許しませんよ
誤字報告ありがとうございます。
「ローゼ……! ローゼマリー!」
「レオ様! 私、私……!」
まるで数十年ぶりの恋人同士の再会。劇場に来たのか勘違いしてしまいそうだけど、ここは我が家の応接室で女性の方は私の姉。そして男性の方は。
「本当は一目見た時から、貴女の事が好きだった!」
「わたくしもっ! 私も、ずっと、貴方の事が……!」
ローゼ、レオ様。
そう呼び合う二人の距離がどんどん近づいて行き、唇が重なる。
扉の隙間からその様子を見ている私はただただその様子を他人事のように見る事しか出来なかった。
「お嬢様……」
「!」
二人の様子を私と共に茫然と見ていた侍女のイリーネが一早く我に返ると私を気遣うように声を掛けてくれた。おかげで私も現実の世界に戻ってこれたわ。でも、目の前で起きた出来事だって現実なのよね。
グッと心の奥が痛む気がしたけど気づかないフリをしないと。だって私はあの二人にとって『邪魔者』なんだもの。
大丈夫よ、イリーネ。ほら、わたし、ちゃんと笑えているでしょ?
「お待たせしました、レオ様! お姉様! 入りますね!」
普段通りを心掛けて何も知らない体で入室すると、お二人は妙な距離で立っていました。でもそれにも気づかないフリをしてレオ様にプレゼントをお渡しします。不自然でないように、いつものように、何も知らない馬鹿な妹を演じて。
……何も知らない婚約者を演じて。
*****
「すぐに旦那様に訴えるべきです! あの男……! お嬢様と言うものがありながら、ローゼマリー様に手を出すなんてっ」
「しっ! イリーネ、声が大きいわ」
「ハッ! す、すみません。ですがお嬢様、このままでは……」
「ええ。そうね。お姉様は半年後に結婚なさいます。それにレオ様のあのご様子だと……」
レオ・リュッタース子爵令息は私、リーネル伯爵家の次女クリスティンの婚約者。四歳年上のリュッタース子爵家の嫡男で現在は騎士団に所属しています。明るい茶髪を短く切り揃えた端正な顔立ちと騎士である事から体の方もしっかりしておりましてとても見目麗しい方です。切れ長な青の瞳で見つめられたら頬を染めない女性はいないのではないかしら?
そんな彼と婚約しているのが私、クリスティンです。17歳で父似の顔立ちは悪くはないと思いますが言ってしまえば平凡。おまけに髪も瞳も茶色で一言でいえば地味につきますね。
対する1歳上の姉ローゼマリーお姉様は母似の可愛らしい容姿で金髪水色の瞳の姿からまるでお人形さんの様だと昔から両親に可愛がられておりました。それに幼い頃は病弱だったもので過保護と言っても差し支えないでしょう。今でも季節の変わり目などで体調を崩しやすいので使用人達も細心の注意を払って手洗い・うがいなど衛生管理は徹底しております。
そんなお姉様は我が伯爵家の跡取り娘。婿を取って女伯爵となる為、可愛がられつつ厳しい教育が施されていました。
可愛らしい姉と地味な妹。病弱な姉と健康な妹。どちらが関心を引くかなど、考えずともわかりますわよね。私は大抵放置されていましたの。決して愛情がなかったという訳ではなかったんですけど、可愛いのは姉ですから。
「訴えるのはいいの。お父様もお姉様とレオ様が愛し合っているというのなら、私との婚約は解消され、すぐにでもレオ様と婚約を結び直すでしょう。でもそれではグーテンベルク伯爵家側が黙っていないわ」
「お嬢様、何をおっしゃっているんですか! リュッタース子爵令息様はお嬢様の婚約者なんですよ!? もっと怒っていいんです!」
そうねぇ……。
でも怒るのって疲れるのよね。それに、怒るって言われても何にどう怒ればいいのかわからないのよ。
「愛し合っている二人なら別れさせるのはしのびないじゃない? それに、姉優先の我が家で私が何か言ったところで私の意見が通るかしら。通らないわ。もう十分、経験しているもの」
「……そんなこと」
「子爵家の方は弟君が他にもいらっしゃるじゃない、でもグーテンベルク伯爵家のフランツ様は次男。我が家に婿入りしてお姉様と共に伯爵家の仕事をするために色々学んでいらっしゃるの。そんな方に『はい、今日をもって婚約は解消します。さようなら』なんて言える? 政略結婚だとしても身勝手だわ。誠実じゃない」
綺麗ごとじゃないのはわかっているけど、それにしたって勝手な事よ。フランツ様はお姉様と結婚する為に色々な事を学んでこれまでの時間を犠牲にしてきたというのに。
だけどこのままじゃ誰も幸せになれない。
知らないままだったなら、私は幸せだったでしょうけど。でも知ってしまったからには元には戻らないわ。
「うっ!?」
「お嬢様!? どうなされました!」
「大丈夫、ちょっと一瞬だけ苦しくなっただけよ」
「すぐに医師を呼びます!」
「待って!」
待って。そんな事している場合じゃないわ。私が今やらないといけないのはフランツ様とお姉様との婚約解消と私とレオ様の婚約解消よ。私とレオ様との婚約はすぐに上手くいくはずだけど問題はフランツ様の方。
「半年よ。あと半年でお姉様は望まぬ結婚をしてしまう。時間はそう多くないの。お医者様なんて必要ないわ、私は大丈夫」
「そんな、でも念のために」
「共同事業を行うのに強固な縁を結ぶ必要があっての政略結婚よ。結婚と同時に事業提携の話も進んでいる。それを結んでしまった後で婚約の白紙、解消になってみなさい。こちら有責なんだから莫大な慰謝料を支払う事になる。そうなればお姉様とレオ様の結婚生活はスタートから波乱万丈じゃない。そんなの出来れば避けたいじゃないの」
どうやっても婚約解消した後で妹の婚約者と結婚となれば社交界で噂になるわ。最悪、略奪愛と揶揄する方もいるかもしれない。そんな中でもお二人は社交界に顔を出さない訳にも行かない。なら、負担が少ない事に越したことは無いじゃない。
「グーテンベルク伯爵家とフランツ様周辺を探るわ。事業締結よりも前に円満解消して損失がないようにしないと。それにフランツ様ご自身にも非が無いような方法で。イリーネ、大変だろうけど手伝ってくれる?」
難しい顔をして俯いているイリーネは何か言いたげだけど、大きな溜息をつくと頷いてくれた。流石、若手有望の侍女ね!
それから私とイリーネ、途中から執事のフーゴに侍女長エーファを巻き込んでグーテンベルク伯爵家とフランツ様について探りを入れた。伯爵家のガードが固くて中々詳しい内情を掴むのも難しかったけど、どうやらフランツ様には仲のいい子爵令嬢がいらっしゃるみたい。フランツ様は生真面目な方だからそのご令嬢のことを幼馴染以上には思っていないようだけど、ご令嬢の方はそうじゃない。しかも子爵家の一人娘という事もあって婚約者を選定中。
初恋相手であるフランツ様を今も慕っているようだけど子爵はいつまで待ってくれるのかしら。もしかしたらフランツ様が結婚したのを見届けてからご自身も結婚相手を見つけるのかもしれないけど。
「それじゃあ遅いのよ。もうあと三か月で結婚しちゃうわ」
ギュッと胸が痛む。最近色々調べて疲れているのかしら?
イリーネが医者に、と言うけれどそれはもうちょっと待って。時間がないのよ。それにきっと大したことないわ。
調べている間でも着々と結婚の準備は整っていく。花嫁衣裳はお姉様をより美しく輝かせる一着でとても美しかった。本当に綺麗よお姉様。
レオ様とのお茶会も欠かしていないわ。月に二度のお姉様との逢瀬だもの。二人の関係を知る前と同じ回数を今でも続けている。だけど目に見えてレオ様の元気は失われているわ。それは日を追うごとに。お姉様の結婚式が近づくごとに。……私の顔すら見なくなっていく。
結婚式の二か月前になってようやくグーテンベルク伯爵家と円満解消出来そうな情報を手に入れることが出来たわ。それをフーゴと精査してお父様に報告する。はじめは真面目に取り合ってくれなかったけど、フーゴのおかげで真剣に聞いてくれたわ。
それでお父様も納得してグーテンベルク伯爵家と話し合いを重ねた。思っていたよりもあっさり解消出来た事に少し拍子抜けしてしまったけど、これで晴れてお姉様とレオ様は結ばれる。
(間に合った。何もかも上手くいったのね……)
そう思うと気が抜けたのか、私はお疲れ様会と称し街で人気のケーキ店に並んでいた時に気を失ってしまった。
*****
今日はレオ・リュッタースと私、ローゼマリー・リーネルの結婚式。
招待客は既に集まりその時を待っています。当初はグーテンベルク伯爵家の次男、フランツ様との結婚式でしたが二か月前にややあって婚約は解消。新たにレオ・リュッタース様と結ばれることになりました。予想外な事にお母様がお怒りになったけど、美男美女の結婚に皆心待ちにしているわ。
この結婚が円満であり、グーテンベルク伯爵家とは何のわだかまりもないと証明する為にも当初の婚約者であったフランツ様も新たな婚約者と参加しています。その姿は未練など全く感じさせないものだったので本当にこの結婚が円満なものであるのだと実証されましたわ。
ですがその裏で関係者達は慌ていたのです。
「ウルリヒはどうした!?」
「それが、今朝から姿が見えなくて……」
父であるリーネル伯爵がいつまでたっても現れないのです。執事によると今朝出て行ったきり戻ってこないというではありませんか。もう式は始まるというのに。
美しく着飾りまだかまだかと待っていましたが、時間をこれ以上延ばす訳にはいかず父の弟である叔父様とヴァージンロードを歩く事になりました。少々不服ですが仕方ありません。何か領地でトラブルがあって戻ってこれないのかもしれないと言い聞かせ、待ちに待ったこの時に臨みます。あぁ、今日この日をどれだけ待ち焦がれていた事か……!
式は無事に終わりましたが披露宴となっても父は現れず、結局姿を見せたのは翌日の事でした。
義実家となったリュッタース子爵家はリーネル伯爵家の別館に宿泊させてもらい、朝食を摂っている時にその知らせが届きました。本邸に呼ばれ応接室に向かうとそこには項垂れた姿の父がありました。
親族から詰問されていますが何も答えず、反応も薄いです。そこに側近が何か耳元で囁くと一つ頷きました。
「皆様、どうか落ち着いておきき下さい。実は昨日、リーネル伯爵家次女であるクリスティンお嬢様が……亡くなられました」
「「「なっ!?」」」
……え? なにを、いったの?
息を呑む一同。そしてガタンッと音を立てたのは床に崩れている母。すぐさまお付きの侍女が体を支えますが小刻みに震えています。
「クリスティンお嬢様は自分の死期がローゼマリー様の結婚式に近いかもしれないと感じ、その時までをホスピスでお過ごしになっていました。幸せな時間に水を差すのは申し訳ないと仰い、事実を知らせず。そして昨日の明け方……旅立たれました」
嘘よ! と大きく声を上げた母は大きく取り乱しています。
この二か月間、クリスティンは傷心旅行に出ていると父から説明を受けていました。こんなことになって気持ちの整理がつかないのは仕方ない、今はそっとしておきましょうという事になり、特に反論はしませんでした。でもさすがに結婚式前には帰ってくるわよね、と少し心配していたのです。
側近がいうには半年前、私とレオが応接室で愛を囁き思いを確かめ合っている場面を目撃したそうです。その日に僅かに異変を感じたらしいのですが望まぬ結婚を嘆く私達の為、クリスティンはグーテンベルク伯爵家と円満に婚約が解消できるように奔走したというのです。事業締結直前に更なる利益を齎す事業の提案、フランツ様と新たに事業に参加する事になったヴェルター子爵家のご令嬢との間を取り持ったのも、クリスティンだったというではありませんか。体調が日に日に悪くなっているのも解っていたのに私達の為だと何でもないフリをし続けたクリスティン。そして円満に婚約が解消され、新たにレオ様と婚約が結ばれたその日、あの子は倒れたそう。
医者がいうには初期の段階ならまだ治療法はあったそうですが病の進行は早く、最早痛みを和らげるくらいしか出来る事がないと診断された。クリスティンは延命を諦めホスピスで過ごす事を決めたそうです。侍女のイリーネを使いに出し、内密に父にだけは真実を告げ、母を含めて他の人間には内密にするように願ったのもクリスティン。
「どうして、どうして!? ねぇ! あなた、どうしてっ、どうして言ってくれなかったの!!」
「いつも通りを、お嬢様はお望みでしたので」
「「「!」」」
応接室に若い女性の声が響きます。扉の前にはクリスティンの侍女、イリーネが立っていました。
「イリーネ! あ、あなたも知っていて、どうして言ってくれなかったの!?」
半狂乱になりながらイリーネに掴みかかる母を昨日泊まっていた母の兄が止める。
「いつも通り。いつも通りです」
「イリーネ、いつも通りと言うのは、どういう事だ」
ウルリヒの弟である叔父が険しい顔をしながら問うと、イリーネは無表情のままただ当たり前のように繰り返しました。
「いつも通りです。いつもと、同じ」
「だからそれは、どういう意味っ」
「旦那様も奥様も、クリスティンお嬢様の事を気に掛ける事などありませんでしたでしょう?」
「「「!?」」」
「……」
驚く面々の中、父だけは頭を抱え固くきつく目を閉じています。
「この家の中心はローゼマリー様。幼い頃も、今でもそうです。ただの一度も、クリスティン様の願いが叶った事はありません。旦那様も奥様もローゼマリー様には手を掛け、クリスティン様には見向きもしなかった。聞き分けのいい、手のかからない子と言うのがこの家でのお嬢様の立ち位置。ローゼマリー様が少し熱を出せば一晩中看病を買って出て、クリスティンお嬢様が高熱を出してもうつさないようにと部屋に閉じ込められました。奥様に会いたいとぐずってもローゼマリー様にうつってはいけないからと、一度も見舞いに来た事はありません。
誕生日の日だって、ローゼマリー様の誕生日は盛大に祝うのにクリスティン様の誕生日は何故かいつもローゼマリー様の祝い事に変わっている。バイオリンの発表会で好成績だった、厳しいと有名な先生に褒められた、ダンスが上手く出来た。……何かにつけてお嬢様は後回しで見向きもされない。後日祝うと口約束しても祝ってもらった事は一度もありません。
クリスティン様にとってこれが普通。日常でした。だから、いくら死が間近に迫っていようと誰も見舞いに来ないから言わなくていい。むしろ、死が迫った今よりも『幼かったあの頃に会いに来てほしかった』……そうおっしゃいました」
途中からイリーネが何を言っているのかわからなくなりました。確かに私は幼い頃よく熱を出していたし、体力もなく部屋から出る事はあまりありませんでした。部屋から出れない分、両親がたくさん会いに来てくれていたのも事実。だけどクリスティンの事は知りません。あの子の誕生日だって、私が私を祝ってほしいなんて言った事はありません。いつも両親がやった事だもの。それが我が家のいつもの風景。何もおかしくありません。
……おかしくないのに、皆どうしてそんな目で私を見るの?
イリーネが凄い目つきで私を睨んでいるわ。彼女はリーネル伯爵家の侍女に過ぎないのに、どうしてそんなに睨むのよ。
困惑してレオ様に縋るけれど彼はまるで私の存在を忘れているみたいにイリーネを見つめている。貴方は私と結婚したんだから私の方を見てよ。
「お二人だけの悲劇の舞台に観客がいるとは思いませんでしたか? お嬢様はお二人の為に文字通り、命を削って奔走されたのです。……もっと幸せそうな顔をなさったらどうです」
無表情のイリーネは怖いわ。それにクリスティンにはちゃんと感謝しているのよ。美しい私には美しいレオ様が似合うのは当然でしょ? 大人しく引き下がっただけでなく、伯爵家の利益も考えてくれたよくできた自慢の妹よ。
でも私が子爵家に嫁ぐ事になったのは不満だわ。伯爵家でレオ様を迎えるつもりだったのに。子爵家にはまだ男児がいるんだからクリスティンはその中の誰かと結婚すればいいと思っていたんだけど。だけどそうね。
「とても幸せよ。レオ様を諦めて貰う為にキスして見せたのはいい判断だったと自分でも思うの。おかげで優秀なあの子はどの家にも利益を生み出した。持つべきものは聞き分けのいい妹ね」
あら? どうしたのかしら。レオ様が変な顔をしているわ。それに義両親も親族たちも。
お父様もお母様まで。
私、事実を言っただけなのに。
*****
あの女狐……! やっぱり知ってて、あの場面を見せたな……!
ローゼマリー様は昔から自分の容姿が優れている事を認識していた。そしてそれが武器になることも解っている女だった。そして両親をその武器で篭絡していたと言ってもいい。高価なプレゼントを強請られてもすんなり購入したしドレスだって何着も仕立てている。
それに対してクリスティンお嬢様は真面に誕生日を祝われた事はほとんどない。忘れているのか、無視をしているのか分かりませんが、そんなお嬢様が不憫で誕生日の食事は朝から晩までお嬢様の好物ばかりを用意するようになりました。旦那様も奥様も何も言わないのに料理人が勝手に誕生日用の食事を作る訳にはいかず、苦渋の決断で普段のお食事として差しさわりない内容の物をメニューに入れたのです。そしてそのメニューがお嬢様の好物である事に夫妻もローゼマリー様も気づいていません。
一度だけ、たった一度だけクリスティンお嬢様は泣いた事がある。
『どうしてわたしのたんじょうびはいわってくれないの……? わたしはいらないこなの?』
お嬢様は誕生日を祝ってほしかっただけだった。朝起きて『おめでとう』と言ってほしかっただけだというのに。この人たちは「忙しいんだ。誕生日会はまた今度」「ローゼの刺した刺繍を褒められたのよ。今日はそのお祝いね」そう言ってお嬢様の誕生日はローゼマリー様を祝う日となるのは毎年恒例の事になりました。
思えば涙を流したこの日をきっかけにお嬢様は諦める人間になってしまわれた。
刺繍も、ダンスも、礼儀作法も、すべて及第点を取るとそれ以上を目指さなくなったのです。ある程度できたらそれでいい。どうせ誰も私に興味ないんだし。そう言って笑ったあの横顔を、私は忘れない。
だから延命治療も諦めたんだ。
『お医者様がこれ以上の治療は難しいと言っているのに延命なんてやるだけ無駄よ。高望みしないわ。それに両親だって無駄にお金をかけずに済むんだし、いいことじゃない?』
『お見舞いに来られても困るわ。普段は接触せずにいたのに死に際に会いに来るなんて、何だか自分達が後ろめたい事をしていた罪滅ぼしみたいに感じるもの。あの人達にとって、私はどうでもいい存在なんだから最後までそうしてほしいわ』
『婚約解消は間に合って良かった。結婚してすぐに死んでしまっていたら、リュッタース子爵令息様も中々再婚しにくいでしょうし』
『イリーネ、ありがとうね。貴女がいてくれて心強いわ。お父様に頼んで特別給金を私の資産から出してもらう事にしたの。結婚祝いよ! 受け取ってね?』
『ありがとう! あのお店のケーキ、食べてみたかったの』
『イリーネ。……大好き』
病床でのクリスティン様の姿が次々と蘇る。苦しい思いをしていた筈なのに、思い出すのは笑顔のクリスティン様ばかり。
「ローゼマリー様、レオ・リュッタース子爵令息様。お嬢様からの言伝です」
真実の愛で結ばれた二人に言ってやる。
「『邪魔者はいなくなるんだからお幸せに』……以上です」
「―――ッ」
「えぇ。勿論よ」
青褪める男と微笑む女。この女狐は妹が死んだというのにとても悲しいという感情が見えない。いいえ、違う。この女はお嬢様の死を嘆いてもいなければ悲しんでもいない。そういう『運命』と捉えているんだ。
だから悪びれない。婚約者を寝取ったという事実も、この女の前では『それが運命だから』で終わる。お嬢様が死んだのも、誕生日を祝ってくれなかったのも、風邪を引いても誰も見舞いに来てくれなかったのもすべて。クリスティンお嬢様の『運命』だからと言ってのけるのだ。
『可愛くて美しい私が望んでいるんだもの。当然でしょう? 皆どうにかして手に入れようとする。だから私は欲しい物が手に入る。私はそういう『運命』の人間なの』
いつか聞いた腹立たしい言葉を思い出す。その言葉はクリスティンお嬢様が報われないのも『運命』だから諦めろと言っているようなものだ。だからお嬢様は諦めた。この女の言う『運命』に従うように。
私は礼をした後、応接室を出る。お嬢様がいなくなったこの邸に留まる理由はない。
腸が煮えくり返る思いだ。
伯爵に、夫人に、ローゼマリーに、あの男に。そして自分自身に。
「……お嬢様っ!」
あの日、もっときつく言い聞かせていれば。引き摺ってでも医者に見せていたら。もっと自分が有能であれば、お嬢様はもっと長く生きられたかもしれない。実際、もっと早く医者に掛かっていたら可能性はあったと医者から告げられていた。だからお嬢様が死んだのは私の責任だ。
そして自分と同じくらい憎いのがあの二人。
『クリスティンがいなければ、なんて考えてしまうの。悪い姉だわ』
『そんな。私も彼女さえいなければと思った事は一度や二度じゃない。こう言っては何だが……邪魔な存在だと、そう思ってしまうんだ。私の方が酷いだろう』
悲劇の恋人ごっこに興じる役者二人の劇に観客がいた。あの女の考えたクソみたいな劇を私のお嬢様は黙って見ていた。
抱き合いながらクスクス笑い、『邪魔』と言い切ったあの二人。聡明なお嬢様はもしかしたらそれがあの女の企みだったという事も気づいていたかもしれない。お嬢様が気づいていながらどう動くのか見据えていただろうあの女を私は絶対に許さない。
あの日お嬢様の心は崩れ去った。幼い頃からどうにか保ってきた均衡が崩れたのだ。
だけどお嬢様は壊れた心を無視して気丈に振る舞い、そして最後まで気に掛けていた結婚式の当日の朝、お嬢様は旅立たれた。生きる希望を失ったお嬢様の犠牲の上にあの二人は立っている。
男の方は罪悪感を感じていたようだがそれだけじゃ腹の虫が治まらない。だからこれは八つ当たり。小さな仕返しだ。それ位は許してほしい。
『伝言を、お願いしてもいい?』
呼吸が上手く出来ず、しゃべるのもやっとの状態で頼まれたあの二人への伝言。嘘を言った訳じゃない。ただ、どう捉えるのかはあの二人次第だ。
『―――……』
あの二人には勿体ない言葉だ。そんな言葉をくれてやる価値などないのに、どうしてこの人はこんなにも他人を思いやれるのだろう。
〝お二人の幸せを願っています。邪魔者はこれで消えますのでどうぞお幸せに。
……大好きでした〟
*****
「これは……?」
婚約してしばらくしての事。いつものようにお茶会で顔を合わせお互いを知る時間を設けていた。だけどその日、レオ様は会うと早々に小さな箱を私に手渡されたのです。
意味が解らなくて困惑していたら困り顔のレオ様が言いました。
「婚約者に誕生日プレゼントも贈らない甲斐性無しだと思われていたのかな?」
「……誕生、日?」
「三日後だろう? 生憎だがその日はここに来ることは出来ないから先に渡しておこうと思ったんだ。少し早いが、誕生日おめでとう」
少し照れくさそうなそのお顔が可愛くて。単純な私はその日、恋に落ちたのです。
『誕生日おめでとう』
イリーネや使用人達以外から言われた事がない、ずっとほしかった言葉。家族からは貰えなかった言葉。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、涙がでちゃう。
箱の中身は可愛らしいブローチでした。地味な私には分不相応かもしれませんが、生まれて初めて異性から頂いたプレゼント。
「~~~レオ様ッ! 私、レオ様が大好きです!」
プレゼントを貰っての発言でしたから現金な奴と思われたかもしれません。でも、いいんです。もうこれは私の大切な宝物になったんですから。
『このブローチを着けて送ってほしいの。大切にし過ぎて、使った事がなかったから』
イリーネ、貴女は思う事があるかもしれないわね。でもお願いね。これは私の最後のお願いよ。大切な人から頂いた、最初で最後の誕生日プレゼントだもの。でも本当はね?
『誕生日おめでとう』って言ってくれたことが、一番嬉しかったの。
私、あの人の婚約者でいれて幸せだった。一生の宝物よ。
だからね、お姉様、レオ様。
『ないとは思いますが、別れるなんて許しませんよ? 折角邪魔者がいなくなったんですもの、ちゃんと幸せになってくださいませね?』
補足
クリスティンに悪意はありません。本当に姉と元婚約者の幸せを願っています。ですが二人の『邪魔』発言で彼女の心が壊れたのも事実。悪意はなくてもその発言をしたという自覚があるレオからすれば『幸せになってほしい』と言う彼女の言葉は呪いと受け取ったに違いありません。それに対して姉のローゼマリーは正しくクリスティンの言葉の真意を受け取っています。
リーネル伯爵は見舞いに行った際にイリーネと会話している場面に出くわし、自分達がどれだけ無関心だったのかに漸く気づきます。訊いてしまった為、見舞いに行っても部屋の外からイリーネとの会話に耳を傾けるだけで中に入る事は出来ませんでした。夫人からは何故黙っていたのか責められる毎日で半年後には夫婦間の会話はなくなりました。その後は死ぬまで後悔し続けます。