第1章 鬼の手【4】
それからしばらく、イテルはミィに連れられて庭園の中を歩いた。丁寧に手入れされた植物はどれも美しく、イテルの目を楽しませた。時折、デラが花のことを教えてくれた。どの花もイテルの目には新鮮に映り、デラが嫌がる虫ですら手を伸ばしたくなるほどだった。手がかぶれるから触れるな、とミィに注意されたため手は出さなかったが。
そうして庭園で過ごしてどれくらい経っただろうか。辺りが赤くなり始め、塀の向こう側に赤く丸いものが浮かんでいた。
(あの赤いのは何?)
『あれは夕陽だ。もうすぐ夜が訪れる。散歩はそろそろ終わりだ』
(夜は嫌い……。暗くて怖い)
『きっとお前が眠るまで、デラがそばにいてくれるさ』
あの部屋には電灯がなかった。陽が暮れると、あっという間に真っ暗になった。真っ暗になると、勉強はできなかった。だから眠るしかなかった。それでも、眠れなかった。ずっと心がざわついていた。そんなとき、誰かにそばにいてほしかった。それでも、誰もいなかった。誰もいてくれなかった。
「イテル」
呼び掛ける声がイテルの現在に意識を引き戻す。顔を上げると、レイシーが優しく微笑んでいた。
「ずっと中庭にいたのかい?」
『外に出られるのが嬉しいのだろう』ミィが言う。『聞けば、家の奥に閉じ込められていたそうじゃないか』
「ふむ……外に出られるのが嬉しいのか」
レイシーがミィと同じことを繰り返したのは、ミィの声がデラには聞こえないためだろう。こうして、イテルがミィに伝えたことをデラにも教えてくれるのだ。
「これからは好きなときにデラと外に出るといい」
デラを見上げると、もちろんです、と微笑む。好きなときに外に出られる。ただそれだけのことで、イテルは満たされた気分になっていた。
「閣下へのご報告は済んだよ。明日、能力鑑定をしよう。それと……」
レイシーが背後を振り返る。それに合わせて、軽装の鎧を身に着けた青年が歩み寄って来た。短い紺色の髪と黒い瞳で、どこか異国風の顔立ちをしている。イテルは異国の者に会ったことはないが、教本で見たことがある。
「彼はエイカー。イテルの護衛だよ。これからは、神殿の敷地内だとしてもデラと彼を連れ歩くように」
イテルは曖昧に頷いた。護衛というものがどういった存在であるかはわかるが、自分に護衛が付く理由がわからなかった。きっとこの右手のせいなのだろう。そう考えると、少しだけ肩が重くなるようだった。
「夕食にしよう。お腹が空いたろう」
レイシーが踵を返す。イテルは少しだけ躊躇ったが、デラに優しく促されてそのあとに続いた。その後ろをエイカーもついて来る。実家とは大違いの状況に、イテルは少しだけ居辛さを感じた。それでも、彼らが自分にとって悪い存在でないことはわかる。実家にいた者たちと違うことは明らかだった。
案内されたダイニングは実家ほどの広さはないが、大きなテーブルが置かれた清潔感のある部屋だった。イテルがデラに促されて椅子に腰掛けると、その向かいにレイシーが腰を下ろす。デラがグラスに水を注いでいるあいだに、白い服を着たふたりの女性が食事を運んで来た。ふたりはイテルやレイシーと目を合わせることもなく、粛々とテーブルに食事を並べる。イテルには、それが実家にいた侍女のイテルに対する態度と同じものではないことがわかった。彼女たちはこの神聖な場所で淡々と食事を運ぶことが仕事なのだ。レイシーがそれだけ身分の高い者であるということだ。
「いま、この神殿で生活をしているのは私だけなんだ。だから、久々に誰かと食事をともにできるのは嬉しいよ」
レイシーが穏やかに微笑んで言うので、イテルは自分の背後に控えるデラとエイカーに視線を遣った。ふたりは優しい笑みを浮かべる。
「デラとエイカーは閣下が選出したイテルのお付きでね」と、レイシー。「私にお付きの者はいない。ずっとここでひとりで過ごしていたんだよ。だから、これからイテルと暮らせることを嬉しく思うよ」
イテルは実家のことを思い出していた。狭い部屋に押し込まれ、一日に三回、侍女が酷い顔をしながら食事を運んで来るだけ。時折、両親が兄姉を連れて来た。それも、嫌そうな顔をしながら。イテルは独りきりだった。きっと、レイシーが感じていた寂しさも、イテルの感情と似ているのだろう。
「ここがイテルにとって落ち着く場所になることを願っているよ。何か言いたいことがあれば、ミィを利用するといい」
和やかな空気で食事が始まる。テーブルに並べられた料理は、実家では見たことがないほど豪勢であった。実家で侍女が持って来た食事は大抵、パンとスープ、もしくはサラダだった。それでも腹が満たせればなんでもよかった。ただ生きるためだけに与えられていただけの食事。それでいいと思っていた。
平皿に盛られたスープひとつ取ってみても、実家の料理とは大違いだった。実家のスープは野菜のくずがただ放り込まれただけの物だった。この黄色いスープは甘みを感じる。だが、その味わったことのない感覚が、イテルの味覚には刺激が強かった。
「口に合わないかい」
レイシーが気遣わしげに言うので、イテルは慌てて首を振った。随分と表情に出てしまっていたらしい。それもそのはずだ。これまで、表情など気にしたことがなかった。他人が自分の顔を見てどう思うのか、そんなことは考えたこともなかったのだ。
「もし自分の味覚が説明できるなら、ミィに伝えるといい。それに合わせた食事を用意しよう。少しずつ慣れていけばいいんだ」
イテルは小さく頷いた。これほどまでに気遣われたことなど、これまでに一度もなかった。それが、少しだけ申し訳ない気持ちになった。




