188話 出航
一週間後、俺の姿は魔大陸の最南端の交易都市サウスポートにあった。
俺は長いこと龍族の里のエレノアの家で暮らしていたが、この街にも魔大陸にやって来てから三か月ほど滞在していた。
冒険者生活の拠点となった街だ。
久しぶりに戻ってみれば、何とも懐かしい感じがするものだな。
中央大陸とは建物や街並みのデザインが少し違う。
ガルラウンジから船で来て、見張り台から霧越しに見たサウスポートの景色は、なかなかに幻想的だった。
「少しピリピリしているみたいね」
「ええ、まだ魔物の異常発生の余波が残っているのでしょう」
並んで歩くジルニトラから掛けられた声に、俺は淡々と返答した。
俺の後ろには、ジルニトラと数名の龍族の戦士がついて来ている。
以前は一か月以上も掛かった龍族の里からサウスポート間の『死の森』の横断だが、これが今回は一週間足らずで抜けられた理由だ。
森を熟知し魔物の発生状況を読める彼らに案内してもらうことで、あの永遠に続くとも思えた樹海を、自分一人のときの四分の一以下の期間で踏破することができたのだ。
「クラウス様、まずはギルドへ?」
「そうだな。そんなに遅い時間ではないし、先に済ませてしまうか。その後で、俺が贔屓にしている宿に案内するよ」
「ええ、楽しみにしています」
当然ながら、エレノアも一緒だ。
サウスポートへ向かい『死の森』を進む間も、エレノアは常に俺と行動を共にしていた。
あんなことがあった後だが、エレノアは特に引き摺ることなく、いつも通りの調子で俺をサポートしてくれる。
森の中では、逆に俺の方が下らないミスをして足を引っ張っているような状態だった。
彼女は、割り切ってくれたのかな……?
「……クラウス様? どうかされましたか?」
「いや……何でもない」
俺はエレノアから視線を逸らし、冒険者ギルドの支部へと歩を進めた。
俺が冒険者ギルドのサウスポート支部へ足を踏み入れると、顔見知りの受付嬢がこちらを見て固まった。
「え……あなたは……!」
「どうも、久しぶりですね」
再起動した受付嬢は驚いた様子でデスクの上の書類をひっくり返した。
勢いあまってぶちまけてしまったペンや紙を慌てて拾い集める。
「イェーガー様! 生きていたのですね!」
「ええ、まあ。どうにかね」
確かに、俺はずっと龍族の里に居たので、ここには半年ほど顔を出していなかった。
冒険者ギルドの方では、俺は死んだことになっていたのか。
まあ、『死の森』に踏み込んで音沙汰が無くなれば、普通はそう考えるよな。
オルグレン邸の方とは通信水晶で定期的に連絡を取っていたので、王国では俺の生存を確認できているはずだが、俺からサウスポートへ連絡を取る手段は無い。
何より、冒険者ギルドのサウスポート支部には、俺の安否に対して責任など無いのだ。
ギルドとしても、わざわざ王国の支部経由で政府もしくはオルグレン伯爵家へ連絡を取って俺の生存確認をすることはしないだろう。
最初に魔物の情報提供を頼む際に王国政府の意向を受けていることは仄めかしたが、向こうからそれ以上の詮索をするとなると面倒しか生まない……と、思ったのだが……。
「も、申し訳ありません! 『死の森』付近まで足を延ばした冒険者からは、イェーガー様は戦死した可能性が高いと……。王国や向こうのギルドから問い合わせがあった場合は、そのように報告する準備が……」
意外と面倒見がいいな。
冒険者の一人がくたばったところで、この支部にとっては然程の影響は……あるか。
俺は一度に数十体のワイバーンを狩って持ち込む稼ぎ頭だった。
「見ての通り五体満足ですよ。あと、王国の方は俺が生きていることを知っているのでお構いなく。国王と宰相も含め、まともな上層部の人間とは連絡が取れていますので」
「そ、そうでしたか……」
挙動が若干おかしい受付嬢の反応で、俺は一つの可能性に行き当たった。
絡め手の嫌がらせだけには情熱を燃やす厄介な輩が、まだ王国には大量に蔓延っている。
「俺の死亡証拠を求めてくる輩が現れたら、それは人の足を引っ張りたいだけのゴミです。無視して構いません。もし、そいつらが原因で実害が出そうなら……そこまでエスカレートしたらギルドの方で対応はできますね?」
「……はい。この度は、本当に申し訳ありませんでした……」
「別に怒ってませんから。とりあえず、戦死者名簿から俺の名前は消しておいてください」
「は、はい! 畏まりました!!」
そんな名簿があるのかどうか知らないが、受付嬢は風切り音が聞こえそうな速度で職員スペースの裏へ引っ込んだ。
まあ、これ以上あの受付嬢と話しても、ひたすら謝り続けるだけだろう。
傍から見れば、俺が彼女をいじめている図なので、話を切り上げられたのは助かった。
「……すみません、ちょっといいですか?」
「あ、はい」
俺は先ほどの受付嬢とは別の職員に声を掛けた。
「今の話とは別件ですが、ギルドの上層部に通したい話があります。今、幹部級の職員は居ますか?」
「はい、すぐにご案内できます。……あの、彼らは……?」
さっきの受付嬢は俺が現れたことに驚いて目に入っていなかったようだが、俺が引き連れている連中は紛れも無く龍族の戦士たちだ。
他の職員も、遠慮がちにエレノアたちに視線を送っている。
「もちろん、龍族の皆さんにも関係することです。この方々は、私が仕事を依頼してここまでご足労願った大切な取引相手です。そのことも忘れずに伝えてください」
「か、畏まりました」
その後は、ギルドマスターを含む冒険者ギルドサウスポート支部の幹部たちと面会し、魔物の異常発生の原因を排除したことと、龍族とズラトロクの話し合いによって浄化という名の滅菌作業が実施されていることを伝えた。
幹部たちと話すのは龍族の長であるジルニトラだ。
俺のサウスポート行きにエレノアだけでなくジルニトラまでついてきた理由がこれである。
そして、サウスポート近郊の環境は以前の様相を取り戻すことを前提に、冒険者ギルドの態勢も平時の状況かのものへと戻していくことを提案する。
話し合いは思いのほか簡単にまとまった。
頭の固い管理職の連中は話の信憑性やら根拠やらにケチをつけてくるかと思っていただけに、嬉しい誤算だ。
まあ、幹部連中の脚が軽く震えていることを鑑みても、俺たちを相手にゴネる度胸は無いか。
半年ほど前のこととはいえ、俺はサウスポートにおける約三か月間の冒険者活動によって、圧倒的な戦闘力を証明し、誰よりも優れた討伐実績を叩き出した。
俺は正真正銘この街において単独で最強の力を持つ冒険者だ。
俺が王国の将軍であることを抜きにしても、敵対したい相手ではないだろう。
それに、ジルニトラたちの存在がそもそも大きい。
彼女たちが龍族であることは、俺が取り次ぎを頼んだ職員からも聞いているだろう。
この街の人間にとっては、守護神も同然の存在である。
それこそ扱いは聖獣と大して変わらない。
そんな龍族の長であるジルニトラ直々の言葉に、疑いなど掛けられるわけも無く。
何はともあれ、俺の仲立ちによってジルニトラ率いる龍族とサウスポートの冒険者ギルドの対話が実現し、一連の魔物の異常発生について有意義な会議が行われた。
冒険者ギルドとしても今後の秩序の回復を見越した歩調を取ることで合意した。
これで、ポーションや武器資材の価格も落ち着き、交易の方を意識する余裕も出てくるだろう。
ひたすら魔物の間引きに回されていた冒険者たちも、採取物や素材を意識した狩りへとシフトしていけるはずだ。
あと、念のため俺を死んだことにしたい連中からの圧力についても話題にしてみたが、それに関しても心配なさそうだ。
冒険者ギルドは独立性が強い国家を跨ぐ集合体である。
有事の際には、横のつながりによって貴族や政府の権力にも対抗しうる存在だ。
まあ、その横のつながりも、俺の情報を共有するのには役に立たなかったみたいだが……。
何はともあれ、サウスポート支部の損得勘定では、俺に睨まれる愚を犯すよりも、木端貴族の干渉を退ける方が被害は少ないと判断することだろう。
粗方、話し合いを終えたところで、ジルニトラは席を立った。
「では、我々はこれで。今後のサウスポートの復興と繁栄に期待します」
「はっ、ジルニトラ様には感謝の言葉も無く……」
「あなたがたに感謝される覚えはありません」
「っ!」
ジルニトラは若干の冷たさを含んだ目でギルドの幹部連中を見返しながら言った。
圧倒的な強者、そして神聖な守護者として認識される龍族の長の不評を買った。
その可能性に思い至っただけで、幹部連中は顔面を蒼白にして震え始める。
「お、お許しを……」
「今回は、クラウス殿から受けた依頼にも関係する内容だったので、ここまで足を運びました。ですが、我々の居住地とこの街はそう気軽に行き来できる距離ではありません。もちろん、我々に今後サウスポートを守護する義理も無い」
現状、サウスポートには『死の森』の魔物に対処できる冒険者がほぼ居ない。
仮に『死の森』から魔物が溢れた場合、この街は蹂躙されるしかない運命だ。
「感謝されれば、崇められれば、我々はあなたがたを魔物の脅威から命を賭して守るとでも?」
「それは……」
「都合が良すぎますね」
実際、龍族という森の狩人の存在で、今までサウスポートが強力な魔物の脅威から逃れてきたことは事実だ。
そして、今回は魔物の異常増殖と鎮圧という一連の流れを通して、その龍族によって守られるという構図がより明確に認識されることとなった。
だが、龍族にとってはサウスポートの街や住民を守ることは主語ではない。
自分の居住地を守るために、日々の糧を得るために、『死の森』の魔物を狩っているに過ぎない。
当然、里周辺の安全が最優先となる。
サウスポートに関しては、精々が魔物の素材を換金し里には無い物資を手に入れる街が潰れたら不便だな、程度の認識だろう。
人間誰しも、当たり前になってしまったものには感謝を忘れる。
今まで享受できていた幸福が無くなると、途端に不幸のどん底に落とされたような気がしてしまう。
前は守ってくれてたのに、何で今回は助けてくれないんだ、って感じだ。
そして、そういった思考パターンは、この世界では破滅を招きかねない堕落となり得る。
魔大陸の過酷な環境は、決して弱さという罪を許してはくれない。
今回は、俺が街周辺の魔物を掃討したからよかったものの、結構危ないところではあったのだ。
この街がまた大きな災厄に見舞われた際に、龍族との関係が今のままであれば、今度こそサウスポートは滅んでもおかしくない。
「ですが……」
口を開いたジルニトラにつられて、冒険者ギルドの面々も顔を上げた。
「この街で買える品には、我々にとって魅力的な物も多い。あなたがたの破滅は、確かに我々の望むところではありません」
「では!」
ジルニトラは念を押すように言葉を続けた。
「あくまでも隣人として、こちらに余裕があれば、正当な報酬と引き換えに戦士が個人的に手を貸すことはあるでしょう。その時は、対等な人間として接していただければと思います」
「……はっ」
ジルニトラの提案は至極当たり前のものではあったが、サウスポートの人間にとっては難しい注文だった。
「……あのぉ」
「何か?」
遠慮がちに声を上げた別の幹部を、ジルニトラの冷たい視線が射抜く。
まだ何か取り縋りの言葉を重ねるつもりかと呆れたジルニトラだったが、その幹部は思いも寄らぬ方向へ矛先を向けてきた。
「イェーガー様は……この街での活動を再開してくれるということで、よろしいですか?」
何を言い出すかと思えば……よろしいわけがない!
俺は国に帰る用事が出来たから、龍族の里を離れて南下してきたのだ。
この街は通り過ぎるだけだ。
「私は一刻も早く王国へ帰らなければならない。そう、一刻も早く……どんな手段を使っても。私は知己を得た龍族の方々をついでに紹介しただけだ。それ以上の義理など無い」
「そ、そうですか……」
俺は国に帰るし、妨害は許さん。
今回は善意で龍族との間を取り持ってやったが、これ以上の時間と労力を割くつもりは無い。
以上の二つについて、はっきりと示した。
あとはこの街の人間の問題であり、俺には関係の無いことなのだが……苦労しそうだね……。龍族も、この街の住民も。
交易路の復旧くらいは、しっかりとやってくれよ。本当に。
「行きましょう」
ジルニトラはため息を隠さずに立ち上がり、俺たちを急かすようにしながら会議室を退出した。
ギルドでの話し合いを終えた俺と龍族の一行は、若干の悪目立ちをしながら大通りを進み、サウスポートの俺の定宿『グリフォンの止まり木亭』にやって来た。
エレノア含めサウスポートに来たことがある龍族の連中は、当然ながらこの街の宿にも泊まったことはあるが、『グリフォンの止まり木亭』は初めてだそうだ。
まあ、この街の住民と龍族の関係を鑑みるに、確かにこの宿を選ぶ戦士は少ないだろうな。
『グリフォンの止まり木亭』はどちらかというと高級宿の部類に入るが、貴族向けというよりは稼げる冒険者をターゲットにした店だ。
料理も清潔さもなかなかのレベルだが、さすがに客の情報がごく一部すら漏れないようにするほどの配慮は無い。
ここで食事をしたり宿泊したりすれば、それなりに人目に付く。
そして、龍族の戦士は街では目立たないように行動することが多い。
この街に限らず、龍族は畏怖の念を抱かれて遠巻きされつつも視線が突き刺さるのが常だ。
客のプライバシーへの配慮も含め教育が行き届いている宿となると、この世界では大抵が超高級店となる。
エレノアたちが街で宿泊する場合は、食堂も無く店員が目も合わせない安宿でひっそりと夜を越すことがほとんどだろう。
だが、ジルニトラがギルドの人間と会談を行ったことで、今後この街と龍族の関係にも少しずつ変化が生まれていく可能性が高い。
その足掛かりとしても、高ランク冒険者が多く泊まっているこの宿に案内するのは正解な気がする。
この大陸の出身ではない俺が店を紹介すると言うのも変な話だが……。
「いらっしゃ……あ、あんたは!」
「どうも。久しぶりですね」
そして、これまた長いこと顔を合わせていなかった『グリフォンの止まり木亭』の女将さんにもひどく驚かれた。
「ここでも俺は死んだことになっていたので?」
「いいや。常連の奴らであんたが死んだと思ってる奴はほとんど居ないよ。ギルドへの報告に関しては、証拠が何も無い以上はどっちとも言えなかったらしいけどね」
それは意外な話だ。
精々、半々くらいだと思っていたが……魔大陸においても、俺の扱いはこんな感じか。
「……やっぱり、生きてたんだねぇ」
「ええ、ずっと彼らの里で世話になっていたんですよ。」
「おやおや、大所帯で……っ! ひょっとして、龍族かい……?」
さすがの女将さんも、龍族の集団にはいくらかの畏怖を覚えるらしい。
俺に対するよりも幾分か表情が硬くなっている。
「女将さん。俺の大切な取引相手でプライベートでも世話になった方々です。いい部屋をお願いします。あと食事と酒を」
「ああ、任せな。あんたに恥はかかせないよ」
俺は全員分の宿泊費が数日は賄えるだけの金貨の詰まった袋を、女将さんにそっと渡した。
どんぶり勘定だが、今日ここに龍族の連中を連れてきたのは、俺からの慰労の意味もあるのだ。
女将さんも即座にそれを悟り、若い店員に酒と食材の追加発注を指示した。
「さて……夕食まではまだ時間が……」
「おい! クラウスが帰ってきたって!?」
「さっきまでギルドに来てたらしい!」
「今は宿だ!」
「あの野郎、やっぱり生きてやがったか!!」
急に騒がしくなった『グリフォンの止まり木亭』には、懐かしいサウスポートの冒険者連中の顔がなだれ込んできた。
情報通で色々と世話になったマーカスも居る。
当然ながら、その日は大勢の冒険者たちに取り囲まれて宴会となった。
因みに、俺の横には常にエレノアが密着するように張り付いていたおかげで、俺はそれほど絡まれることなく、酒瓶を口にぶち込まれる回数も少なくて済んだ。
訳知り顔で頷き、生暖かい視線を向けてくる連中は居たが……。
俺の帰還祝いという名目の宴会の翌日。
サウスポートの船着き場に俺の姿はあった。
目の前には、昨日の朝方に入港したガルラウンジとの定期船が停泊している。
ガルラウンジとサウスポートを繋ぐ定期船は、入港して次の日には補給を終えて出航する。
……一刻も早く王国に戻った方がいい点を鑑みれば、タイミングは良かったな。
奇しくもこの定期船は、俺が魔大陸へ来るときに乗ったのと同じ『ラ・フォルトゥーナ』だった。
船長のロバーツは相変わらず、船員たちも見覚えのある連中ばかりだ。
「それじゃあな、クラウス」
「この魔大陸に来て生きて故郷に帰るなんて、お前ぇが初めてだろうよ」
「また来いよ!」
「バァカ! こんな地獄、二度と戻ってくる気も起きねぇだろうさ」
「おいおい、バカはお前ぇだ。こいつはサウスポートで最強の冒険者だぜ」
「あんたなら戦争なんぞでくたばることも無ぇさ!」
見送りに来てくれたサウスポートの冒険者たちの声が閑散とした港を彩り、まだ交易経済が完全に復旧しているわけではないのに、ここだけは騒がしい。
戦争の情報はどっから聞きつけたんだか……。
冒険者連中の何名かは完全に出来上がっている。
昨日の酒がまだ抜けていないのかと思ったが、朝まで飲んでいたのだろうな。
そんな中、冒険者たちの集団をすり抜けるようにしてエレノアが歩み出てきた。
「エレノア……」
俺を取り囲む冒険者たちの後ろで静かに佇んでいた龍族の集団から動きがあったことで、普段は豪快な冒険者たちにも僅かに緊張が走る。
昨日の宴会を通して、この街の人間と龍族も少しはコミュニケーションが取れたようだが、当然ながらまだ距離はあるようだ。
エレノアはそんな彼らの様子を意に介することなく、俺の傍まで歩み寄り顔を上げた。
相変わらず、彼女の微笑には強心剤でも打ち込まれたかのようにドキリとする。
「私、待ちます」
「え……?」
エレノアははっきりとした口調で続けた。
「私は龍族です。今から二百年ほど、クラウス様より百年ほどは長く生きます。だから……今から百年は待ちます」
百年……。
ここで船に乗って王国に戻れば、数年はエレノアに会えなくなるかもしれないと思っていた。
数年間でも、俺にとっては長い。
だが、三百年ほどの寿命を持つ龍族であるエレノアにとっては一瞬の出来事……なわけないか。
種族が違っても、寿命が違っても、今この瞬間を生きていることに変わりはない。
感じる秒数は、数える日数は、思い返す年数は一緒だ。
「もう決めました。残りの生涯の半分、あなたにあげます」
そう、違うのは覚悟だ。
彼女は、俺が五十年待つのと同じ覚悟で言っているのだ。
エレノアの表情には迷いなど微塵も無い。
軽く、然程のことでもないように……。
応えなければ……。
「……戻ってくるから! 会いに、くるから……」
「はい、いってらっしゃいませ」
輝くような笑顔を見せるエレノアを、俺は自然に抱き締めた。
彼女もごく当たり前のように俺の体に腕を回して密着してくる。
今だけは、粗野な冒険者連中も野次を浴びせてこない。
違和感もあるが、心地よかった。
もっと話すべきことはあったかもしれないが、俺たちは出航までの時間を一瞬でも惜しむかのように抱き合ったまま過ごした。
サウスポートの船着き場からつい先ほどガルラウンジへ向かって定期船が出航した。
交易船がほとんど入港していないので、今の港は人の出入りも少なくひどく閑散としている。
エレノアは堤防に一人佇んでいた。
既にクラウスを見送りに来た冒険者たちは街へ引き上げた。
定期船の姿も既に見えなくなり、船の稼働音は一切聞こえない。
波音と海鳥の鳴き声だけが波止場を彩っている。
それでも、エレノアはその場を動こうとはしなかった。
穏やかに微笑みながら、じっと海の向こうを見つめて。
時折、エレノアに軽く視線を向ける者こそ存在するが、龍族である彼女に軽々しく声を掛ける者は居らず、皆が足を止めることなく過ぎ去ってゆく。
だが、そんな中、エレノアに後ろからゆっくりと近づく女性の姿があった。
「エレノア、もう大丈夫よ」
「…………」
声を聴かずとも、エレノアは気配でジルニトラの存在に気付いていた。
しかし、返答は無い。
「正直になっていいの。今は誰も、あなたに強さを求めないわ」
「ジル……」
軽く振り向きかけたエレノアの顔を、貼り付けたような微笑が覆っている。
偽物の愛想笑いでこそ無いが、決してエレノアの素直な気持ちの表れではなかった。
必死に幸せだった頃の記憶を呼び起こしている者の顔に似ている。
思い出に縋りつく者の顔に似ている。
近しい者でも見抜きづらいことがある取り繕い方だが、百年来の付き合いであるジルニトラは痛いほどエレノアの気持ちを理解した。
ジルニトラは長身のエレノアに後ろからゆっくりと腕を回し、包み込むように軽く抱き締めた。
「聞いているのは、あなたの姉だけです」
「っ!」
その瞬間、エレノアの全てが決壊した。
「うわぁぁぁぁぁあああああぁぁあああぁぁぁ! 嫌だ、嫌だ! いやぁぁぁああぁぁぁぁぁ!!」
エレノアは膝から崩れ落ちるように座り込んだ。
龍族の里を出てから今の今まで一時たりとも剥がれることが無かった微笑の仮面は、一瞬で崩れ去った。
とめどなく流れる滂沱の涙が、悲哀でボロボロに歪んだエレノアの顔を濡らす。
それでもジルニトラはエレノアを後ろから抱き締め続けた。
「どうして!? 戦争のことなんて、何も知らないくせに! いくらあなたが強くても、死ぬかもしれないのに!!」
答える者は誰も居ない。
だが、涙と共に溢れた理不尽への問いは、エレノアの口をついて出てくる。
「いやぁ、クラウス様…………行かないで……………………」
既に船上の人となったクラウスに、その声が届くことは無かった。
4年編(魔大陸編)はこれで終了となります。
隣国との戦争までは書こうと思ったのですが、そこから宿敵との総力戦が長くなりそうなので、次に回します。(m´・ω・`)m ゴメンナサイ…
次話からは5年編です。乞うご期待!