132話 姉の戦場
「あらあら、オルグレン伯爵夫人ではありませんか」
「まあ、嫌ですわ。今はまだ、わたくしはただの婚約者ですし、正妻はグレイ公爵令嬢のカーラさんですのよ」
「でも、メアリーさんの妖艶な魅力なら、正妻の地位も狙えるのではなくて?」
「そうですわ。メアリーさんは殿方に人気がありますもの」
魔法学校の講義が全て終わり、学生たちが各々解散する中、メアリーは同じ科目を受講していた女子学生たちと仲良く談笑していた。表面上は。
内容の九割が皮肉と嫌味である。
平民でありながら、今や時の人である勇者にして名門オルグレン伯爵家の当主フィリップの側室に納まったことを、皮肉混じりにわざとらしく褒められるのは、これが初めてではない。
最後の一言を発した女子学生のように、メアリーをビッチ扱いする連中も、今までに掃いて捨てるほど居た。
フィリップと出会う前にも、同年代の少女たちに比べて頭一つ抜けた美貌を妬まれ、嫌がらせや罵倒を受けたことは何度もあった。
故に、メアリーは上手く言葉を選んで受け流す方法を自然と学び、高い社交性とコミュ力を手に入れたのである。
クラウスが見たら唾を吐きそうなこの嫌味の応酬も、メアリーにとっては慣れたものだった。
こういう物言いをするのは、ほとんどが下級貴族の令嬢やオルグレン伯爵家と縁を繋げない落ち目の貴族家や商家の娘だ。
関わらなくてもいい相手だが、メアリーは自分がオルグレン伯爵家の社交を担う存在、クラウス曰く営業部長であることを思い出す。
フィリップ自身は良くも悪くも豪胆な性格で、正妻のカーラは貴族としては最高位の公爵家の令嬢なので、この二人と直接の付き合いのある相手は限られる。
レイアはどう考えても外交向きではなく、ファビオラも上流階級の『親睦を深める』付き合いに関してはものぐさだ。
何より、この二人は異種族ということもあり、特に選民意識が高い上流階級(笑)な連中との関わりは意図的に減らしている。
当然ながら、クラウスに助けを求めても無駄だ。
実際には、クラウスの口利きでオルグレン伯爵家と友誼を結んだ存在も多い。
しかし、その大半はトラヴィス辺境伯家やキャロライン・デヴォンシャーなど軍部の重鎮、言わば国の厳しさの面を取り仕切る連中だ。
バイトの面接と就活の知恵があるとはいっても、この世界におけるクラウスの印象は一番若くて危険な聖騎士。
商売上の付き合いがあるわけでもない下級貴族の子弟が、気軽に話せる相手ではない。
以上のことを踏まえると、乞食のような有象無象をあしらいつつ争いにならないように対応できる人材は、フィリップの身内の中ではメアリーをおいて他に居ないのである。
「ねえ、メアリーさん。ちょっと小耳に挟んだのですが、オルグレン伯爵の側近のイェーガーさん。彼って未だに婚約者どころか側室すら見つからないって本当ですの?」
「あ、それ私も聞きました。何でも、女性の扱いが酷く下手だとか……」
「王宮でも令嬢の皆様からの評判はよろしくないわね」
「色々と噂はありますけどねぇ。宰相閣下のご息女キャロライン様に……あ、そういえば、メアリーさんの妹さん、何て言いましたっけ? あの澄ました態度の……」
「アンさんでは? 確かに、彼女もイェーガーさんとはただならぬ噂が……」
「まぁ、そうでしたの……」
「オルグレン伯爵にはメアリーさん以外にも何人も妾が居るのでしょう? いっそ、メアリーさんが付き合って差し上げればよろしかったのに」
こういった格下相手にも気を遣い、どうにか良好な関係を築けるように邁進するのは自分の役目。
メアリーはそう自分に言い聞かせて、作り笑いを顔に張り付けた。
本人に直接嫌味を言う度胸も無く、かと言って阿るわけでもなく。
僅かな鬱憤を晴らすために一番弱い人間にネチネチと嫌味を言う生態にはうんざりだが、これも貴族や上流階級もどきという魑魅魍魎の性だ。
アンを侮辱されたときには思わず手が出そうになったが、そこもグッと堪える。
「――私、思うんですけど、他の男性との関係については、正直に申し上げるべきではないかしら。ああ、別にメアリーさんのこととは言っておりませんけど……ねぇ?」
「そうですわね。何せ……」
話が耳に入らなくなってきた頃合いで、メアリーは愛想よく振る舞う限界を悟って席を立った。
「あら、そろそろ時間ですわ。お先に失礼いたします。それでは、ごきげんよう」
嫌味を聞き流すのもあしらうのも幼少期からの経験と客商売で慣れたもののはずだったが、それでも許容量に限度はある。
背中にドロドロとした悪意に満ちた視線を感じるが、メアリーは無視して講義室を出た。
魔法学校の片隅の図書館にメアリーの姿はあった。
机には講義資料の他に現代日本で言うところの経済や経営の蔵書が積み上げられ、メアリーの手はせわしなく本のページを捲りつつペンを動かしている。
メアリー以外のオルグレン伯爵家の面々は、3年になると魔法学校にはほとんど姿を見せなくなった。
基礎教育過程であるのは2年次までであり、3年以上この学校に定期的に通うのは、研究や専門的な講義を受講する者だけだ。
就職や仕官が決まれば、大抵の学生は中退してしまい、一部の研究や卒業などのために在籍し続けても、最初の二年のようにフルタイムで講義を受ける学生は稀だ。
クラウスとレイアは図書館の蔵書から魔導理論に関する書籍を借りていくこともあるので、3年生としては比較的この学校を利用している方だ。
それでも講義を受けているわけではないので、二人が魔法学校に居ることはほとんど無い。
フィリップとファビオラに至っては、今年度は一度も魔法学校で顔を合わせてことが無いほどだ。
フィリップは苦手だった数学を習い、貴族家の当主として学歴を手に入れておくために魔法学校に入ったので、これ以上の講義や研究は必要としない。
最低限の学問は幼少期に専門の家庭教師から習っており、戦闘訓練に関しては自衛レベルの魔法学校の教練が今更必要かどうか言うまでもないだろう。
ファビオラもこれ以上の学問を修めようなどという向上心は持ち合わせていないようだ。
そんな中、何故メアリーが今も熱心に魔法学校に通い講義を受けているのかといえば、一番しっくりくる表現は不甲斐なさだった。
オルグレン伯爵家は王国どころか世界に冠たる存在である勇者のフィリップはじめ、あらゆる優秀な人材で固められている。
自分と同じフィリップの婚約者は、文系の学問に優れる公爵令嬢のカーラを筆頭に皆が一芸に秀でた才媛だ。
既に宮廷魔術師団の席官クラスの実力を持ち、あらゆる魔導理論と錬金術に造詣が深く、冒険者としてのキャリアも長いレイア。
ファビオラも護身の範疇を超えた短剣術と斥候技術を修めており、商家の出だけあって人並み以上の教養があり金勘定も速い。
さらに、オルグレン伯爵家は家臣も只者ではない。
先代当主の頃からオルグレン伯爵家に仕える、元Sランク冒険者で剣聖の異名を持つ家宰のエドガー。
伯爵家が統括する運送ギルドの構成員も、ギルドマスターのロドスから平社員に至るまで、一人一人が主家への忠義に厚く騎士並みの精強さを持っている。
極めつけは、史上最強の呼び声も高い、まともに戦えばフィリップの方が危ないほどの力を持つ聖騎士のクラウスだ。
以上の人材を擁するオルグレン伯爵家において、戦闘や魔導に関しては最初から諦めているにしても、外交、経理、事務、学問のどれを取ってもメアリーが明らかに優れている分野が無いのだ。
メアリーとしては社交性に自信があったものの、貴族家同士の付き合いではフィリップ自らが対応すべき場合以外はカーラの領分となる。
デスクワークにおいても、エドガーはじめ優秀な人材の多いオルグレン伯爵家で、メアリー一人の力が大きく貢献できるわけでもなければ、むしろファビオラが経理に関して頭一つ抜けて正確さと速度に優れており、カーラは書類仕事においてイリスの文官学校首席の力をいかんなく発揮する。
さらに、文系の仕事においても圧倒的な貢献度を見せるのがクラウスだ。
ランドルフ商会をはじめ、運送ギルドに益のある大口取引を成立させた功績を思えば、商業に関する手腕を疑う余地は無い。
会計の仕事をやらせてみれば、商家出身のファビオラを大きく引き離す圧倒的な速度と正確さで帳簿を作成し、学問においては少々偏りがあるものの自然科学や工学に関しては王国でも屈指の知識を持っているかもしれない。
こんな連中に囲まれては、平凡な武器屋の看板娘だったメアリーが、自分の存在価値に疑問を抱くのも仕方のないことだろう。
「ふぅ……せめて、オルグレン伯爵家の文官として戦力になるくらいには……」
自分にできる経理、経営、事務、社交の能力を広く深く。
メアリーはオルグレン伯爵家の才能の塊たちを一人一人頭に思い浮かべると、再び本を捲って講義内容の復習と周辺知識の補足を始めた。
「……お姉ちゃん」
休日の女子寮のラウンジで、アンはメアリーと顔を合わせた。
アンは研究室が終われば、メアリーも放課後に図書館での自習を終えれば寮に戻ってくる。
話す機会はあるのだが、やはり日があるうちに顔を会わせるのは珍しい。
メアリーもこの学校では数少ない心を許せる相手である妹に、自然と笑みを向ける。
「あら、お寝坊さんが珍しいこと。休日なので、まだ起きていないのかと思いましたわ」
「ん、今日は特別」
接近するアンの真剣な表情に、メアリーのペンも思わず止まった。
「お姉ちゃん、最近無理しすぎ」
「え……?」
「人付き合いも勉強も、頑張りすぎ」
アンは机の上に広げられたメアリーの勉強道具にジト目を向ける。
こんな休日の午前中にまで勉強をしているなど、クラウスが見たら卒倒する光景だろう。
「そんなことは……」
「お兄さんが言ってた。勉強はいつでもできる、息抜きの予定に合わせるべきって」
クラウスが言ったのは、他の学校に比べて明らかに有意義な授業をしているわけでもないのに、学生の一日の大半を拘束するスケジュールを押し付けることが当たり前だと勘違いしている前世の学校の話だ。
大学受験のための勉強ならば、自分のレベルに合わせた志望校と偏差値が設定できれば、やるべきことは大体決まっている。
そして、その多くは学校の勉強とは別に時間を割いて自分自身でやらなければならないものだ。
少なくとも、公立の学校のカリキュラムに合わせた勉強というものが、自習より役に立つことは少ない。
何せ、受験勉強とは如何に自分が抜きん出るかが勝負である。
アドバンテージを取るための自身の勉学において、普遍的な授業やカリキュラムを活用できるのは、それこそ本物の秀才だけだ。
よほど優秀な私立の進学校でもなければ、学校というものは学歴を寄越すことが存在価値の九割を占めるものになる。
公立の学校であれば、待遇の問題で教員のレベルが学生の平均を下回るほど低いことも、この状況に拍車をかけている。
しかし、この世界における学校教育は、文明の水準から言っても、現代日本ほど価値が低いわけではない。
メアリーはクラウスの前世の事情など知るはずもない。
しかし、彼女にも何となくクラウスの言葉が自分には当てはまらないことはわかる。
「それ、真に受けたら大変なことになりますわ。クラウスだからできることで……」
「だから、今日はお姉ちゃんを外に連れ出す」
「え? 外、ですの?」
突然のアンの申し出のメアリーは目を丸くした。
当のアンはメアリーにはお構いなしに話を進める。
「今日、ミゲールさんの店で甘いリキュールを使ったお菓子が売り出される。行こ」
「…………」
レイアほどではないが、メアリーも若い女性だけあってスイーツには目が無い。
彼女にとっても、フィリップたちと共にミゲールの店に通うのは楽しみの一つだった。
3年になってからは、いつも全員が魔法学校に揃っているわけではないので、ミゲールの店には久しく行っていない。
それに、アンも魔剣の研究に余念がない日々を送っているので、たまには息抜きも必要だろうという考えに至る。
よくよく思い出せば、姉妹二人で出かけるのも久しぶりだった。
メアリーはアンの申し出を受けることにした。
「わかりましたわ。では、着替えてくるので少々待っていてくださいまし」
「んん……急いで。売り切れたら大変」
アンは苦笑しつつ頷いた。
「ええ、わかっていますわ」