サマー・インフェルノ
――夏。
もうすぐ、あの夏がやってくる。
わたしが――大嫌いな、夏。
あの女と出会ってしまった、忘れたくても忘れられない、最低最悪の夏が。
すべてを焼き尽くすかのような、憎い、憎い『夏の業火』は。
“今宵も”わたしを地獄へ引きずり落とそうと、
しつこく、しつこく。
熱を孕んだ蛇のように、ねっとりと――“耳元”に絡みつく。
いくら耳を塞いでも、
わたしの耳元では、あの女の執念が、怨念が、情念が、
のろいの言葉のように、延々とささやき続かれる。
そして、また。
わたしという“のろわれたもの”――怨嗟の化身もまた、
骨の髄まで心底憎い、“お前”という存在を――地獄の底まで叩き落とそうとする。
醜く、無様にしがみつく、
哀れなお前を、足で、何度も何度も蹴りつける。
お互いを、心の底から、あざ笑う――わたしたちの名は、
“サマー・インフェルノ”
あの日、わたしが出会ったのは――
*
『人の心の数だけ、存在するのです。不思議、というものは』
ごきげんよう。
「ひとつだけ」
「こわいお話をいたしましょうか」
また、お会いしましたね。
怪奇蒐集家のムツムツミです。
今回のお話は、『サマー・インフェルノ』――。
そう、我々の間では。非常に興味深い、あの『塩の柱』のお話をしたいと思います。
*
最初に申し上げておきます。
このお話に登場するお二人は、すでにこの世を去られています。
お二人は、謎に包まれた死因を残し、突然この世を去ってしまいました。
さて、皆さまはこんな怪異譚を耳にされたことはありませんか?
「おしおさまは、あらゆる魔ものから、わたくしたちの身を守ってくださる」
お二人は、ある日この話を聞きました。
そして、その後まもなく——
本当に、唐突に。まるで
“あらかじめ決められていたかのように”
命を落としてしまったのです。
そして冒頭でも申し上げたとおり、彼女らの死には、あまりに不可解な点が残されていました。
もしかすると、あなたもどこかで耳にしたことがあるかもしれません。
——『魔除けの塩』
本来、「塩」というものは、魔を払う清浄な力を持つはずです。
しかし、このお話では違います。
まったく、“違う”のです。
それから、もう一つ、あらかじめお伝えしておきます。
この怪談——『塩の柱』を聞いた者には、やがて身の回りで“おかしなこと”が起こると言われています。
それがどういうことなのか、これから、ゆっくりとお話ししていきましょう——。
*
まず、わたしたちのことを話そう。
わたしの名前は、中村未来。そして、かつてわたしの“最愛”だった人の名は、大正谷 歩という。
歩とは、インターネットのSNSで出会い、意気投合して、やがて恋人同士になった。
交際期間は、わずか三年ほど。
けれど、その間も彼女は、何度となく浮気を繰り返した。
そしてそのたびに、まるで反省していないような、上辺だけの謝罪の言葉を、つらつらと口にした。
あるとき、わたしは言った。
「わたしたち、もう別れよう」
すると彼女は、泣きながらこう言った。
『なんでそんなこと言うの? もうしないから。ぜったい絶対、反省したから。あたしには未来ちゃんしかいないの。だから、あたしを見捨てないで』
その言葉を聞いたとき、わたしの中にはどこか釈然としない思いが残ったけれど、それでも、わたしはあっさりと彼女を許してしまった。
……だが、それでも彼女――わたしの“最愛”の歩は、浮気をやめなかった。
くく。
浮気をやめない歩を見て、わたしはそのとき、こう思った。
――歩が浮気をやめられないのは、わたしが“欠陥人間”だから。“欠落人間”だから。
あの子はきっと、永遠に浮気を繰り返すのだ、と。
思い悩んだ。
日々、何度も何度も思い悩んだ。
けれど、自分の性格を変えるというのは、正直に言って至難の業だ。
だから、わたしはある噂話に、すがることにした。
怪話『おしおさま』――。
その内容はこうだ。
紙で人型を作り、その人型の前に塩を盛る。
そして、こう念じるのだという。
『おしおさま、おしおさま。わたしの大切なものを、魔なるものから、どうかお守りください』
大事なのは、丁寧に、心を込めて拝むこと。
すると、目の前に『しお神さま』が現れ、願いをかけた人にとって“大切なもの”を、誰よりも強く、徹底的に守ってくださるのだという。
そんな、にわかには信じがたい怪異譚を、わたしは信じることにした。
もともと塩は、“魔除け”として広く知られている。
だからわたしは、本来の趣旨とは少し異なる形で、この“魔除け”の力にすがることにしたのだ。
――彼女に、間男や間女が近づかないように。
もちろん、眉唾だった。
正直に言えば、本当に、眉唾ものだった。
けれど、それからすぐのことだった。
彼女はぴたりと、浮気をやめた。
……が、それと同時に、“おかしなこと”を口にするようになった。
『塩の柱が……なんだか、変な塩の柱が……。ずっと、ずっとずっと、あたしを見張ってる。あたしの意識の及ばないところで……。二十四時間、ずっと! あたしのことを見張ってるの!』
と。
どうやらね、『塩の柱』の怪話は、本当だったみたいなんだよ。
くくく……歩はね、それからというもの、どこにいても妙に怯えるようになってさ。やがて、外にもまったく出なくなっちゃった。
わたしは、それが嬉しくて。安堵して。どこか、“気持ちよくて”――。
今度は、わたしが浮気を繰り返すようになったんだ。
歩はね、一人で家に取り残されて、とても、とても怖かったんじゃないかと思う。
でもね、それは所詮、“自分が招いた結果”。
だから、仕方のないことだったんだ。
それから、どれくらいの時間が経ったかな。
ある日、遊び歩いて明け方に家へ帰ってみると――。
歩がね、床で、転がっていたんだ。
まるで、糸が切れた人形のように。ヘンテコな体勢で、手足を力なく、だらりとさせて。
わたしはね、歩に駆け寄ったよ。
けどね、歩はすでに、事切れていたんだ。
歩のすぐそばには、遺書のようなものが書き残されていたよ。
そこには、こう書かれてあった。
『みてる ばけものが のむ しお を まよけ の しお を』
どうやら、歩のバカは、“おしおさま”が怖くて、塩を飲んだみたいだった。
それも、家にある大量の塩を、あるだけぜんぶ。
くくく……わたしの家には、ちょうど、わたしが“しお神さま”に願をかけたことによって、大量の塩が置いてあった。
歩は、その塩を――
“お腹いっぱいになるまで”
“お腹がはち切れそうになるまで”
悶絶しながら。地獄の苦しみを味わいながら。
ごく、ごく、ごく、ごく。と。
喉とお腹を焼かれながら、そのすべてを飲み干したみたいだった。
わたしは、歩をぎゅっと抱き締める。
そして、耳元で声を震わせながら、静かにそっと囁いた。
「ばーか。ざまあみろ。お前には、その死に様がお似合いだよ。くくくく……」
歩を抱き締める腕に、さらに力が込められる。
「さようなら。もう、二度と。わたしの前に姿を現すなよ。ぷっふふふ……」
――わたしと歩のお付き合いは、そこで終わった。
まぁ、一緒に暮らしていたこともあり、彼女が不審死したことで、わたしにはさまざまな容疑がかけられた。
だが、そんなことはもはやどうでもよかった。
薄馬鹿で、どうしようもない。そんな歩との付き合いから解放されたのだ。
わたしを縛るものは、もう何もない。
わたしはそのあまりの嬉しさから、腹の底から笑いが止まらない日々を送っていた。
しかし、そんなある日。
視界の端に、妙なものが映るようになった。
『白く、縦長で、どっしりとした、ナニカ』
最初は、それが何なのか、わたしにはまるでわからなかった。
だが、やがてその妙なものは、視界の端だけでなく、視界のいたるところに現れるようになった。
ある時は電柱の影に隠れて、ある時は鏡に映る自分の背後に、ある時はなんとなく空を仰いだ真上に。
また、ある時は、ニンゲンそのものが妙なものに見えることもあった。
その時、わたしはあることに気づいた。
目の前に、よく映るあれは――
“盛り塩”
なのだと。
なぜ盛り塩がわたしを監視しているのかはわからない。
ただ、わたしには心当たりがあった。これは、くそったれな歩がわたしに残した『のろい』だと。
おそらく、歩もわたしに『おしおさま』の願をかけていたのだろう。
上等だ。
それなら、わたしはお前を更なる地獄に叩き落としてやる。
醜く、無様にしがみつく哀れなお前を、地獄の底まで叩き落としてやる。
そして、ふたたび。
わたしは『おしおさま』への願かけを再開した。
おしおさまが、わたしを魔なるものから守ってくださるように。
魔なるものを祓ってくださるように。
それからしばらくの時が経った。
だが、わたしには相変わらず、“盛り塩”が付きまとい続けている。
わからなかった。どういうことなのか、素直にわからなかった。
だって、わたしはおしおさまに願をかけた。
それなら、どうしておしおさまはわたしを魔なるものから守ってくださらないのだろう?
おしおさまは魔なるものから人々を救う神さまだろう?
それなら、どうして――いったい、どうして?
わからない。わからない。
神さまの考えることなど、所詮人間には計り知れないのかもしれない。
だったら、わたしにできることはただひとつ。
“おしおさまを殺すことだけだ”
古来より、人間は“神殺し”を行ってきた。
それならば、わたしにだって、できないはずはない。
わたしは、神さまを殺す。おしおさまを殺す。くけけけけ。
お前は存在してはいけない神だ。神を殺す人間であるわたしが、神であるわたしがお前を殺す。
神を殺すには、何が適しているのだろう。
包丁? 縄? ノコギリ? いいや、適当に。ハンマーで。
百均のハンマーだけど、お前なんかこれで十分だ。覚悟しろよ、しお野郎。しおなんかハンマーで粉々に砕いて、一瞬で終わりだ。
わたしは、目の前の“塩の塊”にハンマーを振り上げる。
そして、塩の塊にそのハンマーを振り下ろした瞬間だった。
わたしの腕が塩の塊となって、パラパラと崩れ落ちた。
「――は」
ひゅっと、喉から乾いた音が出た。
それから反対側の腕も塩の塊となって、パラパラと崩れ落ちた。
次に、両足が塩の塊となり、そのまま自重を支えきれずに、頭からその場に崩れ落ちる。
「は、は、は、」
呼吸が、わたしの呼吸が、喉に穴が空いたようにうまくできない。
「は、は、は、」
その時、腹部が塩の塊となって、パラパラと崩れ落ちた感覚がした。
「は、は、は、ははははは」
どこから声が出ているのかわからないが、わたしのどこかから乾いた声が溢れ出し、止まらない。
気づくと、塩の塊がわたしを頭上から見下ろしていた。
「魔ものは」
「お前だ」
「愚かな人間よ」
塩の塊は言った。確かに、間違いなくそう言った。
「一度、無に帰り、反省しなさ……」
ひゅっと、乾いた声が出る。
「……ナ、イ。絶対ニ、ナイ。ワタシハ、“オ前”ヲ……絶対ニ、赦サナイ……。愚カナノハ、“オ前”ダ……シオ神……」
ひゅっと、さらなる乾いた声が出る。
「ククク……。タカガ、神如キガ……図ニ乗リヤガッテ……。ワタシヲコノママ……易々ト殺セルト思ウナヨ……。フザケタ、シオ野郎ガ……ワタシハ絶対ニ……“オ前”ヲ殺ス……。コノ世カラ、存在ソノモノヲ……完全ニ跡形モナク消シ去ッテヤル……。待ッテイロ……ソコデ待ッテイロ……! ククク……殺ス……殺シテヤルゥ……!!」
声も絶え絶えに、わたしは最後の言葉を発する。
「 イ イ カ ? 」
「 イ イ カ ァ ! ? 」
『 絶 対 ニ ダ ァ 』
わたしの意識はそこでふっと途切れてしまった。
しかし意識は途切れても、“たましい”は残っている。
こうして確かに残っている。
“可哀想なわたしを救わなかった神に”
“可哀想なわたしを地獄に突き落とした歩に”
“可哀想なわたしを見殺しにしたお前らに”
わたしは怨嗟ののろいを吐き続ける。
『 ミ テ イ ロ 』
『 コ ノ 世 ノ ス ベ テ ヲ 地 獄 色 ニ 染 メ 上 ゲ テ ヤ ル 』
“サマー・インフェルノハ今ココカラ始マルゾ”
オ前ラガ恐レル、
ア ノ 、
“ 七 月 五 日 ” カ ラ ナ ――。
*
「いかがでしたか?」
「怪談『塩の柱』」
「まことしやかにささやかれる『七月五日』の噂ですが、実は異変はすでに少しずつ起き始めているようです」
「あなたの身の回りで、何か不思議なことはありませんでしたか?」
「もしも、奇妙な出来事に疑問を感じているなら、それは――」
「『サマー・インフェルノ』の前兆かもしれません」
「神をも殺そうとする人間の、恐るべき意趣遺恨は」
「果たして、どんな歪んだ奇跡を引き起こすのでしょうか」
「わたくしとしては、ただただ、何も起こらないことを心から願っております」
「ふふふふふ……」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご覧いただき、心より感謝申し上げます。