山に登る、もう一度!(未完成)
未完成品です。
ちょこちょこ書き足しながら完成を目指します!
その日。俺は人生で一番の間違いを犯した。
「俺はもうダメだ。置いていけ。そして、生きろ。お前は生きてくれ」
俺たちは二人でその山を踏破しようと挑んでいた。
その山は高く険しく、誇り高く、そして美しかった。
いつかあの山の頂上からの景色を見てみたい。それが子どもの頃からの俺の夢だった。でもそれは、俺のような平凡な人間には夢物語にすぎなかった。
山に登るには、ただ登りたいから、それだけではダメなのだった。
まず金が要る。
そして、この山に登るだけの格のある登山家であるか、という周囲からの視線がある。
もちろん経験も必要だし、知識も、知恵も、アイデアも。
身体的にも優れた資質が必要だ。
俺だって何もしてこなかったわけじゃない。精一杯の努力はしてきたつもりだ。人並み以上の努力をした。その結果、ちょっとは名の売れた登山家になれたつもりだ。
だが、現実は厳しかった。
山の入山許可を出す長老たちは、俺の申請を鼻で笑って却下した。
曰く、
「この山は神のおわす山。お前のような青二才が立ち入っていい場所ではないわ! たわけめ」
そう言って。
俺は唇を噛みしめてその侮辱に耐えた。
ここでこの男たちに手を上げてはいけない。それは最後の希望までを失わせる行為だったから。
俺の当時のチームはこの事実に荒れた。登山道具を売り払って、酒に逃げた奴もいた。
だが俺は腐らなかった。
虎視眈々とその機会を狙っていた。
そんな俺に千載一遇のチャンスが唐突にやってきた。
始めてその男を目の当たりにしたのは、そいつがふらりと宿に入ってきた時だ。フロントで受付の仕事をしていた俺は、目を疑った。そいつは山に関わる仕事をしている人間で知らぬもののない、伝説級の登山家だった。写真で何度も見たことがあった。
男は入ってきたばかりの玄関を振り返り、
「さあ、ようやく一息つけるぞ。やれやれ。大変だったろう?」
そう言って、女性を招き入れた。どうやら彼の妻らしい。手袋をとると彼らの薬指には同じ指輪がはまっている。
彼らは体についた雪を落とし、
「おーい。何か温かいものをくれ」
男の方がそう俺へと声をかける。俺は慌てて、
「すぐに用意いたします」
と彼らを食堂となっている部屋へと案内し、厨房へと飛び込む。飲み物とスープをオーダーした後、俺は何か運が向いてきた感覚に、にやりと笑みを浮かべた。
用意が整うと、それらを彼らのいるテーブルに並べ、
「あの・・・失礼ですが南雲様でいらっしゃいますよね」
そう尋ねる。
「ん。たしかに俺は南雲だが、俺の名前を知っているという事は、登山関係者か?」
「はい。この歳まで山に憑りつかれて、各地の山を登るのを生きがいにしております。南雲先生の事は雑誌やニュースでよく拝見しております。お会いできて光栄です」
ぷっ! と隣の奥様と思しき女性が吹き出す。
「南雲先生だってさ! あんたって本当、山関係の人間にだけは顔効くよね」
南雲も破顔して、
「そう。山関係だけには、な」
そう言って、二人は顔を見合わせゲラゲラと笑い合う。
俺は二人のテンションに少したじろいだ。が、なんとか愛想笑いを浮かべる。
ここでひるんではいけない。さすが大物といったところか。どうやら剛毅な性格をなさっておられるようだ。夫婦そろって。
「あの、南雲先生がここに来られたという事は、もしやあの山に登る計画がおありなのでしょうか?」
俺は期待した。もしそうであるなら、チームの一員に潜り込めれば、共にあの山に挑むことができる。
期待した俺の視線に困ったような顔を見せた南雲は、
「そうじゃないんだ、もう俺は引退しているんだよ。ここへ来たのは後輩たちの激励さ。登山術のレクチャーなんかも行うつもりだ。どうだい、きみも参加してみては?」
「あ・・・そうなんですか。それはぜひ参加させていただきたいですね」
俺は落胆の感情をなんとか隠して、それだけ言った。
南雲が引退していたとは聞いたことのない話だった。チームに入るという目論見はあっけなく外れたわけだが、怒りも感じていた。
引退とは・・・。
彼のように恵まれた環境にある人間が、山に登ることを自ら放棄するなんて。俺のように、登りたくても登れない人間もいるのにと考えると、贅沢すぎる選択であり、情けない選択に思えた。
山に憑りつかれた人間は生涯、山から離れられないものと思っていた。
これが伝説の男か。
鼻で笑いたい気分だった。
気づくと彼の妻がじっと俺の顔を窺っていた。心の中を覗き見られた気がして、ドキリとする。
慌てて、
「ではすぐにディナーの用意も整えますので、ゆっくりとお待ちください。」
そう言ってテーブルから離れる。
なんだろう。油断のならない女だ。初対面の印象では南雲などより、よほどただならぬ人物に感じられるが・・・。
そしてすぐに明らかになることだが、その印象は間違いではなかった。
宿の扉が勢いよく開かれる音がして、足音が近づいてくる。部屋の扉が開かれる。
「南雲夫妻がおられるのは、この宿で間違いないかな?」
そう言ってやってきたのは、あの日俺の夢を全否定した長老たちだった。
「おおー! ジジイども。まだくたばらずにいたのか」
南雲が席を立ち、親し気に長老たちに握手を求めに行く。
「南雲どのも相変わらずですな」
「おう。引退したとはいえまだまだ若い奴らには負けんつもりだ。明日から、有望な若手に山の厳しさを叩きこんでやるつもりだから、楽しみにしててくれ」
そう言って、ガハハハと笑う。
「これはこれは頼もしい」
そんな会話を部屋の隅で見ていた俺は驚きに目を見張っていた。
長老たちは3人連れでやってきていたが、南雲と会話していたのはそのうち2人。そして最長老である人物はその様子を横目に、椅子から立ち上がりもしない様子の南雲夫人と、なにやらヒソヒソと話し込みだしたのである。
南雲の豪快な笑い声まじりの会話と、夫人の静かな会話の対比は強烈な印象を俺に与える。
しばらくし、
「さ、あなた。そろそろご老人たちはベッドの温もりが恋しい時間でなくて? 今日はもう解散にいたしましょう」
「む? たしかに。もうこんな時間か。昔馴染みとの会話ほど時間を忘れるものはないな」
ガハハハと笑う南雲に、
「あら。こんな死にぞこないの、皺くちゃなご老人とそんなに仲良しだったなんて、知らなかったわねえ」
夫人もフフと笑って答える。
「言ってやるな、ヨーコ。人間最後はどんな美男美女も、皺くちゃ爺さん婆さんさ」
「それもそうね」
自分達の世界に入り込んで、ケラケラと笑いあう二人に長老たちはじゃっかん不快気に眉をひそめていたが、
「南雲どの、お言葉がすぎますぞ。それに年寄りの戯言というのもそれはそれで若造には出せん味がありましょうて」
「む。それもそうかもしれんな」
南雲がうなづく。
「さ。では外まで見送りますわ長老方」
ヨーコが立ち上がり長老たちを促す。俺はその場に立ったままそれを見送った。
なにやら最後の会話をがやがやさせたのが聞こえた後、南雲夫妻が部屋へ戻ってくる。
「さて、と。もうすっかり腹ペコだ。君、料理の準備は整っているかね?」
俺は、
「できております」
と答え厨房と部屋を往復して料理を並べていく。その間も南雲夫妻の会話に聞き耳をたてずにはいられない。
南雲が明日から若いのを鍛えてやるぞ、と改めて意気込んだのにヨーコが、やりすぎないようにね、と笑みをもらす。仲の良い夫婦だなと感想を抱く。
食事が終わると彼らは俺に、
「美味しかったよ。では我々は部屋へと行かせてもらおう。どこを使えばいいのかね?」
と尋ねてくる。
「こちらへ」
彼らを先導し客室へと案内する。部屋の前で南雲が俺に、
「君も明日からの俺の講義に参加するのだろう? よろしくな」
と言ってくる。俺は引退した男の講義になど正直なところ興味もなかったが、これも何かの縁。
「よろしくお願いします」
と頭を下げておく。
だが実際、意識の大半は南雲よりもヨーコから向けられる視線に向けられていた。それはスキのない例の人を見透かすような視線であったから。
本当に何者なのだろう。あきらかにただものではないと感じるが・・・。
とにかく、これが俺の南雲夫妻との出会いであった。
「おはよう、みんな。俺が南雲だ。知ってる奴もいるだろうがな! というか、この場にいて俺の事を知らない奴はもう帰ってもらってもかまわないぞ。俺は有名だからな」
ガハハハと笑う南雲。
生徒として集まった連中はこの最初の挨拶に、顔を見合わせたり、苦笑いを浮かべたりしていたがそれでもやはり彼らの中に南雲への敬意を感じる。
そう。南雲は間違いなくレジェンドなのである。彼が登ってきた山々の数々は質、量ともに最高レベルといえた。登山というマイナーなジャンルの中にあって、彼はアイコンといえるだろう。
それだからこそ、俺は昨日の引退済み発言が許せなかった。
だいたいが、俺の価値観として一線を退いた人間に、本質的なことを教えられるとは思わなかった。やはり背中で語るくらいのあり方をしている人間の言葉をこそ聞きたく思う。
だから南雲が登山の道具のレクチャーをするのを俺は、冷ややかな視線で眺めていた。
「さてと。ではみんな屋上へ上がってもらおうか」
南雲が言う。彼の言葉に促されて生徒たちはぞろぞろと移動を始める。
屋上に上がると昨夜の吹雪は収まっており、雲一つない空と、銀世界が一面に広がっていた。
俺の目にあの山が映る。いつ見ても美しい。そして、南雲に目をやる。彼はあの頂上に到達した経験があるのだ。
嫉妬する。この男がどれほどの者だというのか。
彼が口を開く。
「ここに集まっているということは、いつかはあの山へと挑戦したいという考えがあることだと思う。では声を聞いてみよう。あの山が君らになにを語りかけているか。今この場でも感じられるはずだ。さあ目を閉じて・・・」
俺は目を閉じる。風はない。そこにあるはずの山を想像してみる。声を聞く? 俺に山は何を語るというのか・・・?
おぉ・・・
という声があちらこちらで上がり始める。薄目を開けて彼らの様子を窺ってみる。
「!」
彼らは目を閉じたまま涙に咽ぶ。その数は次々に増えていき、俺以外全てとなった。
焦る。目を閉じて、声を聞こうとする。何も聞こえない。どうしてだ。他の連中には何か聞こえているというのか? それならなぜ俺には何も聞こえない?
「では目を開けて。君たちが今聞こえ、感じたものが俺の思う山に登ることの基礎だ。そして聞き続けること。山は君たちが挑む間、君たちに語り続けるだろう。その声に導かれていけば頂上への道は自然に開けていく。これは奥義でもある。出来れば毎日実践してほしい」
待て待て待て。俺は何も聞こえなかった。何も感じなかった。目を閉じれば、そこにあった山の残像がだんだんと消えていき、ただ無音と真っ暗な光景があるだけだった。
なぜだ?
ぞろぞろと屋上の階段を下りながら、今の体験を語り合う連中に取り残されて俺は一人ぼつんとその場に残された。