弟に婚約者を寝取られたおれが高嶺の花に求婚されました
空には糸のように細い月がかかっている。
その下をゴトゴトと鈍い音を鳴らしながら馬車が走りゆく。
週に三回、もう三年も同じ道を走っているが、今日は珍しく、先行する馬車がいた。
揺れる車内の小窓からその影を眺めていたレオンは、ふと違和感に気づいた。ランタンの揺れが激しいように見えたからだ。
「坊ちゃま?」
向かいに座る侍従のアーロンが不審に思ったのか問いかけてくるのを無視し、小窓から先方を凝視する。
レオンとアーロンの乗った馬車が速度を落とし、停まった。
「どうした、マーク」
アーロンは振り返り、小窓の脇をノックをしながら御者のマークを咎めるような声を出した。
「いえそれが、前の馬車の様子がどうもおかしいようで……あっ」
マークが驚嘆の声を上げるのと、レオンが馬車の扉を開けたのはほぼ同時刻のことだった。
「マーク、警備隊を呼びに走れ。アーロン、助勢に入る」
レオンが短く言葉を発し、前の馬車へと駆け出して行った。
アーロンは反射的に馬車から飛び出していった主、レオンをすかさず追いかけるように疾駆する。
前方の馬車を、五、六人の男が取り囲んでいるのを認めたレオンは、走りながらも手に掴んでいるステッキを握りしめた。手の震えを抑えるためだ。
武に多少の心得があるといっても、三年の道場通いが主で、実戦経験は多くない。
目に見える護衛騎士は二人。暴漢と思しき男たちに応戦している。御者はなすすべなく刃物を突き付けられているのがランタンの明かりに浮かびあがった。
「何をしている!」
暴漢のうち、二人が馬車の扉を開けて中から女性を強引に引っ張り出して連れ去ろうとしていたのを、レオンの誰何する声が止めた。
扉には貴族家の紋章がある。暗がりではっきりとは見えないが、見覚えのある形だ。
「何だぁ?」
若い女性の手を掴んでいた頭分らしき男がレオンのほうへ顔を向ける。ローブではっきりとは見えないが、口元から顎にかけて傷跡がある。
間合いは約二メートルといったところだ。互いに一歩進めば、もう攻撃は届く範囲にいる。
男が手に持っているのはダガーだ。両刃がランタンの淡い光をわずかに反射した。
「ガキがでしゃばるんじゃねえよ、怪我したくなけりゃすっこんでな」
小柄なレオンを見下ろした男は顔の前で短剣を緩く振りながら、鼻で笑った。レオンは黙したまま腰を落とした。低い身長が、さらに沈む。
「はん、やろうってかチビ助がよ」
両刃の剣を振りかぶり、レオンを踏みつぶす勢いで脳天から切りつけてきた。レオンの体がスッと相手の振り下ろすダガーの下に入り込み、手にしていたステッキを横回しに振り抜いた。一閃の光となったそれが暴漢の胴を横に払う。
「ぐっ、……うぅ、クソが」
たたらを踏んだ暴漢が体勢を立て直す前にすばやくステッキでその手首を打ち、地に落ちた武器を蹴り飛ばした。それでも掴みかかるように襲ってきた相手の懐に入り、袖と襟辺りを掴んで背負うようにして投げた。
レオンよりずっと大きい男の両足が宙に浮き、そのまま落下して背中をしたたかに打って気絶した。
もう一人の男は機を見るよりもただ勢いでレオンに向かってきた。ステッキを拾い上げ、今度は相手の両脚の脛をめがけて思い切りスイングした。見事に命中しその勢いに暴漢の足が浮いて、バランスを崩して顔面から地面に倒れ込んで悶絶する。
「ぎゃぁあぁ!」
歯が折れたか、鼻と口から出血が見られたが、命に別状はないはずだ。
顔を上げるとアーロンも男一人を制圧し終わったところで、護衛騎士たちも何とか攻勢に転じていた。
バタバタと走り寄る複数の足音がして、マークが警備隊を連れてきたのが分かった。
暴漢たちは警備隊に縄を掛けられ、一か所に集められた。
「ここ最近頻発している、貴族の馬車を狙った強盗団ですな。ご協力感謝いたします」
警備隊長がキビキビと敬礼をし、レオンへ後日の事情聴取を願ったあと部下たちに指示を出しに去って行った。
「坊ちゃま、いい投げでしたな」
アーロンが清々しい笑顔でのたまった。ついさっきまで武術の道場で汗を流していたときと変わらない、いい笑顔だ。
レオンはふうっと息を吐くと、二人の女性へと近づいた。一人は初老の侍女で、その隣でプラチナブロンドの髪をきれいに結い上げた令嬢が肩を震わせていた。
やはり紋章の通り、コンヴェリー侯爵家の馬車だったようだ。
「お怪我はありませんか」
「お嬢様を助けていただき、誠にありがとう存じます」
侍女が令嬢の肩を抱き、泣きそうな声でレオンに何度も礼を述べた。
「どうやら王都郊外で頻発していた馬車強盗の一味のようです。警備隊も呼びましたので、どうかご安心ください」
「本当にありがとうございました、レオン・ティルベリー様」
きれいな緑色の瞳がまっすぐにレオンに向けられた。声はかすかに震えていたが、気丈に振舞おうとする姿は凛としていた。
息が止まるほどの美貌に、レオンは思わず生唾を呑む。
夜会で何度も見かけた、社交界では高嶺の花でもあるコンヴェリー侯爵家の令嬢、グレースだ。
レオンはもちろん彼女を知っていた。憧れてもいた。
一度だけ、夜会で人に酔ってバルコニーで休んでいたときに、わざわざ濡らしたハンカチを渡してくれたことがある。
(ちなみにそのハンカチを返すきっかけがなく、ずっとしまい込んでいることはアーロンすら知らない。)
それ以来ろくに会話をしたこともないが、密かに思っていた人物だからだ。
だけどまさか、自分を認識されていたとは思いもよらなかった。
「お、おれのことご存じで」
「もちろんです。ティルベリー伯爵家のご長男、レオン様でしょう」
侯爵家の令嬢ともなれば、他家の家名や名前など頭に入っていて当然ともいえるが、今日、レオンは夜会に参加したわけではなく、王都にある東洋武術の道場に行った帰りだ。夜会用の正装でもなく、平民服に近い恰好だ。そんな姿でも彼女の態度は礼儀正しい。
伸ばした前髪で隠した額にある傷跡や小柄な身長も、若い令嬢たちには評判の良くないレオンだったが、他でもない思慕の人であるグレースが、遠巻きにするでなくまっすぐに向き合ってくれることに胸が打ち震えた。
見た目だけではなく、心もきれいな、まさに天使か女神のような女性だ。
グレースは優しく微笑みかけてくれて、なおさら言葉は出てこない。
「この御恩は決して忘れません。改めてお礼を」
「そ、そんなお気遣いは無用です。当たり前のことをしただけですので。では、帰りの道中お気をつけて」
レオンはそれだけ告げると、そそくさとその場を後にした。
アーロンが何か言いたげについてきたが、それは無視した。
◇◇◇
屋敷に帰り着くと、コートネイ家の馬車が停まっていた。
レオンの婚約者であるモイラが来ているのだろうか。
着替えを済ませたあたりで執事がレオンを呼びに来た。
応接室に入ると、そこにはティルベリー伯爵家の現当主である継父と実母の伯爵夫人、異父弟のジュリアン、そして婚約者のモイラとその両親が勢ぞろいしていた。
「え、っと?」
不穏な空気を察知し、席に座るのはためらわれたが、母と執事までもが視線で座れと命じている。
ティルベリー家とコートネイ家が相対するように座っている。継父と母、ジュリアンが並んで座るソファの斜め前に置かれた一人用のソファに腰を下ろした。
テーブルを挟んだ向かいに、目の据わったコートネイ家当主がいる。
コートネイは子爵家だが豪商だ。
貧乏貴族であるティルベリー家が望んだ婚姻ではあるが、見事なほどにレオンとモイラは相性が合わないようで、正しくはモイラがレオンを避けているために、一年以上前に婚約はしたもののその先の話は頓挫している状態だった。
「モイラが子を宿した責任を取っていただく」
婚約期間が長すぎだと釘を刺しに来たのかと思ったが、耳を疑う言葉に思考が止まる。
「え」
モイラとは婚前交渉どころか二人で出かけたり食事をしたことは一度もなく、時には夜会のエスコートすら断られる始末であった。
なのに、妊娠とはどういうことか。
母たち三人が座るソファに目をやると、母は扇子で口元を隠して視線を逸らし、継父はじっと目を閉じたまま口を一文字に引き結んでいる。ジュリアンと目が合うと、不敵な笑みを浮かべた。
(ああ、そういうこと……)
視線ひとつで理解できてしまい、どっと疲れが押し寄せる。最前の大立ち回りの影響もあるが、それとは種類の違う疲労感だ。
モイラを見ると、ハンカチで口元を覆ってぐすぐすと涙を浮かべていて、モイラの隣では母親が眦を吊り上げてレオンとジュリアンを交互に睨んでいる。
「そ、その子をおれの子として育てるということですか」
このまま結婚してもモイラとの間に子ができる可能性は限りなく低いだろう。となれば養子として育てることになるのか。そう思っての発言だったが、モイラが一層大きな泣き声を上げた。
「この子はジュリアンの子よ。子どもの実の父親がいるのになぜあなたと結婚しなければいけないのですか」
「えぇ……?」
「レオン、モイラ嬢との結婚は責任を取ってジュリアンがするべきだと思わんか」
継父で現当主であるジェームス・ティルベリーが口ひげを撫でつけながら重苦しく呟いた。
コートネイ家との婚姻は金銭的援助という、家格が上なだけのティルベリー家にとっては大事な、そして絶対に破談にしたくない契約でもある。
「それはその通りですが」
次男であるジュリアンは爵位を継承できないはずだ。そういった教育も受けていないのではなかったか。
聞きたいことはあるが、言葉にならない。
「今回のことを機に、私は当主の座をジュリアンに譲ることにした」
「……は」
「ジュリアンとモイラ嬢で婚姻を結び、後々はこの家を任せていくつもりだ。こういっては何だが……おまえでは世継ぎどころか、次の結婚相手が見つかるかも分からんだろう。伯爵家のためと思って、な」
あまりの辛辣さに閉口してしまう。だが反論できる余地がないのも自覚していた。
完璧な政略結婚としてモイラとの婚姻話が上がったが、お互いに愛情がないことは誰の目にも明らかだった。
特にモイラは嫌悪とすら言える感情を隠しもしなかった。家格を得るために売られたと思っていたのかもしれないが、レオンに対する態度は社交界でよく見る典型的なものだった。
個人的な感情としても、本当のところはレオンを受け入れられなかったのだろう。
コートネイ家は格上の伯爵家と縁づくことを狙っていて、それが叶うなら娘の結婚相手がレオンでもジュリアンでも、どちらであろうと構わないのだ。
金のある子爵家が実権を握るのも時間の問題だ。
彼女がすでに異父弟の子を宿しているならこの決定が覆ることはなく、レオンもまた抗ってまで当主の座にしがみつく気持ちは湧いてこなかった。
「分かりました。次期当主としてのジュリアンへの教育は、伯爵にお任せいたします」
抵抗するでもなく廃嫡を受け入れると立ち上がり、自室へと向かう。
この場の誰もレオンに謝罪の一言はなく、扉を出る前に母を見たが、視線が合うことはなかった。
◇◇◇
「お人よしが過ぎませんか、坊ちゃま」
「もう坊ちゃまじゃないって。というか、おまえまで来なくてよかったのに」
「何をおっしゃいますか。私の主人は坊ちゃまだけですよ」
「だから坊ちゃまはやめろって」
アーロンが荷ほどきをしながらため息を吐く。その隣でレオン自身も数少ない持ち物をしかるべき場所へと収めていく。
部屋の一番目立つ壁に、亡き父から受け継いだ剣を架けた。
王都から少し離れた中産階級が多く住む住宅街の一角。二階建ての小さな借家が、レオンとアーロンの新しい住処だった。
あの夜の出来事があって、二日後には早々に伯爵家を出たのだ。
薪小屋がある程度の小さい庭は、アーロンと二人、木剣での稽古であれば問題なくできる広さだ。
ティルベリー家には金がないが、幸いにもレオン自身の個人財産は家を出ても当分暮らしが立つくらいには貯めてあった。
社交界で交流のある弱小貴族や、武術道場の師範のツテで多くの商人と知り合い、彼らの財政を再建してきた。その礼金だ。家族には内緒で銀行に預けてある。
伯爵家の内政をほぼ担ってきたレオンにとっては、帳簿仕事はお手の物だ。
無駄を洗い出し、効率のいい仕入れや在庫管理方法を提案し、商人の販路拡大には持てる人脈はすべて使った。
令嬢たちからはすこぶる不評のレオンだが、貴族令息たちとの付き合いについては問題はない。むしろ令嬢たちの仕打ちに対し同情的でもあるので、その辺は融通をきかせてもらいやすいというメリットもあった。
この借家もそんなツテを使って相場よりは安く借りることができた物件だ。
元軍人のアーロンは掃除や洗濯は一通りこなせるし、食事も男二人だけなら何とかなるものだ。
週に三日通っていた道場も近くなり、道場の近所には財政再建を手伝った食堂もあって、顔を出せば安く食べさせてくれる。
「しかし狭いな」
少ない荷物を早々に片付け終えると、部屋をぐるりと見回した。
小さな居間兼食堂は、伯爵家で使っていた自室より狭いかもしれない。
「伯爵家のお屋敷と比べればそうですね」
アーロンが淡々と相槌を打つ。
「ま、気楽でいいか」
食堂には小さなテーブルと椅子が三脚あり、もうひとつの部屋には仕事用の机が置いてある。
二階の部屋はレオンとアーロンそれぞれの寝室として使うことにした。
もともと家具付きの物件だったため、どの部屋の家具もそのまま使っているのだ。多少ガタはきているが、問題はない。
昼過ぎには引っ越し作業も終わり、軽めの昼食を摂った。
午後からはアーロンが家じゅうを掃除するというので、追い出されるような形で依頼先へ出向くことにした。
明るいうちならもはや護衛は不要だろうということだった。
グレースを助けたことで、やっとアーロンにも実力が認められたようで、少し嬉しい。
レオンはコンヴェリー家の方角に手を合わせた。
依頼先では詳細を省いて伯爵家を出たことだけを告げたが、近いうちに廃嫡の件は社交界でも多少は噂になるだろうと思うと気が重い。
身内に婚約者を寝取られたというのが原因だけに、しばらくどころか二度と夜会には出たくない気分だ。
せめてグレースには伝わらないでくれとは思うが、社交界の中心ともいえる人物だ。それは無理な話だろう。
できればそんな情けない顛末は知られたくないのだが。
異父弟と元婚約者の浮気については、自分でも驚くほどに冷静に受け止めていた。それもモイラにとっては業腹物だろうか。
愛情は持てなくとも、せめてお互いに敬意を払って過ごせるならまだ平穏と言えたかもしれないが、悪感情を向けられ続ければ、好意を持つことはさすがに難しかった。
レオンだけが理不尽に家督を奪われた結果となったが、心に秘めていたとはいえレオンも別の女性に恋慕を抱いていたのだから、モイラを責めることはできない。
ジュリアンも父は違えど血のつながった弟でもあるので、憎み切ることはできないだろう。
ジュリアンはレオンとは違い、背が高く顔も整っているほうだ。社交的で女性を楽しませる会話も心得ているようだし、モイラが惹かれるのも納得だ。
彼女にとっては会話すらしたくないという相手がレオンだったのだから、遠からず破綻するのは間違いようのない事実だ。
これからは心置きなくグレースを想うことができる。
決して本人に告げる気も、誰かに打ち明けるつもりもないが、遠くからでも彼女の幸せを願うことに、なんの後ろめたさもなくなった。
「むしろ、こうなってよかったのかもしれないな」
せめて生まれてくる子どもが幸せであることを祈るほかない。
雑踏の中一人ごちたレオンは、依頼先を訪ね終えたその足で借家へと戻った。
◇◇◇
アーロンと二人で暮らし始めて数週間後、侯爵家から先触れが届いた。
「これは、何かの間違いじゃないのか」
何度もアーロンに確認するが、「コンヴェリー家からの使いに間違いございませんが」と同じセリフが返ってくるだけだった。
「なぜコンヴェリー家がおれに」
「そこまでは」
アーロンはそう言いつつも張り切ったように小さな家を隅々まで掃除していた。窓もテーブルも、床でさえ塵ひとつなく磨き上げられている。
応接間と呼べる部屋はないので、居間に招くしかないが、大丈夫なのだろうか。レオンはそんな不安と戦っていた。
ほどなくして約束の時間が到来し、定刻通りに家の前に四頭立ての馬車が停まった。窓からそれを見て、慌てて玄関を飛び出した。
護衛の手を取り馬車から優雅に下りてきたのはまぎれもなくグレースだった。プラチナブロンドの長い髪が陽の光を浴びて眩しいほどに輝いている。
レオンはごくりと喉を鳴らした。
「ごきげんよう、レオン様」
「ようこそ、コンヴェリー令嬢。狭いところですが、どうぞ」
さほど長くもないアプローチをエスコートし、一階の居間へと案内した。
ちらりと横顔を盗み見たが、さすが侯爵家の令嬢は驚いた様子をおくびにも出さないのだな、と感心した。
「……」
「……」
席についてしばらくは、二人ともが無言だった。
アーロンが今日のためにと奮発して用意した茶を出すと、壁際に下がった。その隣には、グレースの侍女も同じように空気に徹している。
レオンはこれが夢か現実か、判断がつかないでいた。
憧れのグレースが、こんな狭い借家にいるだなんて、どう考えても夢でしかないが、夢というにはここは質素すぎる空間だった。
「突然の訪問をお許しくださり、ありがとうございます。あの夜以来、レオン様は夜会にも来られず、お会いすることは叶いませんでしたので、このような方法をとらせていただきました」
「えーと、……噂がどこまでお耳に入っているか分かりませんが、あのあとすぐに家を出まして、夜会どころではなかったというか……」
「立ち入ったことをお聞きしますが……ジュリアン様とモイラ嬢のことは本当なのですか」
夜会で噂でも聞いたのだろうか。グレースが少し気まずそうに切り出した。噂だけで判断しないということなのだろう。
レオンはグレースの真剣な目に対し、素直に首肯した。
「強がりではなく、傷ついてるわけじゃありませんし、二人には幸せになってほしいと思っています」
「……そうですか」
グレースがカップを手に取ったので、レオンもそれに倣って茶を口にした。芳醇な香りが鼻から抜けていく。
アーロンは元軍人のくせに、茶を淹れるのが上手い。
「レオン様にお願いがございます」
「は、はい」
「……はしたないとお思いにならないでいただきたいのですが」
少し照れたように目元が染まったその表情に、レオンは心臓が爆発しそうになった。
慌ててブルブルと顔を振り、目線で続きを促す。
「わたくしの夫になっていただきたいのです」
レオンと、壁際のアーロンまでも同じように固まった。
「……???」
疑問が顔に全部出ていたようで、グレースが小さく咳ばらいをすると、「今は婚約者はおられないのでしょう」とはにかむように笑った。
「あっ、え……と、……それは何か、やむにやまれぬ深い事情でも?」
「どういう意味でしょうか」
「いや、だって、あなたは侯爵家のご令嬢で、婿の候補はいくらでもいらっしゃるでしょう」
「いくつかお話をいただいたことはございます」
あっさりと肯定され、レオンは思わず口をつぐんだ。
分かっていても、本人に認められると胸に来るものがある。
「あ、はは。やっぱりそうですよね」
引く手数多なのはわざわざ確認しなくても分かりきっていることなのに、何を口走っているのかと胸の内で己を叱咤する。
「レオン様に命を救われ、名誉も守っていただきました。自分で言うのは憚られますが、わたくしは侯爵家の娘です。ひいては侯爵家を守っていただいたということです。恩に着せて金銭を要求することだってできたのに、レオン様はお礼を受け取ってはくださらなかった」
「あの、お言葉を返すようですが、……おれは助勢しただけで」
「そう聞いておきましょう」
グレースはクスッと笑った。
「レオン様が財政を立て直した商会や商人のなかに、我がコンヴェリー家が出資しているものもおりました」
改まった口調でグレースが切り出した。レオンも背を正し、彼女を見つめる。
「あなたは武に優れているだけでなく、内政にも長けておられるのですね」
「え、いや……そんな大それたことは」
「謙遜は不要ですわ。レオン様がお強いことは、わたくしが身をもって知ったことです」
アーロンが壁際でうんうんと頷いているのが視界に入った。
あの日の護衛の二人が、いかにレオンの体捌きが優れていたかをあの後も興奮気味に語って聞かせたという。そして訓練に武術を取り入れてはどうかという話にまで発展しているらしい。
確かに小柄なレオンが自分よりはるかに大きな男を投げ飛ばしたことは事実だ。だが侯爵家の護衛騎士たちの士気が上がる理由はよく分からない。
「お父上を亡くされ、伯爵家の家督を継ぐために努力されてきたことも知りました」
レオンやティルベリー家を調査したと打ち明けてくれているのだ。
侯爵家ともなれば婿に迎えるつもりの相手を調べるのは当然のことだろうと受け入れる。
なぜレオンを婿に迎えるつもりなのかは理解が及ばないが。
「わたくしがいくら努力したところで、女は侯爵家の当主になることはできません。いくら釣り書きが届いても、我が家をお任せできる人はそう多くないのです。それに──」
「それに……」
ゴクリと喉が鳴る。
「あのように守られたのは初めてで、あの夜からわたくしはレオン様のことを……」
グレースがポッと頬を染めてそんなことを言った。レオンは思わず立ち上がり、半歩仰け反る。
「よ、よく見てください。こんな傷持ちのおれは、あなたの隣に釣り合うような男ではありませんっ」
伸ばした前髪をかきあげて額の傷跡を晒す。顔つきも地味で平凡だ。それどころか誰の目を引くこともない、いたって普通に、中の下、いや、下の下レベルといって差し支えない。
(そんなおれを選んでくれるというのか。やはりこれは夢か、もしかしたらあの日おれは死んだのかもしれない。だとすれば目の前にいるグレース嬢は天使か、女神か)
レオンは割と真面目にそんなことを考えた。
「まあ、レオン様の瞳は灰色なのですね」
キラキラとした顔で見上げられ、体が硬直する。
「……」
ただ傷跡を晒しただけでは、彼女に効果はないようだ。やはり女神なのだな、と感服する。
だが想い人とじっと見つめ合うなど、今のレオンにはできない。
前髪を乱暴に戻し、座り直した。
「わたくしではレオン様のお眼鏡に適いませんでしょうか」
「ま、まさか! 女神を前に、絶対にそんなことはありえません……!」
真っ向から全力で否定すると、グレースは一瞬驚いた表情を見せてから柔らかく笑った。
余計な一言を付け加えてしまったと気づいても後の祭りだ。
真正面から笑顔に撃ち抜かれ、レオンは自分の顔がトマトのように赤くなるのを自覚した。目の辺りまで伸ばした前髪をさらに引っ張り、顔を隠そうとするが、物理的に叶わない。
「うぐぅ……っ」
間近での笑顔の破壊力が段違いで、レオンは胸を押さえながらテーブルに額を擦りつけた。
「あいにく、わたくしは一人娘なのでレオン様に婿入りしていただくほかないのですが、問題はございませんか」
「問題は……」
ティルベリー家はジュリアンが継ぐ。当主がそう宣言したのだからそちらは問題ないが、別の問題が大ありでもある。
コンヴェリー家に婿入りなど。
つまりゆくゆくは侯爵家の当主になるということだ。
(誰にも見向きもされないようなこのおれが……?)
「い、いや、問題だらけです。おれなんかと結婚なんて、あなたのような素晴らしい令嬢にはもっと相応しい人がいるはずです」
「あら、たとえばどなたですか?」
「え」
「レオン様の考える、わたくしに相応しいという方はどなたですか?」
「それは……えっと……」
答えに窮していると、グレースの顔が曇った。
(ああ! そんな顔をさせたいわけじゃないのに)
レオンはしどろもどろに言葉を言い募るが、グレースの顔がどんどんと暗くなっていき、今にも涙を流しそうになっている。少なくともレオンにはそう見えた。
「お、おれはあなたが幸せになれる相手なら、あなたが誰を選んだって祝福しますよ」
「その言葉、嘘はありませんね」
「もちろんです。男に二言はありません」
「では、レオン様」
グレースが立ち上がり、レオンに向かってスッと手を差し出した。
爪の先まできれいに整った、白魚のような手だ。その手とグレースの顔を交互に見て、ハッと気づく。
「ほ、本気ですか……」
「二言はないのですよね」
にっこりと、今日一番の美しい微笑みにわずかな圧を感じながらも、レオンは片膝をつき、華奢なその手に恐る恐る手を伸ばした。
「不肖ながら、あなたの隣に立てるよう精一杯努めます」
「どうかグレースと」
グレースはレオンの手を両手で握った。柔らかく温かな体温がじーんと伝わってくる。
きっと震えているのがバレてしまっただろう。
やんわりと引かれて立ち上がる。目線の高さはほぼ変わらないが、グレースはその美しい顔に喜色を浮かべ、レオンを見つめていた。
「わたくしの気持ち、受け入れてくださいますね」
「光栄の至りです。……ありがとう、……グレース」
壁際でアーロンが目頭を押さえているのが見えた。
読んでくださりありがとうございます!
面白かったなと思ってもらえたら、ブクマや評価してもらえると嬉しいです。




