迷えるウサギと悶えるクマ
「こんな不味いもん飲めるか!地獄のように濃いコーヒーが飲みたいって、いつも言ってんでしょ!ほら、さっさと入れ直す!!」
理不尽な文句とともに足蹴にされたのは、モデルのように背が高く、浅黒い肌をした制服姿の少年だった。
「あのさぁ、今日は入学式だから、もう出発…」
「あぁん、あんたの入学式とお母様のコーヒーだったら、どっちが大事か分かるでしょ。大体、あんたが今生きていられるのは、誰のお陰よ!」
険しい形相で捲くし立てられた少年は、「すぐに、入れ直してきます。」と答えるしかなかった。
「あっ、私はホットカルピスが飲みたいな!」
女の子はアイロンで髪をセットしながら、軽い口調でそう言った。
自分で入れろと言いかけるが、「我が家は‘女尊男卑’主義だからね。」と少女の口に似合わぬ言葉で釘を刺され、渋々準備に取り掛かるのであった。
先ほどの発言からも分かるように、俺は家庭での地位がかなり低い。
ボスとして君臨する熊谷佐知(くまがいさち)は、二児のシングルマザーでありながら、売れっ子のbl小説家として活躍する一家の大黒柱だ。
次に挙げられるのは、妹の熊谷亜依美(くまがいあいみ)だ。9歳の少女にしては高い女子力の持ち主で、可愛らしい外見をしているのだが、中身は母親の影響を受けて完全に腐りきっている。要するに、世間一般で言う腐女子だ。
「ここに置いておくから。」
そっけない言葉とともに机の上に飲み物を置くと、俺は逃げるが勝ちといった様子ですぐに家を出た。
すっかり申し遅れてしまったが、俺の名前は熊谷大樹(くまがいだいき)可哀想な熊谷家の長男だ。
俺は今、猛スピードである場所へと向かっている。
目的地は入学式が行われる学校ではなく、幼馴染のウサギこと、宇賀野うさ吉の家だ。
なぜかって?理由はとても簡単だ。
俺にとっては、学校に遅刻することなど痛くも痒くもない。
いつ、いかなる時でも、どんな場合であっても、最優先すべきはウサギだと心に決めているのだ。
それにしても、ウサギはあまりにも無防備すぎて困る。
360度どこから見ても非の打ち所がない、生きる芸術品のような容姿からは、フェロモンが溢れ出している。
性別の壁を軽々と乗り越えて人々を魅了するため、少しでも目を離せば野獣と化した男共に襲われかねない。
ただ、本人には全く自覚がないので、ウサギを守ることが俺の義務であり、習慣になっていた。
息を切らしインターホンを鳴らすと、一目でウサギの母親だと分かる容姿端麗な女性に出迎えられた。
「あらぁ、大樹くん!うさちゃんは、ついさっき家を出たところだから、追いかければ会えると思うわ。」
いつも通りのおっとりとした口調で、麗子さんが教えてくれた。
一礼して去ろうとしたところ、「最近あんまり遊びに来なくなっちゃったけど、大樹くんに会えるの楽しみにしてるから、いつでも来てね。」とウサギそっくりな笑顔で見送られて、俺のテンションは急上昇した。
俺は急いで駅に向かった、ウサギの姿を確認すると同じ車両に乗り込んだ。
今すぐにでもウサギのそばに駆け寄りたかったのだが、通勤時間の混雑により身動きが取れずにいた。そんな時、不審な男がふと目に止まった。
恰幅の良いスーツ姿の男は、扉と座席の間に立つ小柄な人物に、体をすり寄せているようだった。
注意深く見つめると、男と壁に挟まれた学生が苦悶の表情を浮かべていたので、俺は男の手を掴んで「この人、痴漢です。」と容赦なく言い放った。
ホームに降り立ち駅員に男を引き渡すと、被害者である学生はお礼の言葉を繰り返した。驚いたことに痴漢の被害にあっていたのは、俺と同じ制服を着た男子高校生であった。
その生徒は、ウサギに劣るとはいえ、少女のように可憐な美少年であった。
「本当に、ありがとうございました。」
涙ぐんだ瞳で繰り返し感謝の言葉を述べられたが、当然のことをしただけだという旨を伝えるとウサギを探し始めた。
しかし、何度見渡しても駅にウサギの姿はなく、不安に駆られた俺はスマホを取り出し、思い付く限りの方法で連絡を試みたのだが返事は来なかった。
学校に向かう道中でもウサギを捜し続けていたのだが、その姿はどこにも見当たらない。
連絡が取れないことに焦りを感じながらも、人だかりとなった掲示板の前で足を止め、ウサギと自分のクラスを確認してみたところ、二人とも一年二組であった。
小学校で出会って以来ずっと同じクラスであったので、俺たちが同級生になるのは十回目だ。
その後、講堂での式典が始まっても、一向にウサギが現れる気配はしない。
俺の可愛いウサギのことだから、どこかで変態に襲われている可能性も否めない。
ただ単に、道に迷っているだけならいいのだが。
思案に耽っていると、「Good morning everyone!」その場に相応しくない陽気な声が響いた。
檀上に立つのはこの学校の理事長であり、創設者の子孫にあたる皇楠 獅子之助(こうなんししのすけ)だった。
背の高いシルクハットを被り、タキシードで決め込んだ紳士は高らかな声で話し始めた。
「諸君、伝統ある皇楠学院高等学校へようこそ!
我が校は、遊びと勉学の両立をモットーに掲げた進学校である。そのため、生徒全員に部活動への参加が義務付けられており、各季節ごとには学園生活を彩るイベントを数多く用意している。
詳しい説明は生徒会の者たちに任せるとして、私の挨拶を終わらせてもらおう。」
言い終えると同時に、白煙に包まれ獅子之助は一瞬にして姿を消した。
講堂からは、おおっ!とどよめきの声が上がったが、俺は呆れた表情でため息をついた。
今、俺の頭の中は、ウサギがどこに居るのかという心配で一杯なのだ。
「静かにしろっ!」
マイクのハウリング音とともに言い放った声の主を、全生徒が見つめ返した。
「俺は、生徒会副会長の豹堂 晶(ひょうどうあき)だ。」派手な金髪で、いかにも俺様な感じの男が、得意満々に自己紹介をした。
この学校にはまともな奴がいないのかと、生徒会の役員が座る席を見渡すしたところ、育ちの良さそうな黒髪の男と先ほど電車で会った美少年が座っていた。
年上だったのか、と意外に思い眺めていると目が合ってしまい、相手は微笑みながらヒラヒラと手を振ってきたので軽く会釈したその瞬間、後方から大きな声が聞こえてきた。
「貴様、入学式から遅刻とは何事だ!そんなたるんだ根性で、日本男児の名に恥ずかしくないのか!?」
嫌な予感がして振り返ると、俺の勘は的中していた。
怒鳴られているのは、ウサギだ。
講堂中の視線がそちらに集まり、ウサギの麗しき姿に周囲はざわつき始めた。
依然として、壇上では式典が進行されているが、皆の意識は美しすぎる遅刻者に集中していた。
俺は今朝の出来事を思い返し、出発が遅れたことを後悔するが、今更どうにもできない歯痒さで爆発寸前だった。
内容の薄い式典が終了し、俺は嬉々としてウサギを探すが、移動する生徒たちに阻まれなかなか見つけることが出来ない。
ウサギはかなりのドジっ子で、そこが可愛い部分でもあるが、危なっかしくて目を離してはいけないのだ。
やっとの思いでウサギを見つけると、何やらトラブルに巻き込まれている様子であった。
近付いていくと、凄い剣幕をした男がウサギの胸ぐらを掴んでいた。
俺は全身の血が煮えたぎる程の怒りを感じ、気が付いた時には男の手を振り払い、とんでもない言葉を口走っていた。
「ウサギは俺のものなんだよ!気安く、触るんじゃねぇ!!」
俺にとってウサギは、親友であり、弟のようでもあり、失うことの出来ない大切な存在だ。
だから、俺の恋心は、決してウサギに知られてはならなかったのに…
俺は自ら、時限爆弾を投下したのであった。