第2章 異能【1】
大陸の端に存在するフラール公国。昔はコートラス王国の領地の一部であった。当時から、フラール公国は異能の持ち主が生まれる奇特な地域である。異能を持つ者が利用されたり、はたまた襲われたりと、悲惨な目に遭うことが多発していた。それを防ぐため、フラール公国はひとつの国家として独立したのだ。
ミィはフラール公国の神が祀られている神殿で産まれた。母猫が誰なのかは憶えていない。代々、この神殿に仕える神官に世話されてきた。フラール公国が国として認められた頃から生きているが、いまは何歳になったのかも忘れてしまった。
『さて、そろそろイテルが目を覚ます頃か。様子を見に行くとしよう』
ひとつ伸びをする。家族に忌み嫌われ、家の奥に閉じ込められていた哀れな子ども。彼には愛情が必要だ。例え猫だとしても、溢れるほどに注げる愛情は持ち合わせている。それを惜しみなく注ぐこと。それがミィの使命である。
* * *
耳の奥をくすぐるような歌声に目を覚ます。布団の中から顔を出すと、カーテンの隙間から漏れるわずかな陽の光のもとに人影があった。イテルが身動ぎしたことに気付いて振り向くのはデラだった。
「おはようございます、イテル様。よく眠れましたか?」
ベッドの上に体を起こし、小さく頷く。体になんの負担も感じない、心地良い眠りであった。
「お布団の具合はどうですか?」
またひとつ頷く。実家で与えられた薄い布団とは比べ物にならなかった。
イテルがベッドから降りると、デラが慣れた手付きでイテルの寝間着を脱がせた。実家の侍女に着替えを手伝われていた頃を思い出し、妙に懐かしいような気分になる。その記憶も、ほとんど薄れているのだが。
ミィ、と小さな鳴き声がする。窓のほうを見遣ると、黒猫のミィが器用に窓を開けて部屋に入って来た。
『おはよう。良い朝だな、イテル』
イテルは小さく頷いた。これまでの人生で最高の朝に間違いなかった。
「ミィの声を聞こえるということは、神官の素質がおありになるということですね」
イテルを鏡台の前に座らせ、髪にブラシを通しながらデラが言う。イテルはミィに視線を遣った。
(神官って何?)
『神殿を任される者のことだ』
イテルは首を傾げた。彼らが「神殿」と呼ぶのは、この建物のことらしい。だが、この建物がなんなのかはイテルにはわからなかった。
『この神殿には、フラール公国を加護する神が祀られている。神官は神に祈りを捧ぐ者だ。神殿には様々な者が訪れる。懺悔する者、誰かのために祈る者、思い悩む者……。神官は迷える者を導く。ただ、この神殿に訪れる者はほとんどないのだがね』
(どうして?)
『街にも教会がある。民が訪れやすいのはそちらだからな。レイシーが毎日することと言えば、庭園の花に水をやることくらいだ』
ミィの言ったことがイテルにできるかと考えると甚だ疑問だが、イテルにはその素質があると皆、言う。その素質というものがどういうものかもイテルにはわからない。いまイテルのそばに居る者たちはとても親切だ。これから丁寧に教えてくれることだろう。
『時々、公爵閣下が神の声を聞きに来ることがある』
(神の声?)
『ああ。レイシーは神のお告げを聞く能力がある。フラール公国は遥か昔から神に守られている。神官はそのために必要な存在なのだよ』
両親から与えられた教本に、フラール公国の神について書かれているものがあった。イテルにはよく理解できなかったが、とても神聖なものなのだろう。
『あとは私の世話だ。決まった時間に食事をもらえないと困ってしまうのでな』
(ミィはただの猫ではないんでしょう?)
『どうだろうな。ただの猫かもしれないし、ただの猫ではないかもしれない』
曖昧に言いつつ、ミィは伸びをする。こうして見ているとただの猫のようだが、イテルは猫というものをよく知らない。家の外には居たが、窓の前を通り過ぎる猫を眺めるばかりであった。
「よし、完璧です」
デラが満足げに言うので、イテルは視線を鏡台に戻した。鏡の中の自分を見ると、髪が見違えるほどにツヤツヤとしている。デラの丁寧な手入れにより、伸ばし放題でボサボサだった髪はすっかり綺麗に整っていた。
「さ、朝食に行きましょう。きっとレイシー様もお待ちですよ」
デラに促され、イテルは腰を上げる。イテルの足元に降りて来たミィとともに部屋をあとにした。何年も家の奥に閉じ込められていたイテルにとって、神殿は眩いほどに美しかった。




