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夏に眠る花  作者: 小日向冬子
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月子がうちにやってきた

 エレベーターが1階に着き、扉が開いた。

 コメだ、とにかくコメ。そうつぶやきながら飛び出した僕の耳に、突然「パパ!」という甲高い声が聞こえてきた。驚いて顔を上げると、エントランスには黒いワンピースを着た見知らぬ少女の姿があった。

「パパ、パパ!」

 少女は僕に背中を向けたまま、外に通じる自動ドアに向かって必死に叫び続けていた。細い肩に長い髪。背は僕とあまり変わらなく見えるのに、空気が張り裂けんばかりに父親を呼ぶ姿は、まるでちっちゃな子どもみたいだ。

「言っただろう、パパは来週まで帰れないから、わからないことは管理人にでも聞きなさい」

 僕の位置から声の主は見えなかったが、その声に滲んだ疲れとかすかないら立ちは感じとれた。

「……ご飯は?」

 ぐしょぐしょの泣き声で少女が問いかける。

「そんなもの、この辺はいくらだって店があるだろう。言っただろう、母さんがいた時とは違うんだ。お願いだから、あまりわたしを困らせないでくれ。」

 足音が遠ざかって行く。閉まって行くドアの前で、少女はがっくりとうなだれた。すとんと落ちた艶やかな長い髪が、肩と一緒に震えている。

 うわー、やっべー。これって、ひょっとして『修羅場』ってやつか?

 滅多に遭遇しないであろう光景に、僕はすっかりうろたえてしまった。が、おろおろしている場合じゃない。僕にはコメを買うという大事な使命があるのだ。面倒なことに巻き込まれないうちに、さっさと退散しなければ。君子危うきに近寄らず。

 幸い少女はまだ背中を向けたままだ。僕は足音を立てないように用心しながらそーっと通用口に回り、静かにドアを開けた。そしてなんとか外に出ると、米屋に向かってダッシュした。


 世の中には、自分から危うきに近寄っていく人種がいる。いわゆる「おせっかい」な奴らだ。そして僕は、自分の母親がそういう人種だということをすっかり忘れてしまうことがある。そう、このときもまさにそうだった。

 家に戻って急いでコメをとぎながら、「そういえばさあ」と、うっかりついさっき目にした修羅場の話をしたのが間違いだった。母は「まあ!」と言って目をキラキラとさせ、すぐさま僕がたんまりと作っておいたロールキャベツときんぴらをタッパーに移し始めた。

「ちょっと、何する気? まさか……」

「なによ、その子、今日は親がいないんでしょ? で、ごはんの心配してたんでしょ?」

「だって、知らない子だよ? それに、どの部屋だかわかんないし」

 僕は無駄だと知りつつも、精一杯の抵抗を試みる。案の定母は、勝ち誇った顔で言ってのけた。

「見かけない子だったんでしょ? 今日越してきた家に決まってるじゃない」

「いやいや、待ってよ、いきなりそんなんもらっても、かえって迷惑かもよ?」

「いいんです。だって、迷惑かもしれないけど、必要かもしれないでしょ?」

 そうきっぱり言い切ると、母は両手にタッパーを抱えて鼻歌交じりで出て行った。

 あーあ、まったく。今のご時世、あんまりよけいなことに首突っ込むと、へたすりゃ刺されちゃうってば。そのぐらい、中学生にだってわかるよ。ま、母さんのそういうところ、僕は嫌いじゃないけどさ。

 やがて母は、中身の入ったままのタッパーを抱えて戻ってきた。

「ほら、だから言ったでしょ」

 いさめるように僕が言っても素知らぬふりで、母はにっこりと後ろを振り返った。

「どうぞ、遠慮しないで、上がって上がって」

「え?」

 見ると、母の後ろに黒いワンピース姿の少女がちょこんと立っていた。

 さらさらと揺れる長い髪、大きな黒目、陶器のような肌。ワンピースから出た手足は、子どもみたいにか細い。

「お、お、おじゃまします」

 その声は、心なしか震えていた。

 それが、僕と月子の出会いだった。

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