「そして終局へ」
玖貝一家の住むアパートを少し離れた路地から監視し続けているのだが、一向に動きはない。
自分の部屋から出た後、私は玖貝麗子の殺害にあたってどのような手段を取ろうか考えた。あれこれ逡巡したすえに、虚を衝いて刃物で刺し殺すのが妥当という結論に至った。なので雑貨屋で出刃包丁を購入してから此処に来た。彩音に連れられて一度来ただけ――それに私は外部の情報を極力入れないようにする性分だ――なので途中で道に迷ってしまったのだが、どうにか辿り着けた。
部屋に乗り込んで殺すというのはやめようと決めた。なんだか手荒で、私にできる気がしないし、やはり背後から虚を衝くというかたちでないと成功しないと思われたからだ。面と向かって対峙すると足がすくんでしまうのでは、という懸念もあった。それに、彩音が生活する部屋を血で汚すのは避けたい。部屋が事件現場となれば、玖貝麗子が千代原真一にストーキングしていたということが割れてしまう惧れもある。私がすべての罪を背負う以上、玖貝麗子は優等生のまま死ななければならない。
だから玖貝麗子が外出するのを気長に待つしかないのだが、しかしこうしていると徐々に不安が首をもたげるのだった。
玖貝麗子は既に私が彩音を匿っていると知っている。ならば、私と入れ違いになって、私のアパートに向かっているのではないだろうか……。
そして間抜けにも、私は自分の部屋の錠をかけて来なかったのだ。
気分が高揚していたせいで、理性的な判断ができていなかった。私が玖貝麗子を殺害した後に、警察が彩音を救出しに来たとき、スムーズに中に這入れるように……なんて馬鹿馬鹿しい考え方をしていたのだ。
本当に玖貝麗子が私の部屋に行ったとしたら……彩音が殺されてしまう。彼女はその罪を私に被せるかも知れない。彼女にとって、彩音を殺す絶好の機会だ。
とりあえず一旦、帰るべきではないだろうか。彩音にあそこまで格好付けて出てきた手前恥ずかしいが、そうも云っていられない。彩音の無事を確認してから出直すことだってできる。私が玖貝麗子を殺すタイミングはいつだって構わないのだから。
私は踵を返し、急ぎ足で私のアパートに向かった。
そうしてみると、どうしてもっと早くそうしなかったのか、と後悔の念が襲ってきた。もしも取り返しのつかない事態になっていたら……。膨れ上がっていく不安感に急かされて、私はいつしか全力疾走していた。こんなに本気で走るのは、生まれてはじめてかも知れない。
……彩音と出逢ってからここ数日、はじめてなこと尽くしである。
……嬉しい、と思う。心の底から、自分が生きている、と思う。
やっとアパートの前まで帰って来られたときには、肺が破裂しそうなほどに息が上がっていた。しかし呼吸を整えるのももどかしく、私は階段を駆け上がり、自分の部屋の扉を開けた。
「え……」
ある程度は予期していた事態にも拘わらず、私は一瞬、呆気に取られてしまった。
狭い部屋の中に千代原真一と仲野宮ゆめと、それから玖貝麗子がいた。その三人に囲まれて、彩音が泣いている。
私は脳内が燃え上がるような感覚を覚えた。極度の混乱状態にありながらも、自分がやるべきことだけは分かっていた。
玖貝麗子を殺さなければならない。
これ以上立ち止まっていたら動けなくなると悟った。物怖じしてしまわないうちに行動するのだ。
私は懐に忍ばせていた出刃包丁を手に取り、玖貝麗子に向かって真っ直ぐに駆け出した。
殺すのだ。彩音のために。私に迷いは一切なかった。




