夢のあとで
大通公園の気だるい昼下がりの中、俺はビールを飲みながらベンチに転がっていた。遠くから聞こえるとうきび売りの掛け声が公園の中に響き渡っている。だが、何も俺はとうきびを食べにここへ来たんじゃない。今日は地元の友人とファイターズの試合を見に行く予定なのだ。まあ、時間にルーズなあいつのことだから、結局ずいぶん待たされているんだが。
たまの休日くらい、どっかで遊んで来いと親父に言われたのは昨日のことだった。それじゃあ今日の居酒屋は誰が回すんだ、と俺は聞いた。それはそうだ。親父がやってる居酒屋はそんなに大きくないとはいっても、俺とバイト四人合わせてもいっぱいいっぱいだ。それなのに、そんな余裕綽々で大丈夫なのか。
「気にすんな。今日は客入りが特に多くないことくらい、お前ももうわかってんだろ」
そういうわけだから、俺は遠慮なく休むことにしたよね。ま、仕事が飛びぬけていやなわけじゃあないんだが、休日が目の前にあったら、誰だってつかみ取ろうとするのが人の性ってもんだろ。こっちだって、ひどいときは週7で働いてる時もあるんだから、今日くらい休んだって文句なんてないだろ。そんなことで、今大学に行ってる友人に連絡を入れたら、野球を見に行くぞってなって、今に至るわけだ。
なんてごろごろ考えてるうちに、やっとあいつが来やがった。
「おう、わりいな若旦那。ユニフォーム探してたんだ」
「うるせえよこの野郎。だから大学に6年もいるんだよ。遅すぎて酒入れちまったじゃねえかよ」
「すまんね。まあ大学生なんてこんなもんなんだから大目に見てやってくれ、若大将さん。」
「その言い方やめんか。出禁にするぞ」
「怒んなよ、もう」
そういって友人はおもむろにバッグからでかい紙の束を取り出した。何だ、と思ったらスポーツ新聞だった。
「旦那、今ファイターズがどうなってるか知ってる?」
知らんがな。
「2位だよ2位!もう気になってしょうがなくて、今月だけでもう4回も見に行っちゃってんだよ」
暇人かよ。
「ま、そういうことで今日は俺についてこい。何、めんどくさそうにすんな。無駄にはさせねえよ。そうそう、このスポーツ新聞は今日の予告先発を見るために買ったんだった。どれどれ…」
俺たちは地下鉄に移動しながらそんなことを話していた。
「今日の先発。渡辺裕也。聞かねえ奴だな」
俺ははっとしたね。ユウヤ。懐かしい響きだ。あの時以来か。ちょうど、夏の只中、終わりを告げた白球のあの白い輝き…。友人は俺の様子に気づくこともなければ気にすることもなかった。能天気なやつめ。だが俺は、もう過去のさわやかな光に包まれた、もう遠い昔の記憶を久々に思い返していた。なんだ、まだ錆びてなんかなかったんだな…。
中学時代、俺はその他大勢の子供たちの例に漏れず、青春の大部分を野球に捧げることに決めた。もっとも、野球は小さいころから習っていたけど。とにかく、俺の少年時代はバットとボールとともにいた訳だ。その当時と言ったら、熱中症なんて気の弱い貧弱野郎がなるやつだというのが世間様の考えだった。さすがに水は飲ませてくれたわけだけれども、あの頃は毎日、日が暮れるまで野球をするのが当たり前。休みを入れるなんてただの甘え。おかげで、ろくすっぽ勉強なんかできやしなかったし、周りのことなんか何にも分からなかった。
けれど、監督がすごい人だったんだろうな、俺たちのチームはお世辞を抜きにしても群を抜いて強かった。なんでも、監督が俺たちの代を、黄金世代なんて言ってのけるくらいだったしな。とにかく、俺たちは本当に強かった。あと一勝のところで全国には行けなかったけど、関係者には未来を担うバッテリーが現る、なんて大層なことを言ってたらしい。まあ、褒められて腹立つなんてことはない。あの時が一番最盛期だったのかもな。俺はキャッチャーとしてチームを支える、大黒柱。いい呼び名じゃないか。鼻が高くなるぜ。それで、俺が受け止める未来の日本球界のエース、それこそがユウヤだった。
それで、最後の夏の大会が終わって数日後のことだった気がする。監督に選手全員が呼び集められて、何だ何だとなってた時だった。
「お前ら今までよう頑張ったな。これで一旦区切りがつく訳だが、これから先もお前らの道のりはまだまだ続いていくんだ。そこで、だ。今日はお前らに激励のプレゼントを配ってやるぞ」
そういうと、監督は近くに置いてあったドンキ・ホーテの袋の中から何かを手に持った。そうして、この夏で引退する選手全員にプレゼントを配った。
「みんなも気づいてると思うが、俺はな、夢をかなえる達人なんだ。おい、変な目で見るんじゃない。なに胡散臭そうな顔してるんだ。本当なんだぞ。俺は近くにいるやつらみんなの夢を叶えてあげられる、すごい力を持ってんだ。でもな、もうしばらくしたらお前ら離れ離れになるだろ。だからな、遠く離れても俺の形見になるように、ってそいつをプレゼントしたんだ。」
ちょっと笑っちゃったね。みんなもユウヤも大笑いしてたよ。監督が冗談言ってるって。まあ、エピローグの朗らかな思い出だろう。
で、そのプレゼントなんだが、それは緑色の小さな巾着袋だった。片面に俺の名前が書いてあって、もう片方には「祈願成就」と書いてあった。中には何が入ってんだ、と思って覗いてみたら、ビー玉が二つ入っていた。
「いいか。これから先どこに行ったとしてもな。この巾着はどこかに飾っとくんだぞ。そうしたら、お前たちは必ず夢を叶えることができる。そうして、必ず幸せな人生を送れるんだぞ」
その時、一番のお調子者がこんな提案をしたんだ。
「監督。それならもっとみんながパワーアップできるために、あのおまじないを最後にみんなでやりませんか?そしたら間違いなくみんなの夢がかないますよ!」
それでみんなはまた大笑いした。監督もすごい笑ってたな。おまじないというのは、練習終わりと、試合の直前にみんなでやってた掛け声のことだ。確か、練習試合でそれやったら、ぼろ勝ちしたとかなんかで習慣になったんだと思う。ともかく、みんなはそれに賛成だった。だから、最後にグラウンドに集まって、みんなで輪になったんだよ。
みんなが中央に手を差し出した。俺も手を差し出すと、ちょうど俺の手の上にユウヤの手が重なった。俺が振り向くとあいつもこっちを見ていた。それで、俺は少しだけニヤッてしたんだ。そうしたら、あいつも微笑み返してくれた。これからはお互いライバルだな。でも、3年後には夢の舞台に立てるように頑張ろうな。俺たちは目でそんなことをしゃべりあってたんだと思う。
「ぜったい勝つぞーー! 一・二・三・ヨイショー!」
俺たちは笑いあった。これがあの夏の最後の思い出だ。いや、本当にいい思い出だと思う。酸いも甘いも知らない、未来のことなんて何も知らないガキたち。そんな奴らのなんの濁りもない、あのさわやかな朝のような青い掛け声。今でも俺の心にリフレインする、あの声…。
まあ、昔の話なんだけどね。ただ、友人の口からあいつの名前が出たから、ちょっとだけ昔のことを思い出しちゃっただけだ。それにしても、あの頃からずいぶん時間が経ったというのに、案外覚えてるもんなんだな。
で、俺がぼやぼやしているうちに、もう福住だ。この辺にはあんまり来たことがないから、友人と一緒じゃないと人ごみに飲まれそうだ。野球を見に行くのもずいぶん久々になるからな。友人は相変わらずスポーツ新聞を見ている。それを見ながら俺に話しかけてくる。
「それにしても、お前も昔は野球やってたんだろ。何でそんなにファイターズのこと知らないんだよ」
「良いだろ別に。こちとら酒の仕込みとかなんかでそんなに暇じゃないんだよ、お前と違って」
「そんな俺に当てこすりすんなよ。お父様に言いつけてやるぞ」
「はいはい。いやなお客様だこと」
とまあ、こんな感じでドームにつくまでの道のり、互いに軽口を叩きあっていた。真夏の太陽がまぶしい。ドームについて、開場まで少し待っていた時だった。友人が唐突にこんなことを聞いてきた。
「そういや、今日先発の渡辺って知ってる? さっき気になってググってみたんだけど、なんか北海道出身らしいぜ。」
この時、俺は一瞬答えに戸惑ったんだ。なんでかって?色々思うことが俺にもあったんだよ、きっと。それで多分俺がちょっと困った顔をしたんだろうな。
「どうした?」
「ああ、何でもない。ううん…、知らねえな、そいつ」
「そっか。まあ知る由もないわな、こんなヘボピッチャー。さっきついでに成績も見てみたらさ、こいつ六年もいて一つの勝ち星もないらしいぜ。ったく、こんな大切な時期に栗山も何考えてんだか。まあでも、オリックスなんて力抜いても勝てるザコだし、もう二つ勝ってるし、主力温存、捨て試合でも悪くないかね。どうした、若旦那? なんか顔色悪いぞ。酒でも回ってきたか?」
「え、いや、お前は相変わらず口が悪いな、て思ってな」
多分俺は友人の言葉で起こった動揺を隠すのに精いっぱいだったんだと思う。おっと、誤解はよしてくれよ。別に俺はこいつのことが実は嫌い、とかそんなことは微塵も思ってないからな。こいつは俺にとって最高の友人だし、むしろこいつにはすごい感謝してるんだ。それに、ろくに成績の出せないやつを馬鹿にすることくらい、ファンだったらたまにはやることだしな。ただ、ユウヤのことを悪く言われたときに、俺はどう反応して良いかわからなかったんだ。
そう、俺は反応に困っただけなんだ。実はユウヤがプロ選手になってから、鳴かず飛ばずだったことはうすうす耳にしてた。でも、だからこそというべきかな。俺はユウヤがプロの世界に入ってから、あんまり野球を見なくなったわけだ。
それだけ? いや、色々理由はある。あるんだけど、あんまり思い出すと、ブルーが入っちまうから、思い出さないように気を付けてただけだ。でも、あいつのせいでスイッチが入っちまったから仕方がない。あの日のことを久々に思い返してみるとするか。俺とユウヤが最後に会った、あの時のこと。
中学を卒業して、俺たちは別々の高校に進学することになった。俺とユウヤは期待の星というわけで、野球の強豪校からいくつかオファーが届いていた。ユウヤは道外を飛びぬけ、関東の高校に進学した。雰囲気がぴったり合ってたそうだし、この時はまだ運もあったんだろうな。同期の中でユウヤほど実力を持ったやつもそんなにいなかったらしい。もちろん、ユウヤは昔のように熱心に練習に励んでいたから、向こうでもどんどん実力がついていったらしい。二年が過ぎ、三年を過ぎたころにはもうその学校のエースになってて、最後の夏には甲子園にも出場した。あいつはまさにサクセスストーリーを歩んでいたんだ。甲子園が終わって、秋が近づくと、あいつのプロへの夢はいよいよ現実味を帯び始めてきた。
俺は? ユウヤとバッテリーを組んで、チームを支え続けた俺は? 俺もまたお誘いを受けて道内の強豪校に進学した。だが、こっちはあまりにも実力者が多かった。ボール拾いの日々を縫うように行われた一年生同士での練習試合。多分俺はメンタルが弱かったんだろうな。パスボールを三回もやらかして、キャッチャー失格の烙印を押されちまった。
でも、それなりにチャンスはあったんだ。外野に転向してから、キャッチャーで鍛えた強肩を武器に、あと少しでレギュラーを掴めるところだった。なのに、俺ときたら運を引き寄せる力がなかった。練習試合、外野にとんだ浅いフライ。これをダイビングキャッチして監督にアピールするんだって。俺は急ぎすぎた。ボールの落下地点の目前で体が墜落して、手首に激痛が走った。左手首の複雑骨折。畜生、何でこんな時に。半年たってやっと治ったと思ったら、今度は膝が痛み出しやがった。
リハビリに追われる時間が過ぎるたびに、一人また一人と俺を追い抜いて行った。もしかしたら、体が治ってからまた練習すれば、最後にはレギュラーを掴めたかもしれない。だけど、あとどれだけだ? 夏の大会まで1年もない状況で、どうやってレギュラーを勝ち取れっていうんだ? 同期にも、後輩にさえ追い抜かれて、これからどうすれば良いっていうんだ? もうこの時には野球に対する情熱も愛着も完全に失くしていた。十一月の、初雪が降って、枯葉がまだ数枚枝にぶら下がっていたころ、俺は野球部を去った。
野球をやめたところで俺には何が残ってる? 大学に行こうにも俺はサインコサインも知らないありさまだったんだぞ。そんな奴が大学なんて行けるもんか。だいたい、俺は大学に行くことにさして意味を感じなかった。結局、俺は残りの学校生活を無意義に過ごした挙句、親父が切り盛りしてた居酒屋で一緒に働くことになった。
参ってたね。当時の俺はずいぶん参ってたと思う。ちょっと考えてもみてくれよ。プロ野球に入って、子供たちが憧れるスーパースターになろうとしてたやつがさ、その辺の飲み屋の親父だぜ? そんなこと、誰が受け入れられるんだ? だから俺は毎日がナーバスだったね。もう死んでも良いかなって思ってたくらいには。
そう、それでちょうどその頃だった。ファイターズにドラフト五位で入団したユウヤと再会したのは。もうそろそろ根雪が降り始めるくらいの頃だったかな。俺と話がしたいって連絡が来て、近くのドトールで会うことになった。なんでも、入団の手続きとかで北海道に帰ってきてたそうで、その合間を縫ってのことだったらしい。正直、ユウヤと会うのにはためらったさ。あの時の俺とあいつとの差なんて天と地くらいだろ。どんな顔して会えば良いって話だ。でも、まあ、結局俺はあいつと久々に顔を合わせることにしたんだ。なんせ元々は互いを支えあってきた仲だし、ユウヤにおめでとうくらいは言ってやりたかったからな。
それで、冬の風が路地裏を通り抜けてくくらい寒い日のこと、俺はユウヤと対面した。でも、正直後悔したよな。やっぱり会わなきゃ良かったって。だってさ、久々に見たユウヤの顔と言ったら、憂いなんて何一つない、みずみずしいほどさわやかな顔だったんだもの。ああ、これが夢見てる少年の顔かってちょっと思ったくらいだよ。こんな深い闇に沈もうとしてる俺に比べたら、なんて屈託のない良い顔なんだ。
だから、この時の俺の気持ちは複雑だった。そりゃ、久々に会えたことは嬉しかったさ。でも、あいつの顔を見た瞬間、何て言うんだろうな、心の奥が刺されるような痛みがあったんだ。こう、ほんの一瞬息が止まって、身動きできないような。それから、心の空気が一気に抜けていくようなあの感じ。たぶん俺はかなりひきつった顔をしてた気がする。
それでも、実際にしゃべってみるととても面白かった。ユウヤは本当にプロの世界に入る喜びを聞いてほしいようだったが、そこは俺がうまく過去の思い出話に誘導させることができた。だから、しばらくはかつてのきれいな思い出話に花咲かせることができた。そうやって、思い出話がひと段落したころ、何の気もなしにユウヤが俺に話した。
「そういえば、タツキ。お前、左の手首はもう大丈夫なの」
「ああ、ケガって言っても、骨が折れただけだからな。手がちぎれるのとはわけが違う」
たぶん、俺がケガしてたことを知り合いから聞いていたのだろう。
「そっか。じゃあ膝は?」
「うーん。まあ今でも時々痛いんだけどな。でもまあ、ずいぶんと良くなったよ」
「なら良かったよ。それにしても、本当にもったいないというか、運がなかったよな。ケガさえなかったら、お前もプロになってたはずだったのにな」
突然、俺はユウヤに対して激しい苛立ちを感じだしたことに気付いた。あいつを責める気はない。あいつはあいつなりに俺を気遣ってくれてることはわかってたんだ。だけど、もうちょっとだけ言葉を考えてくれよ。そんなこと言われたら、ますます俺がみじめじゃないか。そんなことは知らず、ユウヤはさらに話し続けた。
「で、これからお前はどうしてくの?」
「いや、まだわかんないんだけど、多分親父の店を継ぐことになるよ。野球以外には脳のない俺だからね」
「へえ、お店を継ぐのねぇ。ずいぶん大変そうだけど、結構やりがいもありそうだね。まあ、頑張れよ。俺も応援してるからさ」
もう、この時の俺のイライラは限界に達していた。なんなんだ、こいつは。それで、ついつい毒づきたくなったんだろうな。俺は、つい、冷たい口調でこんなことを口にしてしまった。
「まあ、これまで続いた運がこれからも続くと良いな。向こうの世界なんて、役立たずはすぐ首だし」
「運も実力のうちだからね」
「だったら、なおのこと頑張らないと。プロの選手なんて、お前なんかよりもっとずば抜けて上手い人たちばっかだしな」
「そんなもん分かってるさ。でも、俺はやりきるよ。何があってもやりきる自信はあるよ。途中で夢を諦めた人たちとは違ってね」
「へえー。そりゃ結構なこと。だったら、頑張ってくださいな。ドラ五から大成した人なんてあんま知らないけど、まあ、君くらいの人なら何とかなるんでしょ。私は陰で応援してますよ」
二人の間には張り詰めた空気が漂っていた。俺の冷淡な口調が相手にも伝わったんだろう。俺の目を少し睨み付けるような目線で俺を見ていた。今から思うと、本当に大人げなかったな、俺。さすがにやりすぎたと思って話題を変えてはみたが、もう互いの口数は少なめだった。結局、そのまま気まずい状態で店を出て、俺たちは別れていった。そして、その日以来、俺はユウヤと顔を合わせていない。
それで、その夜は俺、すごく憂鬱な気分で家に帰ったんだ。気のふさぎように任せて部屋でごろごろしてた時、そういえば冬用のズボンをまだ出してねえなって思ったんだよ。ほら、雪が降ったとき用の、ちょっと裏地が厚いあのズボンのことだよ。その時はまだ薄いジーンズをはいてたから、今のうちに準備しておこうって思ったんだ。それで、ズボンを入れた段ボールを持ってきて、タンスの中に入れようと箱の中に手を突っ込んだ時だった。指の先に何かガラス玉のような感触がした。なんだこら、って思って手に取ってみたら、なんだったと思う。あの巾着だよ。監督が俺たちにくれた、あのプレゼント。中を見たらちゃんとビー玉も二つ入ってた。
突然、俺は何もかも壊したい衝動に襲われた。もう、自分でも抑えられないくらい感情が高ぶっていたんだ。段ボールから乱暴にズボンを引き出して、ベッドの上にめちゃくちゃに叩き付けてやった。段ボールの中身を全て部屋に投げ散らかして、空になった箱をぼこぼこに踏みつけてやった。タンスの中の服を全部取り出して机の上の教科書を全部薙ぎ払ってやった。
ふと、冷静になった。波が押し寄せた後に、また引き返していくように。辺りが服と紙と教科書で散乱した光景を目にした。怒りが引き返した後、虚無感が押し寄せてきた。何が夢だ。何が幸せだ。なんで俺だけが。なんでこんな目に。俺の人生は。俺の未来は。真っ暗だ。もうなにもない。もう二度と顔向けできない。もうずっと底辺だ。あいつも。こいつも。俺をバカにしやがって。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。押し寄せたむなしさの中に、また怒りが押し寄せてきた俺は、ベッドの枕に顔を突っ伏していた。頬からは涙が伝わっていた。せめて泣きじゃくらないように、鼻と口を枕で抑え込むのが精いっぱいだった。まだ酸いも甘いも知らない俺たち。そんな奴らが初めて知った行き止まりに顔を覆っていた、あの頃…。
いけない。鬱なことを思い出すと、どうしても長々と考えこんじまう。おかげでドームに入ってからの友人との話をずいぶん上の空で聞いてしまってた。
「せっかく近頃の野球の情報教えてあげてるのに、お客さんの話を聞かなくて良いんですか?若旦那さん」
「うるせえな」
「はいはい、じゃあ今日から勉強しましょうね。ちょっとスマホ貸せ…。スポナビ、っと。ほい、インストールしといたから、明日からちゃんと見ろよ。俺が店に来たら逐一チェックしてやるから」
相変わらず減らず口を叩いている隣の友人だが、本当はこいつにはすごい感謝してるんだぜ。大学へ入ってから、暇と金さえあれば俺の店に顔を出しに来てくれる。冷やかし半分で旦那とか、大将とか呼んでくるけど、多分俺の鬱蒼とした内心にうすうす気づいてたんだろうな。こいつはそういうやつだ。おかげで、あの憂鬱な気持ちは案外すぐに吹き飛んでいった。まあ、そのせいなのか、未だに大学にいるんだがな、こいつは。
そう、今や俺はすっかり陽気な若大将だ。初めはいろいろ手こずったりもしたけど、六年もやれば自然に要用はわきまえてくる。常連ともすっかり顔なじみだ。よっ兄ちゃんとか、未来の大将だね、とか皆がみんな冷やかしてくるけどね。こんなに嬉しいことはない。楽なわけじゃあないが、何だかんだ言ってすごい充実してるわけさ。人生、どう転ぶか分からないとはこういうことなのかもな。
あと、あの巾着のことなんだが、あれは今でも部屋に飾ってあるよ。あのまま捨てても良かったのかもしれないけど、何だか飾っておけば良いことありそうな気がしてね。監督がせっかくくれたものだし、なんか申し訳ないだろ。今だったら、監督の言ってたことが分かる気がしたんだ。それにしても、ユウヤが登板するんだったら、持って来れば良かったな、あの巾着。
友人と酒を飲みながら日頃のことを話してるうちに、試合が始まった。ユウヤは序盤は上々の立ち上がりだった。最初の打者三人を打ち取って、二回も三者凡退。なかなか良いじゃないか。この調子でいけば…。だが、三回の表にピンチが訪れた。先頭バッターをフォアボールで出塁させると、次のバッターにセンターへの二塁打。次のバッターにもヒットを打たれて二点を先制された。そのあと、一人打ち取ったものの、ピンチは続き、満塁になった。ここを何とか抑えれば、まだ二点だ。何とか踏ん張ってくれよ。俺は祈るような気持ちでマウンドのユウヤを見ていた。
一球目。ストレートが少し高めに浮いてしまった。ボール。二球目。ボールが引っ掛かったんだろう。キャッチャーの前でバウンドしてしまった。ボール。三球目。変化球が外に抜けてしまった。ボール。ノースリー。レフト側から激励の拍手が響く。頼むよ、ユウヤ。こんなとこで終わらないでくれよ。この場所で夢をかなえるんだろ。頼むよ…。
「ぜったい勝つぞーー! 一・二・三・ヨイショー!」
なんで俺がいきなりこんなことを叫んだのか、自分でもよく分からない。多分、あいつに届けたかったんだろう。まだ終わりじゃないって。まだ諦めんなって。周りのお客さんがビックリしたような顔で俺を見ていた。怪訝な目をした人もいただろう。隣の友人も一瞬驚いた顔で俺を見ていたが、またすぐにニタニタ顔で俺に話しかけてきた。
「お、回ってきましたねぇ、若大将」
気にせずに俺はマウンドを見つめ続けた。ユウヤが四球目を投げた。
まっすぐ、真ん中に向かった白球は、きれいな放物線を描いて、俺たちのいるライトスタンドに向かってきた。LEDに照らされた白球が俺の頭上めがけて飛び込んでくる。やばい、ケガする。とっさに俺は下に置いていたカバンで頭をかばった。ボールはカバンの真ん中らへんに直撃した後に、一段下にいた野球少年の手元に転がった。少年はボールを手にして喜んでいた。観客席からはため息が打ち上げられていた。電光掲示板に四点が追加された。マウンドでうなだれるユウヤのもとに、コーチか詰めかけた。投手交代だ。これですべてが終わりなんだろうな。レフト側からの労いの拍手が、残酷な幕引きのように聞こえた。
結局、試合は終始相手ペースで進んでいき、捨て試合にふさわしい完敗だった。だが、俺は試合の結果なんて気にも留めてなかった。ユウヤの夢が、終わった。試合の間中、ずっとそのことが頭を巡って離れなかった。俺だってもう子供じゃない。六年もいたやつが、結果を残せなければ何が待っているのかくらい、うすうすわかってるさ。だから、虚しさだけが心に響いた。俺が夢を諦めたあの時の光景を、再び目撃したような切なさが心を刺した。
多分、俺は帰り道ずっと暗い顔をしていたと思う。久々の野球観戦は楽しかったんだけどな。こんな憂鬱な顔して、友人にはなんか申し訳ないよ。もっとも、友人は俺の気持ちにうすうす気づいていたのだろう。途中で寄った山岡家で餃子をおごってくれた。
「どうやら君もファイターズに熱が入ったようだねぇ」
「ああ…そうなのかもな。贔屓が負けてこんなに悔しいんだからな」
友人は少し心配そうにこちらを見つめていたが、またすぐに笑顔になって俺に言葉をかけた。
「なーに。落ち込みなさんな。旦那。今日は捨て試合だったんだし、次は勝ってくれますよ。明日は明日の風が吹くんだからね」
店の支度をしようと外に出たら、もう随分と寒さが増した風の中に、赤茶色の枯れ葉が舞っていて少しびっくりした。この前初雪が降ったばかりだから、当たり前なんだけどな。そろそろ熱燗が売れ出すころだな、と思ってたら、大雪の蔵が切れそうになっていたことを思い出した。いけない、いけない。あのおじさんの大好物なのに。悲しませちまう。仕方がないので、俺は大瓶を買いに車を走らせることにした。
店の支度が終わった後、少しだけ時間ができた。俺は今日のスポーツをチェックしてないなと思って、アプリでスポナビを開いた。あの友人は寒さが増してから、しょっちゅう店にやってきてくれた。それは嬉しいのだが、野球だけじゃなくほかのスポーツのことも色々話してくるのだから仕方ない。本当に暇な奴だな。あいつと話を合わせるために、開店前のスポナビチェックはもう日課になっていた。それで今日もいつも通り最新情報をチェックしていた。ふと、ファイターズの選手情報がひっそりと掲載されていた。
ファイターズは渡辺裕也選手と今シーズン限りで契約を更新しないことを発表した。渡辺選手は六年間在籍したが、怪我に苦しんだ。通算成績は五試合に出場し、〇勝二敗、防御率は九・七四。同選手の去就は未定。
店が終わって暖簾をたたもうとしたら、ほろ寂しい夜の街頭に粉雪が照らされていた。風情があっていいもんだ。静寂な中に雪が舞ってるのも。そうだ、この後ちょっとだけ晩酌でもしようかと思って、一旦部屋に戻った時だった。誰かからラインが来てると思ったら、ユウヤだった。どうしたんだろうと思ってたちょうどその時に、ユウヤから電話がかかってきた。
「もしもし、タツキ…?久しぶりだな。今からちょっとだけ話がしたいんだけど、大丈夫かな…?」
「別に良いけど、日を改めたほうが良いんじゃないか?お前とは話したいことも色々あるし」
「いや、今日話したいんだ。ごめんな…お前も疲れてるだろうに。でも、今日話さないと俺がつぶれる気がして、さ」
地下鉄も終わってしまったから、午前〇時の冬の街中を駆け足で進んでいった。すすきのの派手なネオンの下でユウヤを見かけたとき、俺は息をのんでしまった。久々に見たユウヤの体は、記憶の中のあいつよりも一回りも二回りも大きかった。だけど、悲しいもんだな、もうあいつの顔は純粋な子供ではなくなっていた。いちおう笑顔で迎えてはくれたけど、顔全体になんとなく憂いが帯びているような気がしたし、目の下がちょっとだけ窪んでいるように見えた。ここ最近のユウヤの気苦労が知れるってもんさ。
「ごめんな。こんな時間から」
「いや、良いって。お前とは話したいことがあるからさ、色々と」
店に入って最初の内は、お互いに言葉少なめだった。あの時以来の面会だし、戦力外あっての今だから、言葉を選ぶのにかなり苦労した。最近の出来事を話していると、ハイボールを飲みながらユウヤが話した。
「あの時お前の言ってたこと、今なら分かる気がするよ。結局、プロの世界は俺がどんなにあがいても、到底追いつけない奴らがゴロゴロいる所だったんだな」
「いや、そんなこと言うなよ。あの時は俺も大人げなかっただけだよ。そん時は俺も相当参ってたんだからさ」
「でも、間違ってた訳ではないだろ。俺もあの時、プロになれたことに浮かれてないで、もっと冷静に考えられてたらまた世界は変わってたかもしれないのに。本当にどうしようもないな、俺って」
ユウヤは少しだけ微笑みを見せていたが、常に落ち込んでるように顔を下に向けていた。本当に辛いんだろうな。俺はどんな言葉をかけようか悩んでいたが、もうどうにでもなれという気になって、ウイスキーを一気に口に放り込んだ。
「なあ、そんなやけくそになるなよ」
俺はそっと話しかけた。
「確かにこういう結果になっちゃったけどさ。俺はお前のこと、本当にすごいやつだと思ってるし、誇りに思ってる。だってさ、あんな辛い世界で六年もやってこれたんだろ。それって、普通にすげえよ。納得はいかないかもしれないけどさ、それでもお前はやり切ったんだろ。最後までやり抜いたんじゃないか。そんなこと、簡単にできることじゃあないよ」
「ありがとう。やっぱりタツキは良いやつだな。でも、今はそんな風に考えられない。結局、最後は結果が出なかったら、どんだけ頑張っても虚しいだけじゃないか」
「まだ終わったわけじゃない。トライアウトだってまだ残ってるし、独立リーグに行ったって良いかもしれない」
「もうしばらくは野球と関わりたくないよ。それに、あんな成績じゃどこも俺のことを欲しいとは思わんよ」
「そうか…でも、野球じゃなくても、やれることなんていっぱいあるよ。ほら、俺たちまだまだ若いじゃん。きっとこれから頑張れば…」
「これから、ねえ…」
ユウヤは少し自嘲気味に笑った。
「まだ若いっていうけどさ、俺なんか物心つく前から野球しかやってこなかったんだぜ。そのせいで勉強なんて中学の頃から止まったままだし、パソコンもろくにいじれやしない。何をするにも、元プロ選手のプライドが邪魔してくる。大した選手じゃなかったけどね。そんなしょうもないやつに、これから何ができるって言うんだろうね」
しまった。言葉を間違えたか。どうやら思ってた以上にこいつは傷心気味らしい。さて、どうしようか。こうなったらもうあれを渡してみるか。
「なあユウヤ。お前に渡したいものがあるんだ。」
そういって、俺はカバンの中からプレゼントを手にした。中身は昔監督からもらった、あの緑の巾着袋だ。
「ユウヤ。こいつが何か覚えてるかい?」
「それは…そういえば昔、監督からそんなものもらったな。タツキ、お前はまだそれを持ってたのか。律儀なやつだな。俺なんて知らないうちにどっかに失くしちゃったよ。監督が聞いたら悲しむだろうな」
「子供じみた贈り物、監督自身ももう忘れてるだろうけどね。さあユウヤ。そんなお前に俺からおすそわけだ。半分分けてやるよ」
俺は巾着袋に入っていた二つのビー玉の一つを取り出した。そして、ユウヤの手のひらにそっと乗せて、そいつを握らせた。
「ユウヤ、あの時監督がなんて言ってたか覚えてる? そうそう、これを持ってれば夢が叶って幸せになるって。あの人が言ってたことはきっと半分間違ってて、半分正しい。こんな巾着持ってても、結局俺たちはビッグになれなかった。だけどさ、夢が破れても人生は終わりじゃない。スターになれなくても、俺たちにはまだ希望のかけらが残ってるんだよ」
ちょっとアツくなってきた。ユウヤがじっと俺を見ている。
「俺だって野球部をやめたときは未来に絶望したよ。もう終わりだ、一端の飲み屋の店主なんてたかが知れてるってね。でも、いざその身になって頑張ってみたら、案外悪いもんじゃないなって。そりゃ、まだまだ俺は未熟者だけどさ。常連さんがたまに誉めてくれるんだよ。兄ちゃん、やっとビールがうまく注げるようになったな、とか、よっ、未来の大将、魚捌きも上手くなりましたなあ、ってね。気が付いたら、目指してた夢の形とは違うけれど、これで良かったんだなって思えるようになったんだ。ユウヤ、お前も今は辛いかもしれないけど、いつか絶対見つかるはずだから、お前なりの幸せのかたち。だからさ、それまでこのビー玉、大事に持っててくれよ。せっかく監督がくれた贈り物だぜ?」
少し飲みすぎたかもしれない。ユウヤをまくしたててしまった。ユウヤはしばらく俺のことを見ていた。あまりにしゃべるものだから、ポカーンとしてたのかもしれない。だが、だんだん微笑みを見せるようになってきて、ハイボールを口にした。
「お前も随分アツい男になったんだな、タツキ」
と、笑いながら口にした後、
「ありがとな」
とポツリつぶやいた。
午前二時。冬の空気はますます澄んでいて、すすきのから離れるとぽつぽつ星が見えた。あの後俺たちはたわいのないことを話して笑いあっていた。昔の友達のこと、常連の陽気なおじさんたちのこと、バイト内の恋愛模様のこと…。互いに酒が進みすぎた俺たちは肩を組んで大通公園へ向かっていた。閑静な公園には人影もなく、テレビ塔のネオンも消えている。
「じゃあ、この辺でお別れかな、今日は。ありがとうな、タツキ。お前と久々に会えて嬉しかった」
「こちらこそだよ、ユウヤ。今度は俺の店に飲みに来てくれよな。」
「ああ、もちろん」
俺たちは何となくテレビ塔の方に目をやった。多分、すごい酔っぱらってたんだろうな。俺はいきなりユウヤの手をつかんで、テレビ塔目掛けて手を差し出した。
「ぜったい勝つぞーー! 一・二・三・ヨイショー!」
周りに誰もいないことを良いことに、俺は思いっきり、腹の底から声を出して叫びあげた。ユウヤがびっくりしてた。
「覚えてないの? こうやるとね、良いことが起こるっておまじないだよ。」
ユウヤはしばらくあっけにとられていたが、やがて大声で笑いだした。
「ばっかじゃないの。近所迷惑だよ」
その後俺たちは冗談を少し言い合って、お別れの握手をした。
「ありがとう。ビー玉は大切にとっておくよ」
「頑張れよユウヤ。あ、そうだ。当店ではいつでも新入店員を募集しておりますので。詳しくはご一報ください」
「ハハハ、ありがとう。でも、もうちょっとだけ時間をくれないか。もう一度自分のことを見つめなおしてみたい」
「もちろん、いつでも待ってる。また何かあったら飲みに行こうな」
二人は手を振って別れた。それにしても今日は随分寒い日だ。これじゃあ、せっかくの酔いもすぐに冷めちまう。
そう思った時だった。少し強い風が俺に向かって吹き込んできた。おっ、と俺は少しよろめいたがなんてことはなかった。だが、何となくユウヤは大丈夫かと思ってそっと振り返った。ユウヤは何てこともなく向こうを歩き続けていた。眠りについた夜の街に街灯だけが寂しく照らし出されていた。ユウヤの小さな背中が冬の暗闇の中に少しずつ溶け込んでいく。




