第265話 走牛。
魔法を使わない日はない。
いや、もっと正確に言うのであれば、魔法を使わない時はない。
自分の力を鍛える為に、一分一秒たりとも無駄にはせず、ただひたすらに呼吸を意識し、魔力の放出と吸収を繰り返す。
その行為を他者に強いる事を私はしない。
その行為をする事で得られる効果の高さや、素晴らしさを知ってはいても、これだけは流石に常軌を逸しているのではないかと自分でも思う時があったからだ。
だが、今ではもうすっかりと日常で行うべき、ただの習慣の一つとなったそんな魔力スーハ―であるけれど、今それは新たなる段階へと踏み出しつつもあった。
──きっかけは『大樹の秘湯』にあった。
全く、きっかけとはどこに転がっているのか分からないものだ。
それほどに、私は自然とそのきっかけへと身を寄せていた。
これもまた魔法使いとして、『気づくものと気付かない者』、に別れる事象だと察する。
きっと『差異』に類するものであろう事は、私はなんとなく理解していた。
やっている事は何の変哲もない行為だ。
普段している魔力スーハ―をお湯に入りながらやる。
ただただ湯に身を浸し、身体の力を抜いて弛緩させ、水の中で魔力の放出と吸収を行なう。
ただそれだけだ。
だがその際に、私は『身体の周りにある湯に魔力を高濃縮かつ高純度で浸透させながら、そこに自分と言う存在そのものを同調させて放出した後、そこからまた魔力を吸収する時は自分の存在も忘れずに回収する』、という事が出来るようになっていた。
海中で魔法を使った時や、ただ水に魔力を通す時にはこんな事になった事は今まで一度も無かったのだけれど、まさか湯に浸かりながら魔力スーハ―をするとこんな事になるとは思いもしなかった私である。
それに、これはとても不思議な感覚を誘引する行為であり、ある一定以上の力量を持つ魔法使いからすると、一種の罠にもなり得るほどに危険な行為でもあった。
普段から魔力の放出と吸収をしてきていなかったら、私でも今頃どうなっていたかわからない程に、その危険性は身近なものでもある。
言葉にすると少し難しくはあるのだが、自分と言う境目が曖昧になり、どこまでも広がっていく感覚の強化バージョンと言うか、どこか魔力の探知にも似ていて、それよりももっと深い感覚を得るのだ。
それも、それは戻り方を知らなければ完全に一方通行である事が私には直ぐ分かり、恐怖を抱かせた。
まるで『なんだろうな?』と思って一歩近づいたら、そのまま嵌って身動きが取れなくなる流砂の様なものであろうか。
私も最初の時は、『なんか嫌な予感がする』と思い、直ぐにそこで一歩を引いたわけなのだが、それと同時にその先にある一つの『境地』がある事にもその時に気づいてしまったのである。
それは魔法使いからすると、見たくないと言えば嘘だと感じるに魅力的なモノに映った。
……そして、それからの私は、日に日に『そこ』へと至れるように、少しずつ歩みを深くしていったのである。
だが、どんなに歩み寄っても、私は必ずいつも『そこ』には至る前に帰るようにしていた。
毎回後ろ髪を引かれる思いをしながら、でも行ったらきっと中々に戻って来られない、そんな大変な場所だろうと冷静に察してしまったのである。
その一方通行は完全なもので、行ったらもう二度と戻れないかもしれないと考えると、毎回私の頭の中にはエアの事が浮かんできた。
そして、私が暫くそこで立ち止まっていると……いつも──
「──ろぉーーむぅーー、まだぁぁぁーー?わたし先に、いっちゃうよぉーー!はやくぅーーー……」
──という声が聞こえて来て、私の意識は段々とハッキリし、元の場所へと戻って来る。
『大樹の秘湯』の男女の区切りの先から聞こえてくるそんなエアの声に、今日もまた確りと戻って来れた事を、私は悟った。……うむ。だが、もうだいぶ感覚は掴んだぞ。これならばもう帰り道の確保は大丈夫だろう。
……正直な話をすれば、最初の時、私はそのまま溶けちゃうかと思った。
だが、エアのその声で、私は『まだダメだ』と思えて、引き返す事が出来たのである。
本当にあの時は危なかった。もう少しで謝っても謝り切れない事態になってしまう所であった。
あの瞬間の事を想うと、私の心の中にはエアに対する『ごめんとありがとう』が何度も浮かんで来る。
そうして、直ぐに湯から身を上げると、私は魔法で水を払い、服を着て、エアが待つ入口へと歩いていった。
そうして入口へと戻れば、そこには何故だか髪だけは乾かさずに笑顔で待っているエアがいる。
そして、エアは私が戻って来た事に気づくと、背を向けて振り返り、ニコッとしてからこちらを見ると『はいっ!乾かしてっ!』と言って頼んでくるのだ。
最初の時に、戻してくれたエアへと感謝の気持ちを込めて、『真心込めた頭皮マッサージ付き』で髪を乾かしてあげたら、それが大層気に入ってくれたらしく、エアはこうして一緒に来た時にはそれをねだって来るようにようになった。
最近だと甘えて来る事も減って来たから、私はこんな時に精一杯甘やかしてあげる事にしているのだ。
「──ありがとう、ロムっ!」
乾かし終わった後、満面の笑みでそう言って来るエアに私は『こちらこそ、いつもありがとう。エア』と、深い感謝を返すのであった。
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