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79 ヘカテー

 迷路みたいに複雑な一階層を音と記憶を頼りに進んでいく。

 早く戻らないと、犠牲者はもっと増え続ける。

 息を切らし走っていると、気になるものを見つけた。 

 

「何だよ、コレ」


 壁や地面に書き殴られた落書きは、まるで目のような楕円の形だった。

 さっきまではなかったものだ。

 だが、この形⋯⋯どこかで見たことがある。

 記憶を辿る。

 

「そうだ、思い出した!」


 これは確か三区のゴブリンの洞窟で見た呪いの印だ。

 でもそれが何故こんなところに⋯⋯?

 印は曲がり角から真っすぐ先まで等間隔に描かれている。


 ⋯⋯辿ってみるか。


 言いもよれぬ不安と緊張が押し寄せてくるが、どうちらにせよ進行方向は同じだ。

 進むしかない。


 スピードを落とし、恐る恐る壁を伝う様に歩き、角を曲がる。

 この先を進めばさっきの場所に辿り着く——というところで、前方にうずくまる何かを見つけた。

 うずくまり、地面を見つめ手を動かしている。 

 何かを書いているのだろうか。


 混乱する。

 一体どういうことなんだ。

 どうしてまた、ここにヘカテーがいるんだ。


「ヘカテー」


 特徴的な灰色の髪がカーテンのようにサラリと揺れ、その隙間からターコイズの瞳がのぞく。

 一瞬の間のうち、目が合った。

 エナは目を丸く大きくさせてこちらを凝視している。

 真っ白なその手には黒のクレヨンが握られていた。

 俺のあげた、あのクレヨンだということはすぐに分かった。


「どうして⋯⋯いや、君は一体誰なんだ」


 今も絶えず聞こえる銃声、声。

 それは今も六区で戦闘中であるということを示している。

 ならば、目の前の彼女は一体誰なのか。

 俺たちに襲い掛かって来たあのヘカテーと、目の前の彼女と、六区のヘカテーは別人なのか。

 それとも⋯⋯。


「オウリ⋯⋯」


 少女は立ち上がった。  

 俺から視線を逸らし、キュッと唇を引き結ぶ。

 

「三階層で会ったのはあんただよな。俺は、どうしても君がゴブリンを呪死させて、職員寮に闇鏡を仕掛けた犯人だとは思えない。君は本当にヘカテーなのか?」


 一体何を言っているんだ。

 それは分かっていた。

 でも、どうしても信じられなかった。  

 そして、彼女が信じる通り、犯人でないとすれば、考えられる可能性は、一つだけ。

 ヘカテーは三人いるということだ。

 外見も、声もそっくりな存在が三人。

 人間界では考えられない話だが、ここは異世界。

 魔法という力があるのだからあり得る話だ。


「私⋯⋯私は⋯⋯トリア。ヘカテーは⋯⋯私たちの名前」


 少女は俯きながら答える。

 

「私たち⋯⋯は四人いる。一人は⋯⋯七階層にいる。一階層にいる⋯⋯のは三人。あそこにいる⋯⋯のは、エナ。遠くにいるのがディオ」


 ヘカテーが四人?

 クレヨンをあげた彼女は、エナという名前ですらなかった。

 目の前にいるのはトリアで、さっき襲ってきたのがディオ。

 ということは、一番初めに階段で出会ったエナが、自ら犯人だと証言し今六区で戦っている少女ということだ。


「ペンを探してたのは、それを描くためだったのか」

   

 トリアはコクリと頷いた。

 手の中にある古いクレヨンは、すっかり短くなっていた。

 地面や壁に沢山の目を描いたからだ。


「この絵と同じ形のものをゴブリンの洞窟で見た。シャーマンが群れの繁栄を祈ってつける呪いの印だそうだ。それをこんなところに描く理由なんて一つしかない」


 形自体には何の意味もない。

 あるのはそこに封じられた呪いの力だ。

 ゴブリンの呪死事件。

 始めは誰もが魔道具による呪いだと思っていた。

 特に、闇鏡が見つかってからは、より一層。

 だが、実際は違った。


「三区のゴブリンは日常的にこの印を目にする。だから、洞窟や武器に描かれていても誰も不自然には思わない。それを利用したんだな」

「⋯⋯っ」


 トリアは驚いた表情をしていた。

 俺は特別頭がいいわけでも、感に優れているわけでもない。 

 だが、ここまでくればもう分かる。

 三区のゴブリンが一度に大勢死んだ理由、看守課の職員を中心に広がった体調不良。

 その原因は、トリアの描いた目の形の呪印。

 そして、人間である俺や捜査班のメンバーは直接呪印を目にしても呪いにかかることはない。

 

「闇鏡を置いたのも君なのか? 今だって、これを描いて、一体どうするつもりだったんだよ」


 呪印は大勢の職員に影響する。 

 必死で戦い続ける職員が目にすれば、さらに多くの被害が出るだろう。

 

 信じたくなかった。

 だが、受け入れるしかない。

 今目の前で起こっていることだ。

 夢でも、勘違いでもない。

 俺のあげたクレヨンで、彼女は一体どれだけの職員や獄卒獣を呪ったのか。


「オウリ⋯⋯」

「⋯⋯俺をテセウスと呼んだのはどうしてなんだ。あの数字は、フィリエスさんを殺したのは⋯⋯っ」


 駄目だ。

 とても冷静ではいられない。

 少なくとも、三階層で出会ったトリアは、パンとクレヨンをあげて喜び、美味しいと口にした彼女は、偽りなどではなかったはずだ。

 いや、自分がそう信じたいだけなのかもしれない。

 どうしようもないほど感情が駆け巡る。


「戦いを止めてくれ⋯⋯なんて、通じるわけないよな」


 分かっていたはずだった。

 ヘカテーが四人いたって事実には驚いた。

 だが、ヘカテーが一人にせよ四人にせよ、彼女が事件の首謀者だったことには変わりない。

 なのに、心の底では実は違うんじゃないかなんて期待を抱いていた。

 話せば分かる、納得できる理由が、誤解があるかもしれない、と。

 俺が止める、なんてよく言えたものだ。

 自分に失笑する。

 

「オウリ⋯⋯?」


 トリアがもう一度俺の名前を呼ぶ。

 でもそれは、俺が剣を抜いたからだ。


 逃げるべきだってことは分かってる。

 怪我人を背負っていなくとも、勝てる見込みなどないのだから。

 これは、練習とは違う。

 立ち向かうことは大切だが、命を守ることが先決だということも。

 さっき自分で言ったのだから分かっている。

 命を賭して監獄を守りたい、そんな熱い理由なんかじゃない。

 クレヨンを渡したことへの罪悪感、そしてそれによって多くの職員が死んでしまうこと、それがただひたすらに怖かった。

 だから今ここで俺が逃げることに意味はない。


「⋯⋯行くぞ」


 駆けだす。

 勝率はほぼゼロパーセント。

 だから問題はどれだけトリアをここで足止めし、時間を稼げるかだ。

 木古瀬さんとフリックさんが軍事部に応援を呼びに行ってくれている。

 軍事部がここに来るまで、何としてでもトリアを六区に近づけさせない。

 一秒でも二秒でも、ほんの少しでもいい。だから、時間を稼ぐんだ。

 

 俺が戦闘の意思を示したことが余程意外だったのか、トリアの動きが止まる。


「駄目⋯⋯っ」

「こうなるってことは分かってただろ。君は囚人で、俺はここの職員だ」


 俺が逃げようが立ち向かおうが、敵対関係であることに変わりはない。

 なのに何故首謀者側であるトリアが戸惑う必要があるのか。


 俺はトリアの間合いに近づくと剣を振り上げ、   。

 しかしトリアは攻撃をただ受け入れるわけではない。

 刃が掠めるギリギリのところで体を逸らせて避け、後ろへ飛びのく。


 だが避けられることは百も承知だ。

 自慢ではないが、俺は剣を握り始めて間もないし、実力だって素人に毛が生えた程度だ。

 でもトリアが戦闘に乗り気でないのなら、これはチャンスだ。


 立ち止まることなくもう一度トリアへ切りかかる。

 今度は


「⋯⋯どうして? どうして⋯⋯逃げないの?」


 トリアからすれば疑問は当然だろう。

 かたや七階層の囚人で、こっちは人間の職員だ。


「逃げたってどうしようもないだろ。だから、君をここで止める!」


 赤いボタンを押す。 

 瞬時に剣身を包むように燃え上がる炎。

 ターコイズ色の瞳に炎上する剣が浮かぶ。


「⋯⋯ダメっ」


 トリアが目を瞑った。

 剣を真っすぐに振り下ろし、そしてトリアの体を一刀両断するかと思った時だった。


「交代だ、トリア」


 彼女を纏う空気が変わり、空間がねじれたように見えた。

 そして、手を伸ばした姿で突然現れた少女は俺を勢いよく突き飛ばした。

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