137話 入国 前編
フィリップsideです。
王国国境付近にて。
「伯爵様、悪いが部下たちはここまでだ」
「うむ」
マイスナーの指示で、騎乗した警備隊員たちが馬車の一団から離脱してゆく。
街道に残されたのは、マイスナーとフィリップ一行の乗る、オルグレン伯爵家の家紋付きの馬車だけだ。
警備隊とファビオラの捜査により、メアリーと誘拐犯の足取りは当初の予想以上に順調に追うことができていた。
大人数を遠くまで飛ばせる高性能な転移の魔道具を使われていたら、追跡は初動の段階で困難を極めていただろう。
誘拐犯は運送ギルドの馬車を襲撃した後、徒歩で近くの廃屋まで移動し、隠しておいた荷馬車にメアリーを放り込んで連れ去った。
警備隊の捜索範囲に最初の中継地点があったのは不幸中の幸いだ。
メアリーを運び込んだと思わしき廃屋の厩には、彼女の薔薇のリンスの匂いがはっきりと残っていた。
次は馬車の轍を追えるところまで追い、乗り換えや別の人間へメアリーの引き渡しが行われれば、ファビオラが痕跡を確かめつつまた足取りを追う。
そうすれば、いずれはメアリーに追いつけるはずだったのだが……。
「まさか、国外とはな……」
「勘弁してほしいのです」
「やりにくいわね」
メアリー攫った連中の足取りは、王国の東に位置するキーファー公国へ続いていた。
当然ながら、王国の警備隊が無遠慮に踏み込むわけにはいかない。
軍人である警備隊員が大挙して押しかければ、宣戦布告と取られてもおかしくないだろう。
ゆえに、ここから先へ進めるのはフィリップの馬車一台だ。
「静かに忍び込んでメアリーを取り返すことができるのなら、それが一番なのだがな……」
馬車の中の全員が、それは無理な相談だとわかっている。
土地勘の無い他国の地で誰の目にも付かないように誘拐犯を捜索するなど、どう考えても不可能だ。
現地で人と接触して情報収集する必要がある。
フィリップ一行程度の少人数なら問題無いかと思いきや、現実はそう都合よく事は運ばない。
王国の上級貴族家の当主であるフィリップが活動すれば、その事実は必ず公国の上層部の耳に入る。
勇者として爆発的に有名になったことも相俟って、バレずに入国することすら難しい。
「で、その結果が……こうして家紋付きの馬車で堂々と乗り込む、ってことか?」
「うむ、どちらにせよ敵もこちらの動きは察知してしまうだろう。公国の人間の目すら誤魔化せない以上、こそこそしても無駄だ。我々はこのまま正式に入国し、王国と隣接する領地を治めるエルナンド伯爵に会う。本格的に捜索を始めるのはそれからだな」
フィリップは現地の領主の協力を取り付ける道を選んだ。
王国内であれば、裏ではともかく、表立って勇者であるフィリップの行動にいちゃもんを付ける輩は居ない。
しかし、今回の件は他国の貴族との交渉、それも王国から逃亡した犯罪者の捜索である。
さらに、被害者はフィリップの身内ときた。
領主との話し合いは一筋縄ではいかないだろう。
この件自体をオルグレン伯爵家の汚点として言い触らすことを匂わせ、足下を見た要求を突き付けてくる可能性もある。
「くっ……何てことなの……。こっちはメアリーの命が掛かっているというのに……」
フィリップはレイアの肩に手を置いて諭した。
「私も歯がゆいがな。一刻も早くメアリーを救出したいのは、私も同じだ。しかし、襲撃者がメアリーの命をその場で奪わなかった以上、敵の目的は彼女の抹殺ではないはずだ。とにかく、誘拐犯以外の要因に悩まされる可能性は、極力排除しておかなければならぬ」
レイアの放つ殺気が収まるまで、フィリップは彼女のダークブルーの髪を撫で続けた。
「貿易などで国交のある国だったのが救いか……」
「マイスナー殿、何度も聞くが……本当に良いのだな?」
「へっ、くどいぜ伯爵様。俺が尻尾を撒いて逃げだしたら、それこそ誘拐犯以外の足枷だろ?」
今回の一件は、フィリップの勇者の名のもとに行われる討伐でもあるが、犯罪者の追跡でもある。
大勢で押し掛けることはできないが、最低一人は司法機関に所属する人間が同行するべき案件だ。
志願したのはマイスナーだった。
しかし、今回の事案に関しては、決して副隊長の役職名や階級が重要なわけではない。
勇者の肩書きは圧倒的な存在感を持つ。
責任者としてフィリップの名前があれば、警備隊から随行する人間が副隊長のマイスナーだろうと平隊員だろうと、大した違いは無いのだ。
これは他国への侵略とも取られかねない、一歩間違えば国際問題に発展するオペレーションである。
何か落ち度があったときの責任の追及は苛烈を極めるだろう。
公国だけでなく王国内からも批判が集中する。
当然、その対象にはフィリップに同行した者も含まれる。
この件でフィリップに同行する司法官憲の背負うリスクはあまりにも大きい。
キャリアを棒に振るどころか、物理的に首が飛ぶ可能性すらあり得る。
はっきり言って、貧乏くじも同然だ。
だからこそ、フィリップは再三にわたりマイスナーの意志を確かめる。
しかし、マイスナーは一歩も引かない構えだった。
「……はぁ、わかった。貴殿の同行は認める。しかし……命の保証はできんぞ」
当然、責任の追及から庇えないという意味ではなく、余裕の無い危険な戦いになる可能性を示唆してのことだ。
「構いやしねぇ。それにな、伯爵様はどうして俺が自分から損な役回りを引き受けるのか謎かもしれねぇが、こっちにも事情があるのさ」
「?」
「どうもこの件から中途半端に手を引く気が起きねぇんだよ。ヤバい予感はびんびんにしやがる。それこそ、一昨年の国賊に殺されかけたときと同じくらいにな。だがよ……感じるんだ。ここで思い切って足を踏み出さないと一生後悔する、ってな」
メアリー誘拐の裏にただならぬ事情の気配を感じるのは、決してフィリップやエドガーだけではない。
奇しくもそれがマイスナー自身の雪辱を果たす機会になろうとは、この時は誰も予想だにしなかった。
「停まれ!」
公国の西部、穀倉地帯の町に近い街道で、オルグレン伯爵家の家紋付きの馬車は停められた。
街道を警備する関所から、武装した兵士が出てきて馬車を取り囲む。
フィリップ一行はエルナンド伯の館がある交易都市に向かう途中である。
最短ルートで向かうためには、いくつかの小さな町を経由しなければならない。
国境を接する侵略の標的となりやすい場所からは、交易の拠点を多少遠ざけた形だ。
戦乱が始まれば最前線となる場所にエルナンド伯爵が居を構えないのも、ある意味正しい選択と言える。
しかし、それはあくまで公国の出入り口である国境付近に優秀な代官が居てのことだ。
「……ドワーフの商人か。王国方面から来たってことは、運送ギルド……いや、その家紋は何だ? どこの商会のものだ?」
公国の警備隊の指揮官と思わしき男は、御者の運送ギルド職員を見て疑問を発する。
彼はオルグレン伯爵家の家紋を知らなかった。
周りの兵士に比べて数段は上質な鎧を装備していることから、指揮官は明らかに騎士クラスの人間だ。
国境警備隊が両国の貿易と流通において最も重要なポジションを占める貴族の家紋を把握できないなど、王国だったらまずあり得ないことだ。
「オルグレン伯爵家の家紋です。伯爵様本人が乗っておられます」
御者の男は冷静に返答した。
しかし、指揮官は一笑に付す。
「嘘をつくな! 上級貴族が護衛も連れず、そんな貧乏くさい馬車一台で、他国に来るわけがなかろう」
フィリップに一般兵の護衛が必要だろうか?
当主が乗っている場合はそのことを伝えれば十分なので御者も明言していないが、今のフィリップの傍にはレイアとマイスナーという腕利きが居る。
馬車もオルグレン伯爵家らしく過剰な装飾の無い質実剛健な造りだ。
しかし、指揮官にそんな事情などわかるはずもなく、そのまま無遠慮に馬車の扉へ近づいた。
「中を検めさせてもらう」
本当に嘘の可能性があるのなら、警戒レベルを上げつつ相手の素性と目的を調べなければならないはずだが、指揮官の馬車に近づく足取りは無警戒そのものだった。
「お待ちください、指揮官殿。さすがに無礼ですぞ」
「ええい、うるさい! 私の父は男爵だぞ。平民が邪魔をするな!」
御者の制止を振り切り、馬車の扉を開け放った指揮官は、フィリップとマイスナーの顔の顔をじろじろと見比べる。
「ふん、お前が商会の者か。そっちの男は護衛のチンピラだな……ん?」
フィリップを商家のボンボン扱いし、マイスナーを雇われの護衛だと思い込んだ男は、レイアとファビオラにも無遠慮に視線を注いだ。
「エルフと獣人の妾か。その年で生意気な……」
明らかに見下した表情でレイアとファビオラの全身を舐めるように見る指揮官。
傲慢さと好色さ。
二人にとっては不愉快の二乗である。
眉をピクリと動かして一瞬だけ刺すような殺気を放ったレイアとは対照的に、ファビオラは呆れたような表情でため息をついた。
しかし、指揮官は二人の嫌悪に気づくことなく胸元や太ももを見続けている。
杖を持っているレイアが魔術師だと気づかないあたり、この指揮官の観察力が本物の底辺であることが露見した。
「しかし、これではっきりしたな。貴族ともあろうものが、獣人など妾にするはずがない。貴族の名を騙った罪は重いぞ。お前たちを拘「おい」」
馬車の中にマイスナーのドスの利いた声が響き、殺気が溢れ出す。
指揮官はさすがに不穏な雰囲気に気づいたものの、危機感や焦燥感といった類のものは、この状況にあっても全く顔に浮かばなかった。
ただ、自分の言葉を遮られたことに苛立ち、鈍重な動作でマイスナーに向き直ろうとするが……それは叶わなかった。
マイスナーが腕を伸ばして指揮官の首を締め上げたのだ。
「な、ぐぇ!」
およそ戦いを生業にしているとは思えない動きで、指揮官の男は手足をバタつかせてもがく。
完全にパニック状態で、この状況を自ら打破しようとする意志は微塵も感じられない。
マイスナーは指揮官の喉を掴んだまま押し出すようにして馬車から降りると、その体を地面から浮かせて首をさらに締め上げた。
「……ヴっ!」
「いい加減にしろよ。何だって、てめぇみたいな馬鹿が国境警備の指揮を執ってやがる?」
指揮官の顔色が紫から土気色になってきた。
「差別がどうこう以前の問題だ。仕事に必要な最低限の知識すらなく、何でトップに立っていやがる? 俺らの素性が疑わしいんだろ? ならどうして家紋を照合して確認しようとしない? そんなガバガバで、どうして拘束なんて判断ができる? てめぇみたいなボンクラに、どこのアホが権限を与えた!?」
指揮官本人の記憶力が悪くても、知識のある部下を連れて歩くなり、紙面で確認できるようにするなり、補う方法はいくらでもある。
それでも、事務系の能力が著しく不足しているだけならまだいい。
現代でも、運転免許に関する手続き然り、管理する組織の人間の大多数が低能だと、数十年単位の文明の遅れがあるような仕事ぶりになる。
しかし、この指揮官は思い込みで他国の要人を拘束しようとしたのだ。
警備隊が偽物ではないかと疑われてもおかしくないような有様だ。
マイスナーも凡人の気持ちがわからない天才というわけではないので、末端の業務が全て想定通りに動くわけではないことは知っているが、それでもこの指揮官はひどすぎる。
そもそも、こういった手合いは仕事を全うしようなどとは一ミリも考えていないわけだが……。
さすがに、職務に対する責任感がゼロの人間は少数派だ。
マイスナーの堪忍袋の緒が切れるのも当然だ。