156話 鮮魚売り場
翌日、俺は朝早く宿を出て市場に来ていた。
昨日は手に入れられなかった魚を買うのだ。
予定はロジャースにも伝えているので、彼自身が姿を見せずとも監視の数人くらいは来るかと思っていたが、予想に反して俺は誰からも接触されること無く市場に到着した。
思ったよりも、ここの代官や警備隊は俺を危険視していないらしい。
魔大陸の事案で彼らの仕事が多忙なのか、俺がグレイ公爵と知り合いなので、領主の寄親への配慮というポーズなのか……。
まあ、俺の場合は下手な兵士が傍に居ても護衛にはならないので、一人で買い物に行かせてくれるのはありがたい。
陰から尾行している者が居ないとも限らないが、明確な殺意をぶつけられない限り、俺が本職の隠密を察知することは難しいだろう。
見られて困ることをする予定も無いので、俺は特に気にすることなく魚屋の集まる区画に向かった。
「らっしゃい!」
威勢のいい声を上げる魚屋の店主は、俺を見て一瞬だけ意外そうな表情を浮かべたが、すぐに商売人の顔つきに戻った。
武装した冒険者や軍人が来るのは珍しいようで、最初は少し警戒した様子だったが、俺の装備を見て金のある客だと判断したようだ。
ベヒーモスローブはともかく、ガルヴォルンの鎧は素人目に見てもそれなりにランクの高い防具だとわかるからな。
俺は店先に並べてある魚を見比べた。
どれも丸々と太って美味そうだ。
秋刀魚に似た青魚は頭の後ろに瘤のような膨らみがある。
あれは脂を蓄えている証拠だったな。
当然、冷凍ではない。
「騎士の兄さん、お目が高いね。こいつはイキが良くて新鮮だぜ。見てくれ、この張りを!」
店主は俺が秋刀魚に目を付けたのを察知すると、一尾を掴んで垂直に立てて見せた。
店主が尻尾近くを握った秋刀魚は、ほとんど横に倒れることなく、真っ直ぐに近い角度を保っている。
四十五度より倒れる角が小さい場合、刺身で食えるほど新鮮だとテレビで見た記憶がある。
とはいえ、この世界の衛生管理で生ものは怖いから――しかも足の早い青魚――きちんと焼いて食うけどな。
それにしても、俺は冒険者より騎士に見えるのか。
鎧のせいかな?
まあいい。
今は買い物の時間だ。
「買おう。その魚をありったけ出してくれ。店にあるだけ全部」
「おお! こいつは豪儀だ! ありがとよ!」
店主は凄まじい速度で秋刀魚が敷き詰められた箱を次々と出してきた。
秋刀魚は全部で百尾は超えているのに、値段は白銅貨三枚という安さだ。
一尾が三十円以下など、現代日本なら考えられない。
冷凍ものより安いじゃないか。
「こいつは塩焼きにすると最高だ。酒の肴にもぴったりだぜ」
知ってる。
しかし、見た目が似ているからといって、この世界の魚が地球と同じものかどうかはわからない。
思わぬところで危険な微生物や毒素が無いとも限らないので、情報収集は怠らない方がいいだろう。
「この魚は内臓も食べられると聞いたのだが……」
「ほう……チャレンジャーだね。見たところ、この街の人間じゃないだろ? 確かに、こいつの内臓には独特のほろ苦さがあって、そっちが主役なんて言う奴も居る。人によって好き嫌いはあるがな」
内臓は食べても大丈夫のようだ。
楽しみが増えたな。
「さて、凄ぇ量だが、どこに運ぶ……って、あんた魔術師だったのか!?」
俺が受け取った魚をまとめて魔法の袋に収納すると、店主は目を見開いて驚愕した。
他の店の連中も似たような反応だ。
どうやら、鎧やサーベルから俺を剣士だと思っていたらしい。
魚も仲間か部下の分をまとめて買ったと思われたようだ。
残念、基本的には自分で食うためだ。……ヘッケラ―あたりは嗅ぎつけそうだけどな。
魔法の袋があれば賞味期限を気にする必要も無いので、遠慮なく数年分のストックを仕入れさせてもらおう。
脂の乗った秋刀魚を買い占めた後は、大口の客に気を良くした店主に色々と質問をしながら追加で注文する品を見定める。
青魚だと他に鰯や鯵や鯖があったので、在庫を出させて全て買い占めた。
もちろん、おすすめの食べ方や注意点を聞くのも忘れない。
現地でどのように食べられているのか、そして食中毒に関してどこまで認識されているのかは重要な情報だ。
「サーディンは塩焼きにしてパンに挟んで食うんだ。骨が柔らかいから、頭と中骨を外せば大丈夫だぜ」
なるほど。
海外の港町の漁師が昼食で似たようなものを食べていたな。
しかし、俺としては蒲焼も捨てがたい。
片栗粉を塗して油で焼き、そこに醤油と味醂を掛けると、衣の片栗粉でタレにいい感じのとろみがつくのだ。
いつか絶対に調味料を手に入れてやる。
鯵は干物を勧められたが、俺はアジフライにしてみるつもりだ。
鯖の味噌煮が作れないのは残念だな……。
因みに、この世界にもアニサキスは居る。
俺は既に自分で釣った青魚でとっくの昔に確認済みだが、魚屋の店主に聞いても、胃を食い破る寄生虫としてきちんと認識されている。
対策は火を通すのが一番だが、いざ脂の乗った鯖を目の前にしてみると、無性にしめ鯖が食べたくなってくる。
しめ鯖の処理は生のまま酢に漬けるという調理法なので、アニサキスを殺す効果は無い。
したがって、しめ鯖や刺身で食べたい場合は、アニサキスが身に入っていない鯖が必要なわけだが、この店で扱っている鯖は全て加熱を前提にしたものだ。
「釣ってすぐに内蔵とエラを取ったものはあるかな? 加熱が一番の安全策だとは聞いているが……」
「兄さん、詳しいな。確かに、生きている内に内臓を処理すれば生でも食える。だが、残念ながらマッカレルは庶民の食い物でな。そこまで手を掛けたマッカレルとなると……」
他の店の店主たちも頭を横に振った。
そうか……。
しめ鯖を食べたければ、自分で釣るしかないのか。
前世なら逆にリスクが高い行為だが、今の俺には“分析”と解毒魔術があるので何とかなるだろう。
……やはり、念のため冷凍もしてみるか。
マイナス二十度以下で四十八時間も冷凍すれば、アニサキスは死滅する。
気を取り直して、鮮魚店に並ぶ魚介類を片っ端から買い漁る。
俺の買いっぷりを見た周囲の店も熱心に売り込んできたので、俺はこのエリアだけで目的の魚介類をほとんど手に入れることができた。
鱚と穴子は天ぷらに最適だが、この世界では油で揚げる調理法が確立されていないためか、天然ものとは思えない値段だ。
穴子は見た目で敬遠されている可能性が無きにしも非ず。
似たようなところで、異世界ものの定番である鰻もあった。
桶に十匹以上は入っているのに、これで銅貨一枚というのだから恐れ入る。
今までは地元の人が買いに来ることも考慮して、俺一人で購入するのは一種類につき店舗二つか三つ分に収めていたが、鰻に関しては遠慮するつもりは無い。
どうせこの世界の住民はゼリー寄せかごった煮にして台無しにしてしまうのだ。
「買った! 他の店のも全部だ。在庫を全て出してくれ」
「はいよ!」
「うちも! うちのイールも買ってくれ!」
「助かるよ! あんた!! イールを全部出してきておくれ!」
鰻の蒲焼は調味料の問題でお預けだが……白焼きならできるな。
わさび醤油は無理だが、塩コショウかオレガノでも掛けてみるか。
一方で、鰤と鮭はそれなりの値段がした。
どちらも見事な大きさだが、一尾丸ごと買うと、鮭は白銅貨が数枚で鰤は銀貨が飛んだ。
前世の生鮭や寒ブリと同じくらいの値段か。
こちらの世界の食材としてはかなり割高だ。
まあ、この二つは普通に焼いただけでも美味い魚だからな。
高級魚扱いなのも仕方ない。
鮭に至っては塩漬けでも名産の交易品として役に立つ。
塩漬けにしないほど器量のいい鮭ともなれば、高級店の料理人が欲しがる品なので、こうして店頭に残っていただけでも幸運だろう。
再び周りの店にも声を掛けて集めたが、まともな状態の鮭や鰤はそれぞれ二、三尾ずつしか集まらなかった。
「すまねぇな。塩漬けのサーモンならあるが、買うかい?」
「ああ、頼むよ」
まあ、生鮭を少し買えただけでもラッキーか。
それに、塩鮭も悪くない。
そもそも、天然の鮭を刺身で食べるのは、魔術があっても不安が残る。
おとなしく塩鮭の焼き方や味付けにバリエーションをつけるか、炊き込みご飯かパスタにでもしよう。
鮭のムニエルはこの街に滞在している間に店で食べればいい。
しかし……半生のスモークサーモンもいずれは欲しい。
脂の乗ったサーモンの刺身も捨てがたい。
長いスパンの挑戦になるが、鮭の養殖の話をランドルフにしてみようかな……。
続けて、鮃、鰹、鮪と見覚えのある魚を購入していく。
鮃はそれなりの値段だが、思わぬところで収穫があった。
「こいつは食べやすい大きさに切り分けるには、ちょいと独特の捌き方をするんだが……どうする? 兄さんは魔術師みたいだから、切っちまった魚でも保存には困らないだろ?」
ああ、斜めに切って五枚とか七枚に下ろすやつか。
プロの捌き方を見てみたくて頼んだが、途中で俺は重要なことに気づいた。
店主は鮃の両側の身の部分以外を捨てていたのだ。
木のバケツにポイッと……。
「アラも引き取ろう。同じ魚のものは全部だ。問題ないだろう?」
「はぁ、そりゃ構わんが……」
ついに店主は俺を理解し難いものを見る目で見始めたが、俺が黙って白銅貨を追加で差し出すと、弾かれたように動き出した。
鰻といい鮃のアラといい、本来なら捨てる部分を欲しがる余所者が居たら、不審に思うのも当然か。
だが、俺としては縁側を見逃すわけにはいかない。
天然の鮃の縁側など、回転寿司ではまずお目に掛かれない代物だからな。
鰹は思っていたよりも安い。
日本では珍重されている魚だが、焼くと身がパサつくので、ここではあまり評価されていないようだ。
鰹のタタキが食い放題とは最高じゃないか。
鮪は二百キロを超えるようなものでなければ、前世のスーパーとは比べ物にならない安さだが、さすがに江戸時代のように捨て値では売られていないようだな。
あの頃は、シビなんて呼ばれて半ばゴミ扱いだったそうだ。
塩漬けにすると不味いのと、デカくて土左衛門に見えることから嫌われており、トロの部分も冷凍技術の無い時代ではすぐ腐るので、かなり低級の魚と見なされていた。
ガルラウンジでは主に焼き物にして食されているようだ。
油漬けを作ったら売れるかな?
ツナマヨを流行らせる計画は、後日ランドルフたちと一緒に練るとしよう。
目ぼしい魚を全て手に入れた俺は、魚以外のコーナーに目を移した。
蛸は見当たらないが、ダルマイカとスルメイカに似た烏賊が大量にあったので買い占める。
蟹は南部で手に入れたリッパークラブがあるので少量ずつでいいだろう。
海老は全部買いだな。
見たところオマールや伊勢海老は無いが、団扇海老に似た海老が一箱あり、ブラックタイガーの箱には色違いの個体も多い。
おが屑の敷き詰められた箱ごと購入しようとするが、魔法の袋に生き物は入れられない。
仕方ないので、蟹は急所を一突きして絞めてもらい、海老はまとめて“氷結”の魔術で氷漬けにした。
魔法の袋に収納すれば冷凍状態で時間が経過するわけではないので、それほど味が落ちることは無いだろう。
続けて目についた貝類を次々と注文する。
蛤にムール貝に帆立に牡蠣が山ほど手に入った。
特に帆立と牡蠣は複数の店舗から重点的に集める。
何故かといえば、俺の好物だからだ。
またしても俺が決行した大量買いに、店主はさらに気を良くして饒舌になり、色々と雑学を披露してくれる。
「オイスターもスカラップも、この街では沿岸で大規模に養殖してるんだ。ちょっとした豆知識だが、オイスターってのはこのスカラップの貝殻を使って育てるんだぜ。オイスターが小さいうちに貝殻へ吸着させて、デカくなったら引き揚げる。俺の親父が生まれる前からそうやってきたって話だ」
地球でも牡蠣の養殖はかなり古くから行われていたはずだ。
この世界では現地人に発見されたものなのか転生者が伝えたものなのかはわからないが、少なくとも帆立の貝殻を使うところは地球と一緒らしい。
なかなか興味深い話だった。
「あと、オイスターは生で食うと美味いが……それなりの確率で中るから注意しろよ。ひでぇ吐き気と下痢を引き起こして、解毒魔術でも使わなきゃ治らねぇ」
店主が牡蠣に関する注意を促してきた。
なるほど、地元の人間でも牡蠣で中ることは往々にしてあるわけか。
俺は治癒魔術と解毒魔術が使えるので、病原微生物がはっきりしている食中毒なら自分で治せるのだが、実際にノロウィルスに感染したら嘔吐と下痢で魔術を使うどころじゃないかもしれない。
注意しておこう。
「貴族様が泊まるような店だと、沖の方で特別に囲ってある区画に集めて育てているオイスターを使うから、半生でも安全に食えるけどな。うちらの品はそこまで保証できねぇから、しっかり火を通して食ってくれ」
「ああ、わかった。助かるよ」
因みに、昨日のサーペント亭の料理は、半生の牡蠣や青魚が不安で、こっそり“分析”の魔術を使ってしまったが、このくらいはレストランの連中も見逃してくれるだろう。
さて、あと必要なものは……。
「そうだ、忘れるところだった。サーモンの卵はあるか?」
「あん? 卵だって? あんなものどうするんだ? 捨てるしかないだ「馬鹿野郎!!」ひぇっ……」
いかん、つい怒鳴ってしまった。
他の店の連中も俺の剣幕に若干引いている。
しかし、元はと言えばこの男がとんでも無いことを言うからだ。
イクラを捨てるだと!?
罰当たりめ……。
俺は銀貨を数枚叩きつけるようにして置き、店主に言い聞かせた。
「明日受け取りに来る。サーモンの卵は塩漬けにして取っておけ。全部だ。絶対に捨てるなよ!」
「は、はいっ! 畏まりました……」