第1章 鬼の手【5】
夕食を終えると、デラはイテルを再び風呂場に案内した。ここへ来たときのようにイテルの髪を洗い、丁寧に手入れしたあと、さて、と立ち上がる。
「着替えとタオルはここに置いておきます。あたしは外にいるので、出たら声をかけてください」
イテルは湯殿に浸かったまま頷く。デラは優しく微笑んで浴室のドアを閉じた。
こうしてのんびりと湯に浸かるのは初めてだった。実家にいた頃は、家の風呂場は使わせてもらえなかった。体を洗うときは冷たい水しかなかった。湯気で煙る浴室は、夢の中にいるようで心地良かった。
ぼんやりしつつ、右手を見る。火傷のような痣が浮き出た右手。街の鑑定士が「鬼の手」だと言ったらしい。イテルはこの手がどんな異能なのかを知らなかった。この手がなければ、家族は自分を愛してくれたのだろうか。時折、そんなことを思う。家族が愛してくれれば、何か変わっていたのだろうか。
(僕は……ここで、どうなるのかな……)
レイシーは「千里眼」という異能を持っているらしい。それで他人の嘘を見抜くことができるとデラが言っていた。おそらく、イテルの何かを見てイテルを神官にすると決めたのだろう。それがどんなものであるか、いまは想像が付かなかった。
* * *
環境が変わったことに戸惑っているだろう、とレイシーがイテルを少しひとりにする時間を作ることを求めた。入浴中がいいだろうと判断したデラは、浴室の戸を閉じ、エプロンのポケットに忍ばせておいた物語の本を開く。髪の荒れ具合を見るに、きっと湯殿に入ることすら久しぶりだろう。ゆったりと湯に浸かれば、のんびり過ごすことができるはずだ。
本のページを捲ること数分。浴室に耳を澄ませた。湯が揺れている音がする。すでに五分が経ったが、デラは平気で三十分ほど湯に浸かる。それでも、つい心配になって浴室の戸に手をかけた。
「失礼します。イテル様……イテル様⁉」
五分程度なら平気だろう。その判断が間違っていたのだ。
* * *
デラがそっとイテルをベッドに横たえる。このまま待っていてくださいね、と慌ただしく出て行くデラを見送ると、窓が開く音がした。月明かりの中から、ミィがイテルを覗き込んだ。
『のぼせてしまったか。デラは水を取りに行ったな。待ってろ。レイシーを呼んで来る』
ミィは手をイテルのひたいに置いたあと、また窓の外へ出て行く。頭がぼんやりする。どうやら湯殿に浸かる時間が長すぎたらしいということはイテルにもわかった。
バタバタと荒い足音が聞こえ、桶を手にしたデラが駆け込んで来る。これだけ激しい動きだというのに、桶の水は一滴も零れていない。デラは素早くタオルを絞り、イテルのひたいに乗せる。ひんやりとした感覚が気持ち良かった。
「申し訳ありません、イテル様。やっぱりあたしも浴室にいるべきでした」
デラが心配そうに言う。その表情を見つめる視界が滲んだ。すると、デラはさらに心配そうな顔になった。
「大丈夫です。あたしがここにいますよ」
あの家では、イテルが高熱を出したとしても誰もそばにいてくれなかった。どれほど苦しくても、独りきりだった。心配してくれる人など、ひとりもいなかった。頭を撫でるデラの優しい手が、胸の奥で何かをくすぐっているようだった。
静かなノックとともにレイシーが顔を覗かせた。レイシーは優しく微笑み、イテルの頬を撫でる。それとともにミィがベッドに上がって来た。
「のぼせてしまったか。長湯をしたわけではなさそうだけど」
「ほんの五分程度でしたので」デラが言う。「それくらいなら大丈夫かと……」
「湯殿に浸かることはなかっただろうからね。明日から時間を決めよう」
「はい……」
イテルはレイシーがデラを叱るのではないかと案じていたが、どうやらその様子はない。イテルが安堵していると、それを読み取ったようにレイシーは微笑む。
「熱が引いたら水をたくさん飲むように。今日はよく休んで、明日、また元気な顔を見せておくれ」
自分がどんな顔をしているかわからなかったが、イテルは小さく頷く。レイシーは満足そうに微笑んで、おやすみの挨拶をして部屋をあとにした。
レイシーの言い付け通りにたくさん水を飲むと、デラがイテルの肩まで布団を引き上げた。肌触りが心地良く、ふかふかして温かい。
「あたしが起こしに来るまで、ゆっくり寝ていてくださいね」
デラは優しく胸元を叩く。そのとき、頭の中に微かな情景が浮かんだ。まだ幼い頃、母がこうして見守ってくれていたこと。それももう遠い過去だ。夜が怖くなったのは、いつからだっただろう。
「イテル様が眠るまで、あたしがここにいます。夜のあいだはドアの外にエイカーがいます。何かあったら、エイカーを呼んでください」
こうして誰かがそばにいるだけで、心の奥底から安心感が湧いて来る。初めての感覚が、イテルの心の波を鎮めるようだった。
「おやすみなさい。良い夢を」
朗々と歌うような声に誘われて、次第に瞼が重くなる。胸元を叩く手は優しく、イテルを夢の世界へ誘う。こんなに温かい夜はいつぶりだろう。




