踊る満員電車 ~ヅラを返却せよ~
これは今から三十年近く前、ちょうど年号が昭和から平成に変わった頃の話だ。
その春、大学に通い始めたばかりの私は満員電車に揺られながら、毎朝一時間半もかけて通学をしていた。その中でも池袋、新宿間の山の手線の混雑ぶりは想像を絶するものであり、これが悪名高き日本の通勤地獄かと恐れ戦いたことは、今でも鮮明に覚えている。
何せ一年間、部活を引退した後の私は殆ど身体を動かすこともなく受験勉強に明け暮れた。元々ひ弱だった身体はあっという間に筋肉が削げ落ち、静脈の浮き出た両足などは青白いもやしのような頼りなさだ。それが通勤に手慣れた百戦錬磨のサラリーマンに混じって満員電車に乗らねばならないのだ。山の上の大学に着く頃には私はいつもヘトヘトになっていた。
その日も私は例によって掴まる吊皮もなく、前後左右を屈強な通勤猛者に囲まれていた。まるで万力のような力の前に身体は不自然な『そ』の字型に折れ曲がり、自らの意志では身動き一つ取れなかった。
そして電車は途中の高田馬場駅に停車した。
扉が開くと、どうやらその場所は改札口付近だったようで、人の流れが一斉に開いた扉へと押し寄せた。
その時、開いた扉とは後ろ向きに対峙していた私は、まるで太平洋を海流する黒潮のような人の流れに押し流され、あれよあれよとなすすべもなく後ろ向きのまま、扉の方向へと運ばれていった。
このまま流され続ければ、最後は浜に打ち上げられるザトウクジラの赤ちゃんのような末路となることは目に見えている。私はその黒潮のような人の流れから、必死に体を捻って何とか横へと抜け出した。
しかしホッとしたのもつかの間、今度は同じ扉から怒涛のごとく人波が押し寄せた。油断していた私はその人波を真正面から受け止める形になり、あれよあれよと後ろ向きのままどこまでも押され続けた。そして終いには、まるで浴びせ倒しを食らった相撲取りのように、その場でお尻から崩れ落ちていったのである。
おぼれる者は藁をもつかむ。
そんな言葉があるように、その時私は無意識のうちに前にいる人の頭をむんずと掴んでいた。しかし私が掴んだものは、そのままずるりと滑る感覚だけを私の手の中に残し、無情にも消え去っていった。
次の瞬間、私は背後のシートに座っていた御仁の膝の上に、ちょこんと腰かけていた。
はっ!
お尻付近に感じた突起物の、何やら生温かな感触に慌てて振り向くと、そこにはぽっと顔を赤らめた中年男性の姿がある。
「ごめんなさい~」
慌てて謝った私は、すぐに立ち上がろうと前を向いた。
「あふあふあふぅ~」
しかし私が腰かけた脂ぎった中年男性は、気を悪くするどころか天井を見上げると、半開きの唇からそんな吐息を洩らした。私の首筋に生暖かな一陣の風を送った男の吐息からは、腐った鰯の臭いがした。
そこへ追い打ちをかけるように、更なる悲劇が私を襲う。
私の左手には、何故か男物のカツラがむんずと握られていた。先ほど無意識のうちに掴んでいたものの正体が、実はこれだったのだ。
私は異物感漂う中年男性の股の上から急いで立ちあがると、まずは落ち着くようにと一つ大きく息をした。
とにかく今はこの、己の手の中にあるカツラを何とかしなければならない。こんなものがここにあるということは、必ずやすぐそばには寒い思いをしながらカツラを探している禿頭の御仁がいる筈で、間抜けヅラしていつまでも手にヅラ下げているところを見つかれば、とんヅラこくことも出来ずに現行犯で逮捕ヅラ。
よっぽど私は、気持ちの悪い吐息を吹きかけた男の脂ぎったバーコード頭に押し付けてやろうかと思ったが、すんでのところで理性を取り戻し、思い留まった。
前方を見渡せば、そこには山脈のように連なる人の頭、頭、頭。しかしそんな混雑した車内においてもひと際目立つ、まるで富士山のような独立峰が垣間見える。つるりとありがたい御来光のようなあのハゲ頭こそ、今、己の手の中にあるカツラの持ち主であることを、この時私は確信した。
恐らく190センチくらいはありそうな大男である。満員の車内でカツラをずる剥かれた怒りは如何ほどかと私は恐ろしさに身が震えたが、あにはからんやそのミスター・チョモランマの口からは、スースーという静かな寝息が聞こえてくる。
どうやらその男は、こんな混雑した満員電車でも立ったままで居眠りができるという特技を持っているようだ。
カツラをずる剥かれたことにも気付かぬまま寝続けられるとは、まことに呆れるほどの愚鈍さであるが、しかしこれは千載一遇のチャンスだ。今、己の手の中にあるカツラを、あのミスター・チョモランマがまだ休火山であるうちに返してしまえば良いのだ。
殺人的な通勤ラッシュの山の手線内。誤って毟り取ってしまった御仁のカツラを気付かれないうちに返却するという、まさに決死の覚悟の極秘ミッションに、気分はまさにジェームズ・ボンド。(※時代考証からイーサン・ハントと出来ないところが悲しい)
左手にその問題のブツを捧げ持ち、虎視眈々と獲物へ近づく。しかし脂汗を流しつつ、血走りの眼でこそこそと獲物に近づくその姿は、こんな満員電車においては一歩間違えれば痴漢の変態男として通報されかねない。
人混みを掻きわけ、ようやく大男の元までたどり着いた。しかし私はよっぽど気が動顛していたのか、麓からその見事な御来光頭を見上げると、思わず柏手を打ちそうになった。すんでのところで正気を取り戻し何とか思い留まったものの、しかしその当時まだ山登りなどというものには一つも興味がなかった私は、麓から見上げた頂のあまりの高さに目が眩んだ。
そんな人の苦労も知らずに、ミスター・チョモランマの口からは、スゥスゥと相変わらずのん気な寝息が聞こえてくる。そのあまりにも平和ボケした寝息に勇気を鼓舞され、いよいよ私は意を決した。
ようし、今だ! 今しかないっ!
私は件のカツラを利き腕である右手に持ち替えると、ミスター・チョモランマの三角点目がけて、えいっとばかりに腕を伸ばした。
ガタンガタン!
その瞬間、間の悪いことに電車が大きく揺れた。
「ぶっ!」
つま先立ちになっていた私は、ミスター・チョモランマの北壁に思いっきり顔を打ち付けると、反動で件のカツラも手放してしまった。
し、しまった! カツラはどこだ?
蒼ざめた私だが、奇跡が起きた。カツラは何と、大男の頭頂部にちょこんと乗っている。しかし喜びもつかの間、そのカツラは前と後ろが逆向きになり、まるでどこだかの国の国立公園にあるバランスロックのように、危ういバランスを保ったまま、頭頂部に乗っていたのだ。さらにはこの時になって初めて気が付いたが、そのカツラは任侠が今よりもっと幅を利かせていた時代の香りを色濃く残す、昭和渡世人風とでもいうようなオールバックのカツラだった。
「ん、ん~~……」
さすがの休火山もいよいよ目を覚ますと、そんな野太い寝起きの声を上げた。
ああ……、ば、ばれる……。いよいよお終いだ……。
私は大噴火が起きる前に遠くの村へと避難してしまおうと考えた。しかし私は再び四囲を屈強な通勤猛者に囲まれ、身動きが取れなくなっていた。あたかもそれは、おいおい、あいつのカツラをずる剥いた犯人はお前だろ。この期になって逃げんじゃねーよ。そう責められているかのようだった。
だが寝起きの大男は総身に五感が行き届くまでに時間を要するのか、不自然に乗せられた己のカツラの不具合に、気が付かないようである。
クスクス、クスクス……。
そんな、前髪どころか後頭部の毛まで逆噴射した奇妙奇天烈な髪型を目の当たりにした回りの乗客から、堪え切れない笑い声が漏れ始めた。
こらっ! 笑うでないっ! ばれたらどうするのじゃっ!
天にも祈る気持ちで事の成り行きを見守ることしか出来ない私は、パンパンと二度、今度は本当に山頂に向かって柏手を打ってしまっていた。この時ほど私は、己の信心深さを恨めしく思ったことはない。
ギロリ!
すると、お前何やってんの、というようなミスター・チョモランマのするどい視線が上空から降り注いだ。さすがに昭和任侠の渡世人を自認するだけあってなかなかの迫力だ。しかもその瞬間、件のカツラは2センチほど左にずれ、私の心臓は口から飛び出そうになった。
なすすべもなく私が人垣の中で固まっていると、まもなく次の新大久保駅に到着するというアナウンスが流れてきた。
「ああ、俺、降りまーす」
するとミスター・チョモランマは、そう声を上げて降り口の扉へと向かい始めた。
ああ、良かった。山の神様は私に味方したのだ。私は胸を撫で下ろした。
190センチの大男が通るため、乗客達は苦労して体を横にずらしていく。しかし大男が通ると、その後頭部が奇天烈な逆噴射となっているのを目の当たりにするため、どこからともなくクスクスという忍び笑いが起きた。
笑うなっ! 笑うなっ! みんな、頼むから笑わないでくれぇ~!
「ぎゃはは~」
その時、およそ慎み深さとは縁遠い、パンツも見えようかという短い制服のスカートを穿いた今時の女子高生が、大男の後頭部を指差しながら遠慮のない笑い声を上げた。
さすがの鈍感な大男も、その笑い声にくるりと振り向いた。そしてその瞬間、さらにカツラは3センチほど左へずれ、私は口から飛び出た心臓を、必死で押さえて口の中へと戻さなければならなかった。
シーン……。
般若のような男の顔に、車内の笑い声はピタリと止んだ。
不審に思いながらも再び前を向いたミスター・チョモランマは、今や完全にバランスを失った奇天烈な後頭部をゆらゆらさせつつ扉へと向かった。そしてしきりに首を傾げながら、そしてそのたびにカツラは少しずつ左へ左へとずり落ちそうになりながら、まさに後ろ髪を引かれる思いで電車を降りて行くのであった。