58 主人公
階段を使い、三階層へと降りていく。
全く、結局あの双子——主にエルだが——に振り回されただけだったな。
あの双子と話す時間は良い息抜きにもなるし、楽しいのだが、何というか、近所に住んでた小さな子供の遊び相手をさせられた時のような、そんな疲労感にも似たものが同時に押し寄せてくる。
子供特有の底なしの元気さを浴びて、カラカラになった植物みたいな気分だ。
俺は剣の鍔に手を掛けながら、一息ついた。
「あー、動いたら腹が減ってきたな」
グーっと鳴る腹をさすり、何気なく呟く。
管理場に向かう前に、食堂に寄って何か軽食でももらおう。
三階層の調理担当である浮羽屋さんは、働く三階層の職員に向けて、いつも軽食を作ってくれている。
そしてそれが軽食というには凝っていて美味し過ぎるため、つい食べ過ぎてしまうのだ。
この前食べたピレニウ草のベーグルも美味しかったな。
例の如く、このピレニウ草という植物も、初めは全く耳にしたことがなかったのだが、食べて見ると、小松菜に近い味だった。
ほんのり苦みと、甘みを感じるベーグルは小腹の空いた時にちょうど良い。
駄目だ、考えるだけで増々腹が減ってきた。
そんな風に、今日の軽食は何だろうな、と頭の中で予想をしながら二階層から三階層へ続く階段を降りている時だった。
反対側から一人の少女が上ってくるのが見えた。
少し驚いたのは、その少女が制服を着ていなかったからだ。
地面にまで届きそうな程長い灰色の髪に、薄く艶やかな素材の真っ白なワンピースに身を包むその少女は、どこか不思議な雰囲気を纏っていた。
見る者を惹きつける⋯⋯というか、まるで美しい人形のようだった。
制服を着てないって事は獄卒だろうか?
獄卒は主に警備を担当する、職員とは異なる特殊な立場にある者たちの事だ。
では何が一般の職員と異なるのかというと、一番は彼女らが元囚人であることだ。
ディオスガルグでは、各世界、もしくはここで収監されていた囚人たちを雇用する事がある。
だから、彼女たちは普通の職員とは切り離され、獄卒と呼ばれているのだ。
そして噂によると、一度獄卒となった者は死ぬまで働き続けなければならないらしい。
本来受けるべきはずの刑の代わりに、ディオスガルグで働く事を許可された彼女たちに自由は許されない。
一見救済措置にも見えるが、実際はかなりえげつない制度だ。
ただ、元囚人というからには、彼女たちもかつて悪事を働き収監されていた犯罪者なわけだ。
当然、誰しもが獄卒に選ばれるわけではない。
再犯の可能性が限りなく薄く、規則や指導に従順な模範囚を中心に厳正な審査と仮採用期間を経て獄卒として正式に働けるようになる。
獄卒の門が狭いという事は、必然的に採用人数も少なくなる。
その狭き門を突破した者たちは、才覚溢れるディオスガルグ職員たちにも引けを取らない実力者揃いだ。
三階層の子かな? と、思わず足を止めて見ていると、少女はそんな俺の視線を気にする素振りも見せず、一段一段と階段を上り近づいてくる。
そこで気づいたのだが、その獄卒らしき少女は裸足だった。
階層内の通路だけでなく、階段も日頃衛生部の職員たちによって清掃がなされているが、とはいえ裸足のまま歩く者はいない。
それが増々少女のミステリアスさを深めている。
「靴、履かないのか? 棘があったら危な⋯⋯」
何となく見過ごせず、声をかけようとするが、言い終わる前に少女は、流れるように俺の脇を通り過ぎて行ってしまった。
灰色の長い髪がヴェールのように俺の視界をよぎる。
聞こえていなかったのか、それともただ無視されてしまったのか。
わざわざ呼び止める程ではないかと思い直し、俺も足を踏み出した時だった。
「そなたはテセウスか?」
川のせせらぎのような凛とした声。
すぐに、少女の声だと分かった。
俺は思わず立ち止まり、振り返る。
すると、先ほどまで俺に見向きもしていなかったはずのその少女と目が合った。
ターコイズの吸い込まれそうな程深い瞳が、ぼんやりと俺の姿を映している。
え、何だ? テセウス? そこまで詳しくないが、確かギリシャ神話の英雄⋯⋯だっけか?
それが俺かってこの子は聞いてるのか?
当然困惑した。あまりに唐突な質問に、俺はどうやって返せばいいのか分からなかった。
俺はテセウスじゃないよ~、鷹梨だよ~⋯⋯とか、この子だって別にそんな答えを求めている訳じゃないだろう。多分?
そんな俺の困惑を感じ取ったのか、少女はまたゆっくりと唇を開き、
「そなたがテセウスであろうと、ヘラクレスであろうと、また他の何者でもない者であろうと、動き出した歯車は止まらない。旋律を奏でる事がかの意に沿う限り、決して鳴りやまない」
今度はヘラクレス?
ヘラクレスは漫画とかでもお馴染み、テセウスと同じギリシャ神話に登場する半神の英雄だ。
テセウスやらヘラクレスやらさっきから、この子が何を言っているのかさっぱり理解が出来ない。
もしやこれが不思議ちゃん、電波系というやつなのだろうか。
アニメは好きだから当然そういうキャラへの理解はあるけど、まさか本当に出会うとは⋯⋯。
少女の持つ儚げな雰囲気も相まって、すっかり俺はそっち方面と思い込んでいた。
「君、名前は? どこの階層担当なんだ?」
下から上がって来たからといって三階層以下の担当とは限らない。
一般職員による階層間の移動は滅多にないが、調達や報告など、移動する事の多い仕事に就いていれば日常的に階段を使う事もある。
まぁ獄卒がどうなのかは分からないけどな。
すると、少女は俺のその質問を飲み込むように、じっくりと沈黙する。
そして⋯⋯、
「我が名は⋯⋯エナ。階層は⋯⋯」
一度言葉を切ると、少女はゆっくりと告げる。
「七階層」
まるで、直接脳に語り掛けてくるようだった。
凛としたささやくようなその声が、水面に指先で触れるかのように心が揺れた。
エナと名乗ったその少女は、俺の反応を待たず、そのまま上の階層へと上って行ってしまった。
最期に見えたのは、灰色の腰まで届く長い髪。
何だか不思議な出会いをした気がするな。
俺は、彼女のいなくなったその場所を見つめながら、しばらく不思議な出会いの余韻に浸るのだった。




