05.総一郎の日だまり
総一郎の説明じみた話。
幼馴染みの陽奈子は鈍い上に天然の馬鹿だ。
日本人の父とフランス人の母の間に生まれた佐藤総一郎が、幼馴染みの鈴木陽奈子と初めて顔合わせたのは小学校入学前の頃。
父親のフランス赴任が終わり、日本へ戻って来た日だった。
「隣に引っ越してきた佐藤です。よろしくお願いします」
洋菓子詰め合わせを持った父親の後ろに隠れていた総一郎を、興味深そうに陽奈子は見詰めてきた。
「私、陽奈子! 鈴木陽奈子って言うのよろしくね」
満面の笑みで自己紹介をする陽奈子の第一印象は、母親がコレクションしている日本人形みたい子だった。
肩で切り揃えられた真っ直ぐな黒髪は艶々で、大きな黒い瞳が印象的な元気な女の子。
当時は日本語がよく分からなくて戸惑う総一郎に、彼女はニカリと歯を見せて笑う。
「日本語分からないの? じゃあ、私が日本語を教えてあげる!」
“陽奈ちゃん”は、笑顔が可愛くて日だまりのような女の子。
鈴木家の隣に引っ越して四日後、役所への手続きや片付けを終えた両親は朝早くから仕事へ向かった。
家に一人残るのはベビーシッターが帰って母親が帰宅する短い時間。それに、留守番するのはフランスの家とは変わらない。
一人は慣れていたのに、この時は慣れない環境のせいで寂しくて不安になってしまい、外から聞こえてきた幼稚園から帰って来た陽奈子の声に涙が溢れてきた。
バタンッ!
「総ちゃんどうしたの?」
泣きながら玄関から飛び出してきた総一郎に、陽奈子は目を丸くする。
「パパとママはいないの? じゃあ一緒にオヤツを食べよう」
繋いだ小さな手のひらの温もりで、泣きじゃくっていた総一郎の涙は止まる。
その日の夜、親同士がどんな話をしたか分からないが翌日から総一郎は日中は鈴木家で過ごすことになった。
「総ちゃんをいじめるなー!」
母親が好むフリルたっぷりの服と女の子と間違えられる容姿と、片言の日本語のせいで公園へ行く度に年齢が近い男の子達から苛められていた。その都度、陽奈子が苛めっ子を蹴散らして追い払う。
「も~総ちゃんもやられっぱなしでいないで怒りなさいよ」
頬を膨らまして怒る陽奈子は可愛くて、キャンキャン小言を言われるのも彼女が自分を思ってくれているから。嬉しくて怒られているのに総一郎の頬が緩む。
苛めっ子に対して怒りの感情が無いわけではない。ただ、彼奴等にからかわれて怒ったら陽奈子に庇って貰えないから怒らないだけ。
「やだよぅ、恥ずかしいよ」
どうしてこうなったのか。
ピアノの発表会で陽奈子が着ていたドレスを「可愛い」と言ったからか、小学校で同級生の男子から「男女の総一郎の方が鈴木より可愛い」と言われたことが切っ掛けになったのか分からない。
無理やりドレスを着させられた総一郎は、ドレスの腰回りに付いたリボンを握りしめ、モジモジしながら鏡越しに陽奈子の様子をうかがい見る。
恥ずかしいとは口では言っても、本心は嬉しかった。
ほんのり頬を染めて陽奈子が可愛くて、彼女が着ていたドレスを着たことで彼女と一体化出来たような気分になれて体が歓喜に震える。
「何これめっちゃ可愛い」
お姫様みたいに可愛いかった、ピアノの発表会で陽奈子の着ていたドレスを着られて、彼女に可愛いだなんて言われたら女顔で良かったとすら思えてくる。
恥ずかしくて涙目になって見上げると陽奈子の動きが止まり、音を立てて顔から血の気が引いていく。
口元へ手を当てて、震える唇からは何度も「嘘」と呟く声が聞こえた。
「可愛い総ちゃんは嫌ぁー!」
可愛い自分を見て喜んでくれていると思ったのに、うわあっ!と泣かれたのは吃驚した。
喜んでくれたなら良かったのに、泣くならそれは良くないこと。
気絶から立ち直った陽奈子は、翌日から人が変わったような気がした。
「これもらってきたよ。一緒に体を鍛えて強くなろう」
手渡されたのは近所の剣道教室の入会案内チラシ。
女子らしい遊びが好きだった陽奈子が、いきなり体育会系への方向転換したのには戸惑った。
総一郎が戸惑っているうちに陽奈子は鈴木家佐藤家の両親を説得し、気付けば二人揃って剣道教室へ入会していたのだ。
「マラソン大会で十位以内に入るんだよ」
持久走大会前は、朝早くにやって来た陽奈子に連れ出され早朝ランニングへ出かけたりと、色んな運動をしたおかげで小学校高学年になる頃にはもう「男女」とは言われなくなっていた。
「男女のくせに生意気なんだよ!」
あれは、六年生の清掃時間中の出来事だった。
突然上がった大声と椅子が倒れる音で、クラスは騒然となる。
「好きな女子が総一郎のことを好きだと言っていた」という下らない理由で、かつて苛めてきた男子が箒で殴りかかってきたのだ。
殴られると両腕で頭を庇った総一郎の前へ出たのは、隣のクラスの女子。
「総ちゃん! きゃあっ」
鈍い音が響き、雑巾を握り締めた陽奈子が箒で殴られて床へ倒れる。
「陽奈ちゃんっ!?」
倒れた陽奈子の頬は赤くなり、額からは鮮血が流れ落ちる。
怒りと衝撃で目の前が真っ赤に染まっていく。
クラスメイトの悲鳴と足音は聴覚から消えていき、自分の心臓の音しか聞こえなくなっていった。
箒を取り上げて反撃しようとした総一郎を隣のクラスの担任教師が抱えて止める。
女性担任に抱き抱えられた陽奈子は小さく呻いて、総一郎へと手を伸ばす。
「うう、総ちゃん、大丈夫だから泣かないで。怪我させたら、剣道出来なくなる」
頭に当てられたタオルが血で赤く染まっているのに、痛みで顔を歪めているのに、陽奈子は唇を噛んで涙を堪えている。
庇われた自分が泣いているという状況が、情けなくて悔しかった。
「ごめんね、僕、強くなるから。強くなって陽奈ちゃんを守るから」
“絶対に陽奈子を守る”と誓ったその時を境に、総一郎は変わった。
甘さと弱さを捨てストイックに鍛練を行うようになっていき、メキメキと実力をつけていった。小学生ながら、中学生と対等に戦えるほどの実力者、と注目を浴び始めるくらい。
小学校卒業間近、鈴木家祖父が倒れて介護が必要な状態になった。
介護のため祖父母宅へ通う母親を手伝う陽奈子は、通っていた習い事を辞めることになり震える声で総一郎へそれを伝えた。
「総ちゃんは強くなったし、もう私が一緒じゃなくても大丈夫ね」
鼻声で言われても、陽奈子は強がっているとしか思えない。
本当は剣道だけは続けたくて自室で一人泣いていたのも、カーテンの隙間から見えたから総一郎は知っていた。
辞めるのがつらいなら続けたいと言えばいいのに、馬鹿な陽奈子。親に心配かけないよう、弱音を吐かないで強がる可哀想な陽奈子。
馬鹿で優しい幼馴染みのために、強くなるという誓いは守る。
中学体育総会では全国大会へ出場しても優勝出来なかった。強くなると誓ったのに、これではまだ足りない。
受験を控えた中学三年生の冬。
体育大学付属高校や部活動強豪校数校からきた推薦の話に中学校の教師達は色めき立ったが、総一郎は全て断った。部活動強豪校や県外の高校へ行ったら寮生活となり、陽奈子は傍に居られなくなるじゃないか。
悩んでいる振りをして総一郎にも友人にも、志望校を教えようとしない陽奈子を一泡ふかせてやろうと、鈴木家母親から聞き出した彼女の志望校を進路希望用紙に記入して担任へ提出した時は、少しばかり教員間で騒ぎになったらしい。
受験会場で顔を合わせた時の陽奈子の宇宙人でも見たように驚いた表情は、今でも思い出す度に総一郎の中に笑いが込み上げてくる。
そんな裏事情を知らない薄情な彼女は、まさかの成績不振で進級を危うくしていた。
「総ちゃんは、留年の方が良かった?」
「なんっ、そっ、そんなことあるか。馬鹿陽奈子」
高校一年生の学年末試験で赤点を取った陽奈子は、突然馬鹿なことを言い出す。
見上げてくる黒曜石の瞳にじわりと涙の膜が貼っていき、総一郎は全身がぞわりと総毛立った。
勘違いにも程がある。陽奈子の居ない学校なんて通う意味は無い。
違うと否定したいのに、総一郎が留年を望んだという勘違いが泣くほど悲しいのかという喜びと、涙を浮かべた表情が可愛くて見とれてしまい言葉が出て来ないのだ。
此処が学校でなければ、今すぐ抱き締めたくなるくらい可愛い表情をしていることと、総一郎が内心身悶えているのを鈍い彼女は気付かない。
それどころか、総一郎が自分と一緒に居るのは陽奈子が庇って怪我をしたという、罪の意識からだと思っている節すらある。
春休みに入り、赤点の課題代わりに教材室の掃除を課せられた陽奈子と一緒に総一郎も登校した。
ジャージを着た陽奈子の後ろに、総一郎と小学生の頃から仲が良く部活の休みの日なのに巻き込まれてしまった伊東太一の姿を認めた杉山は、眉間に皺を寄せてあからさまなに不快だという態度を男子二人へと向けた。
「何故、お前等もいる?」
「えっ、僕は巻き込まれ」
「彼女一人じゃ大変だと思ったので、俺達も手伝います」
太一の言葉に被せて言えば、杉山は小馬鹿にした笑みを総一郎へ向けた。
「学校では文武両道の優等生、そして幼馴染みに対しては過保護、か。なかなか良いポジションだな」
「どういう意味ですか?」
「いや、そのままの意味だが?」
見えないはずの火花が飛び散るのが見えた気がして、怯えた太一は二人の側から一歩下がる。
「俺達は陽奈子と、先生を助けるつもりで来たんですけど?」
「なに?」
挑発的な総一郎の態度に、杉山の眉毛がピクリと上がる。
「いくら課題代わりでも女子一人に手伝いをさせるのは、教材室に二人っきりはマズイのでは?」
お前なんかに陽奈子と関わらせたくはない。下心見え見えで信用出来ないと言外に伝える。
「成る程、気を使ってくれたわけか」
薄ら笑いを浮かべる杉山の目は全く笑っておらず、今日は春めいた暖かな陽気なのに教材室の中だけは真冬の寒さになっていた。
陽奈子は馬鹿だ。
赤点課題の代わりが教材室の掃除とかおかしいだろう。その上、杉山が時折陽奈子へ向ける粘着質な視線には、何も気付いてはいない。
杉山が生徒の枠からはみだした感情を陽奈子に抱いているのを確信して、総一郎は下唇を噛んだ。
「今はまだ“過保護な幼馴染み”でもいいが、」
暫くの間は、杉山を排除する情報を手に入れるまでは、お馬鹿な幼馴染みを心配する役に甘んじる。
「陽奈子は俺のだ」
寒々とした日々で見付けた日だまりみたいな存在。
ずっと腹に溜めている黒い感情は、まだ陽奈子には気付かせはしない。
恋とか愛とかより、強い執着と独占欲。
因みに、巻き込まれて可哀想な伊東太一君は、小学校から仲が良い見た目は眼鏡で大人しいのびた君な剣道部マネージャーです。
杉山先生は26歳。若手だけど一目置かれている教師です。