3「玖貝麗子の秘密」
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私と彩音が玖貝家に到着したのは、午後一時ごろだった。
母親は朝早くから勤めに出るし、姉は表向き優等生を演じているから学校に行っている、と彩音は太鼓判を押した。つまりは、無人の時間を見計らって来たのである。
玖貝麗子は彩音が失踪したことを誰にも話していない、と彩音は確信しているようだ。自分が通り魔であると知って逃げ出した彩音の捜索を公的機関に頼むなんて有り得ないし、その性格を鑑みれば母親にだって隠すに違いないらしい。母親が家にいる時間がかなり少ない家庭環境から、それは充分に可能とのことだ。
よって、玖貝麗子は普段どおりを装いつつ、裏で彩音を探していると見て間違いないのだと云う。
「しかし、そう断言もできないのではないだろうか。もしも彩音さんの――」
「お兄さん、また〈さん付け〉してるよ」
「も、申し訳ない……」
昨晩、私は彩音から名前を呼び捨てしていいと云われていたのだ。私は遠慮したのだが、こうして〈さん付け〉するたびに指摘されるので、彼女からすると是非そうして欲しいということらしい。
人の名前を呼び捨てするなんて、当然ながらはじめてなのだが……。
「もしも彩音の捜索願が出されていたら、こうして外に出ているのはまずい。取り押さえられた場合、私には云い逃れの余地がない」
「絶対にないから平気だよ。それに、そうなったとしても、彩音が守ってあげるから」
たしかに私が誘拐犯ではないと彩音本人が証言してくれれば、罪に問われはしない……のだろうか。そのあたりは怪しい気もする。
「それでずっと顔を伏せて歩いていたんだね」
「い、いや、これはいつも通りだ」
外界と隔絶するために、私は視界に捉えるものも必要最小限に抑えるようにしている。
「周りから見ると、ちょっとおかしいよ?」
「え、それは本当だろうか」
「そこまで前傾姿勢で歩く人ってあまり見ないよ。職務質問みたいなの、されちゃわない?」
「経験はないが……」
しかし悪目立ちしていたとは、思ってもみなかった。それは私が最も忌避すべき事態である。ショックのあまり、体感が時間に置き去りにされていく……。
「ちょ、ちょっとお兄さん、大丈夫? 固まっちゃってるよ?」
彩音が私の腰を支えるように手を回した。こうして触れられると途端に緊張してしまうが、今回はそれが我に返るための一助になった。
「とにかく心配なら、早く済ませちゃおうよ。ね?」
「承知した……」
改めて、目前のアパートを見上げる。木造建築、三階建て、各階の部屋数は四つの、別段変わったところのないそれである。特別綺麗でも汚くもなく、周囲のアパートや家々と比べて浮いている観はない。
彩音は自分の家を貧しい方と云っていたが、あまりそうも感じなかった。アパートの外観や、そこから推測できる部屋の広さは、むしろ私のアパートよりも好条件である。いや、しかし、私はあくまで学生の一人暮らしだ。家族三人が暮らすにしては、これは恵まれているとは云えないのかも知れない。常軌を逸して世間知らずな私なので、そういった判別ができない。
彩音に連れられる格好で、私はアパートの階段を上がる。玖貝家は三階の端から二番目に位置していた。扉の横に三〇二号室と書かれたプレートが貼られている。
手ぶらで家を飛び出してしまったと云う彩音だが、幸い鍵だけは持っていた。正確には、鍵の入れ場所としても使っている財布をポケットに仕舞ったままにしていたらしい。
彩音は開錠し、扉を開けた。玄関に靴がないことを確認した彼女は、私に目配せし、中に這入って行く。他人の家にお邪魔する経験が皆無の私は気が引けたが、観念して後に続いた。
これが彩音や玖貝麗子が生活する部屋……。その独特の空気に包まれて、私は少し眩暈がした。彩音の案内で来ているとはいえ、奇妙な背徳感があるのだ。一瞬にして咥内が渇く感じがした。
私と彩音の呼吸音以外はまったくの静寂。どうやら他に家人はいないようだ。
細い廊下が奥へと伸び、居間に通じている。廊下の左右には扉がひとつずつ。居間は這入って右寄りに広がっており、キッチンが備わっているのもそちら側だ。居間の左側には洗面所に通じるらしい扉と、和室に通じるらしい襖がある。
「此処が、お姉ちゃんの部屋」
彩音が、廊下の左手にある扉を開けて中に這入った。私も固唾を飲んでから続く。
五畳程度のその部屋は、物が少なく、整頓されており、小奇麗だった。布団の畳み方も乱れがなく、人が生活している感に欠けるくらいである。
「彩音さんは――」
「あ、また」
「も、申し訳ない。……彩音は、一体私に何を見せようと云うのだ? 目で見て確かめた方がいいという言葉から、通り魔殺人の証拠等があるのかと推測していたのだが……」
「通り魔殺人の証拠なんてないよ。お姉ちゃんは完璧主義者だから、そんな証拠は残してないと思う」
彩音は部屋の隅に置かれた学習机に近づいていく。
「だから見て欲しいのは、別の証拠なの……」
語尾のあたりが少し震えた。彩音はいかにも恐る恐るといったように机の抽斗に手を伸ばす。
「来て、お兄さん……」
抽斗の中に何かがあるのだろうか。
私が傍まで来たところで、彩音はそれを開けた。
「え?」
間抜けな声が洩れてしまった。
抽斗の中身を主に占めているのは、大量の写真だった。
すべてが同じ人物を遠くから写している写真。その写り方からして、盗撮した写真と分かる。
その人物に、私は憶えがあった。
高校の教室で、いつも私の隣に座っている男子生徒……千代原真一である。
「こ、これは、どういう……」
彩音は今にも嗚咽を洩らし始めそうな様子で、写真を取り上げ、机の上に広げていく。
千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一。千代原真一……。全部だ。全部、写っているのは千代原真一だ。例外は一枚としてない。写真によっては、千代原真一の周りが黒のマジックで塗り潰されている。おそらく、他の人間が写っているスペースだ。千代原真一以外の人間は見たくもないとでも云うように、何度も何度もインクを重ねて……穴が開いてしまっているものすらある。
抽斗の中の写真がなくなるまでに、どのくらい時間がかかっただろうか。
だが、まだ終わりではなかった。彩音は、机の、別の抽斗を開けた。その中も写真で一杯になっていた。
千代原真一を写した写真であるのは同様だが、その中で彼はまだ中学生だった。何枚も何枚も、写真が机の上に広げられていく。ほとんどは登下校の最中を撮ったものだろうか。千代原真一以外の人間が写っていたと思われる部分はやはりマジックで塗り潰されている。
私は唖然として、それを眺めた。衝撃や戦慄、そういった感情が置いてけぼりにされている感覚だった。
「まだ、まだあるの」
彩音はまた別の抽斗を開けた。そこには空のペットボトルや缶、使用済みの割り箸、プラスチック製のスプーン等が入っていた。それから、いくつもの食品保存用の小袋……中身は髪の毛や、使用済みのティッシュや……そのとき、それらの意味が分かった私の背筋がゾクゾクと震えた。
これらはすべて、千代原真一の……。
彩音が食品保存用の小袋のひとつを摘まみ上げる。透明な袋の中には歯がひとつ、入っていた。
「憶えてる……。小学生のとき、真一お兄ちゃんが遊びに来て、そのときに丁度、歯が抜けたの……。お姉ちゃんは、それを……」
小学生のとき? 小学生のときから、これは続いているのだろうか? 今までずっと、千代原真一を、陰ながら、ずっと、ずっとずっとずっとずっと……。
千代原真一はきっと、知らない。玖貝麗子のこの行為を知らずに、彼女に接している。幼馴染の年上のお姉さんとして、何も知らずに。
思えば、私が玖貝麗子に惹かれたのは、彼女に何か、深い闇があるような気がしたというのが一因にある。完璧な優等生であるらしい彼女に、その高潔の裏に、私はいけない秘密めいたものを感じていた。それが彼女の魅惑の正体だと考えていた。これは本当だ。ただ容姿が端麗だという理由で私が、人間嫌いの私が、ああも心奪われたのではない。玖貝麗子が抱えている鬱々しい何かを私は感じ取り、根本の部分でシンパシーを覚えていたのだ。矮小な私ごときが抱える恐怖心を丸ごと飲み込んでしまうような魅力に憑かれたのだ。
だが、これはそんな予感を、遥かに超えていた。とても許容できない領域にまで、振り切れていた。
「まだ、まだなの。まだ半分ですらない」
彩音は別の抽斗を開ける。詰め込まれているのは男物の衣服だ。大事そうに、ひとつひとつが丁寧にビニールで覆われている。
「もっとだよ」
彩音はさらに別の抽斗に手を掛ける。
「まだまだ――」
「も、もう分かったっ」
私は思わず、声を荒げてしまっていた。
「もう、分かった、から。充分、だから……これ以上は、見ないでいい……」
全身の力が抜けて、私は膝から崩れた。
彩音も溜息を吐いた後に、私と同じようにその場に座り込んだ。
部屋が今一度、静まり返る。偏執的なまでに整頓されすぎている部屋。この場所が有り得ないくらい異常な空間と、今の私には嫌と云うほど分かった。
「あの人は、おかしいの……」
やがて、彩音はぽつりと述べた。
「狂っているの……。あの人、真一お兄ちゃんへの愛情が、どう考えても普通じゃない……。ストーカーなの、ずっと昔から」
彩音は憔悴しきっていた。おそらく今の時間による疲れだけではない。千代原真一に対して尋常でない固執を見せる姉を見続けてきたこれまでの人生、そのすべての疲労だ。
「あの人は、真一お兄ちゃんの恋人を殺すためだけに、通り魔殺人をやったんだよ。もう、あの人は……あの人は……」




