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夏に眠る花  作者: 小日向冬子
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ホゴシャ、失格

「こら、加瀬、待ちなってば。一体、何怒ってんのさ」

 病院から続く並木道を、僕は肩を怒らせて、ズンズンと歩いた。じりじりと照りつける陽射しは、暑いを通り越して痛いくらいだ。でも、そんなこと構っていられないほどに、僕の心は乱れていた。

「ちょっと。何か気に入らないことでもあったわけ? あーもう、わけわからん」

 ギロリと栗原ににらまれたけれど、それでもいつものように笑うことなんて、とてもできそうになかった。

「悪い。ちょっと、ひとりで頭冷やすわ」

 僕はそう言って、顔をしかめたまま次の角を曲がった。

「加瀬!」

 背中に呼びかける栗原の心配そうな声に、振り向きもせずただ右手を軽く上げた。


 月子の父親の話を聞いている間中、僕はガタガタと心臓を揺さぶられてるみたいな苦しさを感じていた。

 なんて情けない。

 僕の心臓は、確かにそう言っていた。


 ご飯を作って、温度調節に気をつけて、それで月子のことが全部わかったみたいな気になってた。

 でも――

 自分が月子に一番近いなんて、ただのうぬぼれだった。

 現に月子は、肝心なことは何ひとつ話してくれていなかったじゃないか。


 初めて会った日、ベランダの枯れたシクラメンを見て遠い目をした月子。

 夏の夜、ベランダでひとり泣いていたことも、口ずさんでいたあの歌も、窓越しの月に怯えていたことも。

 子供じみた振る舞いにばかり気を取られて、僕はなにひとつわかろうとしていなかったんだ。


 ホゴシャ、失格。

 そんな言葉がもわんと頭に浮かんでくる。


「あ――っ、もう!」

 思わず出ていた大声に、すれ違う人々が怯えたように半径5メートルあたりまで遠ざかっていくのが見えた。

 でも、もうそんなんもどうでもいいや、と思えるくらい、僕はすっかり参っていた。


「で、このアバンギャルドな料理はどうしたのかな、洋介くん」

 夜遅くに顔を汗でテカテカに光らせながら帰ってきた母が、あきれ顔で尋ねた。

 料理は心だということを、僕は今日つくづくと思い知らされた。芋を茹でるところからちゃんと作ったはずのポテトコロッケは、油の中で爆発してチリヂリになっていたし、キャベツの千切りはどんなに好意的に見ても百切りで、沸騰したまましばらくの間記憶から飛んでいた味噌汁は、白い塊が浮いて香りも何もあったもんじゃなくなってた。

「月ちゃん、よくないの?」

 僕はじろりと目だけ動かして、大部分において抜けてるくせに、こういうところだけ妙に察しのいいわが母を見やった。

「ご名答、か」

 母は小さく肩をすくめながら、皿の上のプチトマトをつまんで口に入れた。

「別に悪くなってるわけじゃ、ないんでしょ?」

「そしたらもっと騒いでるよ」

「ま、それもそうか」

 そう言って今度は、輪切りのキュウリをパリパリと噛み砕く。

「ついでに、ビール取ってくんない?」

 何のついでだよ、と心の中で突っ込みながら、僕は黙って冷蔵庫から缶ビールを持ってくる。

「お、サンキュ」

 母はゆったりと椅子に座ってうすく微笑んだまま口をつけると、あらためて僕の目を見てニーッと笑った。

「で、へこんでるんだ」

「いや、へこんでるっていうか……」

「っていうか?」

 口ごもる僕を、ガン見する母親。こう真正面から突っ込んでこられると、不器用な僕の性格からしてうまくかわせないんだってば。って、わかってやってるよね、この人。

「あーもう、大したことじゃないよ。ほら、月子のこと、何もわかってなかったんだなって、思っただけ」

 僕は半ばやけになって、頭の中で渦巻いていることをできるだけコンパクトにまとめてみた。

「ほう」

 母は面白がるように目を丸くする。

「ほう、じゃなくてさ、こう、何かほかにもっと、言うことないの?」

 僕はすでに、自分の悩みの一片でもこの人の前で口にしたことを後悔し始めた。

「いやあ、だってさ、こう言っちゃなんだけど、私だって洋介のこと、なーんにもわかっちゃいないわよ」

「は?」

 っていうか、あまりわかられたくないっすけど。

「洋介だって、私のことなんかわかんないでしょ?」

 しれっと言いながら母はもうひと口ごくりとビールを飲む。

「まあ、そりゃそうだけど……」

「こう言っちゃなんだけど、人間同士本当にわかりあえるなんて、ありえないんじゃないのかしらねえ」

 お節介でバカがつくほどのお人よしのこの人から、よもやこんな言葉が出てくるとは思いもしなかった僕は、しばらくのあいだ阿呆みたいに口をあんぐりと開けていた。

「何よ、その顔」

「いや、意外っていうか……」

「いやねえ、誤解しないでよ。人を信じるなって話じゃないのよ、むしろ逆」

「へ?」

「わからなくても、信じることはできるのよ」

 そういって母は、ふっくらとした笑みを浮かべた。

 母の肩越しに、大きな月が浮かんでいる。

 青白い頬のあの時の月子を、僕は信じていたのだろうか。逆に月子は、僕を信じていたのだろうか。

 僕の心の声が聞こえていたかのように、母が言った。

「あのね、洋介。少なくとも月ちゃんは――あんたがいてくれて、すごく救われたと、母さんは思うわよ」

「な、それって……」

「さて、そろそろお風呂入ってこよーっと」

 僕の問いかけを置き去りにして、母は軽やかな足取りで、風呂場へと向かって行った。

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