示』に近しいものであり──女性の『恋心』を少しだけ後押しする様なささやかなものだったようだ……。
だから、そもそもの『暴動』に関しても、報せ自体は彼女が少々過剰に伝えただけのほぼブラフであり、私達をちょっとだけ驚かしたかっただけのサプライズ的な『幸せのおすそわけ』だったのだとか──。
「…………」
──無論、正直そんな『幸せのおすそわけ』はこちらとしては有難迷惑でしかなかったのだが……。
聞けば、あと数時間もしない内にその『魅了』も治まるそうなので、そこだけは安心したのであった。……どうやら今から慌てて『余所の街』に行って対処しなければいけない訳ではないらしい。
何も起こっていないという事は恐らくないだろうが、何かが起こっていたとしても実際はそこまで深刻な状況には至ってないだろうと──あっても精々『魅了』に掛かった女性達が痴話げんかをしている位だろうと『毒』は語るのだった……。
「……なのでその、出来れば今後とも『泥の魔獣』様とは敵対関係にはなりたくないと考えておりまして。それを伝えに来たかったと言う思惑もあったんです。……あの方も『泥の魔獣』とは争いをしたくないと」
「『黒雨』とは対話が出来るの?」
「はい、勿論ですわ。……わたくしもあの方も言わば『淀み』から生じた存在ですので。最初に会った時からこう『ビビビっ!』と『神人』同士に感じるのと近しい感覚がありましたの──だから今ではもう普通に会話もできますわ。それに、わたくしにはあの方の『黒雨』も効かないので、尚更一緒に居ても平気なんです」
「へぇー、なるほどっ」
「はい。ですから、今後ともどうか良しなに」
「…………うむ」
──とまあ、そんな訳で『毒』との話し合いはそうして穏便に終わったのだった。
彼女との話し合いはいつもこうして急に始まる事が多いのだが、終わりも大体こんな感じであっさりである。
……まあ、基本的にこちらに対して毎回『穏便に済ませたい』という雰囲気を彼女からは感じる為、こちらとしても事を荒立てるつもりは全くないのだ。
私達と『毒』との関係は不思議な感じがするけれども、無論仲間ではないし敵でもない。
『争いになる理由がそこまでないから争わずにいる』と言うだけの話だ。
……だが、これからはそこに『黒雨』が含まれた事により今後は何となく油断できない雰囲気がある事も肌では感じている。
『──いずれまた『神々』と対する為にも、わたくしはあの方に『魔物達の統べる王』になって頂きたいのです』と。
──別れ際、今後もぶつからない様にしたいと軽く互いの展望について話していると、『毒』からはそんな言葉が漏れ出た事もあって、私達は密かにそんな事を思うのだった……。
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