第1話 塩味。
基本的にのんびりとした一人称視点で書いていく予定です。
2022・08・13、本文微修正。
それは、森の香りが一層濃くなる暑い日の事。
森の奥深く、他に誰も立ち入らないであろうその場所で、私は一人の女性に出会った。
真っ白い肌に猫の様なきりっと可愛げのある大きな瞳、艶やかで綺麗な黒髪を靡かせる彼女は、私が今まで見て来た美形揃いである同族の者達と比べてみても、決して引けを取らぬほどの美しさをもつ女性だった。
その上、なによりも彼女の容姿で目を引きつけて止まないのは、その頭から伸びる二本の赤い赤い立派な角。
まるで血がそのまま結晶となっているかのようにさえ思えるその色鮮やかな紅色は、深い新緑と土の匂いがむせ返るこの場において、まさに異質そのものであると言えた。
「……美しい」
ふとその紅色に目を引きつけられ、思わず私はそんな言葉を呟いていた。それを見ていると、まるで今だけ時が止まっているかのような、そんな曖昧な時間感覚と共に、私の胸は急激に締め付けられるような痛みさえも覚える。
すると、それまで警戒の強かった彼女は少しだけニヤリとした笑みを浮かべ、両手を上にピンと伸ばし、突然、私に向かって大声で言い放ってきたのだ。
「がおぉぉぉぉ――」
……と。それは恐らくドラゴン?いや、はたまたクマ?それとも何かしら可愛らしい生物の鳴き真似ではあっただろう。ただ、正直いきなりの事で私は困惑していたのだ。
見た目成人女性が、開口一番にそんな奇怪な言動をしてくるとは夢にも思わず、私の時間は完全に硬まってしまっていた。
だがそんな風に硬まっている私の姿を見て、彼女の方はニタリと、してやったりの満足顔である。
きっとあちら視点では、私が今ので恐怖し動けなくなっている様にでも見えているのかもしれない。
森の中、弱肉強食が絶対的なルールである野生の世界において、相手に恐怖を植え付けるのはまさに常道であり、その作戦はやったもの勝ちでもある。
しかし、それなりの肉食獣が行えばそこそこの効果が望めるであろうその作戦ではあるが、今それを行っている彼女がその状況に相応しいかと問われれば……内心首を傾げざるを得ない。
こんなに可憐な捕食者が野生に居てもいいのだろうかと、謎が深まりそうな案件である。
まぁ、私がそうした考えを巡らす合間も、彼女の相貌はそれはそれは爛々と輝きを強めており、私の事を本気で狩ろうとしているのは理解できた。
時に手の角度や唸り声の強弱を微妙に変化させ、牽制を交えながら更に恐怖心を煽る一工夫を施しており、ひたすらそのクマ(?)の真似を繰り返して私を絶対に逃がさぬよう警戒しているらしい。
その本気具合から、全力でやっている事は間違いない。
ただ、それは分かるものの……どこかその姿が楽し気にも見えて、私の心中は少しだけ複雑な想いに捕らわれていた。
威嚇とは程遠く、ただただ可愛げで、愉快であるようにも見える彼女のそんな言動は一見して微笑ましい。
それも、暫くそれを見ていて私が強く感じたのは、あれは決してふざけてやっている『がおぉぉぉぉ』ではなく、全力で『がおぉぉぉぉ』をしているわけで、あれは馬鹿にしたり笑ったりして良いものではないと言う事でもあった。
それならばと、そんな彼女の行動に真摯に向き合い、こちらからも何かしら反応を返すのが礼儀ではないかと、私はそう思い始めていたのだ。
「…………」
ただ、大変な事にここで一つ問題が生じており、私と言う者は、自分で言うのも難ではあるが、こういう時において大変つまらない生き物であるからして……いきなりこんな面白い事をされた時にどんな反応を返せば最適であるのか、その正解が全くもってほとほと絶望的に思い浮かばなかったのである。
いやいや、そもそもこのような状況での出会いに、ちゃんとした対応の解など存在などしないのかもしれない。だが、なんとなく彼女のあの無邪気な行動を見ていると、心の奥でむず痒く感じるものがある事も確かであったのだ。
私がここでこのまま沈黙し続けている事だけはなんとなく不正解であるだろうと、それだけはしちゃいけないことだろうと、それだけは確信できた。
野生において、自分に危害を加えんとしている相手に、こんな気を遣う必要は全くないかもしれない。それこそ今までの自分を思い返せば、敵と相対した場合冷徹に撃退する事の方が多かったようにも思うのだ。
「…………」
しかし、この時ばかりは私の心中はそんな思いとは裏腹に『何かしなきゃいけない感』で満ち溢れていた。私は柄にもなくとりあえずは己の本能が命ずるままに、衝動のまま行動してみようと決めたのだ。そっちが本気ならば、こちらも本気で返すのみであると。半ば投げ槍気味ではあったのかもしれない……。
だが私は、これまでの数百年に及ぶ長い人生の精一杯をぶつけるが如く、彼女へと思い切って全力の反応を返してみる事にした。
「……恐ろしい。クマだ。私は今、クマに襲われている」
「…………」
「…………」
「…………」
そうした想いの果て、私の口から告げられたセリフは、『えっ?今何か言った?』と聞き返すレベルで絶望を禁じ得ないものであったことだけは確かで……。
間違いなく黒い歴史の一ページに綴られて然るべきものではあったと思う。
正直、何を言っているのか自分でも曖昧だし、十人が聞いていれば十人が『なんだそりゃ!』と思わず声を張りあげたくなる酷さではあっただろう。
無表情かつ、抑揚の一切ないその平坦な棒読みであげられた悲鳴?はあまりに酷く、且つ作為的でとても詰まらないものであった。
兎にも角にも、そんな全力の叫びと言うにはあまりにもお粗末過ぎたそれは、自分で言っていても酷いものであると痛感するばかりだった訳だが──全力の衝動のままに動いた結果がそれであったのだから、私にはもはやどうしようもなかったのである。ほとほと、自分の詰まらなさを恨めしく思うばかりであった。
「……ふふっ」
がしかし、そんな私の低レベルな悲鳴でも多少は功を奏したのか、同時に小さく吹きだす音も聴こえたのである。……いや、よくよくそんな音の方に顔を向けてみると、彼女の方は満更でもない様子だったのだ。
寧ろ、捕食者的にはあんなものでも及第点だったのか、そのまま彼女は笑みを強めると──次の瞬間には一気に走り寄って来るほどに私は『魅力的な餌』として映ったらしい。
ただ、その時の私の心境としては、そうして彼女がいきなり近寄って来る危険性よりも、彼女の反応が良好だった事の方が余程重要に感じてしまった。……上手くは言えないが不思議と『やって良かったな』と、言葉に出来ない充足感を得てしまったのである。
「――がうがう」
だからか、一気に互いの距離が縮まり、手で触れられる位まで接近しても、彼女が逃げない私を至近距離で嬉しそうに見上げ舌なめずりしていたとしても、一切の不快感も感じなかったのだ。
寧ろこんなに深い森の中で、言わば弱肉強食の世界で、今まさに捕食者ムーブをされようとしているにも関わらず──愚かにも私は、そのまま彼女の動向を静かに見守りたい心境になっていた。
「はむっ。……あぐぐ、んーー、あむあむ。うぬー、硬い。ペロペロ……ちょっとショッパイ」
するとだ。彼女は迷いなく私の左腕を両手で掴み上げたかと思えば、サッと服の袖をも捲りあげて、次の瞬間にはそのまま何の躊躇もなく私の腕へと噛り付きだしたのである。
「──うッ!?」
無論、それには私も思わず情けない声が出た。びっくりした。
『まさか、本当に捕食されるとは思ってもみなかった』というのが正直な所。
ただ、彼女の咬合力自体は想像を超えるものではなくて、痛みも殆どなかったのだ。
だからか、純粋にその出来事に対する衝撃の方が余程に強くて、振りほどく事も忘れてしまっていた。
寧ろ、『彼女はそんなにも腹が減っているのだろうか?』と言う懸念の方が先に思い浮かび──更には『それならばどうにかしなければ』と言う心配も強くなって、最終的には『きっと腹が減り過ぎたせいでストレス過多になり、イライラし過ぎて忘我のままに噛みついてしまったに違いない!』と、そんな勝手な推察を私の頭は自然と膨らませていたのだ。
「…………うむ」
──だからまあ、要は『助けなければ』と、不思議な保護欲を妙に刺激されてしまった訳なのである。
気づいた時には自然と、彼女の事を私は守りたくなってしまったのだ。
そうして、そんな彼女との奇抜な出会いにより、私は自分自身の数百年に及ぶ人生経験のまた新たな一ページを久方ぶりの更新し、新情報を書き加える事にもなった。
──ごほん。と言うのも、彼女曰く……どうやら私の体は常時『ちょっとショッパイ』らしいのだ。
「…………」
まあほんと、それだけ聞くと至極くだらない。どうにも詰まらない話にも思えるかもしれないが……。
汗を掻いていない状態での、普段の自分の塩味加減を知れたと言うのは、中々に得難い経験をしたとも言えるだろう。
要は、普通ならば下らないと想うだけの出会いの中にも、きっと充分な意味はあるのだと私は切に感じたのだ。
だから、そんな些細で大切な新発見を与えてくれた刺激的な彼女との出会いに、私は不思議と感謝を述べたくなった。
『出会ってくれて、ありがとう』と。
またのお越しをお待ちしております。