139話 家庭教師 前編
「……で、あるからして、水と氷の境界の温度を0、俺たち人間の体の温度を約36、お湯が沸騰する温度を100とする。純粋な鉄が溶けるのは1538くらいだ。俺の“プラズマランス”はベヒーモスの使う雷属性の魔力で光の槍を模って放つ技も参考にしているが、実体としては雷属性の魔力のエネルギーによって空気を数万度にした状態を意識している。工業に応用すれば、可燃性のガスを利用した切断機でも切れない物体を切り裂くことができるだろう」
「…………」
「あ、プラズマってのは物質の状態の一つで、火もプラズマの一種なんだが……」
幼少期を過ごした懐かしの領主館の自室で、俺は自然科学の理論から魔術を構築する利点と、その基礎知識に関する講義を披露している。
即席の、紙に書いた下手な絵の教材を使って。
俺が実演とばかりに指先に浮かせた“火弾”を黙って凝視するのは、約二年半ぶりに会った妹のロッテだ。
何故、俺がまともな教科書すら無い状態で、行き当たりばったりのクオリティの低い授業をする羽目になったのか?
事の発端は、母エルザの放った一言だった。
「クラウス、あなた……王都の役人さんが来るまで暇よね?」
「ん? ええ、まあ……」
兄たちと腹を割って話したことで、俺も気兼ねなく家族と食卓を囲んだ日のこと。
食事を終えたタイミングで、エルザが声を掛けてきた。
「ヒルデブラント男爵領からの襲撃には引き続き備えなければなりませんが……何かありましたか?」
「もしよかったら……ロッテに勉強を教えてあげてくれない」
「え? 俺が?」
唐突な頼みに俺は面食らった。
「駄目かしら?」
「いや、駄目というか……俺に何を教えろと? 読み書き算術なら、既に母上が教えているでしょう。兄さんたちの家庭教師が使っていた資料も残っているし」
歴史や地理に関しても、魔法学校の入学試験レベルなら、書斎の本を読んでおけば問題ない。
それ以上の知識に関しては、教える人間以前に教材の有無が問題だ。
俺が王都で買ってきてもいいが、商隊に注文しておけば解決する。
それ以外に期待されることといえば……。
「まさか、魔術を教えろと?」
「ええ、さすがのクラウスでも、知識の全てが軍事機密なんてことはないでしょう? 教えられる内容だけでいいのよ」
「う~ん……」
結局、俺は押し負けて妹の家庭教師を引き受けることになった。
母親には逆らえません……。
「……で、この電流A=電圧V×抵抗Rの式。ダメージとして考えるのなら電圧ではなく電流が大切だ。百万ボルトなんて言えば大したものに聞こえるが、実際は革の上着越しでも効く強力なスタンガンはそれくらいの電圧を出せ「兄さま」ん? 何だい?」
今まで黙って講義を聞いていたロッテが俺を遮った。
俺は親指と人差し指の間で青く光る電弧を消してロッテに向き直る。
「クラウス兄さま! つまらないです!」
自分でも表情が引き攣るのがわかった。
ショックというより、失態がバレたときのような感覚だ。
俺の魔術を教えるのなら、まずは基礎的な理科の勉強からと思ったが、さすがに準備が足りなかったか。
いや、それ以前に……。
「……やはり、俺に教師の才能は無かったか」
考えてみれば当然だ。
元々、俺は秀才ではなかった。
興味の無いことには情熱を傾けられないタイプ、ストレスを抑えて努力を続けることができないタイプだ。
どんな環境や授業でも、それを最大限に利用して自分のスキルを向上させられる鍛錬の天才。
それが学校に一人か二人は居る本物の秀才だ。
俺のような凡人は、空いた時間を割くことで人より知識を増やすしかない。
俺も他の多くの凡人と同じように、遊びの時間を削るか学校の授業で手を抜くかして時間を捻出した。
実際に受験勉強でもそうだった。
そんな俺が、人にものを教えるだなんておこがましい。
何せ、授業や講義の利用法が自分で分かっていないのだ。
話術が云々以前の問題だ。
ごく稀に、生徒を惹きつけ楽しませている間に知識や学習法を刷り込んで定着させる、などという芸当ができる教師が本当に存在する。
しかし、俺が真似をしたところで、何一つ生徒のスキルをアップさせることができずに雑談で終わるだろう。
「しかし、ロッテ。知識は使いようだ。例えば、俺の“プラズマランス”と全く同じ魔術を使えなくても、温度や燃焼の概念を理解しておけば、火魔術をただ『火』として認識するよりも強力な火属性の攻撃魔術を会得できる可能性が飛躍的に上がる。あ~、要は……」
ロッテは思ったより鋭く賢い。
俺が魔法学校に行く前も、俺と兄たちの関係が何かおかしいと気づいていた。
最初は俺のことを怠け者とディスる兄たちのことを告げ口してきたりしたが、その時の俺が適当に誤魔化して丸め込んだことにすぐに気づいた様子だった。
食卓に上がる肉が俺の狩りの獲物だということも、誰も口に出していなかったはずだが勘付いていた節がある。
「お前は賢いんだから、俺が講釈垂れた内容の利用できる部分を利用すればいい」
「そうじゃなくて……」
ロッテは俺から視線を外すと斜め下を向いてため息をついた。
いや、これ以上の授業を期待されても無理だぞ。
こっちはマニュアルどころかカリキュラムすらない状態なんだ。
さすがに、前世で通った田舎の公立小学校よりはマシだったはずだが……。
あそこの教師の脳みそはまさに待遇相応だった。
学生の平均レベルに対処できる知識も情報を調達する能力も無かったからな。
しかし、俺にカリスマ塾講師とか言われる連中と同じレベルの講義を要求されても困る。
「クラウス」
俺が途方に暮れていると、エルザが部屋に入って声を掛けてきた。
知ってるぞ。
あんたがまた扉の前で立ち聞きしていたのは。
魔力でわかる。
「クラウス、ロッテは実践したいんじゃないかしら?」
「実践ですか? 魔術の? 勝手にいくらでもやればいいじゃないですか。幸い、この領地には未開地が多いですから、山奥で環境破壊をしても文句は言われませんし、実験台になるけが人も大勢居るでしょ?」
「そうじゃなくて……」
エルザもロッテと全く同じモーションで斜め下を向きながらため息をつく。
遺伝だな。
しかし、実際に魔術を使う練習なら、やるべきことは明らかだ。
強化魔法や魔法障壁を繰り返し展開するなり、人の迷惑にならない場所で攻撃魔術を撃ってみるなり、実際に人に治癒魔術を掛けてみるなり……。
逆に言うと、そうやって何度も練習して、感覚的にコツを掴み、速度や操作精度を上げるくらいしか、魔術のスキルアップに役立つことが無いわけだ。
当然、実戦では魔術の速度や狙いの正確さは重要なので、これを怠る魔術師は早死にする。
「ロッテも……クラウスと一緒に魔術の練習、やりたいわよね?」
「はい!」
ロッテは元気よく返事をするが、当然ながら俺は気が進まない。
「それ……別に俺は必要ないのでは?」
「そんなことないわ。ロッテの魔術を見て、何か悪いところがあったら指摘すればいいのよ。ついでにあなたがお手本を見せてあげればいいわ」
「そんな素振りみたいに……」
剣を振り下ろすフォームの矯正みたいなことを期待しているのか……。
ロッテは既に治癒魔術が使えたはずだ。
発動している魔術そのものを見たところで、アドバイスなどできないと思うのだが……。
いや、ヘッケラーならできるかな?
「クラウス、あなたはロッテに魔術を教えることを引き受けたじゃない。そして、ロッテはクラウスと一緒に魔術の練習をしたいって言っているの。この程度の生徒の要望くらい、聞いてあげたら?」
「クラウス兄さま……駄目でしょうか……?」
「ぐっ……」
根負けした俺は、ロッテが診療所の手伝いに行くのに付き合うこととなった。
まったく、厄介な母娘だ。
「また、クラウス様に患者を治療してもらう日が来るとは……」
「俺も驚いていますよ。ジローラモさん」
イェーガー士爵領の診療所の常在するのは、教会の司祭も務めるジローラモだ。
この領地で治癒魔術が使えるのは、俺が生まれる前はジローラモとエルザだけだった。
治癒魔術の効果のほどを確かめたくなった幼少期の俺は、この診療所まで母に連れてきてもらい、初級治癒魔術の“ヒーリング”を軽傷者に片っ端からかけまくっていた。
俺は中級どころか上級の治癒魔術も使えたが、二人の力量と隔絶しすぎていることが分かったので、初級しか使えない体を貫き通した。
例外が、イレーネの息子であるエルマーが負傷した時だ。
彼は魔物との戦闘で腸が飛び出るほどの重傷を負った。
あれの治療には中級の治癒魔術が必要だったのだ。
「クラウス様は中級や上級の治癒魔術が使えたのですね」
俺は今、ロッテに治療を実演して見せるために、脚に切り傷を負った患者の処置をしている。
この程度なら初級魔術で対処できるので、俺が発動しているのはごく普通の“ヒーリング”だ。
この場で高位の治癒魔術を見せているわけではない。
「……気づいていたので?」
「これでも神官になって長いですからな。治癒魔術の力量は何となくわかりますし、魔力量も……いえ、クラウス様の魔力量は見極められませんな」
ジローラモは俺の魔術の力量が申告通りでないことを知っていた。
当然、魔力量が初級魔術師とは比べ物にならないレベルだということも。
口止めしたわけでもないのに、空気を読んで黙っていてくれたわけか。
知らない間に借りを作っていた。
今度、お礼に酒でも持ってこよう。
「よし、もう大丈夫だ。傷のあった場所に異変が見られたり、痛みが引かなかったりするようなら、また受診するようにしてくれ」
「ありがとうございます、クラウス様」
俺は目の前の患者に治療が終わったことを告げ、帰宅の許可を出した。
「兄さま! 次は私にやらせてください!」
俺が数人の軽傷者を処理した時点で、ロッテが交代を申し出てきた。
俺が初めて診療所に来たときは、患者に物凄く不安な顔をされたものだ。
しかし、けが人たちの方を窺ってみても、ロッテの治療の申し出に不安な表情を浮かべている者は一人も見当たらなかった。
どうやら、ロッテはこの診療所でそれなりの信頼と実績を積み重ねているようだ。
「そういえば、今日はロッテ様の指導のために来られたのでしたな」
「ええ、一応……」
指導とはいっても、正直何を教えればいいのかわからない。
治癒魔術は発動して傷が塞がって痛みが治まればそれでいいのだ。
化膿や感染症の予防に関する知恵は既に存在しており、俺が口を出すまでも無い。
現代日本と比べれば、アルコール消毒がそれほど気軽に使えないこと、傷口の消毒や外科手術の前の殺菌に使えるポピドンヨードが無いことなど、それなりの遅れはある。
塩素を含んだ水道水も無いので、傷の洗浄の効果も低い。
しかし、魔術以外にも最低限の衛生学の発展はあるのだ。
石鹸もそれなりに流通している。
この診療所でも、今ある資源でできる限りの処置と衛生管理をしている。
基本的なことは、ジローラモとエルザがロッテにも教えているだろう。
本当に、俺は何のために来たんだか……。
「ロッテ、いつも通りやってみなさい。クラウスにあなたの腕前を見せてあげましょう」
「はい!」
ロッテは手首を骨折した患者に添え木をすると、慎重に初級の治癒魔術をかけ始めた。
そういえば、俺が最初に治療した患者も、手首を骨折した男だったな。
「精霊のことだま、命のやくどう、傷つきしかの者に慈しみを覚える者よ、みてを差し伸べたまえ――“ヒーリング”」
初級治癒魔術のフル詠唱など、聞いたのは久しぶりだ。
拙いながらもはっきりとした声で詠唱したロッテの手に、僅かな魔力が収束されて患部に吸い込まれた。
「ほう……悪くない」
この診療所は元々ジローラモとエルザで回していたが、俺が手伝うようになってからは戦力が三人に増えた。
しかし、俺は王都に行ってしまったので、診療所はまた初級治癒師が二人で回す状態に逆戻りだ。
ロッテは俺のようなチートまみれの転生者ではないし、まだまだ幼くて治癒魔術も拙いが、いずれは立派な戦力になってくれることだろう。
「どうでした?」
妹は不安そうな目で俺を見上げてくる。
これは……褒めればいいのか?
ロッテの治療にはどこもおかしな点は無かった。
あったとしても、処置全体に間違いがなく治癒魔術が発動していれば、俺には指摘できない。
それ以上は、俺にもできることが無いからな。
エルザの顔にも褒めてやれと書いてあるので、ここは普通に称賛すればいいのだろう。
「何の問題も無かった。“ヒーリング”もきちんと発動できている。成長したね、ロッテ」
「やった! 母様、褒められました!」
まあ、ロッテが喜んでいるのならいいか。
エルザに勉強を教えるよう頼まれた手前、こんな参考にならない指導でいいのか不安になるが……。