第254話 前途。
『それって本当に満足なの?』と、エアから問いかけられた彼女は、エアへと笑顔を向けて答えた。
「うん。満足ですよ」
「本当にっ?わたしには全然、満足そうには見えないよっ?ただ諦めただけに見える!」
「…………」
人の見方や感じ方は、みんなバラバラだ。
同じ人の笑顔を見ていても、そこから伝わって来る想いに違いがある事は、何の不思議もない。
いや、あって当然のものだろう。
『あの人の笑顔が好き』という、そんな言葉の中にも、『見ていて安心するから』『可愛いと思うから』『目が離せないから』『不思議な感じがするから』などなど……、これ以外にも沢山の異なる理由が存在するのである。
これが感じ方の違いであり、見方の違いの元だ。
だから、他の誰かの言葉に共感できたと思った時にも、それは必ずしも同じというわけではない事を忘れてはいけない。鵜呑みにして言葉に流されるだけだと、本当の理由を見失ってしまう。
同調とは必ずしもいい事ばかりではないのだ。
沢山ある筈の見方を『絶対にこうだ!』『こうに違いない!』と決めつけ、それを自分や他者に押し付ける行為には、少なからず何かしらの無理が発生する。
複雑である人間であれば、それは特に顕著に表れるだろう。
それこそが歪である。
エアは、完全に同調し自己を失いかけていた彼女の心に言葉で波紋を広げて、再び歪を生じさせた。
歪とは、確かに不愉快な状況になる事が多い。
だが、その逆に、歪があるからこそ面白さを感じる場合もあるのだ。
「魔法の訓練の時、私が上手く出来ない部分を教えてくれてる時の顔、もっと輝いてたよっ!凄く楽しそうだったっ!」
彼女は今、満足した気になっているかもしれないけれど、それが本当の満足ではない事位、一目でエアには分かってしまったらしい。
そして、彼女の心に投げ込まれたその言葉によって、歪はまた姿を表し、不愉快そうに歪む。
歪む彼女は、何と言ったら良いのか確りと定まっていない様な状態で、少し不器用な笑みを残したまま、どこか悲し気に聞こえる声でエアへとこう返した。
「……楽しかったね。でも、ここまで来て、わたしももう考えが変わったんだ。だからもう満足したの。これは本当だよ。別に諦めたとかじゃない」
「じゃあなんで、取り戻そうとは思わないの?……こわい?」
「……こわいって何が?何を言ってるの?わたしは満足したって言ってるだけじゃないかっ!何を言ってるのかわからないよ!」
「目標が見えないんでしょ?ここまで来てしまって、この先何をして良いのか分からなくなってしまったから、満足した気になってるんでしょ?」
元講師である彼女は、そして彼女達は、本能の告げるままにここまで来た。
片方は喪失からの救いを求め、片方は見失ってしまった仮初めの役割を全うする為に。
だが、そうして辿り着いたこの地において、彼女の心の中にいる両者は、共にこの先が見えなくなってしまったのだろう。
本能が示してくれる都合の良い『救いや役割』が見えなくなって、これ以上に何かを喪失する事を怖がり、立ち止まって、もう諦めて逃げようとしているのだと、エアは彼女へと厳しい指摘したのである。
何も見えなくなって、それが不安で、怖くなって、またあの路地裏での生活みたいな、ただただ長く茫洋とした日々を送るのが嫌だったのだろうと。
だから、満足したと嘘ついて、諦めて逃げるつもりなんだろうと。
エアは言葉は、ザクザクと彼女へと突き刺さっている様に見えた。
すると、その言葉によって彼女の心は更に歪を広げて、その隙間からは彼女とは別の『何かしら』が少しずつ姿を表し始める。
「……お、お前に何が分かる。わたし達は……いや、俺は、何か使命があって、ここまで来たのだ。あの場所に居たのもきっと、何か理由があった。だが思い出せない。俺は何の為にここにいる。なんでまだ生きているんだ。……苦しい。気持ちが悪い。もう無理だ。こんな場所に居たくないっ!消えさせてくれっ!」
『歪』は、声を出した。
そして、その声は不安と弱さをどんどんと吐露していく。
するとエアは、そんな『歪』の声にもちゃんと耳を傾け、そして話しかけ始めた。
……身内贔屓だと思われるかもしれないが、私はこういう時のエアを心の底から美しいと感じてしまう。
その行動は誰にでも出来る事ではないのだ。
エアの心にある純粋な優しさと、向けてくる素直で無邪気なその言葉は、とても胸に『来る』事を私も知っている。
まるで、自分の気づけなかった部分に、気付かしてくれるような、そんな心持になるのだ。
だからか、そんなエアと言葉を交わす度に、『歪』も段々と弱っていった。
ただそれは、単純に消失しようとしているわけではなく、エアの言葉を聞き、話をしていくにつれて穏やかになり、落ち着きを取り戻していっているのが見ていてよくわかった。
それに、なんとも不思議な事だが『歪』が落ち着きを取り戻すにつれて、『元々の彼女』だと思われる部分も少しずつだが顔を出し始めてきたのである。
『元の彼女』の方が顔を出したのだと私が判断できたのは、穏やかになろうとする部分と落ち込んでいる部分がコロコロと表情を交互に変えていたからだ。
そして、落ち込んでいる時の表情は、あの時、船で絶望を感じた時の彼女のままだった事から、私にも直ぐに分かった。……どうやら、『元の彼女』はあの時のまま、依然として落ち込んだ状態のままでいたらしい。
「……君の出番だな」
「そんな事は、あなたに言われなくとも、分かっています」
「そうか。それならば良い。……ただ、彼女と一緒に思いっきり泣いても大丈夫な様に、各種魔方陣は魔法で止めさせて貰った。素直になっても安心だという事は一応伝えておく」
「あなたは、本当に紳士失格ですね。……それに、凄く変なエルフです」
「よく言われる事だ」
「…………」
私はエア達の様子を見ながら、そんな二人へと近付きたいけど近付けないでいた学長へと声を掛ける事にした。
彼女はそんな私の言葉につんけんとした返事を返すのだが、その表情はまだ少し思う所があったのか、緊張や自らの過ちと言った部分が色濃く表れている様に見える。
だが、私が『泣いても良いのだ』と伝えると、幾分かは気持ちも吹っ切れたらしく、こちらを一度ジトリと強く睨みつけて来たかと思えば、次の瞬間にはプイっとそっぽを向いて、エア達の方へと急いで行ってしまったのだった。
……ただ、その去り際、本当に小さな声で、聞こえるか聞こえないか位の大きさで『ありがとう』と呟かれた事を、私の長い耳はちゃんと捉えてしまうのであった。
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