月子が呼ぶ声
誰かに呼ばれたような気がして、目が覚めた。
真夜中になっても冷めやらない熱気が、汗になって体からにじみ出ていた。それでもいくらか風があると見えて、レースのカーテンがかすかに揺れている。
窓の外には月。月子が熱を出した晩の光景を、ぼんやりと思い出す。
――○×△※○!
外から声が聞こえてくる。どこかで酔っ払いでも騒いでいるのだろうか。深夜の音は、存外遠くまで響き渡ってしまうものだ。
――いやだ!
今度は、もう少しはっきりとした声が耳に届いた。誰かが叫んでいる。この声は……
月子?
僕はようやく覚醒し、ガバッとベッドの上に起き上がった。あわてて窓から首を出し聞き耳を立ててみると、どうやらその声はすぐ下から響いてくるらしかった。月子が何か叫ぶ声と、低い男性の声が交互に聞こえる。何を言っているのかは聞き取れなかったが、月子はひどく興奮して泣き叫んでいるようだった。
どうする?
時間はもう深夜0時を回っている。それに、ほかでもない実の親と一緒にいるのだ、僕なんかが出ていく幕じゃない。
でも。
月子は僕を、呼んでいる。その確信だけはどんどん強くなって、僕の心臓を激しく打ち続けていた。
ドクン、ドクン、ドクン
「……ええい、ままよ!」
僕は思い切って部屋を飛び出し、階段を一気に駆け下りた。
ピンポーン
ピンポーン
「月子? どうした、大丈夫か?」
固く冷たい玄関のドアに頬を押し付けるようにして何度も呼びかけた。すると部屋の中の言い争う声はどんどんこっちに近付いてきて、ついにガチャッと扉が開き、涙でぐしょぐしょになった月子が弾丸のように飛び出してきた。
「ヨースケ!」
月子は僕にしがみつくようにして、体中を震わせむせび泣いている。
「おい、一体どうしたんだよ」
思わず僕は細い肩に手を回す。と、そのとき、月子に続いて出てきた男性が、困惑といら立ちの混じった声で言った。
「月子、ほら……いいから、落ち着きなさい。とにかく、中に入ろう」
僕はそのとき初めて、月子の父親を間近で見た。伸びたTシャツに短パンという格好も、泣きそうに下がった眉毛に小さな目をしばたたかせて情けない声を出しながらオロオロとうろたえるそのようすも、とても一流商社の部長さんには見えなかった。何より驚いたのは、彼が月子とまったくと言っていいほど似ていないことだった。
「いやだもん、絶対、山梨なんか行かない」
ずびっと鼻水をすすりながら月子が父親をにらみつける。
「そんなこと言ったって……仕方ないだろう。ああもう、困ったなあ」
月子の父が、うんざりしたようすでため息をつく。
「あの……山梨って……」
おそるおそる聞いてみた。
「あ、キミは、もしかして……」
「はい、すぐ上の部屋の、加瀬です」
「ああ」
月子の父親はそう言って、気まずそうに僕から視線をそらした。
「いや、その、来月からニューヨークに転勤が決まったものだからね。月子は山梨の母のところに行かせることにしたんだ」
「別にいいじゃん、今のままで!」
月子が鋭く叫ぶ。
「いいよ、連れてってもらえないんだったら、私はここでパパの帰りを待ってる。ヨースケたちだっているし、今までだって、おんなじようなもんだったでしょ。ね、それでいいよね?」
「月子」
月子の父は、言葉を切った。その顔が、ひときわ険しくなっていく。
「月子、よく聞きなさい。パパはね……もう、日本には帰ってこないんだ」
一瞬、時が止まった気がした。月子の体は完全に動きを止め、黒目がちの瞳がさらに大きく見開かれた。
「……ウソ」
「いや、ウソじゃない。本当のことだ。だから……」
次の瞬間、耳をつんざくような叫び声が聞こえた。
「いや――っ!」
夜空には月。
真っ直ぐな黒髪が、さらさらと肩を滑り落ちていく。
僕の腕の中で、月子はゆっくりと目を閉じて崩れ落ちて行った。




