暗黒時代の幕は上がらず
翌日は、朝から雨が降っていた。
じっとりと湿った重い空気は、まるで今の僕の心みたいだ。
「あら洋介、風邪でもひいた? 顔色悪いわよ」
朝食のテーブルで、母が心配そうに言った。
「別に」
かっちかちに焦げた目玉焼きとベーコンを苦々しい気持ちで噛み切りながら、ぶっきらぼうに答える。
「そう? 母さん、今日も遅くなりそうなんだけど、大丈夫かしら」
やめてくれよ、その気遣わしげな視線。
「大丈夫だってば。母さんはちょっと、心配し過ぎなんだよ」
強い語調に母がはっとして、悲しそうな顔になる。やばっ、言い過ぎた。
「いや、ほら、期末近いからさ、ちょっと夜更かししちゃっただけだよ。忘れてるかもしれないけど、これでも一応、受験生だからね」
僕はわざと歯をむきだしにして、二カッと笑って見せる。明らかに取ってつけたような笑顔だと思ったけれど、それでも母は安心したようだ。大人なんて、ちょろいもんだ。
「そう。でも、あんまり無理しないでね。もし何かあったら、すぐ連絡するのよ」
「はいはい、わかったわかった」
すぐ大人はそんなふうに言うんだ。でも、ホントに何かあったとしても、子どもは絶対自分からは言わないっつーの。
傘に当たる雨の音を聞きながら、小学生のころを思い出していた。
人間なんて残酷な生き物だ。いつだって誰かを生け贄にせずにはいられない。理由なんかなんでもいいんだから、どうせすぐにターゲットは変わる。こんなの、たいしたことじゃない。
そう何度も自分に言い聞かせてみたけれど、ずぶずぶと底なし沼に引きずり込まれそうな重苦しい気分は、ちっとも軽くなりはしなかった。
傘じゃなくて特大の鉛を抱えて、果てしない道のりを歩いてる感じ。足元もおあつらえ向きにぐちゃぐちゃとぬかるんできた。ああたまらん、もういっそのこと、休んでしまおうか。でも、一度休んだらどんどんハードルが高くなって行くのもわかってる。
結局、いつも通りの時間に学校についた。いつものように上履きに履き替え、いつものように教室に向かう。いつもと違うのは、教室の前で立ち止まり、何度も息を整えたことだ。
ええい、ままよ。
目をつぶり、ガラッとドアを開ける。
「あ、加瀬、おはよう」
は?
「お、おはよう」
「な、数学の宿題できた? 問5だけ見せてくんね?」
「いい……けど」
僕はキツネにつままれたような気持ちで、おそるおそる教室に足を踏み入れた。みんなはいつもの始業前とまったく変わらない様子で、おしゃべりをしたりテキストを広げたりだるそうに机に突っ伏したりしている。もしや……これは何かの策略か? 油断させておいて、いきなりどん底に突き落としてみんなで笑い物にするパターン?
疑心暗鬼で席に着いたが、その後も一向に変わったことなど起きる気配がない。
と、栗原が僕の席にずんずんと近づいてきた。こいつは僕がいじめられていた小学校時代、一度もそれに加わらずにいてくれた貴重な人材だ。女子としては正直ちょっとどうかと思うが、人間としてはまあ見上げたもんだと、僕は密かに尊敬の念さえ抱いている。
「あの、栗原さ、これ、どうなってんの」
「ん?」
「いや、昨日の展開だとさ、絶対にまた暗黒時代の幕が上がると思ったんだけど」
「むふふ」
栗原はふくよかなあごのあたりから、含みたっぷりの笑いをもらす。
「ひょっとしておまえ、なんか、やった?」
僕の問いかけに、栗原の両目は三日月のようににんまりと細くなった。
「安心しな、加瀬。あたしがいる限り、キミの学校生活は安泰さ」
それだけ言うと栗原は、「ふっふふ~」とよくわからないメロディーを口ずさみ、体をわさわさと左右に揺らしながら自分の席に戻って行った。その背中越しに、昨日の男子たちが青い顔でぎゅっと身を縮めているのがチラリと見えた。恐るべし、栗原。でも、ありがとう。
ゆうべからガチガチに張り詰めていた気持ちがやっとほどけて、僕はようやく気が付いた。
月子が、来ていない。