第619話 木間。
注意・この作品はフィクションです。実在の人物や団体、事象などとは関係ありません。
また作中の登場人物達の価値観なども同様ですのでご了承ください。
一見、くたびれた服装でだらしない魔法使いにも見える『吾輩』は、『詠唱魔法』の新たなる可能性を日夜追い求める研究者であり底なしの『魔法馬鹿』でもあった。
彼は魔法に魅入られており、魔法以外の事を考えようともしない男だ。
……元々は立派なお屋敷だったであろう彼のお家が、今ではすっかりと廃墟じみてしまっているのもそれが原因だった。
「…………」
ただ、彼自身は己やお家が朽ちかけていても全く気にする様子もなく……。
ただただ魔法の研究さえ続けられていればとても幸せそうであった。
なにしろ、それが彼のやりたい事であり、言わば夢でもあったからだ。
当然、そんな夢の様な生活を彼は愛し、魔法の研究にのみ没頭し続けていたのである。
……ただ、その生き方にはきっと理解者は少なかったのだろう。
彼の傍には誰も居なかった。
そして、その生活を省みる事もないし、自らの研究を誰かに伝える事もしていなかったのだ。
好きな研究を好きなだけやって生き、満足したらまた次の研究を始めるだけ……。
そして、そこから先に繋がるものは何もない。
彼は当然の様に、その魔法の研究でお金を儲けようとも考えていなかった。
単純に『詠唱魔法』の奥深さを知りたい、極めたいと言うそんな願望と欲求だけに命を費やしている。
そして冒険者ギルドに依頼を出したのも、言わばそんな研究の一環でしかなかった……。
魔法の効果を試す為に一人ではできない実験だったから、偶々一時的な協力者が欲しかっただけ……。
まあ、本当は来ないなら来ないで、それでも彼は良いとさえ思っていたらしい。
そんな協力者などいなくても効果はだいたい予想も出来るし、研究が続けられない訳ではないからだ。
だから、彼としては別に構わなかったのだと。
きっと彼にとって本当に大事な事は、結果がどうかなどではなく……『魔法を研究する』というその行為を満足するまで自分ができるか否か、ただそれだけだったのだ……。
「…………」
……しかし、そんな彼に対して、幸か不幸か、その依頼を引き受けて来てしまった者達が居た。
それも、彼が思いもしなかっただろう存在が二人もである。
……そして、そのせいでほぼ強制的に、彼は新たなるきっかけを得る事になったのだ。
ある意味、私とエアはこの『世界』において最上に近しい魔法使いだと言っても過言ではなかったから、尚更にその変化は強烈なものだったと思う。
それはつまり、言わば彼が為そうとしている事に対する『一番と二番の理解者』が来たとも言える展開である。
……彼は、私達と出会う事によって、これまでずっと一人で続けて来た研究に新たなる『刺激』を得たのだ。
「…………」
……私は、彼の編み出した『震える木漏れ日』という『詠唱魔法』の技術の一種を、素直に面白いと感じた。
なにしろそれは、一つの言葉に二つの意味を与える事にも近しい技でありながら、魔法使いの世界でも有名な『二重詠唱』やより高位の『三重詠唱』、そのまた更に高位でもある『複合詠唱』とはまた別の異なる技術を用いていたからである。
──要は、一見するとこの技術(『震える木漏れ日』)は二番煎じにも思える技だが、実際はそうではないと言う話であった。
「…………」
──寧ろ、その技術の根幹となっているのは、普段は使っていない言葉と言葉の『間』、本来は無意味だと思われているそんな『音の震え』に、独自の意味を与えそれを魔法へと昇華する技である。
まあ、一般的な魔法使い達からすると、態々そんな『間』など使わずに『普通に他の魔法を続けて詠唱すればいいだけの話だろう?』という感じるだろう。
きっとそんなド正論を並べれば、この技術は簡単に霞まされてしまう様なもの……に思えたかもしれない──
だがしかし、急に木々の合間から日光が差し込めて来るかのようなその魔法の有り様に、私としては『凄く面白い』と感じずにはいられなかった。
……無論、『音』との親和性の高いエアならば、『それ』を感じ取れたかもしれないが、一般的に『音の震え』に意味がこもっている事など他の魔法使い達では感じ取るどころか予想すら出来はしないだろう。
それはつまり、『対策が立てにくい技』という事であり、得てしてこういう技術は後々になって大暴れする事があると、私は今この技術にそんな予感めいたものを感じていたのだった。
「…………」
通常の『詠唱魔法』であれば、どんなに高速なものであっても、それを複雑に誤魔化していたとしても、高度な暗号を交えた所で私の『耳』には事前に察知する事が容易に出来る。
……それはつまり、これから相手が何の魔法を使って来るのかが丸わかりになると言う話でもあった。
そうなってしまえばもう、どんな魔法を使って来ようが対処はいくらでも思い浮かぶし、恐い事など殆どないのである。
──だが、その点この『震える木漏れ日』にはそれが無い。
……分かるだろうか?森を歩む最中に、急に差し込んだ日の光に気づいた時には、既に身体にその光が当たっている時の感覚だ。あれと似た様な状況になるのである。
それと同じ位、この魔法は気づき難いと言う事であり、対応が難しいと言う話だ。
気付けば既に魔法にかかっているとなれば、逃げようもない……。
「…………」
……因みに、これに似た戦法として、魔法使い達はこれまでにも『特殊言語や独自言語』などを用いて『詠唱』を隠蔽し複雑にしてから魔法を放って来る者も居たのだ。
そんな相手と相対した経験も何度かある。
……ただ、そちらはどんなに『難解な言語』であっても、それが『言葉』である以上は『魔法を使って来る』事を察知するのは容易だ。
精々が発動するタイミングを態とずらしてきたり、思っていたのとは異なる魔法が飛んで来て驚く位で……見てから十分に対処が可能な範囲なのである。
──だがしかし、その点この『技術』の恐ろしい所は、『音が震えるならばきっと何でも良い』と言う所だと私は認識している。
「…………」
それはつまり、どんな『音』であろうと魔法に変るという事。
……風に揺れる木々でもいい。誰かが踏み込んだ水溜まりや、足にちょっとだけ引っかかる小石の転がり、焚火がちょっとだけ弾けた時のパチパチとしたそんな些細な『音』──そんな、普段何気なく耳にしている全ての『音』が、魔法へと変わるのだ。
未だ『吾輩』はその『技術の先』の恐ろしさに気づいていないかもしれないし、『声』でしか発動が出来ないと勘違いしているかもしれない。
──だが、『音の震え』に意味を与えられるのならば、その内どんな『音』であっても魔法に変えられる様になるのは道理なのだ。
そして、この『力』はいずれそこへと至るだろうと言う予感が私にはあった。
……このまま彼がこの研究を続けていけば、必ずやそこまで至るだろう。
確信にも近しい、長年魔法使いとして生きて来た私の勘がそう告げている。
無論、そこまで昇華できたのならば、それはもう凄い話であり……。
少しだけ想像してみても分かるが、身の回りで起こる『音』の全てが魔法の発動へと変わるとなったら、肝が冷える所の話ではないのである。
日々生活していく中で『生活音』はどうしたって鳴ってしまうものだし、それを意識して鳴らさない様にできる『人』など殆ど存在しないと私は思うのだ。……当然、当たり前すぎて警戒する事すら出来ないのである
それに、凄く耳を澄ませば『耳長族』は心臓の音さえも拾ってしまえるのだ。
……当然、それを止める事など出来る筈もない。
もっと言えば、そもそも『人』には知覚できない『音域』と言うものもあるし、『鳴り響いているのに聞こえない音』というのは意外に存在するのである。
……その為、『震える木漏れ日』を極めれば、『詠唱魔法』の使い手は完全に相手に気付かれぬままにそれらの『音』を魔法に変えて相手へと向ける事が出来る様になる……かもしれないのだ。
そうなったら『詠唱魔法』は大きな弱点を克服する事になるだろう。
……それの強みは測り知れないのである。
「…………」
元々、『詠唱魔法』は安易な習得が可能ではあるものの、その威力と使用のタイミングがどうしても相手に悟られてしまうと言う弱点があった。だからこそ、『詠唱魔法』は猛威を振るい過ぎると言う事はなかったのだが……。
相手に一切悟られない『詠唱魔法』が完成すれば、間違いなく魔法使いの世界を大きく揺るがす事になるだろう。
そんな『時代の変化』がまたもうすぐそこまできているのだと、『吾輩』の話を聞きながらその実験台にもなりつつ、私は密かにそんな事を思うのだった……。
──誰にも気づかれずにいる『天才』が此処にも居たと。
一緒に、そんな『人』の持つ恐ろしさについても思いながら……。
またのお越しをお待ちしております。




