49 医務長
「すみません!大丈夫ですか!?」
相手はぶつかった拍子にバランスを崩してしまったようで尻もちをついていた。
慌てて手を差し伸べ背中を支える。
「あ、ありがとうね」
弱々しい声でそう言うと、職員は支えられたまま何とかよろよろと立ち上がる。
「ほんとすみません。前見てなくて試験管も割れちゃったみたいだし」
「いやいや前見てなかったのは僕も同じだから。全然、ホント、心配しないで」
そんな調子で言われても全然大丈夫じゃないでしょ、と言いたくなる程の弱々しさだ。
職員には違いないんだろうが⋯⋯。
と俺はその職員を立ち上がらせると散らばった試験管だったもの⋯⋯ガラス片を集めながら見て思った。
赤いネクタイの制服の上から白衣を羽織り、聴診器を下げているから、多分三階層の医療部所属⋯⋯だろうな。
灰色の短髪は艶がなくところどころ寝癖が付いていて、睡眠不足気味なのか目が充血してクマが出来ている。
ぶつかる以前に大丈夫ですか?と思わず心配したくなるな。
「君優しいね、ありがとう拾ってくれて」
「いえ、ぶつかった原因は俺ですから」
驚くことにケースに入っていた試験管は一つ残らず割れてしまったようで、二人でガラス片を拾い集めながら空になったプラスチックのケースに入れていく。
「あ、俺、三階層長官補佐の西条鷹梨っていいます。多分初めまして、ですよね?」
「そうだね。直接話すのは初めてかな? 僕は医療部三階層担当のハウンフォード。これでも一応ここの医務長をしている」
やっぱり医療部の職員だったか。
だがまさかこんなところで医務長に出会うなんてな。
俺は今朝囚人に呼び止められ言伝を頼まれたことを思い出し、そのことをハウンフォードさんに伝えた。
あのサキュバスっぽい囚人は言えば分かると言っていたが、その通り、例のお薬という抽象的過ぎる表現でもハウンフォードさんには上手く伝わったようだ。
「あぁなるほどね」と頷いてくれた。
「彼女は種族特有の少し困った習性⋯⋯というか症状を抱えている囚人なんだ。だから定期的に症状を抑える薬を処方していてね。だから怪しい薬じゃないよ。安心して」
俺の心配はハウンフォードさんに見透かされていたらしい。
よく考えれば医務長に伝えるよう俺に頼むくらいなんだから怪しいものではないことは明白なのだけれども。
あの妖艶さに加え紛らわしい言い方をされてしまったら勘違いしてしまうのも仕方ない⋯⋯気がする。
このこぼれてる薬品も凄い色してるしな。
「あ、その薬品にはあまり触らないほうが良いよ。水分を含んだものが触れると発火しちゃうから」
あまりじゃなくて絶対触っちゃ駄目なやつじゃないか!
何でそんな危ない薬があるんだ。
危な、回収したガラスが空のやつで良かった。
「本当は治療に使うために試験用で作ってたんだけど、何故か想定とは全く別のものが出来ちゃって」
どうしたらそうなる⋯⋯と突っ込みたくなるほど別ものだな。
人を治すどころかそれじゃ死んでしまう。
「医療部って自分で薬を作ったりもするんですね」
てっきり開発課に任せているものと思っていた。
「そうだね。基本的には開発課の薬品系専門の班に任せてるんだけど、あそこは各階層から注文が上がってきて毎日忙しいからね。個人的に試してみたい調合とかがあれば自分でやることも多いよ」
職員や獄卒獣などに正式に使う薬品は開発課のものが多く、個人的に使うものや、試験的なものに関しては自分で作るようにしているそうだ。
それでこの毒々しい殺人薬ができたわけか⋯⋯。
でも触っちゃ駄目ならどうやって処理するんだよ、この薬。
「乾いた雑巾でも持ってきましょうか」
そう提案する。
拭く時は薬品に触らないように注意する必要があるが、このまま放置するわけにもいかないしな。
しかしハウンフォードさんは必要ないと首を振る。
「スポイトがあるから雑巾はいらないよ」
と言って白衣のポケットから丸底のスポイトを取り出す。
「もしかしてそのスポイトで吸うつもりですか!?」
「そうだよ」
「そうだよ」って⋯⋯。え、普通に考えて無理じゃないか?
薬品は一面に広がってるし、器に入った液体を吸うのならスポイトは最適だが、一度こぼれてしまった液体を吸うのはさすがに無理がある。
そう伝えようとするけど、ハウンフォードさんはそんなことには全く疑問を抱くこともなく、しゃがみ込みスポイトを薬品に近づける。
「まあ見といてよ」
のんびりとした口調で言いながら、ハウンフォードさんがスポイトを指で押すと——
こぼれた薬品が、まるで掃除機のようにみるみるうちにスポイトの中に吸い込まれていく。
そこでようやく理解した。このスポイトはどうやら魔道具らしい。
「スポイト型の魔道具。液体なら触れなくても何でも吸い込める。僕はよく薬品をこぼしちゃうからね。開発課の人が作ってくれたんだ。便利だろう?」
「確かに便利ですけど⋯⋯」
持ってる理由がちょっと残念かもしれない。
ハウンフォードさんは次々にスポイトを取り出しては薬品を吸い取っていく。
これだけ混ざってても薬品別に吸い取れるのか⋯⋯。
本当に便利だ。むしろ欲しいレベル。
と感心しながら見ていると、ものの数分で見事全ての薬品を回収できた。
「これでよし、と」
最後の一滴吸い取ると、スポイトをポケットの中に戻した。
地面はとても薬品がこぼれていたとは思えないほど元通りになっている。
主婦が喜びそうな魔道具だ。醤油とかお茶とかこぼした時とかに。
「おおおー」と思わず拍手を送る。
「ありがとうね西条君。残ったガラス片は僕が回収しておくから」
「いえ、俺も伝言の件でハウンフォードさんに用があったしちょうど良かったです」
偶然ではあるけれど、このタイミングで探していた医務長に会えたのはラッキーだった。
「何か体調面で困ったことがあればいつでも医務室においで。業務中は基本そこにいるから」
「ありがとうございます。その時はお世話になります」
若干心配ではあるけど、三階層の医務長ならばきっと腕は良いのだろうし、自分の身に何かあった時にすぐに診察してくれる環境が整っているのは安心だ。
ハウンフォードさんと別れ、気を取り直し、寮の方向へ向かう。
すると、前方から走ってくる室町さんの姿が見えた。
「室町さん、久しぶ⋯⋯」
「西条さん!」
手を振り言いかけた言葉は室町さん本人によって遮られる。
俺を呼ぶ声とその様子はただ事ではなく、とても焦っているように見えた。
「ど、どうしたんだよ。何かあったのか?」
俺の目の前まで駆け寄り息を切らしている。
いつも冷静で落ち着いたイメージの室町さんの落ち着かない様子は初めて見た。
当然何かあったのだと察する。
「申し訳ないですが説明は後ほど、とにかく今すぐ私についてきてください!」
「分かった、けど⋯⋯ついて行くって一体何処に?」
先導する室町さんに続き俺も走って追いかけながら尋ねる。
すると、室町さんはしばしの沈黙の後、こう答えた。
「⋯⋯一階層です!」
これにて第二部一章終了です。
二章以降は恐らく一、二週間後くらいに上げられるかと思います。