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鬼の手の神官は総溺愛に気付かない  作者: 瀬那つくてん(加賀谷イコ)


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第1章 鬼の手【3】

 身支度が整うと、デラはイテルを部屋の外へ促した。家の奥の部屋から出たことがなかったイテルは、部屋を出るという、ただそれだけの行動が新鮮であった。

 デラが先導して歩く廊下は、ところどころに小振りの花が飾られており、落ち着いた紺色の絨毯も草の模様が描かれた壁も、イテルには美しく見えた。

「ここが聖堂です」

 そう言って振り向いたデラに続くと、広い部屋に出る。横長の椅子が正面に向かって二列に並び、その先には教壇の立つ台があった。歴史書で見た「教会」に似ている。決して華美ではないが、各所に見られる装飾は、どれも煌びやかであった。

「訪れる者はほとんどありませんが、公国の神を祀っています」

 公国の神のことは国史の教本で見たことがある。名前が長くて覚えられなかったため、いまは思い付かない。

「祭事の際に使われることもあります。それと、結婚式とか。あたしも結婚したら、絶対にここで式を挙げるんです」

 デラは頬に手を添え、ほう、と溜め息を落とす。それから、優しい微笑みでイテルを覗き込んだ。

「そのときは、イテル様にお願いしてもいいですか?」

 イテルは曖昧に頷いた。結婚式がどういうものであるかは知っているが、そのとき自分が何をすればいいかはまったくわからなかった。レイシーが、イテルは神官になる、と言っていた。だが、神官がどういうものであるかをイテルは知らなかった。

「神官は領地経営に関する雑務を任されることもありますが、普段はこの神殿にいます。いま、神官はレイシー様しかいません。レイシー様は、左目に『千里眼』を宿しているんですよ」

 きょとんを首を傾げるイテルに、デラはまた穏やかに微笑んだ。

「千里眼は見えないものを見ることができます。嘘をつくとすぐ見抜かれるので、みんな恐れているんですよ」

 ふふ、とデラは優しく笑う。レイシーの顔を思い返しても特に変わったことはないように思うが、イテルを見つめるときも何かを見ていたのだろう。イテルを神官にすると決めたのは、イテルの中に、イテルの感じ得ない何かがあったのかもしれない。

「イテル様の右手も『鬼の手』などと称されていますが、神に通ずる力なんだと思います。近々、レイシー様が詳しい鑑定をなさるはずです。どんな能力か楽しみですよ」

 イテルは街の鑑定士によって右手に「鬼の手」を宿していると告げられた。その日から、両親はイテルを家の奥の部屋に閉じ込めた。この右手が神に通ずるとは、イテルには到底、思えなかった。

 デラはまた廊下に出た。すぐに壁がなくなり、途端に爽やかな風が吹き抜けた。キラキラと輝く太陽のもと、見たこともない立派な庭園が広がっていた。裏口の庭園の数倍は面積があるようで、色とりどりの花々や低木、ハーブ畑も見える。イテルには見たこともない光景だった。

「気持ち良いでしょう? ここは神官しか立ち入らない特別な庭園です」

 デラに促されて庭園に出たイテルは、足元でサクサクと音が鳴ることに気が付いた。新鮮な緑の芝が、ちくちくとブーツを刺す。イテルは腰を屈め、芝に触れた。手袋越しに、心地良い手触りを感じた。

「ここはレイシー様が手入れをしています。時折、公爵家から庭師が来ることもあって、とても綺麗に保たれているんです」

 イテルの目には、見るものすべてが輝いていた。幼い頃、実家の庭園で過ごしていた頃の記憶が蘇る。それも、ほんの少しの記憶だが。

 すぐそばで、ミィ、と何かが鳴った。音の方向を見ると、黒い小さな猫がイテルを見上げている。思わず退いたイテルに、くすりとデラが小さく笑った。

「この子は神殿で世話をしている猫のミィです。撫でても大丈夫ですよ」

 イテルは恐る恐る手を伸ばした。猫のミィはその手が触れるのを待つように頭を差し出している。そっと触れると、ふかふかの毛が手袋越しに温もりを伝えた。

『よく来たな、少年。私はきみを歓迎する』

 頭の中で響くような声に、イテルは猫から手を離し、また退いた。辺りを見回しても、デラとミィしかいない。男性の声のように聞こえた。だが、周囲には誰もいない。

「もしかして、ミィの声が聞こえましたか?」

 デラが優しく覗き込む。ミィに視線を戻すと、どこか誇らしげな表情をしているように見えた。

『そう。私の声だよ』

 ミィの夜空を切り抜いたビー玉のような瞳が真っ直ぐにイテルを見つめる。奇妙な感覚だった。猫の声など聞こえたことがない。そもそも喋る猫がいることも知らなかった。

「ミィの声が聞こえたということは、神官の素質があるということですね」

 イテルはデラを見上げた。つまり、デラにはミィの声が聞こえていないということだ。イテルは神官がどういったものなのかをまだ知らないが、おそらくミィの声が聞こえるのは特別なことなのだろう。

『ミィという名前は私には可愛すぎるとレイシーに何度も言っているのだがな。ミィと鳴くからそう名付けたのだろう。私のことは好きに呼んでくれ』

(……ミィ……)

『そう、ミィだ』

 イテルはまた驚いてミィを見つめた。ミィは、イテルが頭の中で呟いたことに返事をしたらしい。

『驚いているな。私には、お前の心の声が聞こえるのだよ。そうすれば、会話ができるだろう?』

 ただ見つめるだけのイテルに、ミィはまた短く鳴く。物理的に耳で聞こえる声は、ただの猫の鳴き声だった。

(……ずっと喋ってなかったから、どうやってお話しすればいいかわからないんだ)

『そうか、災難だったな。私がいれば、通訳してやれる。遠慮なく私を利用するといい。必要なことはレイシーに伝えてやる。私の声はレイシーにも聞こえているのだよ』

(うん……)

『ついて来い。庭園を案内してやろう』

 ミィはすくと立ち上がり、庭園の中に向かう。イテルがそのあとに続くと、デラもそれに付いて来た。イテルとミィが心で会話していることを察しているのだろう。




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