micro saint nick
When they saw it, how happy they were, what joy was theirs! (彼らはその星を見て喜びにあふれた!)(Matthew 2, 10)
すみ切った寒空に流れ星がひとつ尾を引いたが、星々に伸びる街の灯りが眩しすぎ、街を行きかう人びとはまったくそれに気づかなかった。
目をたっぷりと涙で曇らせたチヒロが携帯に怪しいメールを受けたとき、彼女もその大気圏外落下物が頭上で孤独に火花を散らし、落下するのに気づかずにいた。
チヒロは最初、マキトが反省して電話してくれたのかと一瞬舞い上がり、喜び勇んだものの、「…またスパムか…」すぐ落胆した。
しかしそれは、スパムや単なる文字化けメールと違っていた。テキストが全て0と1のみで表記され、刻々とリアルタイムでプログラミングされ、書き換えられている。
「やだ、気持ちワル。なに、これ?」
画面ではガチャガチャと、0と1のせわしない書き込みが常に続いてる。間もなく、着信音が鳴り出した。
今まで聞いたことのない、読経のような音。画面は既に文字化けして判読不能。
「ひぃっ」チヒロは一瞬おののき、携帯を放り出しそうになったが、辛うじてそれを耳にあてる。
「あ。混線かぁ…。まいったな…」頭蓋に直接届くような、しわがれた音響。
「誰…!?」
「お姉ちゃん、頼むから放り出さないでね。今となっては大事な“中継機”なんだから」
チヒロはパニクった。
「誰? 誰なの!?」
「失礼。無理もないか…。わたしは、きみの目の前の樅の木の樹液中に生息してて…おっとと、こんな唐突な説明のし方、また数百年前の人たちのように誤解して逃げ出しちゃうからな。もう少しだけ話を聞いてもらえれば…わたしは、この星の人たちは、そう、『ウィルス』と呼んでるのか…? あんたの身長の十億分の一くらいの大きさだから、たぶん、いやまず見えないだろうけど」
「ちょ、ちょっと待って! ワケ分かんないよ」生物オタクのチヒロにとって、ウィルスという言葉には馴染みがあるだけに、それが喋るとはにわかに信じられない。
星にまで届きそうな高さの建物に囲まれた都心部は、はるか異国の教えの祝祭で緑や赤、金銀に溢れ、浮かれる人びとでごった返していた。チヒロの目の前、広場の大きな樅の木には、赤い衣装を着たあの白髭の老人のぬいぐるみが掛かっている。どことなく疲れた声のせいもあり、チヒロはなんだか目の前のぬいぐるみの老人と喋っている気がしてきた。
「ゴメン。でもこっちは急いでるんだ…緊急事態。申し訳ないけど、vm@@y@yhhb,おっ×と、失礼。翻訳機能もイカれてきた。やっぱり…説明してる暇はあまりないんだけど…」
「あの…なんて呼べば…?」
「とりあえず物体X、それが味気ないなら…そうだね、この時期にちなんでSt. Nick、“ニック”とでもしてくれれば。ありふれすぎかもしれないけど」
「あなた…じゃ、Xもなんだから、“ニック”?さん…は、いったいなにしてるの?」
「簡単に言うと、遭難。地球語でね。わたしはこの惑星の公転軌道で言う二千数十回、つまりだいたい二千数十年前に来たんだ。どこからかっていうと…えと…説明が難しいんだけど、今世紀と呼ばれる時間単位以降は、同じく地球語で言う天体、pluto(冥王星)の向こう、エッヂワース・カイパー・ベルト付近から、と説明した方が早いかな」
「……ゴメン、それでも分からない…」
チヒロは一瞬、自分の頭がおかしくなっているんじゃないかと思い、頭を振る。しかしディスプレイの文字は消えず、声は現に聞こえ続ける。周囲を見回してみるが、幸いにも周囲にはチヒロが単に人間と通話しているだけと見えているらしい。
「つまりわれわれは、太陽系のずっとずっと外側の、氷と岩だらけの故郷から、彗星と呼ばれる氷の天体に乗ってやってきたってわけ。ずっと暮らしてて分かったんだけど、われわれはこの星に生息するウィルスと呼ばれる分子構造に、つくりや大きさが似ている」
「話の途中でごめん、さっきから思ってたんだけど…、どうしてあなたとわたしとが、こうして話せるわけ?」
「われわれの身体を構成する外殻、capsidを構成する分子にFe、つまり鉄分が含まれているからさ。この惑星のウィルスにはタンパクしかないみたいだが、われわれには発声器官や視神経がないんでね。故郷でわれわれは、身体の外側にアンテナみたいに伸びた鉄分子鞘を共鳴させて電波を発生し、互いに意思疎通を図る。形状はおそらくこの星のウィルス、Tファージに似てるんじゃないかな。最初見たときにはびっくりしたさ。兄弟みたいなのが、そこらじゅう飛んでるんだから。進化の観点から言えば、やっぱり太陽系内は近所なんだって思ったよ」
チヒロの頭にTファージの、月面探査機のような、M字脚の伸びた姿が想起された。
「その電波が、今回わたしの携帯に…?」
「そう。今は、ちょっとこっちも具合悪いんでね。なかなか正常な波長を送ることができないんだ…%2$ga、混線しちゃってね。あッ&’++*!!!」
「あなた、大丈夫なの…?」
「大丈夫…と言いたいところだが、はは…宿主細胞ももう老化してるもんだから…」
チヒロは目の前の樅の木を見上げた。恐らくどこかの山から切り出してきたものだろうが、元々老木だったものを根こそぎ持ってきたものだから、もはや枯れかかっている。
「それより…あんた…さっき視神経末端の受像器から、水分を絞り出してたね。泣いていた、と言うのかな」
「あっ」チヒロは頬を真っ赤にし、目をごしごし拭いた。
チヒロの脇には、学校のかばんと共にプラスティックのピル・ケースが抱えられていた。
「それは…『菌糸』と呼ばれるものじゃないか?」
チヒロのピル・ケースの各仕切りの中には透明のゼリーが入っており、そのゼリーの中、フィラメント状の糸くず様の物質が、淡い緑の光を放っていた。
「Mycena chlorophos、“ヤコウタケ”。菌類の仲間。よく分かったね。きれいでしょ?半年かけて、せっかく寒天培養に成功したんだけど…」
「われわれより数百倍も大きな細胞体を持つ、もろい種族だね」
特に生物部に所属してる訳でもないが、チヒロは昔から、なぜかキノコや菌類が好きな“キノコオタク”だった。女の子らしくないと言えばそれまでだしその内気な性格のせいで友達も決して多い方ではなかったが、昔から、菌類の持つしめやかな、それでいて内に秘められたあでやかな魅力に惹かれていた。
今日も「内気な自分の殻をやぶらなきゃ、一生カレシなんてできないよ」という友人サコの煽りのせいもあり、まえから好きだった同級生のマキトに告白したばかりだった。自分の宝もの、今までの自分の生きてきた「証し」とも言える培養ヤコウタケの実子体を携えて…。
「ハハ…それで、もう一方の性、オスの子に受け入れられなかった、ってワケだ。そうした場面は、今まで何千回、何万回と見てきたよ」
「そう、それも『気持ち悪ィ』のひと言で…わたしがずっと大切にしてきたものなのに…ヒドいよ…男子って、ヒドい」
チヒロの目から、再び涙が溢れた。冬の寒風で鼻まで紅くなる。しばらくの沈黙の後、落ち着いた声が聞えてきた。
「わたしはね…この二千年の間、やはり自分で信じることをずっとしてきたつもりなんだ」
チヒロは黙って聞いている。周囲は相変わらず喧騒が激しいが、“ニック”の声は脳によく響く。
「最初、故郷からわたしたちの一系統、いや一種族が太陽系の隣、プロクシマ・ケンタウリ系へ数万年に一度のサーベイに出ようと計画した時、わたしは喜んで調査員に志願した。周囲の惑星の生態系を調べ、その結果を故郷に持ち帰ろうとね。割り当てられた地域は、これは、わたしの能力不足もあったんだが…地球だった。地球については既に調べ尽くされてた感もあったし、仲間たちからは『どうしてあんなつまらない星を』と大いに嘲笑された。しかしそれでもわたしにとっては始めての外世界だったしわくわくし、嬉しくて仕方がなかった。彗星様のわれわれの船体がわたしの乗った岩塊だけを切り離して地球上の、砂だらけの地帯に落としたとき、わたしの胸は感動で一杯になったもんだよ。それこそ、きみたちが流す“涙”と呼ばれるものがあれば…」
「それで…成果は…?」
「あった。大いにあったさ。最初はラクダだった。その後様々な生物に寄生し、生命のデータを集め、百年毎に上空に来る定期観測衛星に電波でデータを送った。確かにタフな作業だった。けど、これがわたしの、ライフタイムを賭して生きる意味であると信じてたから、今までやって来れたんだ」
チヒロは想像した。地球から数十億キロ離れた、久遠の故郷からたった一人派遣され、恋人もなく、気の遠くなるような長い時間を作業に費やすこと…それが成し遂げられたのも、それがそのものにとっての“人生”であると決心していたからに他ならない、と。
「他に分かったことと言えば、この惑星の生物界のフェーズ(相)は、われわれの母星よりもヴァラエティーに富んでいる。しかし、生体ダイナミズムの活動スパンが、われわれよりもずっと短い」“ニック”の声は、明らかにさっきより小さくなっている。
「つまり、寿命ってこと? そう言えばあなた…あ、ゴメン。ニックさん、には、寿命ってあるの?」
「ある。母星の約四十公転周期、この星の単位でだいたい一万年といったところかな。母星の公転時間がこの星の三百倍ほどあるから。けれども、ここは故郷よりずっと暑い。身体に負荷がかかりすぎる。だからこの星ではよほど居心地良い宿主の細胞を求めて住み替え続けていかない限り、せいぜいこの星の数千公転回、いわゆる数千年で滅びてしまうんだ」
チヒロは頭がクラクラしてきた。気の遠くなる数字だ。何だか半年の培養期間でメソメソしてた自分がちっぽけに思えてきてしまう。
「じつは、もう時間がない」
「どうしたの!?」
「その…時間切れというか…。この“宿主”の細胞が死にかけてるおかげで、わたしも共倒れになる」
チヒロは“ニック”が生命維持方法としては、ウィルスと同じ形態をとっていることを思い出し、目の前の巨大な樅の木を見上げた。天を衝くビルの谷間に立つ老木の頂から、白い薄片が降りはじめた。
「どうすれば!? どうすればいいの!?」
「別に…他の生物の体内に寄生すれば済むことだが、あまりお勧めできない。知っての通り、他のウィルスと同様、わたしたちの存在も生物の身体に害を及ぼすからだ。自己の複製をつくり出すため核酸をきみたち動物の細胞質内に注入する際、そこからカプシドの鉄分子も入り込み、細胞は酸化して壊死する。はっきり言ってわれわれは強力な伝播力は持たないが、動物に対しては消化器系を壊死させ、死に至らしめる力を持っている」
チヒロは身震いした。「ニック…」
「だから言ったろう…? わたしは過去の歴史の中、細々とではあるが、そうして生き延びてきたんだ。実はあと少しで回収船がやってきて、わたしをこの樅の木から吸い上げてくれるはずだった。上空五十キロメートル地点から、強力な磁気サーキュラーで…」
「もう…お迎えが、きてるんだね!?」
「…“はずだった”のさ。…間抜けな回収隊はこの星の大気濃度を薄く見積もってやがった…大気圏で燃え尽きてしまった。さ、もう話してる暇はない。またS.O.S.信号を送らなくちゃいけ×ないんだ…あれ?…54089やばい…>I+O*P(‘L(L>+K+LLI+Ul…共振分子◆が…崩壊*?>L、し始め た」
「いやっ」
チヒロは頭を激しく振り、樅の木上のサンタのマスコットを見上げた。
「こ3んip54な はずじゃ。く そ、*くol-そっ 」ひとしきり、“ニック”の格闘が続く。
チオリは息を殺し、ニックの声を待つ。
「くそ! :@pyk …!! 」しばらく、雑音だらけとなる。「や…っ0…43ぱり…だ め^だ!」
しばしの沈黙。そして、再び、ニックが口を開く。
「ハハ…これがわたしの運命だった、っgて訳だ。ひとつの rt.“生”なん0[uて、終わりはあっけないもんm;/l\だよ…よく覚えて;おくんだね、お姉ちゃん」
チヒロはしばらく呆然として立ち尽くしていた。
しかし、やがて決心したように顔をあげると、樅の木に向かって強く足を踏み出した。
「おo@nmい、ば;:か 、la何kし てる!」
「こうすれば…あなたは助かる…大丈夫。あたしだって、完全に死ぬと決まったわけじゃないんだし…元々、胃腸は丈夫な方なの」
「やめ ろ、や**め◇るん…だy:」u!…」ひどい雑音に混じって“ニック”の弱々しい叫びが携帯から漏れる。
チヒロは周囲の人々が好奇の視線を送る中、エンポリウムのまばゆい灯りを受け、樅の木の前に立った。手を伸ばし、樅の葉を一枚ちぎり、口に含む。
「…た… の むから89067やめ08て65tく れ…」
おそらく“ニック”が隅々にまで行きわたっているであろう、苦い葉汁の匂いが口を満たしたが、チヒロはなんとか飲み下した。
―どうか、“ニック”が一部でも生き残れますように…。
両手を握りしめ、祈ること数分。一向に、身体に変化が現れない。その間も、雪はしんしんと降り続く。
―あれ、どうしちゃったの? せめて、お腹が痛くなるくらい、あってもいいじゃない…?
その後も一向に身体に変化がない。むしろ、ピンピンしている。
「ちょっと、どういうこと、ニック! どういうこと!?」
今度は携帯からではなく、本当に頭の中から、声が聞えてきた。
―お姉ちゃん…。今後は二度と、そんなバカをしちゃいけないよ。
「ニック? ニックなの!?」
―きみはまだ若い…。今わたしはきみの細胞に取り込まれた…。しかし幸いなことに、もうわたしには自己複製の力さえ残されていなかった。よかった…本当によかったと思っている。きみの身体に悪い影響が出ることはない。
「それって…本当に『死んじゃう』ってこと?」
―その通りだ。ウィルスの、いや性格にわたしはウィルスではないのかもしれないが、そのような分子構造の死滅だ…この惑星上での。もはや今さら生命体の身体に入っても、意味がないんだ…。
“ニック”が故郷の小惑星を出た時、実は既に、八千年の齢を経ていた。
「ニック! いかないで…」チヒロはしゃがみ込んだ。そして泣き出した。「…行っちゃやだよ!」
―元々の寿命なんだな。この後、意識がどこに行くのか、それは分からないけど、いま、とっても安らかな気分なんだ…。
「いや!」
―自分の信念を貫くんだよ…たった一度の“いのち”なんだから…。これがわたしが言える精一杯のことかな…。あ…もう…あれだな…意識が…。星々が…星雲が…故郷の暗い宇宙が…見え…
「イヤ!!」
―…さよ…な……
それを機に、“ニック”の声は二度と聞えなくなった。
「ニック…! ニック…!」
楽しそうに行き交う家族や勤め人、恋人たちのざわめきの中、チヒロはいつまでもまばゆく輝くの樅の木の下、泣きじゃくっていた。赤い服の老人のぬいぐるみが、それをじっと見護っていた。
雪がどんどん舞ってくるその暗い空に、また一つ、今度はとても小さな星が流れた。
時を遡ること二千数十年前、ほぼ北緯三十二度線に沿ってユーラシア大陸東端で大気圏に突入した隕石は、メソポタミアの上空を光の尾を引きイスラエルの地を横切り、エジプト西方、リビアのアフダル山地付近に墜落した。
メソポタミアの占星学者たちはそれを見、ある奇跡を確信し、西方、地中海沿岸へと旅立っていった。
2007年12月24日に書いた作品です。