177話 筆頭家臣の居ない事務室とさらなる進軍
その頃、オルグレン伯爵邸では。
「きぃぃ! 全然、終わらないのです!!」
「ファビオラ様、悪態をついても書類は減りませんよ」
「むぅ、わかっているのです……」
「くれぐれも、破ったり投げ散らかしたりしないでください。後片付けがかえって面倒になりますから」
「わかっているのです!」
「この程度の収支報告書、クラウス殿なら鍛錬や外仕事の合間に片付けてしまいますよ」
「わかって……あんな化け物と一緒にするななのです!」
最早、事務室の名物と化した、ファビオラと家宰エドガーのかけ合いの構図だ。
さらりと不在のクラウスがディスられているが、本人はそのことを知る由も無い。
ファビオラは商家の出身なので会計業務の心得があり、カーラの指導で他のデスクワーク全般に関しても問題が無いレベルにまで達している。
筆頭家臣が不在の今、多くの案件でファビオラにお鉢が回ってくることは自明の理だ。
「クラウスさんが居ないせいで、ワタクシの仕事が凄まじい勢いで増えているのです。まったく、いつまでもどこをほっつき歩いて……あっ! フィリップさん!」
ファビオラがいつもの如くボヤき始めたところで、フィリップが事務室に入ってきた。
室内の二人とデスクに積み上げられた書類の様子から一目で状況を察したフィリップは、自嘲するように苦笑いしながらファビオラの傍まで歩み寄る。
「……お前には苦労をかける」
「そ、そんなことないのです! フィリップさんのためなら、これくらいどうということはないのです!」
慌てた様子で返答するファビオラに、日頃の気だるげな様子は微塵も無い。
ファビオラは不平不満を全て呑み込む気質ではないが、それでも彼女なりに周りの人間へ気を遣っているのだ。
悪態はついても、エドガーやロドスが本気で眉を顰めるような言動をしないだけの線引きはしており、ましてやフィリップには自分のことで負担を掛けようとは思わない。
少なくとも、フィリップに労いの言葉や振る舞いを自分から求めることなどしない。
いい言い方をすれば、空気が読める、もしくは人間が出来ていると表現できる。
しかし、裏を返せば、ファビオラは自分から忍耐を強いられる状況を作ってしまっているのだ。
ファビオラの気質を理解しているだけに、フィリップは言葉は慎重に選んだ。
「そうか。……済まぬな、屋敷で贅沢三昧をさせてやれずに」
「っ!/// その話は忘れてほしいのです!!」
ファビオラは赤面しながら顔を背けたが、フィリップは静かに且つ素早くファビオラの横に回り込み、そっと顔に手を添える。
ファビオラが軽く見上げる姿勢になることも、フィリップがファビオラを支えるようにして上から見つめる体勢も、全て計算の内と思われそうな振る舞いだが、あくまでも天然である。
これが、天然ジゴロによる平常運転だ。
「お前には感謝している。」
「……夫に尽くすのは、妻として当然のことなのです」
「それだけではない。お前は……こうして私を癒してくれる何物にも代えがたい存在だ」
「っ! もう! フィリップさん……」
単純だが、明確で伝わりやすい言葉だ。
二人はしばしの間、クラウスが居たら腹いせに爆弾でも投げ込まれそうな雰囲気を醸し出したまま、事務室のデスクで寄り添って過ごした。
ファビオラが先ほどの不満たらたら顔とは打って変わって、若干だらしない笑みを浮かべながら猛スピードで仕事を片付けて事務室から退出し、ここでエドガーがフィリップに声を掛けた。
絶妙なタイミングだ。
主君と婚約者のイチャつきを邪魔しないようにしながらも、自分のデスクの仕事はこなし続けていたので、無駄な時間が一切生じない振る舞いである。
「お館様。この後のご予定ですが……」
「ああ、わかっておる。王城であろう?」
「はい。軍務局のキャロライン・デヴォンシャー様からです。国防に関する重要な案件である。当家の人間を誰か寄越すように、と」
エドガーは余計な進言を挟まず先方からのメッセージを一言一句違わず伝えたが、フィリップは彼の表情から言外の意味も悟った。
「私が行くのが筋であろうな。わざわざ王城まで呼び出すということは、オルグレン伯爵家全体が深く関わっている話であろう」
「はい、それがよろしいかと」
去年の『フェアリースケール』とメアリーの誘拐を含む一連のトラブルは記憶に新しい。
キャロラインから直接の呼び出しということは、その件に関連するありがたくない進捗があったからに他ならない。
重大かつ面倒な事案であることは確定だ。
この件で当主のフィリップの代役を務められる存在はクラウスのみ。
彼が不在である以上、フィリップ自ら赴くほかない。
既にその辺りの事情を悟っていたフィリップは、小さくため息をつきながら再度口を開いた。
「厄介事の予感しかせんな。さて、切り口はどこであろうか……」
「今更『フェアリースケール』だけで騒ぐ話でもありますまい。『黒閻』そのものより軍務局の管轄の諜報で捉えやすい兆候といえば……近隣諸国か国内の諸侯における不穏な動きを察知したとか、その辺りでしょうな」
「うむ、同感だ」
しばらくの間、二人は真剣な表情で話し合い、キャロラインとの会談に向けた準備を行った。
オルグレン伯爵家の当主であるフィリップが直に出向く以上、行った先で下手に言質を取られるわけにもいかなければ、自分に予備知識や決裁権限が無いという逃げも使えない。
事前に信頼できる家臣と話を擦り合わせることが必要だ。
そして、不穏な話が終わり、フィリップは一つ伸びをして席を立った。
「さて、馬車の準備が済むまで少し時間があるな。茶でも飲むか……」
「お館様、先にこちらへ目を通してください」
無駄の無い動作で差し出された書類に、フィリップの表情は見る見るげっそりとしたものに変わっていった。
エドガーの手の中にある紙束は、とてもではないが数分で目を通し終わる量ではない。
「エドガー、私はようやく執務室の書類から解放されて休憩を……」
「先ほどの奥様との語らいでは、休息として不十分だと?」
「ぐっ……」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
エドガーの問いを肯定するような振る舞いをすれば、ファビオラとイチャコラした意味を否定することになる。
別に誰かが邪推して二人の不仲を吹聴するわけでもないが、フィリップ自身がそれを許容できない。
フィリップはおとなしくデスクに戻るしかなかった。
「では、お館様はこちらの決算報告書をお願いいたします」
「帳簿は苦手だと言っておろうに……この束で全てか?」
「いえ、それはクラウス殿が稼働させた酒造設備に関連する収支だけです。まだまだあります」
「くっ! 何という……」
ヴァンパイア族の居住地近くでペリュトンを討伐し続けること数日。
ようやく敵の数が減ってきたことを実感できる状況になった。
ペリュトンの生息域に来たばかりの頃は、日中は常に襲撃を受け、数秒ごとに奴らが急降下してくるような状態だったが、今現在は数頭の編隊に襲われることが一日に何度かあるくらいだ。
エレノアや龍族の戦士たち曰く、これくらいが今まで通りの密度に近いそうだ。
まあ、中央大陸の基準で考えれば、あり得ないほど頻繁に魔物に遭遇する環境だけどな。
忘れてはならないのが、この辺りはヴァンパイア族の居住地近く、王国で言えば街道沿いも同然の場所だ。
あくまでも龍族からの視点だが、こんな危険地帯で逞しく暮らしている連中でも、殺戮を好まない穏やかな種族扱いとは……。
俺は未だにヴァンパイア族を実際に見たことが無いが、やはり中央大陸の人間としては簡単には理解しかねる基準だな。
そういえば、件のヴァンパイアとはペリュトンの件が片付いたら会談する予定だった。
魔物の密度が正常に近い状態になるまで駆除を進められた以上、彼らと会う日も近い。
はてさて、一体どんな連中やら……。
お目にかかるのが楽しみだ。
……思い返せば、この魔大陸に単身乗り込んできてからというもの、俺は色々とトラブルに見舞われはしたが、何だかんだで充実した日々を送っている。
桁違いの高ランクモンスターの密度と『死の森』のアンデッドには度々苦戦を強いられたが、思ったほど食糧事情も悪くなく、周りの人間にも恵まれた。
楽しみといえば、ヴァンパイア族との交渉が上手くいけば、俺は味噌と醤油を大量に買い集められる。
出張先での滞在ではあるが、思いのほか、俺にとって魔大陸は居心地のいい場所だった。
王国を出る前はホームシックにかかることを心配していたが、案外ここでの暮らしも悪くないものだ。
「クラウス様、起きてらっしゃいますか?」
俺はいつも通り野営地の自分の天幕で寝る準備をしていたが、入口の方からエレノアの声が聞こえたのでそちらへ意識を向けた。
それなりに長く深い付き合いなので、最近では声を聴くだけでもエレノアの気分や感情がある程度わかるようになってきた。
さっきの声からすると、恐らく真面目な話だな。
僅かに声に硬さがあった気がする。
残念ながら逆夜這いではなさそうだ。
「ああ、大丈夫だよ。入ってくれ」
俺が中へ促すと、普段より表情を引き締めたエレノアが姿を現した。
俺の天幕は普通のキャンプ用テントよりは広めのものだが、さすがに応接室までは完備していないので、エレノアに椅子を薦めて俺はベッドに腰掛けた。
「ズラトロクの目撃情報があった場所周辺に展開していた斥候が帰還しました。齎された情報はかなり有用なものと思われます。明日にはキャンプを畳んで移動を開始したいと考えています」
どうやら、遠征は延長のようだ。
ヴァンパイア族との会談も先延ばしだな。
「例のズラトロクが目撃された地点では特に有意義な発見は無かったそうですが、そこからさらに北へ進み山を越えた辺り、ズラトロクの居住地と思われるエリアに異変があったとのことです」
以前のエレノア先生の魔物学の授業で学んだが、ズラトロクは冒険者ギルドの基準なら間違いなくSランクに分類される強力な魔物ではあるが、穏やかな性格で自分から他の生物を襲うことなどしない生き物らしい。
こちらから攻撃を仕掛けなければ、人間が殺されたり食われたりすることも無いので、一部の連中からは聖獣か守り神のように扱われている。
龍族やヴァンパイア族も、自分たちが襲われなければ、まず戦うことなど考えない相手だそうだ。
そういう意味では、ズラトロクの住処は聖域も同然の場所と言えるかもしれない。
「遠目から観測しただけとのことでしたが、それでも斥候部隊の報告は重大な内容です。ズラトロクの領域に非常に密度の濃い瘴気が充満しているようなのです。闇魔術や死霊術、呪いのような魔力で満たされていると」
どうやらその神聖っぽい場所で良からぬことが起こっているようだ。
それこそ、百戦錬磨の龍族の斥候が危険と判断して引き返す程度のことが。
穏やかではない話だ。
「……普段のその場所ならあり得ない、異様な状態というわけか?」
「はい、その通りです」
俺は顎に手を当てて考え込んだ。
強力なアンデッドが生成されるのは『死の森』全域の常だ。
サウスポートに近い浅い森でも、俺は奴らに散々煩わされてきた。
多少の闇魔術や死霊術っぽい痕跡など、よくあるもののように思えてしまう。
しかし、エレノアたちの話からすると、今までのズラトロクの住処は、そのような瘴気とは無縁の場所だったということになる。
突然、環境が様変わりしたのか……。
明らかに異常だ。
「そのエリアの浮遊魔力に自然による何らかのトラブルがあったか、人為的に引き起こされたのか……。何にせよ、現場をもう少し詳しく調べないことには何もわからないだろうな」
「ええ、ですが斥候だけでこれ以上深く偵察させるのは危険すぎます。全軍を率いて、いつでも敵の襲撃や不測の事態に対処できるように備えをしてから行くべきだと考えています」
確かに、下手に投入する戦力をケチって先遣部隊が全滅したら目も当てられない。
この件は消耗を危惧するよりも防備を固めることを優先すべき案件だ。
エレノアの示した方針は、俺の考えとも一致している。
「賛成だ。ズラトロクと遭遇する可能性が高い以上、兵力の分散は得策ではない。俺たちも足並みを揃えていこう」
「ええ。……もしも、ズラトロクと戦闘になれば、またクラウス様に頼る部分が大きいと思います。ペリュトンに続いて、いつまでもお手を煩わせて申し訳ありませんが……」
「それはエレノアのせいじゃないから気にしなくていい。状況を鑑みれば仕方のないことだ。それに、君の護衛はこの遠征隊で一番重要な俺の役目だろ? なら当然、最後まで付き合うさ」
「ぁ、ありがとうございます。……前例のない事態です。気を引き締めていきましょう。」