187話 叶わぬ夢
「クラウス様、こちらです」
「ああ。ここは……」
「私のお気に入りの場所です」
エレノアに連れて来られたのは、龍族の里の近くにある場所の岩山の上だった。
眼下には背の高い木々が広がっている。
見慣れた『死の森』の光景だ。
「思ったより高いな」
「そうですね。特に向こうの方は土地が低いので、ここからよく見えます」
エレノアの指差す先を俺も目で追う。
確かに、彼女の言う通り、方角によっては結構遠くまで見渡せるな。
だが、『死の森』の木々は再生力が異常に高いが、強力な魔物も多数生息しているので、激しく荒らされた場所もそれなりに目に付く。
切り立った崖や丘もそこら中に点在するので、世間一般でいう絶景には程遠い。
「龍族の里は……あの辺り?」
「そうですね。あの丘の向こう辺りです」
ここから龍族の里の全体を視認することもできない。
こういう場合、里を一望できる丘の上が定番だろう。
これではまるでサスペンスの舞台だが……まあ、そこは質実剛健とか実用的ということで。
丘に登るだけで里の様子が丸見えの場所などあったら、敵の襲撃があった場合、こちらの様子を手に取るように知られるだけでなく、間接照準射撃をモロに食らってしまう。
そういった場所は、里の近くにあったとしても既に龍族の戦士たちの見張り場所として抑えられているはずだ。
魔物が周囲にそれほど居らず、こうして遠くを眺められるだけでも、ここは『死の森』のど真ん中にしては長閑でいい場所か。
「ここには、よく来るのかい?」
「昔は一人になりたいときにしばしば来ていました。ですが、最近はあまり……。人を連れてきたのは、クラウス様が初めてです」
我ながら単純だが、そう聞くと急にこの場所が尊いもののように思えてくる。
「そいつは光栄だ」
「ふふっ……」
エレノアは穏やかに微笑みながら俺の横に並び、腕を絡めて寄り添ってきた。
幸せな感触が、ベヒーモスのローブ越しに俺の腕を包み込む。
平時なのでガルヴォルンのハーフアーマーは装備してこなかったが……正解だったな。
「あの、さ」
「はい。何ですか?」
俺が声を掛けると、エレノアはさらに密着してきた。
むにむにと形を変えるエレノアのクッションは、あらゆる角度から俺を攻め立ててくる。
欲情ってのは思考を停止させるものなんだな。
今俺は、身を以てそれを実感している。
「クラウス様?」
「いや、えっと……その……いい場所だなって」
エレノアはより一層俺に顔を近づけながら首を傾げた。
「いい場所、ですか?」
「ああ」
「それは……この丘が、ですか?」
「ここも……里も……」
「そうですか。なら……(ずっと、一緒に……)」
「え?」
「ぁ……いいえ、何でもありません。そ、それよりも! この前のズラトロクの居住地は、向こうの方ですよ」
エレノアの指差す先を、俺は視線で追う。
「へぇ、あっち? 雪山が見えないけど」
「あの丘を迂回していったの、覚えていませんか?」
「あ、そうか! あの先に谷があって……」
「そうです。この角度だと見えにくいですけど、向こうがヴァンパイア族の集落がある窪地になっています」
やはり、『死の森』の地形はわかりにくいな。
思えば、一人で森を北上していたときも、頻繁に飛行魔法で上空に出て辺りを確認していたものだ。
「そっか。こうして見ると、本当に俺一人では方角すらまともに把握できなさそうだね」
「心配なさらないでください。クラウス様が里の外に行くときは、いつでも私が同行します。そうすれば、迷うことも無いでしょ? 行きも……帰りも」
「ああ、頼りにしてるよ」
「ふふっ、任せてください」
エレノアは先ほどとは別の場所を指差した。
「サウスポートは……あちらですね」
「そうみたいだね。そっちも街は見えないけど」
「ふふっ、そうですね」
確かに、あの方角から龍族の里へやって来たと思えないことも無い。
エレノアと出会った場所の地形は何となく覚えているので、彼女の指差す先に向かえば、例のブラックドラゴンと戦った場所に出ることができるだろう。
しかし、俺一人で確実にサウスポートへ戻れるかと言われればこっちも怪しいな。
森の見た目など、どこも一緒だ。
龍族の里で暮らして何か月も経った今、サウスポートから進んできた道の様子など覚えているわけがない。
仮に覚えていたとしても、既に様相は大きく変わっていることだろう。
何せ、目印は信号でもコンビニでもなく、木々の間の通り道の形状と特徴的な樹木や果実くらいだからな。
今の今まで進んできた道を引き返すのとはわけが違う。
そんなことを考えていると、エレノアはゆっくりと口を開いた。
「そういえば……クラウス様はサウスポートからここに来るのに、相当な苦労をなさったとか」
「そうそう。スペクターに野営地を襲われて、広範囲殲滅系の上級魔術をデミリッチに全方位から撃ち込まれて……本当にこことサウスポート間の移動は大変だったよ。“探査”も効かないから道もわからないしさ」
『死の森』で夜を明かすだけでも苦労していたのはつい半年前のことだが、随分と昔のように思える。
「でも、エレノアが一緒に居れば、迷うことも無いかな」
「ええ、あの街には私も何度か行っていますから、案内は任せてください。サウスポートに……行くなら……」
「…………」
何気ない言葉のやり取りだったが、エレノアは酷く沈んだ様子で唇を噛み締めた。
俺の腕を握る手にも力が入っているのがわかる。
これで意味を察しないほど俺も馬鹿ではない。
そうだ。
俺がサウスポートへ行くのは、この龍族の里を去る時だ。
エレノアと一緒に居られるのは、サウスポートの波止場までか……。
「ねぇ、クラウス様……」
視線を戻すと、エレノアは俺の顔を強い視線で見据えていた。
俺は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「一緒に、逃げませんか?」
エレノアは俺の正面に回ると、俺の手を取りながら上目遣いに俺を見据え、真剣な面持ちで再度口を開いた。
「一緒に、逃げませんか? 仕事も責任も、全部放り出して……」
「…………」
「二人で北の雪山を超えて、ヴァンパイア族やズラトロクの居住地よりもさらに奥地へ……そこに小さな家を建てて、魔物を狩って暮らすんです」
俺は答えなかったが、エレノアは構わず続けた。
「生活面は問題ないでしょう。私はこの辺りの魔物の知識がありますし、クラウス様の実力なら決して後れを取ることはありません。物資の保管や運搬にも支障は無いはずです。私もクラウス様も魔法の袋がありますし、魔力量も多いですから容量も十分です」
確かに、俺もエレノアも冒険者としては高水準の万能型だ。
剣も魔術も使えて、あらゆる状況下で臨機応変に立ち回れて、魔物の知識と最低限のクラフト能力も持っており、彼女の言う通りアイテム保管庫に関してもクリアしている。
問題は……強いて言えば、エレノアの壊滅的な料理スキルくらいか。
こいつに関しては、俺がキッチンを管理すれば問題ない。
俺にも掃除や片付けが苦手だったりする面はあるが、これはエレノアが意外と気付いたりする。
二人とも生存能力が高く、弱点も補い合える。
俺たち二人なら、どんな場所でも生き抜いていける気がする。
いつしか、俺も彼女の提案を真面目に検討し始めていた。
「時々、正体を隠してサウスポートに行って魔物の素材を売って、山で採れない食材やお酒を買って……あ、醤油と味噌も確保しなければなりませんね。知り合いに頼んでこっそり横流ししてもらいましょう」
エレノアとの生活を選ぶということは、フィリップたち王国の友人たちとの関係を断つということになる。
普段なら、友人に不義理を働くということに考えが及んだ時点で、即座に却下してもおかしくない話だ。
だが、ついに俺の口から否定の言葉が出ることは無かった。
それほどまでに、エレノアの提案は魅力的だった。
「クラウス様!」
「っ……」
エレノアは俺の胸に飛び込むようにして抱きついてきた。
体に回された彼女の腕は、ベヒーモスローブ越しでも圧迫感を覚えるほど、固く俺を抱き締めている。
咄嗟のことだったが、俺は少々上体のバランス崩しながらもエレノアの体重を受け止めた。
「わ、私! あなたのこと……ぁ、ぃ……」
エレノアは言葉を詰まらせながら、俺の胸に顔を埋めてくる。
北か……。
俺は、道がわからない。
エレノアに誘導されたら、黙ってついて行くしかない。
仮にサウスポートへ行くと言われて逆方向へ連れていかれても、俺にはどうすることもできない。
彼女の目論見次第で、俺は王国へ戻ることもできなくなるのだ。
囚われの身なら……仕方ないよな?
俺は、エレノアを抱き締めようと腕を伸ばした。
しかし……。
「……やっぱり、ダメです」
エレノアは俺の手をすり抜けるようにして体を離した。
先ほどまでのエレノアの温もりが消え、いつものベヒーモスローブの温度調節機能の感覚が戻る。
「今のは冗談です。真に受けないでください」
その声はひどく固いものだった。
俺が視線を合わせようとすると、エレノアは体ごとそっぽを向いてしまう。
顔は見えないが、彼女の背は小刻みに震えていた。
ここまで辛そうなエレノアは見たことが無い。
会って間もない頃には壁を作り距離を取っていた感こそあったが、あの時はこれほどまでに気持ちを押し殺している風ではなかった。
一瞬、俺はエレノアの肩に手を掛けて振り向かせようとしたが、それは叶わなかった。
触れたら……顔を直視したら、色々なものを壊してしまいそうだ。
俺は、今居る場所から一歩も踏み出すことができなかった。
彼女にこんな振る舞いをさせてしまったことにも、俺は自分自身へ憤りを感じる。
「クラウス様は……祖国では英雄で軍の重鎮。お仕事の邪魔をしてはいけませんね」
「…………」
それを捨てることができたら、どれほどいいだろうか。
今の俺の状況は前世とは違う。
保障と平均的な収入を定期的に得るために、学業と仕事に縛られる必要は無い。
金もあるし、それなりに力もある。
そもそも社会保障や保険など無いに等しい世界だが、治癒魔術に戦闘力に、健康や安全を自ら確保できるだけの力も手に入れた。
しかし、結局のところ俺は、今世でも仕事や義務から解放されてなどいない。
友人や人の輪を大切にするなどと言えば聞こえはいいが、要は人の柵に囚われているのだ。
『黒閻』の脅威に関しては巡り合わせが悪いとしかいえないが、そうして転生後の十数年を生きてきた結果、俺は好きな女性を自分の元へ招くことすらできなくなってしまった。
「エレノア、俺は……」
「今日は、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
エレノアは俺を遮るように言葉を続けた。
迷惑、か……。
朝のことを言っているのかもしれないが、これなら拗ねていた方がマシだな。
「あと、もう一つ謝らなければならないことが。昨晩のクラウス様のご友人との通信、実は立ち聞きしてしまいまして……お詫びいたします」
「いや……」
当然、察しはついていた。
俺をここに留めおくことができないとわかってなお、エレノアが俺について来ると言い出さなかった時点でわかる。
ヘッケラーに龍族の戦士は連れていかないと報告したのを聞かれていたのだ。
「クラウス様は近いうちにサウスポートから故郷へ発たれるのですよね? 街までは私がご案内いたします。出立の予定が決まりましたら教えてください」
エレノアは踵を返して歩きだした。
目を合わせることなく、俺の横と通り過ぎようとする。
「エレノア、俺は……っ!」
俺はなおも声を掛けようとしたが、突如俺の唇に当てられた指によってその動きは阻まれた。
エレノアは無駄の無いフォームでこちらの懐に潜り込み、人差し指で俺の口を軽く押さえるようにして言葉を止めてきたのだ。
剣術の歩法を応用した動きだな。
二の太刀と四の太刀で重視される足さばきだ。
「…………っ」
至近距離で見るエレノアの金色の瞳は相変わらず息をのむほど美しい。
だが、その眼差しは、かつて無いほど険しかった。
「ダメですよ。真に受けたら。冗談、です。全部……」
さすがに無理がある。
さっきのが冗談なら、何故そんな悲しそうな目をしているんだ……。
「……家に、帰りましょう」
エレノアはそれ以上何も言わずに、先に立って歩きだした。