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義兄の子守歌は難解な学術書

「オリヴィ、大丈夫か?」


 息ができない。気持ち悪い。涙が止まらない。


「しっかりしろ。ちゃんと呼吸をするんだ」


 ジェイドが私の背中をゆっくりと撫でてくれる。身体が震えて止まらない。まだ上手く呼吸が出来ない。吸えばいいのか吐けばいいのか、よく分からない。


「オリヴィ! こっちを見ろ」


 ジェイドは呆然としたままの私の顔をむりやり自分に向けさせて、目を覗き込んだ。私は涙越しにジェイドの薄紫の瞳を見つめた。心配してくれる気持ちが伝わってくる。


「大丈夫だから。俺がいるから、安心していいから」


 ジェイドがそっと抱きしめてくれる。私はジェイドの肩に顔を押し付けた。呼吸をすることに集中する。今は何も考えてはいけない。


 どのくらいそうしていただろう。やっと涙が止まった頃に、ジェイドが静かな声で言った。


「あいつが突然あんなことを言い出した理由が分からない。明日、あいつが落ち着いた頃にもう一度聞いてみる。今日は何も考えないで休むんだ」


 ジェイドから離れて顔を見上げると、彼の顔色は真っ白になっていた。ジェイドが人を殴るような乱暴な事をするのを初めて見た。ジェイドもまだ動揺しているように見える。


「ありがとう。ジェイドこそ大丈夫? あんな事するあなたを初めて見た」

「すまない。つい、我を忘れた」


 ジェイドはカルロの兄だけど、二人の母親は違う。ジェイドの母は市井の身分が卑しい女性だったと聞く。早くに亡くなった後、ジェイドはヒューズワード家に引き取られた。嫡男としてのカルロの立場は揺るがず、ジェイドは本妻から辛く当たられ、肩身の狭い思いをして育ってきている。


 それでもカルロは幼い頃からジェイドを兄として慕っていた。しかしジェイドは身の程をわきまえ、常にカルロの後ろに控えていた。そのジェイドがカルロを殴った。


「私を気にかけてくれて、ありがとう」


 ジェイドは昔から、私を妹のようにかわいがってくれていた。


 親族たちの月に1回の交流会では、いつもカルロとジェイドと私の三人は、場を抜け出して遊び回っていた。カルロの背丈が私を越した辺りからだろうか。カルロは一緒に遊ばなくなり、ジェイドと私も庭を転がり回ることはやめた。


 家庭教師を付けてもらえない私のために、ジェイドは毎月の交流会の時間を使って私に勉強を教えてくれていた。それは結婚が決まって忙しくなり始めた、つい数か月前まで続いていた。ジェイドは家族以外で一番信頼できる人だ。


「ジェイドが一緒にいてくれたおかげで落ち着いた。ありがとう」


 ジェイドは黙って私の頭を撫でてくれた。


 私は今朝、長年住んでいた家から送り出されてここに来た。


(家にはもう帰れないし、ここにいるしかない)


 姉と義兄には心配をかけられない。見知らぬところで、慣れない使用人に囲まれて一人で過ごさなければならない。これからずっと。それでも、外国の知らない所に売られた姉の事を考えれば恵まれている。


「うん、もう大丈夫。ジェイド、ありがとう。もう心配しなくていいよ」


 お腹に力を入れてふんばって立ち上がった。出来るだけ平常心を装って笑顔を作る。


 ジェイドは心配そうな様子を見せながら帰って行った。独り身の彼は同じ敷地の本邸の方に部屋がある。近いから何かあったら連絡するように、と言い残してくれた。



 使用人が無表情で、私の部屋に案内してくれた。騒ぎのことは当然知っているだろう。今は何の感情も表さない態度がありがたかった。


 涙で顔がぐちゃぐちゃだ。風呂に入れてもらい身ぎれいにしてから、しばらく一人にしてくれるように頼んだ。


 広くはないけれど、しつらえは落ち着いていて気持ちよく整えられている。この家の使用人は、見る限りでは落ち着いて気遣いが出来そうな人たちだ。


「大丈夫、大丈夫」


 カルロの恐ろしい顔を思い出してはいけない。


(私が気づいていなかっただけで、嫌われていたんだ)


 仲良しだと思っていたのは私だけだった。恋心を抱いて結婚できることに浮かれていた事が恥ずかしい。カルロにとっては、親族の圧力で受け入れざるを得なかった忌むべき結婚だった。


(無邪気に喜んで笑う私を見て、どれだけ不愉快な思いをしただろう)


 恥ずかしくて仕方がない。あの冷たく恐ろしい顔が頭から離れない。もし今日、あの恐ろしい状態のカルロがここに戻ってきたら? 怒りや憎しみをまだ吐き出しきれていなかったら?


「大丈夫、大丈夫」


 何を考えているか全く分からないのだから、気が変わって戻ってきてもおかしくない。さっきの恐ろしさと衝撃を思い出して涙があふれ出てくる。もうあの冷たい顔は見たくない。


「奥さま、失礼します」


 扉の外から使用人が声をかけてくる。『奥さま』、違和感があるけれど、呼称としては誤っていない。


「はい、どうしましたか?」


 扉を開けて告げられたのはジェイドの来訪だった。私は慌てて上着を羽織って下に降りた。あれからまだ、それほど時間が経っていない。忘れ物でもあっただろうか。


「ジェイド!」


 応接間で立ったまま、ぼんやりと考え事をしていたジェイドは、私の顔を覗き込んだ。涙はぬぐって来たけれど泣いていたことは分かったのだろう。私の肩をやさしくポンポンと叩いた。


「戻って必要な事を色々と片付けてきた。今の君を一人にしたくない。俺はしばらくここに住む事にしたから」


 ジェイドは、にやり、といつもの笑顔を見せた。冷静で皮肉屋のジェイド。さっきまでの動揺している姿はもうない。


「オリヴィが嫌だって言っても、もう決めたから。追い出すのは無理だと思ってくれ」

「嫌じゃないけど、そんな事して大丈夫なの。だってほら⋯⋯」


 あんな事を言われたけど、法律の上で私は人妻だ。そんな所に独り身の男性が住みこむなんて風聞が良くない。ジェイドは私が口に出せなかった部分も正確に汲み取る。


「風聞なんて気にするなって、あいつが自分で言ったんだ。オリヴィの面倒を見ろ、って俺に命令したのもあいつだ。俺たちはあいつの指示通りにしているだけじゃないか?」


 ジェイドが楽しそうに笑った。


「好きに暮らせって言われたんだ。君がもう大丈夫だって思えるまで手伝ってやるから、何して暮らすか明日から考えよう」


 ジェイドが近くにいてくれると思うだけで、心が少し軽くなった。無理に作らずに、ちゃんと笑顔になれた。それを見てジェイドも優しく笑顔を返してくれた。


「それによく考えたら、俺たちは義理とはいえ兄妹になったんだ。兄が妹の面倒を見るのは当然のことだよ」


 そうか、ジェイドはカルロの兄だ。私の義兄だ。


「そっか、私にはお義兄さんができたのね!」

「頼れる兄は、妹がぐっすり眠れそうなものを持ってきたよ」


 ジェイドは私が眠るまで、寝台の横に腰かけて小難しい本を読んでくれた。私に勉強を教えていたジェイドは、私が苦手な分野も、眠くなってしまう教科もよく知っている。

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