白いドアのこっちと向こう
かつての夫と真正面から向かい合うレミの頬は、青白く張りつめていた。
すっきりとしたショートヘアのせいでシャープなあごのラインが一段と映え、長く濃いまつ毛に縁どられた黒い瞳は怒りに揺れている。
美人は怒った顔が一番美しいと言うが、まさにその通りだった。
もしもこんな場面じゃなかったら、僕はいつまでもこの光景に見とれていた違いない。
「あんた、月子に何してくれてんのよ」
ぞっとするほど冷たい視線を浴びせながら、レミは夫だった男にすごんだ。
彼は怯えるように目をそらすと、口をもごもごさせながら消え入りそうな声でつぶやく。
「だ、だって、しょうがないじゃないか。目が覚めたら、この子はきっといつか、どこかに行ってしまうんだろ?」
「はあっ? 何言ってんの?」
キッとにらまれた彼はびくんと体を震わせ、両腕で自分をかばうような仕草をした。そして叱られた子どものように、上目遣いでちらりとレミを見た。
「ああ、やっぱりママは怖いでしゅねー。でも月子、パパはね、おまえさえいてくれれば、それで幸せでしゅよ」
彼は眠っている娘の耳元に顔を寄せてささやくと、かすかに口元を歪ませるようにしてふふふと笑った。その目は、この世界のどこにも焦点を結んでいないように見えた。
狂ってる。
全身を悪寒が走り抜けた。
おそらくレミも同じだったのだろう、目を血走らせ、彼と娘との間に無理やり自分の体を割り込ませると、吐き捨てるように言った。
「月子は……あんたの所有物じゃない。あんたの好きなようになんて、絶対にさせやしない!」
月子の父の表情が、見る見るうちに凍りついていく。
興奮したような荒い息使いと、モニターが知らせる規則正しい心拍音。
やがて彼は放心したような表情で、何事もなかったかのように眠り続けている娘を、そして自分を凝視している元妻の顔を見た。そしてゆっくりと両手で頭を抱えたかと思うと、乱れた髪を激しくかきむしりはじめた。
「あ、あ……うあぁ、あ――――っ」
叫びとも嗚咽ともつかない声が、病室に響き渡る。
そのとき、まるでその声に呼応するかのように、月子の枕元に置かれたモニターからアラームが鳴り始めた。
「何?」
弾かれたようにモニター画面を見やると、見る見るうちに血圧の値が下がって行く。
「月子? おい、月子!」
僕たちは半狂乱になって叫んだ。
慌てて手にしたナースコール。
体中から嫌な汗が噴き出して、8年前の光景がフラッシュバックする。
何日も意識不明だった父が、突然目を開けたあのとき。
僕は、ずっと眠ってばかりだった父がやっと目覚めたのが嬉しくて、ただ無邪気にはしゃいでいた。それがどういう状況なのか、深く考えもせずに。
父はそんな僕をじっと見つめ、喘ぐように口を開いた。
「洋介、ごめん……な」
「どうしたの? なんで謝ってるの?」
「父さんな、もう……」
それだけ言うと、その喉は突然クッと変な音を立てた。
次の瞬間、モニターの画面が急に乱れ出し、病室中にアラームが鳴り響きはじめた。
一体何が起こっているのかわからずに、茫然とその場に立ちすくむ僕。やがてバタバタとナースや医者がやってきて、あっという間に病室から追い出されてしまった。
「外でお待ち下さい」と言われたことばの通り、僕と母は病室の前で、再びドアが開くのをひたすら待っていた。
次に父が目を開けたら、何を言おうかと考えながら。
けれども実際部屋に入るのを許されたときには――すべてが終わっていたのだった。
あのとき、目の前でパタンとしまった白いドアに、僕と父の行き先は永遠に区切られてしまった。
どうして僕は、その前に叫ばなかったんだろう。
戸惑ったりせずに。
次があるなんて、思ったりせずに。
伝えることのできなかった想いは同じところをぐるぐると回り続け、いつまでも人の心を苦しくさせるのだと、あのとき僕は知った。
廊下からパタパタと何人もの足音が聞こえてくる。
僕は弾かれたように月子の枕元に駆け寄り、力の限り叫んだ。
「月子、おまえ、約束しただろ? 毎日うちにご飯食べにくるって。いつだって、何だって好きなもの作ってやるから。きのこカレーでもきぬかつぎでも冬瓜のそぼろあんかけでもいいよ。だから、僕の料理食べて、ちゃんと大きくなれよ。僕は――おまえと一緒に、大人になりたいんだ!」
次の瞬間、ナースたちがドアを開けて飛び込んできた。
「処置しますから、ご家族の方は廊下でお待ち下さい」
病室を出る寸前に目にしたのは、閉じたままの月子の目からツーッと流れ落ちた、ひとしずくの涙だった。




