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夏に眠る花  作者: 小日向冬子
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実は母の仕業でした

 いつの間にか、窓の外には夕闇が迫ってきていた。

「悪いんだけどさ、何かあったらここに連絡してくれない? たぶんあいつは何も言ってこないだろうから」

 そう言ってレミが差し出した名刺には、事務所の連絡先とは別にのびやかな文字で携帯の番号とメールアドレスが添えられていて、軽く固まる。

 いいのかよ、こんな簡単に一般人に教えちゃって。

 が、本人はそんなこと一向に気にするようすもない。

「じゃ、月子のこと、よろしくね」

 うっすらと意味ありげな笑みを浮かべながらウインクしたレミのセリフに、別の意味を思い浮かべてしまったのは、ただの考え過ぎだろうか。


 片手をひらひらさせて去って行くハイヒールの後ろ姿を見送ってから、ふと気がついた。

 何か忘れてる。

 振り返ってよくよく考えてみると、ランチジャーを病室に置いてきてしまったのだ。月子の父親ともう一度顔を合わせるのは気が進まなかったが、あれがなければ料理の匂いは運べない。

 僕は腹を決めて病室に引き返した。


「すみません……」

 小さくノックをしてドアを開けると、月子の父がびくっと怯えるように振り向いた。そんな風にされると、こっちが何か悪いことをしてるような気になってしまう。

 怪しいものじゃありませんよ、とでも言うように「忘れ物しちゃったんで」と言い訳しながら、サイドテーブルに置きっぱなしだった紺色のランチジャーに手を伸ばした。

 と、そのとき、目の端で何かが動いた気がした。


 ドクン、と心臓が跳ね上がる。


 落ち着け。見間違いかもしれない。

 僕は自分にそう言い聞かせ、何度も瞬きをしてからもう一度真っ白なシーツの上に目を凝らした。


 ピク、ピク


 今度は、はっきりと確かめた。

 月子の細い指が、痙攣したように動いている。よくよく見てみると、しっかりと閉じられていたまぶたもかすかに緩んでいるような気がする。

「お、おじさん!」

 僕はすっかり興奮して、声がうわずっていた。

「ほら、ここ、見てください、月子の指! よかった、きっと月子、もうすぐ目が覚めますよ。えっと、ナースコールすればいいのかな、このボタンですか?」

 が、月子の父は、怯えたような顔でその指を凝視したまま動かない。

「……おじさん?」

「え? ああ、そう、そうだな」

 そう言いながらも、怯えたように顔をひきつらせ、視線を泳がせている。

 ざらりとした違和感が胸をよぎった。

 この人は、月子が目覚めるのが、嬉しくないのだろうか。

 そんな恐ろしい考えが頭をもたげてくるのを、もう一人の僕が必死に否定しようとする。

 まさかそんなことはあるまい。倒れたあとには月子のそばから片時も離れようとしなかったではないか。きっと突然のことで、戸惑っているだけに違いない。

 が、そんな考えが頭の中をめぐっていたのはほんの一瞬のことで、すぐにその場は駆けつけたナースのテキパキとした声に制圧されていった。


 家に着いたときにはとっぷりと日が暮れていた。

 すでに帰宅していた母は、何やらテーブルいっぱいに広げたチラシを熱心に見ている。

「あら、お帰り。ずいぶん遅かったのね」

「うん」

 あまりに疲れて口を開くのも億劫だった。僕はムスッと黙ったまま、持ち帰ったランチジャーを流しに置いて、ダイニングチェアーにどさりと腰を下ろした。

「……なんかあったの?」

 こちらのようすをうかがうようにして、母が尋ねた。

 なんかと言われても、今日一日でいろんなことがありすぎて、どこから話していいかわからない。

「いろいろ。とりあえず、腹減ったわ」

「うふふ。そんなこともあろうかと思ってね」

 ジャーン、と擬音つきで母がとりだしたのは、ピザの宅配のチラシだった。ほのかにチーズが焦げた写真の上に「期間限定焼肉ピザ」の文字が踊っている。腹ぺこの僕は、ジューシーな肉汁を想像し、ごくりと唾を飲んだ。

「たまにはね、こんなの、よくない? おごるよ」

 なんとありがたい。一気に疲れが吹っ飛んだ気がした。


 ピザが来る前に風呂に入ってさっぱりした僕はすっかり調子を取り戻し、あれよあれよという間に3ピース目のピザに手を伸ばしていた。

「ふーん、なんだか盛りだくさんの一日だったのねえ」

 全面がテカテカ光るくらいにオリーブオイルをかけたピザをちびちびとつまみながら、母がつぶやいた。こうすると食べても太らないのだと、何かのテレビでやっていたらしい。そういう情報はくまなく仕入れてるみたいだけれど、効果があったという話をこの人の口から聞いたことはまったくない。

「ということは、柊レミは、すぐに伝言聞いてくれたのねえ」

 ぽろりと母の口からこぼれたことばに、僕はピクリと反応した。

「へ? 伝言?」

「そう」

「柊レミに?」

「そうよ」

「母さんが?」

「そうそう。仕事の合間にね、事務所に電話しといたのよ」

 僕はわが耳を疑った。

「はあっ? 母さんが? なんで、知り合いなの?」

 勢い込んで僕は尋ねた。

「え? やあねえ、そんなわけないじゃない」

 母はあっけらかんと笑う。

「ただほら、月ちゃんの名前出したら、絶対スルーはないだろうな、と思って。マネージャーさんだって月ちゃんのことは知ってるわけでしょ? まあ、ものは試しっていうじゃない」

 そう言ってうふふ、と笑いながら目の前でおいしそうに油まみれのピザを食べている母という名の不可解な生き物を、僕は茫然と見つめた。

 やはり恐るべし、おばはんパワー。

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