幕間
夜の帳が下り、皆が寝静まった頃。深夜1時地上一階層にて。
一人の職員がプラプラとランプを揺らしながら巡回している。
照明の落とされたこの時間帯はどの階層であれ明かりが無ければ何も見えないほどに暗いが、殊地上一階層に至っては日中が賑わっているだけに数段暗さが際立って見える。
そういえば⋯⋯と職員は交替前に耳にした話をふと思い出す。
聞いた話じゃ、下の三階層では事件解決を祝ってパーティーが開かれたそうだ。地上階層担当の夜警課に所属する自分は、噂でしかその事件について知らないが、新人の三階層職員が繰り返し命を狙われてそれなりに大きな騒ぎだったらしい。
で、三階層階層長の橋雪長官らによって犯人は無事逮捕され、職員たちへの労いも兼ねての会なのだとか。
三階層の橋雪長官といえば財務部部長や七階層階層長と並ぶ鬼上司だと聞いていたから、この話を聞いてかなり驚いた。
「いーよなー俺もたまにはパーッと飲みたいぜー」
ジョッキなみなみに注がれ、キンキンに冷えたビール。
仕事終わりにそれをグビグビと飲み干す自分を想像し喉を鳴らす。
だが夜警課に所属する自分にはとても縁のない話だ。夜は巡回。朝は引き継ぎでそのまま夕方まで泥のように眠り、昼の奴らと引き継ぎをしてまた巡回の日々。
もうここ数カ月ろくに酒を飲めていない。
流石に仕事前に酒を飲むわけにはいかないしな。
せめて地下階層の担当ならまだよかったが、俺の担当は残念なことに地上一階層。
各世界要人や運営のお偉いさん方が出入りし、新たな職員や囚人もまずこの階層にやってくる。
重要といえば聞こえはいいが、今みたいな真夜中じゃ人っ子一人いやしない寂しいものだ。
地下階層ではないから当然囚人もいないし、だから職員の代わりに警備を任せられるような警備獣も配置していない。
おまけに地上階層で要地なだけあって蟻一匹侵入を許さない厳重な防壁があるのだから外部からの襲撃⋯⋯なんてのもまずない。
毎晩こうして見回ってはいるが、一晩くらいサボっても問題ないのではないか、なんて考えてしまうくらいには夜の地上一階層は静かで平和だ。
「さっさと終わらせて早めに交替するか⋯⋯」
どうせあと三十分程で交替の時間になる。監視カメラ室にいる別の夜警と大体二時間を目途に交替して警備するのだ。その際に少しだけ仮眠時間が用意されている。
職員は大きなあくびを漏らしながらランプの灯りを揺らしながら歩く。
その時だった。灯りの先を何かがよぎった。
「んー⋯⋯?」
涙で視界がぼやけていたので目をこすり、ランプを頭上にまで高く上げもう一度よく見てみる。
しかしそこには何もいなかった。どうやら気のせいだったようだ。
そりゃあそうだ。こんな夜更けにこんな所にいるやつなんて俺みたいな巡回中の夜警くらいだからな。
だがそこでようやく気付いた。
「何だ⋯⋯この音?」
ポタ⋯⋯ポタと何か水のようなものが落ちる音が微かに聞こえる。
初めは手洗い場の方からでも聞こえているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
手洗い場は真反対の方向で、この音は前方からだ。
恐る恐る足を進めると、音は段々と近くなっていく。
そしてその場所へ辿り着いた。
ポタ⋯⋯ポタ⋯⋯
水粒が真上から落ち、石の地面に小さな黒い水溜まりを作っている。
鉄の匂い⋯⋯。
水粒の元を辿るように反射的に上を見る。
「??」
暗くてよく分からない。
ランプを持ち上げ、目を凝らすように瞬きをして、そして――目が合った。
「うわぁぁぁ?!!!」
ランプを手放し腰が抜け地面に尻をつく。
虚ろな瞳と目が合った。壁に磔にされた血だらけの⋯⋯死体だ。
「ななな⋯⋯なんでこんなところに⋯⋯!」
全身を身の毛もよだつような恐怖が襲いガクガクと手足が震える。
パニック状態になった頭がさっき目の前で何かが通り過ぎたことを思い出す。
地面を擦るようにして何とか立ち上がり、全力で駆け出した。
◇
翌早朝地上一階層
「奏十っ、こっちだヨ⋯⋯!」
地上一階層に辿り着いた俺に妖精の双子の片割れ——セルが手招きする。
「一体何が起きた。只事ではないだろう」
突然の緊急招集、地上一階層の封鎖そして副長官以下職員の階層移動禁止令。
何か良くないことが起きたことは予感していたが、どうやら当たっていたようだ。
既に集まっている職員の表情は暗く厳しいものだった。
鑑識課をはじめとする警備部と思しき職員らが今も職員らを聴取し慌ただしく駆け回っている。
何か事件が起きたことは明白。
そして昨日の今日。このタイミングでの事件だ。間違いなく一連の事件と関わっているだろう。
「うん。でも、説明するより見てもらった方が早いと思うヨ。かなり刺激が強いから、気を付けて」
隅の方で口を押えている職員が視界の端に見えた。片割れがいないのはそういうことか。
「問題ない。案内しろ」
現場となったのは地上一階層エントランスのちょうど裏側。備品管理部へ続く広間の壁。
鑑識らが現場の状態をカメラに収め、地面の血溜まりや壁の血痕、残された毛髪などを採取していた。
「⋯⋯!」
そこにあったのは、死体だった。ただの死体ではない。
心臓に深々と刺さる剣が壁にまで及んでいる。もう何も映すことはない濁り切った瞳。両手は漆黒の鎖に繋がれたまま釘を打たれている。
足首にかけられた鎖は途中で引きちぎられている。
磔にされた死体。魂切れ力なく俯く死体の顔を俺はよく知っていた。
フィリエスだ。
昨日まで俺に憎しみを抱き牙を向いていた男のものとは思えないほど変わり果てた姿だったが、見間違うはずもない。
奴は西条殺害を目論み三階層を危機的状態に陥らせた主犯だが、かつては部下だった男だ。
「⋯⋯何が起きている」
理解が追い付かなかった。この状況を作りあげるには有り得ないことが多すぎる。
「ひとまず鑑識の調査が終わり次第緊急会議が開かれることになってるヨ」
セルが真剣な表情で言う。
しかしその時、俺はフィリエスの死体の横に何か文字が刻まれているのを見つけた。
「奏十っ、触っちゃダメだヨ」
そんなことは百も承知だった。返事をせず、俺は文字を読むために壁に近づいた。
真っ黒な墨で書き殴られたような乱雑な文字。
”Overture”
「まだ終わりじゃない」そう言った時の奴の余裕めいた表情を思い出す。あの時は、ただの虚勢だと思っていた。
だが⋯⋯それだけではなかったのか。これを目にした今、そう考えずにはいられない。
もしこれが本当ならば、一体どうなる。この先、ディオスガルグは⋯⋯。
「序曲⋯⋯か」
誰かが残したメッセージ。出来ることなら誰かの悪戯だと片づけてしまいたいところだが、そうはいかないだろう。
屈めていた腰を伸ばし、俺は壁から離れた。
十中八九悪戯などではない。
これが単なる脅しにせよ、犯行予告にせよ、多くの者は宣戦布告と捉えるだろう。
見えない敵からの挑戦状。
不屈の要塞を崩壊させようと目論む何者かによる陰謀。
ただ一つ確かなのは事が既に始まってしまっているということだ。
脱獄率0%世界最強の監獄。悪を封じ込め正義を執行する。全世界からの信頼の下に監獄は成り立っている。
俺がディオスガルグにいる限り、絶対にその名を汚させはしない。
あの日誓ったことが心に蘇る。
決して変わることのない。いつも胸のうちにあり続ける誓い。
俺がこの場所にいるための——理由だ。
前回の最終話から、次回の話へと続く布石回です。
少し期間は空くかと思いますが、続きの話も書いていきたいと思いますので、よろしければまた見にきてくださると嬉しいです。