86 傀儡
「マキノ、さん⋯⋯?」
そこで、ハッとした。自分がまだ生きていることに気づいたからだ。
顔を上げると、そこには心臓を貫かれた三体のミノタウロスが、武器を持ったまま動きを止めていた。
力をなくし垂れ下がった手から、棍棒や斧が滑り落ちる。
ゴンッと音を立て落ちたそれに続いて、ミノタウロスが一斉に倒れた。
濁った瞳に生気はない。もう死んでいた。
何が起こったのか、理解するのに時間を要した。
呆気に取られたまま、声のした方を見ると、やはり、そこにはマキノさんがいた。
たった一人で十数体のミノタウロスの動きを封じたマキノさんからは、普段の穏やかでのんびりとした雰囲気は微塵も感じられなかった。
全身から滲み出る強い怒り、悲しみ。
「長官⋯⋯っ!」
「皆、長官が来たぞ!」
それらの声は、一階層の長マキノ・ユービスという職員の全てを物語っていた。
彼が来たことによる安堵、この状況を打開してくれるかもしれないという希望が、絶望に染まったこの空気を一瞬にして変えてしまった。
「皆よく持ちこたえてくれはりました。動ける職員さんは怪我人の救護をお願いします。ここからは、うちに任せてください」
閉鎖されたこの一階層で、これ以上助けの来ない状態で、現れた一筋の光は最奥に構える一人の少女と相対する。
「⋯⋯新たな生贄、あるいは名もなき救済者か」
ぽつりとエナが言った。
細く白い指で弾くと、途端に全てのミノタウロスたちの動きがピタリと止まった。
唐突に攻撃を止めたミノタウロスたちに職員たちは動揺を見せる。
操りの魔法が解けた⋯⋯のか?
マキノさんの登場に恐れおののいた囚人が遂に降伏した——誰もがそう思った瞬間、エナがその手を伸ばし、そして握りしめた。
「——マギノーゼ」
水面に落ちる雫のように繊細な声は、不思議とハッキリと耳に届いた。
そしてその瞬間、虚ろな瞳で立ち尽くすミノタウロスたちが血を吐き出した。
誰かが叫んだ。
見ると、自分の真横にミノタウロスが倒れてきたことで、腰を抜かしてしまったようだった。
「心臓を食いつぶす悪魔みたいな魔術。とても神様やとは思われへん技やねぇ」
「⋯⋯我は神の名を冠しているが神ではない。魔術は非道として天に属する者には忌み嫌われるが、古来、生命が持てる最高位の術としての地位は、今なお揺るがない。その点、戦いの場には非常に合理的だ」
まるで独り言のようにエナは言う。
「⋯⋯そんなこと、どうでもええよ。ただ、うちが言いたいんは一つやわ」
怒りを宿した瞳がエナに向かう。
「もう逃げられやしまへんよ」
マキノさんの背後から飛び出す無数の藤色の木綿。
それが荒波のように波打ちエナへと襲い掛かる。
瞬き一つのうちにエナを捉えた木綿は刃物のように硬化し、八つ裂きにするかと思われたが、その瞬間にエナは溶けるように消え、また数メートル距離を離した地点に現れた。
「マキノさん! ヘカテーは全部で三人いますっ、一人倒しただけではすぐに再生するんです! 多分、全てのヘカテーを同時に倒す必要があるんですけど、最後の一人が何処にいるのか分からなくて——!」
俺は必死に叫んだ。
根拠はないし、ただの勘だけど、考えられる理由なんてこのくらいしか思い浮かばなかった。
「西条くんおおきに。でも、安心してくれはって構はへんよ。そっちは頼もしい味方がついとるから」
頼もしい味方⋯⋯?
思い当たるのは一階層の職員や軍事部の隊員たちだが、何故だかこの時俺は橋雪さんのことが頭に浮かんでいた。
「一か八か、半分は賭けでもう半分は期待やけどね、それまで誰も死なせまへんよ」
曖昧ながらも覚悟を決めた力強い言葉。
口惜しさと自信、相反する感情をないまぜにしたような微笑を浮かべる。
「さあ、大人しくお縄についてもらいましょか」
マキノさんが麻布を触手のようにうねらせる。
分身体は一人倒しても再生する。
マキノさんは捕らえて七階層に送り返すつもりなのか。
そうなれば、真相は明かされるのか?
トリアがゴブリンを呪死させ、エナとディオが闇鏡を職員寮においた。
それが真実。
魂を分けた分身体は存在が不確かであるため監視カメラには映らない。
それなら、一階層の職員とそれ以外を判別する職員寮は突破できるかもしれない。
ヘカテーがこの事件全てを計画し、実行した。
でもそれではあの時感じた違和感は、俺の勘違いだということになる。
ただの勘違いならそれで構わない。
だが、本当にそうなのだろうか?
疑う気持ちが頭の中に蔓延して落ち着かない。
麻布がエナに向け放たれた時、何故か、エナが俺の方を見た。
気が付くと、俺は前に出て声を出していた。
「本当に、一人で全部やったのか」
これは、エナが一人でという意味ではない。
ヘカテー四人の他に、共犯者はいないのか、そういう意味で言った。
言ってしまった。
でももう遅い。
麻布の動きがピタリと止んでシュルシュルとマキノさんの元へと戻って行く。
エナを捕縛するチャンスを俺が棒に振ってしまった。
それでもマキノさんは何も言わなかった。
俺を見て、一つ頷いてくれた。
だから、俺は足を踏み出し、エナと向き合うように立つ。
「⋯⋯ずっと違和感を感じてた。呪いを受けたものは、直接見て触れる意外認識できなくなる。カメラに映らなかったゴブリンは死亡する段階まで呪いに強く影響されていた。でも、職員たちは体調不良で進行度が浅い。だからカメラに映っているのだと思ってた」
聞き込みをした時も、職員たちの姿は鏡や機械に反射して見えていた。
その時は無意識だったけど、後から考えてみれば重要な情報だった。
エナは無表情のまま、俺のことをじっと見て、話の続きを待っているように見えた。
「違和感を感じたのは、調査のためにゴブリンの洞窟に入った時だ。俺は証拠になるものを捜索していた。それで、ゴブリンが呪具として使っていた鏡を見ていた時、一人の職員に声をかけられた」
呪具と言っても、その鏡は魔法も呪いもかかっていないただの鏡だった。
ただの鏡なのだし、呪いも何も受けていない俺は当然その鏡に映っていた。
「問題はその職員だ。職員の位置は俺の背後。でも真後ろじゃない。鏡を見ていたのにその職員が来たことに気づかなかったんだ。初めはただ気づかなかっただけで、大したことじゃないと思ってたが、今は違う。あの時、あの鏡に職員は映っていなかったんだ」
エナは小首を傾げた。
それが? とでも言いたげな様子で。
「違和感が確かになったのは医療部で、初めは鏡に映らなかった職員が映るようになったのを見てからだ」
呪いに侵され瀕死の状態だった職員が、ハウンフォードさんの薬のおかげで回復し、鏡に映るようになった。
知性の高い生物は呪いの影響を受けにくい。
だが、闇鏡によって重症化した職員が医療部に運ばれる事態となり、鏡にも映らなくなってしまった。
つまり、職員でも姿が映らなくなる場合があるということだ。
「俺は、姿を映さなくなる条件は呪いの進行度だと考えた。問題はどれくらい呪いが進行すれば映らなくなるのか。今まで見たものを思い出して、そこで気づいた。もし、犯人がいるのなら、この人なんじゃないかって」
実際はヘカテーが犯人だから、その人は共犯者ってことになるが。
そこで、テラが「ちょっと待って下さい!」と手を上げる。
「犯人はそこにいるヘカテーですよ! なのに犯人なんて⋯⋯って、もしかして共犯者がいたってことですか!?」
言い始めて俺の真意に気づいたのだろう。
テラは目線を地面に落としハッと驚く。
「⋯⋯なら、西条くんの言う共犯者いうのは誰なんかな?」
マキノさんは冷静だった。
邪魔をした俺の話に辛抱強く耳を傾け、喋らせてくれたことに心の中で感謝する。
時間は限られている。
ここでハッキリさせよう。
事件の真相、一階層で起こった全ての真実を。
「呪死事件の第一発見者——ユーティウス・レイルです」




