幕間
暗い三階層内には、獣の唸り声と足音だけが響いていた。
「奏十、普段の十倍増しで眉間の皺が寄っていますよ?」
顔を上げなくとも分かる。
俺はその声にうんざりとしたため息を吐いた。
「まだ戻っていなかったのか」
長官室の前に背中を預けていたのは、胡散臭い笑みを浮かべた男。
司令部部長——ルアス・ユア・クラルグだ。
「夜はこれからですからね。あなたともっと語り合いたいと思いまして」
そう言って増々笑みを深めるルアス。
どうせロクな事を考えていないのであろう事はその顔を見れば分かる。
「俺はお前に用事はない。邪魔だ、早くどけ」
扉を塞ぐように立つルアスを睨むが、ルアスは当然怯まない。
この男は他人からの評価や感情を理由に行動や発言を無暗に変えるような男ではない。
指導者としては利点なのかもしれないが、今この状況においてはこの上なく迷惑な性質でしかない。
「伝えなかったのですね」
ルアスは俺の発言の一切を無視して話し始める。
「一体何の話だ」
「しらばっくれても無駄ですよ。彼の事です、あなたの部下の」
「⋯⋯」
俺が黙っていると、構わずルアスは続ける。
「マキノ長官の辞任、彼に関わった捜査班の彼らの死、あなたがヘカテー・クレネシアと対戦していた事も」
この男の言う通り、マキノ・ユービス長官は一連の事件の責任を取り一階層階層長を辞任した。
捜査班の職員であった木古瀬とフリックという名の職員は分身体の一人、ディオによって殺された。
最後については、西条は何故か感づいているようだったが、俺は認める事をしなかった。
認めたところで何も変わらないのだから、わざわざ自分から言う必要はない。
「今度は盗み聞きか? いい加減、監察課に報告するぞ」
「おや、そんな怖い事を仰らず。偶然耳に入っただけではありませんか」
わざとらしい台詞に苛立つ。
「マキノ長官の辞任は禁忌魔法の使用が絡んでいます。慎重なあなたが敢えて言わなかったのはそれが理由なのでしょう。ですが、それ以外の事を伝えなかったのは、あなたの優しさなのですよね? 彼がこれ以上無意味に責任を感じないようにというあなたなりの」
各階層の階層長にしか使用する事が許されず、使用する場面は監獄が危機に扮した場合に限られる『禁忌魔法』
そして、その使用は同時に使用者——つまりは階層長の座の放棄を意味する。
『禁忌魔法』を使用せざるを得ない状態にまで非常事態レベルを引き上げた責任を取らせるためだ。
マキノさんは、『禁忌魔法』を使用した事で階層長の座を降り、後任には階層長として彼の右腕を務めていた李岳さんを指名した。
長きに渡りディオスガルグに務めてきた李岳さんが、マキノさんの後釜を継ぐ事に反対の意見が出るはずもなく、先の会議でも即決された。
「用件はそれだけか?」
ため息交じりに俺がそう言うと、ルアスは意味ありげに眼鏡の奥の瞳を細める。
いつまでもこの男のおふざけに付き合ってはいられない。
俺は進行を防ぐルアスを避け長官室の前まで辿り着くと、ドアノブを回しながら引く。
ルアスがようやく声を発したのはその時だった。
「今度、タラリア様がお目になられるようですよ」
「⋯⋯ッ」
一瞬、動きが止まった。
しかし、振り返る事も、その話しに追及しようとも思わなかった。
「——さっさと地上へ戻れ」
これ以上の会話をするつもりはなかった。
俺はその後、ルアスが何かを言ってくる前に扉を開き長官室の中へ入った。
ルアスは、何か言おうとしていたのかもしれないが、わざわざ部屋に入ってきてまで続きを話そうとはしなかった。
「タラリア⋯⋯何故あの人が」
誰もいない長官室に作りたてのコーヒーの香りが充満する。
らしくもない。
騒ぎ出す心を鎮めようと、コーヒーを一口飲んだ。
変わらない、いつもの味。
そのはずなのに、何故かいつもと違っているように思えた。
『神界庁に興味はありませんか?』
忘れかけていたあの声が、今になってもう一度心の中で問いかける。
この世の全てに興味があるというような、好奇心に満ちた声で。
『君が知りたい事は分かっていますよ。そのために、君がどうすれば良いのかも』
驚いた俺の顔を見て、満足気に細められた瞳。
全てのきっかけ、始まりの選択。
マグカップを置く。
中に入った少しのコーヒーが波打ち光を反射する。
何故——全てその疑問から始まった。
そして、今も絶えず根底にある原動力だ。
必ず、守って見せる。
そして、暴いて見せる。
ディオスガルグに眠るはずの真相を——
第三部以降に向けた布石回です。
橋雪の目的やいかに。
ですが、第三部は室町さんに焦点を当てた話となる予定です。




