7 事務的な話をしよう
足を踏み出す橋雪さんに続き機内を降りると俺は何度目かも分からぬ衝撃を受けた。
いや、衝撃も衝撃なのだが今回の場合は目を疑ったと言った方がいいかもしれない。
「ここが三階層、通称『悪魔の屋敷』。お前の持ち場となる階層だ。収容される囚人の多くは中階級の悪魔達が多い」
昇降機から続く石造りの廊下は真っ直ぐ奥まで伸びてその一面が金色の刺繍が施された紅い絨毯に敷かれ、壁には見るからに高価な絵画や剥製が飾られている。
等間隔に並ぶ白銀の全身鎧は光を受けて妖しく煌めき今にも動きそうだった。
ゴシック調の家具や彫刻、まるで中世ヨーロッパのどこかの貴族の屋敷だ。到底監獄だとは思えない。
そしてどういうわけか、壁のあちこちに、燭台に立てられた蝋燭があるがそのどれもが灯りを灯していない。だというのにこの廊下は異様に明るかった。
まるで陽の光をガラス窓を通して浴びているのとさほど変わらない明るさだ。
だが長官も言ったように、ここは地下三階層。さっき昇降機で降ってきたのだから間違いない。
光源は一体どこから?そんな疑問が一瞬よぎったが、もうここは異世界なのだと言うことに気づいた。 もしかしたら光を出す魔法とかがあるのかもしれない。魔法があれば確かに蝋燭も電気も必要ないはずだ。
「執務室へ向かう。そこでこれからお前が受け持つ仕事の詳細等を説明する」
少し前を進んでいる橋雪さんが何かを言ったが俺は殆ど耳に入ってこなかった。
監獄というにはあまりにも異質な内装に目を奪われてあちこち視線を動かしながらなんとか長官の後ろを歩いていた。
幸いにも長官室は昇降機をそのまままっすぐに進んだ最奥にあったので、歩くのが早い橋雪さんの姿を見失うこともなく目的地へ辿り着いた。
廊下の最奥、低い階段を降りた先に扉があった。ニスが塗られたピカピカの木製扉に金のプレートがかかっている。長官執務室と文字が彫られていた。
ここまで来ると全身鎧も絵画もなく、ただ左右の壁に蝋燭が掛かっているだけだった。
執務室の中は打って変わってシンプルだった。
いや、室内の造りは先の廊下のようなゴシック調で赤い絨毯が敷かれているところも変わらないのだが、物が非常に少なかった。
棚や中央の来客用の机と革製のソファ、奥に大きな書物机があるだけだ。絵画も花も全身鎧も飾り物の類はここには一切置かれていない。
もし絨毯の代わりにフローリングやタイルカーペットが敷かれていたら本当に何処にでもあるようなオフィスの事務室と変わらなかっただろう。
ここが監獄の一室であることを考えればむしろ正しいのかもしれないが。
「かけていろ」
言われるがままにおずおずとしながらもソファに座る。
壁側にコーヒーメイカーが備え付けてあるのが目に入った。やや古いタイプのものではあったが、この内装に現代チックなコーヒーメイカーは浮いて見える。
橋雪さんは棚から分厚いファイルをいくつか取り出すと俺の目の前の机に置いた。
「これから合意書と職員証発行届けのための個人情報を記入して貰う」
ファイルの中から複数枚の紙を取り出すと机に広げる。
「職員として当監獄で働くには複数の書類にサインして貰う必要がある。一つは既にサインしているだろう」
ほぼ強制的にだけどな。
内心で突っ込みつつ頷く。
「あれは神界推薦を受け監獄職員になることを了承する契約書だ。今からサインして貰うのは合意書。監獄は様々なルールのもとに運営されている。ルールは囚人を対象としたもの、職員を対象としたものと区別されており、それら規則のもとに就労することを承諾して貰う必要がある」
さらにファイルから書類を取り出す。今度は何枚にも束になったぶ厚い書類だ。
すご⋯⋯こんなに沢山あるのか。
「監獄規則は全34条。神界の神界法規定に基づいて作成された監獄法は開獄以来600年、たった一度を除き改正されていない」
『第一条一項――当監獄に収容される囚人は天界の裁判所で既決された懲役囚に限られる。
第十条一項─監獄は以下の理由なしに魔法、銃や剣などの武器を在監者、また同監獄職員、監獄有権者団体に行使することを禁ず――』
差し出されたホッチキス止めされた書類を目で追うが、全11ページの最初から最後に至るまでつらつらと小難しい文章が並んでいた。
駄目だ。読むことを脳が拒否している。
「加えて、この神界監獄法を元に職員に向けて監獄規定を定めている。こちらは第一章で職員採用の際についての規則、第二章では囚人に対して、第三章で寮生活における規約が書かれてある。これらを遵守しなければ懲罰対象になりかねない。しっかりと目を通して常に心がけ行動するように。囚人向けの規約についてはまた後日配布する。現段階で必要なのは職員としての心構えと異世界に位置する監獄という非日常的空間に慣れることだからな」
いやそんな、どうだ優しいだろうみたいな顔をされても⋯⋯。
「これ全部覚えるんですか?」
監獄法ってやつだけでも相当だが、それに加えて職員規則に囚人規則まである。
「当然だ。職員は規則を破った囚人に処罰を課す役割も担う。直接罰を下すのは別の部署の担当だが違反や未遂をおかした囚人の通報は全職員にその権利がある。規則違反の見逃しは監獄の規律のみならず全世界に影響を及ぼす重大な問題になりかねない」
「⋯⋯ごもっともです」
俺は紙束を裏返して机に置いた。
まぁおいおい覚えていくということで⋯⋯。
「合意書は書類を熟読し理解したうえでサインするかを決めるものだ。よって合意書提出の期限は一週間に定める。伴って職員証明書発行手続きに関しても同様に一週間の期限とする。何か質問はあるか?」
確かに、ゲームアプリを入れる時も、何らかのサービスの会員になる時も入る前には取扱の注意点や運営方針、規約などに同意するかどうかの確認がある。
そういうところは世界が違っても同じなのかもしれない。
いや⋯⋯ちょっと待てよ。
一人合点していたところにふと疑問がよぎる。これってもしかしたら働かなくても済むのではないだろうか?
長官の言う通り、校長室で既に推薦を受け、職員になることを了承する書類にはサインをしている。でも、この合意書は監獄の法律や運営方針に納得するかしないかがゆだねられている。
だが、常識的に考えて就職先の規則に従わないとしたならば職員になる資格はない。
何よりも法律や規則みたいな決まりの類に厳しそうなこの人なら、初めから規則に従わないような者が職員になるようなことは決して許さないだろう。
それなら――
「もし、合意書にサインしなければどうなるんですか?」
長官はじっと俺の目を見る。
ごくりと唾を飲み込んだ。しかしすぐに目をそらされる。
「なるほど。ただ流されるままにサインしたわけではなさそうだ。それとも単に急に現実味が沸いて冷静になっただけか」
独り言ともとれる声色でつぶやく。
「聞くまでもないことだ。サインしないということは監獄の方針に従わないということ。つまりお前自身が職員として監獄で働くことを認めないということだ。だが、お前が聞きたいのは推薦書にサインしたうえで合意書にサインしなければどうなるか、という話だろう」
頷く。
「聞いたかもしれないが、お前の受けた神界推薦は同じ推薦採用でもかなり特殊な枠になる」
「確か拒否権がないんですよね」
「ああ。神界推薦に拒否権はない。神の意志はいかなる理由を差し置いても絶対に順守される。それを覆すのは同じく神をおいて他にない。本来被推薦者の合意も意思も不必要だが監獄運営側は一応の手順として本人のサインも求めている。そこに被推薦者の意思や第三者の介入の余地はないがな」
つまりサインはパフォーマンスということか。
一応本人の了承は得ましたよという証明――まるで強引なセールスマンだ。
「本人の了承が必要ないということは監獄の運営体制がどんなものであれ受け入れなければならないということ。推薦者に監獄法典を見せない理由の一つはこれだ。だが後から自分はそんなつもりはなかった、知らなかったなんて言い訳を言われても困るからな。合意書提出はその覚悟を持ってもらうためのものだ。お前も選ばれた以上は覚悟を決めろ。言っておくが職員になったからにはしっかりと責任をもって働いてもらう。もし生半可なことをして職務を放り出すようなことがあれば容赦はしない」
そして⋯⋯橋雪さんが続ける。
「お前が考えているであろう、合意書にサインしなければ働かなくても済むのではないかという希望も無意味というわけだ」
そう言って物凄い威圧感でにらまれる。
どうやら逃げ場を完全封鎖するための長官の策略だったようだ。
俺はとんでもない場所でとんでもない人の下で働くことになったらしい。逃げ道が残されていると期待した俺が馬鹿だった。
「いつサインしようが同じならもう今サインしますよ」
ペン立てから万年筆を抜き取り書類をめくる。
働くか働かないかの選択権は俺には与えられていない。いくら監獄側と方針が合わなくても辞退することはできない。
考えれば考えるほど現代日本ではありえない時代錯誤なルールだ。常識が通用しないって点じゃ異世界に来たって感じはするのかもしれないけど。
こんな異世界感は全く求めてない。
「好きにしろ」
ペンを走らせるとさっさと俺は合意書にサインする。
長官はペラリとした合意書一枚の俺のサインを確認すると立ち上がる。
「確かに受理した。これで正式にお前はディオスガルグ監獄三階層の職員となったわけだ。明日からしっかりと働いてもらうぞ」
まるで悪魔のような台詞だ。
「働くっていっても、業務内容は⋯⋯監獄っていったらやっぱり看守として囚人の監視とかそんな感じですか?」
「いや、看守の役割は別の担当者がいる。最初にも言ったがお前には長官補佐として俺の補佐役を担ってもらう。業務内容はスケジュール管理に各階層から上げられる書類に目を通し必要事項の報告、そしてこの三階層で異常事態が起きていないか、運営状況は滞りないかの確認などだが、いきなりまともに出来るとは期待していない」
そりゃそうですよ!良かった、どうやら少しは新人のキャパに配慮はしてくれているようだ。
ようは三階層長官である橋雪さんの秘書的な存在が長官補佐という立場のようだ。想像してたものより事務的な仕事が多いな。
明らかに新人のやれる仕事ではない。そもそも仕事に慣れたとしてもこの人のサポートなんてできる気がしない。仕事は一人でパパっと終わらせそうだし、明らかに優秀そうな橋雪さんの補佐なんて俺に勤まるわけがない。
誰が配属したのかは知らないが明らかに人選ミスだ。
「よって、お前にはこれから一か月間、三階層の雑務を担当してもらう。細かくは掃除や獄卒獣の世話、見回りなどだ。詳しくは後ほど説明されるだろう」
「説明されるって、えっ長官が教えてくれるわけじゃないんですか」
「当たり前だ。俺はこう見えて忙しい。代わりの者をお前の監視役として明日から依頼している。他の職員からも学べることはしっかりと己の身に叩き込め。ここで人間が生きていく術はそれしかない」
橋雪さんは言った。
「サインは受理したが監獄法典は読み込んでおくように。そして、職員寮に貸出し用の制服がある。必ず着用しておけ。話は以上だ。俺は業務に戻る」
そう言って長官は立ち上がる。
「え、いやちょ、ちょっと待ってくださ⋯⋯」
言いかけ手を伸ばすも長官室の扉は締められ橋雪さんはどこかへ行ってしまった。