第1章 鬼の手【2】
馬車が進む先に見えたのは、イテルの暮らしていた屋敷よりはるかに巨大な建物だった。それが「宮廷」と呼ばれる場所だということはイテルにもわかる。だが、その壮大な雰囲気に、イテルはまた身が竦む思いだった。
イテルはそのまま宮廷に入って行くものだと思っていたが、馬車は正面入り口と思われる門の前を通り過ぎる。それから路地の中に入り、薄暗い場所で停まる。どうやら裏口らしいその場所で、レイシーはイテルの手を引いて馬車を降りる。レイシーが足を踏み入れた先は立派な庭園が広がっていた。そこで、宮廷とは別の建物がイテルを待ち受けている。白を基調とした荘厳な建物で、宮廷とはまた違った迫力がある。
「ここは神殿だよ。きみは今日からここで暮らすんだ」
わけがわからないままのイテルを、レイシーは神殿と呼んだ建物の中に促した。建物の大きさとしては実家と変わらないが、エントランスは質素な雰囲気で、貴族の屋敷とは違うことがよくわかった。
「お待ちしておりました」
穏やかな声に振り向くと、綺麗にまとめられた赤毛と優しい緑色の瞳の女性が辞儀をする。ホワイトブリムとお仕着せの清潔感がある身形は、実家にもいた「侍女」と呼ばれる女性のものだ。
「彼女はデラ。きみの世話をする者だ」
「よろしくお願いいたします」
侍女――デラはイテルに優しく微笑みかける。安心させるような表情だった。
「まずは服だね。それから、髪を整えよう」
「湯浴みの支度ができております」
イテルは実家の使用人たちからも疎まれていた。世話をしてくれる者などおらず、身形はまともではない。髪も伸ばし放題のまま傷んでおり、まともな服も与えられなかった。ただ手を隠すために袖の長い服を与えられただけで、その着替えも何枚もあるわけではない。イテルは自分が不潔だということを理解していた。
こちらへどうぞ、とデラが歩き出す。レイシーに背中を押され、そのあとに続いた。建物内はどこも綺麗で、廊下には小振りな花を飾った花台が置かれている。レイシーは「神殿」と言っていた。家に来た際に「神官」を名乗ったところを見ると、ここは神を祀る場所なのだろう。レイシーはその管理人なのだ。
デラが案内したのは、清潔感で満たされた浴場だった。デラは当然のようにイテルの服を脱がせ、浴室に促した。仕える者の世話をすることに慣れているらしい。イテルが気恥ずかしく思いながら湯に浸かると、髪の手入れを始めた。優しい手付きがまるで頭を撫でられているようで、初めてのその感覚はとても心地良かった。
入浴を済ませると、デラは廊下の奥側の部屋にイテルを案内した。イテルのために用意されたと思われる部屋は広く、大きなベッドと精巧な調度のタンス、木製の机と繊細な飾りが施された鏡台が置かれていた。
デラはイテルを鏡台の椅子に促す。髪をタオルで丁寧に拭き、絡まった髪を解くように優しく櫛を入れる。イテルの髪は腰ほどまで伸び、まともに手入れしていなかったため梳かすことに時間がかかった。
「綺麗な浅葱色ですねー」
デラがなんの気なしに言う。貶されど褒められたことのなかった髪色。気味が悪いと家族に嫌われていた。デラの生きる世界では、浅葱色の髪はおかしいものではないらしい。それがイテルに安堵をもたらした。
デラがオイルを手にした頃、部屋のドアがノックされた。顔を覗かせたのはレイシーだった。
「服のサイズはどうかな」
「ちょうど良さそうですよ」デラが言う。「手袋は少し大きいようですけど」
イテルの着替えには手袋が用意されていた。イテルが幼い頃、両親はイテルの両手に手袋を着けることを命じた。鬼の手を隠すための、真っ黒な手袋だ。この部屋に用意されていた手袋は白く、デラの言うように、イテルには少しだけ大きかった。服も実家にいた頃と同じ袖の長いローブだった。
「家と同じような物を揃えてみたけど、どうかな」
微笑みかけるレイシーに、イテルは曖昧に頷いた。あらかじめ用意されていたということは、レイシーは実家に来る前からイテルのことを知っていたということだ。おそらく、異能を隠す家があることを知り、ある程度のことは調べてあるのだろう。
「神官の服装はある程度、自由が利く。これからイテルに合う服を探していこう」
イテルはまた曖昧に頷く。幼い頃からこういった服装であったため、自分にどんな服が合うのかわからなかった。
「閣下と奥方様へのご挨拶は、もう少しこの場所に慣れてからにしよう」
両親から与えられた勉強道具の中に、フラール公国の国史の教本があった。民が「閣下」と呼ぶのはフラール公爵で「奥方様」と呼ぶのはフラール公爵夫人のこと。このフラール公国の最上位の身分を持つ者たちだ。
「まずはここの暮らしに慣れることから。デラが常にそばにいるから、頼りにするといい」
「なんでもお申し付けくださいね」
鏡の中でデラが優しく微笑む。イテルはこれまで、自分に対してこんなふうに微笑みかけてくれる人はいなかった。ただそれだけのことなのに、心がくすぐられているようだった。
「私は閣下と奥方様にご報告に上がるよ。デラ、この神殿内を案内してあげてくれ」
「はい。お任せください」
「じゃあ、またあとで」
レイシーは優しくイテルの頭を撫でる。イテルは、こんなに優しい人たちがこの世に居ることを知らなかった。悪い異能を生まれ持った自分は、あの小汚く狭い部屋で一生を過ごすのだと信じきっていた。まだ夢の中にいるような感覚で、これが現実であると確信を持つことができない。それはきっとこの先、彼らが教えてくれるのだろう。




