月に祈る
その日の晩さっそく僕は、教えてもらったばかりのアドレスにメールを送ることになった。
『こんばんは。レミさんが帰ってから、ほんの少しですが月子の指が動きました。それ以外の反応はまだありませんでしたが、良い兆候だと思います。また明日、ようすをお知らせします 加瀬洋介』
簡単に用件だけを打ち込んで、送信した。
ふーっとため息をついて窓の外を見ると、東の空にまんまるい月が昇っている。
僕は、神様を信じない。
父さんが病気になったとき、毎晩どれだけ祈ったかわかりゃしない。なのに神って奴は、いたいけな子どもの願いなんて、いとも簡単に蹴散らしてくれやがる。
あのとき僕は知ったんだ。世の中には、どうにもならないことがあるってことを。
でも。
わかっていても、祈らざるをえないことだってある。
お願いだよ。
もう一度、さらさらと長い髪を揺らしながら、子どもみたいに真っ直ぐな目で、「ヨースケ」って呼んでくれないか。
そして僕が作った料理を、口の周りをべたべたにしながらおいしそうに食べてくれないか。
僕は窓の月に向かって固く両手を組み、静かに頭を垂れた。
次の日は土曜日で、僕は疲れていたはずなのに早朝に目覚め、そわそわと落ち着かないまま午前中の時間を過ごした。
「なあに、檻の中のクマみたい。うっとおしいわねえ。そんなに気になるなら、早めに病院行けばいいじゃないの」
大きなあくびをしながら、母があきれたように言う。
「べ、別に、そういうわけじゃ……」
「洋介。あんた、どう転がっても詐欺師にはなれないわねえ」
こいつ、面白がってる。
「いいわよ、お昼は適当に食べるし、早めに行ってみたら? 面会時間って、そこまで厳しくはないんでしょ?」
確かに、建前としては1時からとなっているが、その前から来ている家族なんかも結構いるし、それに対しては病院のスタッフも何も言わない。ナースステーションもわりと無人だったりするから、そこまでのチェックも行き届かないのだと思う。
前からわかってはいたのだが、根が真面目というか小心者の僕としては、できることなら規則を破りたくなかったのだ。
でも、もしかしたら昨日の今日で月子が覚醒してるかもしれない、なんて思うと、もういてもたってもいられなかった。
「あ、本屋。そう、本屋に寄りたいから、早めに出るわ」
意味がないと知りながらもとってつけたような理由を口走り、玄関に向かう。
「なるほど、本屋ねえ」
母がニヤニヤしているのは、見なくてもわかる。僕はそのまま、逃げるように家を飛び出した。
病院に着くとまだ12時過ぎで、ちょうど食事の時間にぶつかってしまった。病棟の廊下には大きなワゴンが置かれていて、明らかに患者の家族らしき人が、そこからトレイを持っていく。
なんだ、この時間でも全然平気そうじゃん。
ホッと胸をなでおろし、月子の病室に向かった。
どうしよう、月子がベッドに起き上がっていたりしたら。
まず最初に、なんて言おう。
おかえり?
それとも、何してんだよ、か?
そんなことを考えているだけで、僕の脳みそは躍り出さんばかりの状態だ。
いやいや、早まるな。覚醒していると決まったわけじゃないんだから。
自分で自分をなだめつつ、病室の前でひとつ深呼吸をすると、ノックもせずにそーっとドアを開けた。
が、僕の目に飛び込んできたのは、ベッドに座る月子ではなく、ベッドの上にのしかかる黒い人影だった。
「な、何してるんだよ!」
思わず叫ぶと、その影はぎょっとしてこちらを振り向いた。
驚愕して大きく見開いた目。泣きそうに垂れ下がった眉。
それは、月子の父親だった。
そして彼の両手は――月子の白く細い首の上に置かれていた。
あまりのことにその場から動けずにいると、カツカツというせわしい足音が背後から近付いてきて、スッと横を通り抜けて行った。
ふっと鼻をかすめるタバコの香り。
次の瞬間、僕の目の前で、柊レミが元夫の手をぐっとつかみ、震えあがるほどドスの利いた声でうなっていた。
「あんたね、勘違いしてんじゃないわよ……!」




