雨宿りをする男
【お詫び】
現実の公共図書館においては、利用者の貸し出し記録は返却が終わった時点ですべて削除される仕組みとなっています。ゆえに、本編のように利用者の過去の貸し出しデータを警察が閲覧することは物理的に不可能です。作者の知識不足ゆえに誤った描写が入ってしまいました。
なお、修正を入れてしまうとトリックの一部を丸ごと変更する必要が生じるため、元のままで掲載しています。ご了承くださいませ。
始まり
遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。
降りしきる雨の中、男はぼんやりと、道路を挟んだ向かいにあるアパートの一室を見上げていた。周囲には、何事かという不安や好奇の声を上げて蠢く野次馬たち。直に暗闇の中から赤いランプを忙しなく光らせるパトカーや救急車が、野次馬を追い払わんばかりに三階建ての建物の前に次々と停まった。スーツ姿の警察や救急隊の面々が、飲み込まれるように建物の中へと入っていく。
――事件だってよ。女が死んでいたんだと。殺しか? やだあ、怖いわ。まさか、ストーカーとか。かわいそうにねえ。近頃何かと物騒だものね。おお、怖い怖い。
男の耳を右から左へと通り抜ける野次馬の声は、壊れたラジオのノイズのようだ。彼らの言葉の意味が、男にはいまひとつピンとこない。
死んだ? 殺された? まさか、彼女が――
頭が、割れるように痛んだ。傘も差さず、雨に濡れた頭を掻き毟り、男はその場にうずくまる。まさか、まさか、まさか。否定と恐怖が、男の頭を支配する。それらがまもなく現実とならんとしていることを、彼は何よりも恐れていた。
激しい吐き気が男を襲う。冷たい雨が、苦悶する彼に容赦なく降りかかる。すぐ喉元まで、今すぐにでも狂ったように叫び出したい衝動が押し寄せていた。
野次馬の波をかき分けて、報道陣がカメラのフラッシュをたいている。レインコートを着込んだリポーターが、カメラに向かって深刻な顔で中継を始めている。
「ただいま入りました情報によりますと、被害者はこのマンションに住む女性で、腹部を数回にわたって刺されていたということです。被害者の女性は、このマンションに住む――」
リポーターの発した最後の言葉に、男は両目をかっと見開いた。音という全ての音が、彼の世界から消える。そして――
叫び声で、男は目を覚ました。布団から飛び起きて、汗に濡れた額を手の甲で拭う。嫌な汗だった。
早鐘を打つ心臓の脈を押さえるため、二度ほど、深呼吸をする。そばに転がっている飲みかけの水が入ったペットボトルを乱暴に手に取ると、どこか苦味さえ感じる透明の液体をぐいと仰いだ。
今朝も、雨が降っている。窓を打つ雨音は、男の耳にはうるさいほどだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
捜査一 関係者らの証言(事件当日)
「遺体が発見されたのは、今朝の九時五十分頃。第一発見者は、被害者の会社の同僚と上司です。被害者が定刻になっても社に姿を見せず、また何の連絡もないのを不審に思い、被害者の住むこのアパートの、三〇三号室を訪れた」
黒革の手帳から顔を上げた小暮警部は、隣に立つ長身の男、吾妻鑑をちらりと見やる。無言で首を二度ほど縦に振ってみせた彼に、警部は慣れた様子で先を続ける。
「部屋の前までやって来てドアをノックするものの何の応答もなかったため、被害者の同僚という女性がドアノブに手をかけます。すると、ドアノブはあっけなく回り、扉が開いた。いよいよおかしいぞ、と思ったお二人が部屋の中を覗き込むと」
「部屋の奥で倒れている被害者を発見、警察に通報するに至った」
「その通りです」
白髪交じりの頭をこくりと動かし、小暮警部は再び現場の捜索に取り掛かる。遺体は既に回収済みだか、警部の他に鑑識を含め四人ほどの警察関係者が、依然として忙しなく動き回っている。吾妻は部屋の壁際に長身の身体を張り付かせ、現場の観察と勤しむことにした。
K県の県庁所在地S市。中心市街地から車を十分ほど走らせた地にひっそりと佇む、三階建てのアパート。その一室で、一人の女性の刺殺体が発見された。
被害者は、市内のIT関連会社に勤めていた中谷美弥子、二十八歳。独身で、事件現場となったアパートに一人暮らしだったという。家族は、父親、母親、そして三つ年上の兄が一人。両親はK県から一つ県を挟んで離れたT県に住み、兄はK県と隣接するY県で、同様に一人暮らしをしている。
美弥子の住むアパートは、主に単身赴任や一人暮らしの学生・社会人に向けたものらしく、全ての部屋が1DKの造りになっていた。それなりの築年数が経っているらしいが、外観に比べ内装は想像よりも小奇麗なものである。ただし、女性の一人暮らしとなるとセキュリティの面でやや不安な要素があることは否めない。
案の定とはこのことか。不幸にも今回の事件の被害者、中谷美弥子は、つい二週間ほど前に自室の部屋の鍵を通勤時に紛失していた。事件発覚当初、警察はその鍵を偶然手に入れた犯人による空き巣、乱暴目的、あるいは通り魔的犯行ではないかと考えたのだが。
「しかし、現場を見た警部は不審な点を感じたと」
おおかたの現場検証を終えた中谷美弥子の部屋にはK県警捜査一課の小暮警部と、一刻も早い事件解決のため応援に呼ばれた推理作家の吾妻だけが残されていた。彼が事件現場に足を踏み入れ警察の捜査に加わるのは、何も今回が初めてのことではない。そして、吾妻の捜査協力はK県警でも既に暗黙の了解となっているのである。
「物取りの犯行にしては、部屋を物色したような形跡もなく、金品や現金も手付かずのままでした。また衣服の乱れもなく、乱暴目的という線も低いでしょう。遺体は致命傷となった腹部の刺し傷他、複数の刺し跡以外に目立った外傷はなく、死因は、ここに写っているナイフで腹部を刺されたことによる出血性ショック。死亡推定時刻は、昨日の十九時から二十四時にかけて、というところです」
差し出された写真に写っていたのは、特段何の変哲も無い果物ナイフだった。珍しいメーカーのものでもなさそうで、どこにでも売っているような代物だ。凶器から犯人を割り出すことは難しいと見ていいだろう。刃全体にべっとりと付着した血糊が、見るからに生々しい。かなりの出血量であったにもかかわらず、被害者は刺されてからしばらくは息があったようで、血溜まりの残る部屋の中央からベランダへと続く窓へと向かい這ったような跡が残されていた。擦れたような血痕は、窓際の数十センチ手前で途切れている。
「凶器には指紋は一切付着していませんでした。おそらく犯人が拭き取ったか、あるいは予め手袋のようなものをつけて犯行に及んだかと思われます。部屋には被害者の他に複数の人物の指紋が残されていました。これから被害者の人間関係を調べて該当者の有無を確認します」
事務的な口調で告げた警部に、吾妻はちょいと片手を挙げる。
「死亡推定時刻の時間帯に、被害者の部屋を行き来する人物を見たという目撃証言は」
「それも、これから調べるところです。しかし、生憎と事件当夜は雨が降っていましたからね。暗がりに雨模様となると、あまり期待はしない方がいいのかもしれませんが」
綺麗に撫でつけられた白髪頭をぽりぽりと掻いた警部は、ふと思い立ったような顔をするとスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。慣れない手つきで画面を操作すると、それを無言で吾妻に差し出す。
画面には、二人の女性が映っていた。ややピントがぼやけているのは、警部曰く「写真をさらに撮影したものです。未だにスマートフォンとやらの撮影には慣れていないもので」ということらしい。こちらに向かって笑顔を向ける女性二人のうち、画面から見て左端に写っているのが今回の被害者である中谷美弥子ということだった。
胸あたりまで伸ばした黒髪に、控えめな笑顔でピースサインを向けている。決して派手とも言えない服装に、顔立ちも華やかというよりもむしろ地味といった方がしっくりくるような女性だった。奥ゆかしい、と表現すれば、聞こえはいいのかもしれない。
怨恨や金銭トラブルなどとは縁のなさそうな実直な女性。それが、吾妻がこのとき抱いた中谷美弥子という人物の第一印象だった。
「中谷美弥子の部屋は、特別物色された形跡もなければ、争ったような跡もありませんでした。また、犯人は丁寧にも玄関で靴を脱いでいたようで、部屋の中には犯人のものと思われる足跡も見当たりませんでした。さらに言うと、被害者の遺体には目立った抵抗の跡もなく、腹部の刺し傷以外は綺麗なもの。これらのことから、空き巣や突発的な通り魔の犯行という線は考えにくい、むしろ、彼女の周辺人物、顔見知りの犯行である可能性が高いと見て捜査を進める次第です」
公用車のパトカーから緩慢な動作で降りた小暮警部に、吾妻はこくりと首を振った。
二人が最初に向かったのは、被害者、中谷美弥子が勤めていたというS市内のIT会社である。インターネット上のホームページや広告の制作及び管理を他社から請け負う、いわゆる下請けのような仕事を中心に行なっている中小企業ということだ。中谷美弥子は、この会社に大学卒業後から勤めていた。
五階建ての四階が、被害者が所属していた部署である。会議室に通された小暮警部と吾妻の前に現れたのは、茶色の髪に緩いウェーブをかけ、濃い目の化粧を施した二十代の女性社員だった。
「美弥子とは、よくお昼に一緒にランチをしたり、あと、時々飲みにいったりもしていました。あ、ランチっていっても、食堂で一緒にお昼を食べたりとかですよ」
泉美愛未と名乗った彼女は、ストーンで装飾を施した派手なネイルをつけた両手をぱたぱたと振る。
「美弥子は、一言で言えばザ・真面目って感じでしたね。仕事熱心だったし、特別派手な暮らしをしていたってわけでもなさそうだったし。お弁当を持ってきていることも多かったから、もしかしたら節約した暮らしを心がけていたのかも。あ、だとしたら、よく飲みに誘っていたの、もしかしたら迷惑だったかなあ」
後半はやや独り言めいていた。警部がやんわりと問いを挟む。
「美弥子さんから、何か悩みや相談事を受けていたということはありませんでしたか」
「悩み? ううん、聞いたことないな。あの子、人に悩みとか言うの苦手そうなタイプだったし」
「と、いいますと」
「弱みを見せるのが嫌、みたいな? 悩みがあったどうかはわからないけど、少なくとも美弥子からそういうことを聞いたことはなかったかな」
頬に人差し指を当て小首を傾げる愛美。
「では、最近何か彼女の様子で変わったことはありませんでしたか」
「んん、そうだななあ。あまり喜怒哀楽のはっきりした子じゃなかったから」
うんうんと唸った挙句、結局彼女は「ごめんなさい、よく思い出せないや」と困り顔で首を振るだけであった。
次に会議室にやって来たのは、泉美愛美よりも、むしろ中谷美弥子に似た雰囲気の女性社員だった。愛美よりもやや落ち着いた色合いの茶髪をハーフアップにまとめ、淡い紫色の上品なセーターを着こなしている。化粧も控えめだった。
「ええ、この写真に写っているのは私たちです。左端の彼女が美弥子、この右端が私です」
草間沙代は、小暮警部の差出したスマートフォンの画面を指で示した。
「二人で京都旅行に行ったときの写真です。なかなか都合の良い日が合わなくて、やっと計画した旅行で――嬉しいな。美弥子、写真を部屋に飾っていてくれたんですね」
「ああ、いえ。これは、美弥子さんの実家にあったアルバムの中から撮ってきたものでして」
警部の言葉に、沙代は「あら、そうなんですか」とやや残念そうに声のトーンを落とす。
「私たち、大学時代の同級生なんです。でも、つい数日前までは普通に言葉を交わしていたのに。未だに、彼女がもうこの世にいないだなんて、信じられません」
声を震わせる沙代に、警部は沈痛な面持ちを向ける。
「一刻も早い真相解明及び犯人逮捕のため、我々は全力を尽くします。お辛いでしょうが、ご協力をいただければ幸いです」
「ええ、勿論。早く、あの子を死に追いやった犯人を捕まえてください」
目元を潤ませながらも、彼女は毅然とした態度を見せた。
「では早速ですが、ここ最近の彼女に何か変わったことはありませんでしたか。どんな些細なことでも構いません。何か、あなたが気になった彼女の言動などはなかったでしょうか」
「変わったこと――そういえば、確か二週間ほど前だったかしら。部屋の鍵を落してしまったと言っていました」
これは、実は既に確認済みのことであった。同じく県警の新米刑事、若宮暢典が、T県に住む美弥子の両親に確認を取ったのだ。確かに今から二週間ほど前、正確には十七日前、美弥子から「部屋の鍵をなくしてしまった」と電話で相談を受けたのだという。
「確かそのときは、ご両親から合鍵として使っていたものを借りて、それを使っていたと聞きました」
これも、美弥子の両親の証言と一致する。
「因みに、鍵をなくしたときの具体的な話は何か聞いていましたか」
「あまり詳しいことは。会社に来る途中に、街中かどこかで落したんだと思う、と言っていました。そのうち新しい鍵を造らないと、とも」
「その後、彼女が鍵を新しくしたということは」
「私が知る限りは、そのままご両親から借りた合鍵を使い続けていたと思いますけど」
沙代の話に、手帳にペンを走らせながらしきりに頷く警部。
「合鍵が届くまでの数日は、私の家に泊まっていました。といっても、ほんの二、三日程度でしたけれど」
「因みに、彼女は鍵の紛失届けは出していたのでしょうか」
「出していたみたいですよ。“一応、最寄の交番に届けは出しておいた”と言っていましたから」
美弥子の部屋の鍵に関しては、沙代と美弥子の両親の証言に食い違いはないようである。
「では、他に何か思い出したことなどはありませんか」
穏やかな口調の警部に、沙代は長い睫毛を伏せ口を閉ざす。思案に暮れているようだった。
「彼女、最近仕事は忙しかったのですか」
不意に、吾妻は口を開いた。静かな部屋に突如響いたバリトンボイスに、沙代はぱっと顔を上げると目をぱちくりと瞬かせた。
「どうして、そんなことを」
「女性の一人暮らしで鍵を紛失したとしたら、やはり部屋のセキュリティ面が心配になるでしょう。鍵をなくしてから事件まで、既に二週間は経過していた。普通ならすぐに管理会社に連絡くらいはしそうなものです。そのあたりは、どうだったのでしょう」
「いえ。そのような話は、聞いていませんけど」
「まあ、話すまでもなく既に済ませていたのかもしれませんが。もしも、それすらもしていなかったとしたら、あるいは仕事に忙殺されてそんな暇すらなかったのだろうか、と思ったものでして」
長い脚を組み替える吾妻に、彼女は「ああ」と納得したように頷いた。
「そういうことでしたら、答えはノーですね。むしろ、この時期にしては珍しく、ここ数週間は仕事量が少なくて。部署によりけりですけれど、少なくとも私たちの部署は、むしろ暇に近い状態でした」
ただ、彼女がいなくなってからはちょっと忙しくなっていますけどね――と、沙世は寂しげな笑みを浮かべた。
「彼女に限って、無断欠勤などありえないと思っていたのです。本当に、何と言っていいのやら」
フレームの太い黒縁眼鏡をかけた男性が、深々と息を吐いた。隣に座る女性社員は、頭を垂れ俯いたままである。
「何度もお話されたこととは思いますが、改めて、遺体発見時のことをお話願えないでしょうか。その際、思い出したことなどがありましたら補足しながらお話いただいで結構ですので」
腰の低い小暮警部の態度に警戒心を持つ事件関係者は少ない。遺体の第一発見者である、美弥子の直属の上司だという秋山真之は、「ええ、刑事さんの気の済むまでお話しますよ」と快く応じた。
「中谷のアパートを訪ねよう、という話になったのは、その日の朝、九時過ぎのことでした。彼女の携帯に何度も連絡したのですが全く繋がることはなく、中谷の同僚がラインをしても一切返事はありませんでした。無断欠勤など彼女らしくないとは思いましたし、もしかしたら急病で倒れているんじゃないかという話にもなって。いえ、特に最近体調を崩していたというようなことはなかったと思います。ただ、それくらいしか心当たりがなかったというだけで。
それから、中谷の同期である彼女を連れて社を出たのが、確か九時半を過ぎたときだったと思います。仮にも女性の一人暮らしのところですからね、私一人で行くというわけにもいかなかったので」
隣に座る女性社員にちらりと視線を送り、秋山はすぐに話に戻る。
「中谷のアパートまでは車で十分ほどでしたでしょうか。焦りもあったからか、アパートには思ったよりも早く到着したような気がしましたね。住所や部屋の番号は予め社で調べていたので、迷うことはありませんでした。まずは、私が部屋のドアをノックして声をかけました。返事はなく、もう一度試しましたがやはり同じで。中谷の携帯の番号を押してみると、部屋の中から微かに電話の着信らしき音が聞こえてきました。二人で確認しています。そこで、失礼を承知で隣の彼女にドアノブを回してもらうことにしました。勿論、鍵がかかっているだろうという前提でね。以前、中谷から『部屋の鍵をなくしてしまった』という話をちらりと聞いた記憶もありましたから、てっきり厳重に鍵をかけているものとばかり思っていました。だから、ドアがあっけなく開いたときには違和感を覚えました」
「そして、扉を開け部屋を覗き込み、中谷さんを発見された。そういうことで、間違いないでしょうか」
「ええ。あ、念のため言っておきますけど、彼女の部屋には足を踏み入れていませんし、部屋の物にも一切触れていませんからね」
「ええ、それは確認済みです。中谷さんの部屋のドアノブ以外からは、あなた方お二人の指紋や痕跡は一切検出されませんでした」
警部の言葉に、秋山はほっとしたように息を吐いた。
「部屋のドアを開けたのは、神庭真緒さん、あなたということで間違いないでしょうか」
やんわりとかかった小暮警部の声に、秋山の隣に座る、黒髪をボブカットにした女性はちらりと顔を動かし、重たげな前髪の間から小動物のようなくりっとした大きな目で警部をじっと見やると、
「はい。私で間違いありません」
まるで犯行を自白する犯人のような口調である。
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ。では、中谷さんの部屋を見たとき、何か不審な点や気になったことはありませんでしたか。何でも構いません、些細なことでもお話してくだされば結構です」
「いえ、特には」
ふるふると頭を振ってそれだけを告げると、再び黙り込んでしまった。
秋山らに礼を述べ、会議室を後にする。床も壁も一面が白い廊下を進みエレベーターを目前にしたとき、二人の背後から「あの」という声が上がった。黒いボブカットの下から大きな目で彼らを見上げたのは、今しがた話を訊いた神庭真緒である。
「何か、言い忘れたことでもありましたか」
物腰柔らかな口調で訊ねる警部に、真緒は「あ、えと、その」と口をもごもごさせる。
「ちょっと――あまり、人のいないところで」
彼女に連れられ、二人は先ほどとは別の小さな会議室に通された。部屋に入る前に、真緒は扉に「会議中」のプレートをかける。
「あの、実は。そんなに、大したことではないんですけど」
「どんな些細なことでも構いませんよ。小さな気づきが、大きな手がかりになることもありますから」
にこりと人当たりのいい笑みを浮かべる警部にほっとしたのか、真緒は切れ切れながらも話を始める。
「私、この前中谷さんとたまたまお昼を一緒にする機会があって。そのとき、食堂でお昼を食べていたんです。中谷さんがお手洗いに立って、私はまだご飯の途中だったんですけど。そのとき、画面が表になっていた中谷さんのスマートフォンに、電話が入ったんです」
「電話、ですか」
興味深げに返した警部に、真緒は「はい」と小さく頷く。
「画面には、『秀矢』と出ていました。私、ちょっと気になって、中谷さんが席に戻ってきたときに訊いたんです。“さっき、秀矢さんって人から電話が入っていたみたいだけど、もしかして、恋人なの”って」
「恋人ですか。それで」
「あ、でも全然そんなのじゃなくて。その人、中谷さんのお兄さんだったみたいなんです。中谷さんは“電話帳に人の番号を登録するとき、フルネームか名前で登録する癖がついているから。それに、この歳で『お兄ちゃん』とか登録するのも恥ずかしいじゃない”って言っていました。だから、ちょっと珍しいなと、思って」
それだけなんです――消え入るような声で言って、真緒は小さく頭を下げた。
「若宮が中谷美弥子のご両親のところに話を伺いに行きました。彼女が鍵をなくしたのは、今月一日。なくしたその日にご両親に相談していました。そのとき、たまたま兄の中谷秀矢が休暇を取って帰省していたらしく、彼が食品などの諸々の仕送りとともに、ご両親が所持していた合鍵を彼女のところに持って行ったそうです。鍵が彼女の元に届いたのは、二日後の三日。事件当日の十八日までの二週間、彼女はその合鍵で過ごしていたようです」
信号が黄になり、小暮警部はスピードを減速させる。車は緩やかに一時停車した。目の前の横断歩道を、黄色の帽子を被り色とりどりのランドセルを背負った小学生の列がぴしゃりと手を頭の上に伸ばしながら横切っていく。
「無用心と言えばそうかもしれませんが、案外現代人の警戒心などその程度のものかもしれませんね。世間でどんなに凶悪で猟奇的な事件が起きようとも、人はどこか他人事として見ている節があるように思います。“まさか自分のところに限って、自分に限って、そんなことに巻き込まれるはずがない”。子どもが犯罪に加担したときに母親の言うことと同じです。“うちの子に限って、そんなことはないはずだ”とね。自分の身に起きて初めて、どんな人間も常に危険と隣り合わせで生きているのだと実感するわけです」
吾妻に、というよりも、どこか独白めいた調子で警部は言葉を紡ぐ。警戒心を持てば犯罪が減るというわけでもないのだろうが、彼のような考えを持って世を憂う警官は少なくないのかもしれない。吾妻は警部の言葉を黙って聞いていた。
車はやがて、中谷美弥子のアパート前へと到着した。時刻は、夕刻の六時三十分。アパートの一階、一〇一号室に居を構える大家の枝野初惠は、「あらあ、ご苦労さんねえ。そうだ、よろしかったら夕飯をどうです? 今日は豚汁を作っていますので沢山あるんですよ」とにこやかな笑みを浮かべる気のいい老婆だった。初惠の誘いを丁重に断った警部は、事件当夜に誰か怪しい人物などは見かけなかったかと問う。
「ああ、そうそう、怪しい人と言えば、あなたね」
年の割には明瞭な発音で話していた彼女は、まるで犯人が近くにいるのではと警戒するかのように、唐突に声のトーンを落とす。
「実はね、私見たんですよ」
「見た、と言いますと」
「雨宿りの男、ですよ」
「雨宿りの、男?」
聞きなれないワードに、吾妻と顔を見を合わせた警部は小首を傾げる。老婆は「そう」と神妙な顔で先を続けた。
「そこにね――そうそう、ここの反対側の向かい、道路を挟んだところにね、小さなコインランドリーがあるんです。そこでね、どうしてだか雨の日になると、必ず雨宿りをしている男がいるんですよ。アパート内でもちょっとした話題になっていましてね。もしかしたら、ここに住む誰かのストーカーなんじゃないかって」
「その男というのは、雨の日には必ず、そのコインランドリーに姿を現すということですが、たまたま枝野さんがそこを見たときにいることが多かった、などというわけでは」
警部の遠慮がちな声に、大家は「そんなことはありませんよ」と憤慨するように返した。
「私だけじゃないんです。他の部屋の人だってね、見たっていうんですよ。疑うのなら訊いてみてごらんなさい。あらそうよ、事件のあった日も、確か雨だったじゃない? やっぱり、あの男が怪しいわよ。だってねえ、雨の日だけこのアパートの前に来るなんて、まるで不審者じゃないですか」
徐々に高揚した声を張り上げる老婆を何とか落ち着かせその場を後にした二人は、アパートでの聞き込みを続けた。すると確かに初惠の言う通り、事件のおよそ二週間ほど前から、雨の日に限って、コインランドリーで洗濯をするでもなくただ建物の屋根の下でじっと立ち尽くしているという男の目撃証言を複数名から得ることができた。
「被害者のアパートのそばで雨宿りをする男、ですか。しかも、男が現れたのは事件の二週間前。被害者が部屋の鍵をなくした時期と一致します」
まるで未確認生命体でも見るかのように、手帳に大きく書き込まれた「雨宿りの男」という文字を凝視する小暮警部。吾妻はロングコートのポケットからくたびれた煙草の箱とライターを取り出し、火をつけた。日も沈み薄暗い闇が辺りを包む中に、ライターの臙脂色の火がぼんやりと浮かび上がる。
「この男が、中谷美弥子殺害に関わっているのでしょうか」
「男の詳細も、その男と彼女との繋がりも、まだ何もわかってはいません。中谷美弥子がストーカーにでも遭っていたというのならば、話は違ってくるでしょうが」
「ストーカー、ですか」
嫌な想像を振り払うように、警部はゆるゆると首を振った。仄暗い無人の空間に包まれたコインランドリーを、吾妻は食い入るように見つめている。まるで、そこで一人静かに空を見上げ、雨が降り止むのを待つ男の影を見るかのように。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
捜査二 その他の証人、あるいは容疑者(事件二日目)
「神庭真緒はあのようなことを言っていましたが、もしも、被害者に密かに特定の恋人がいたのだとしたら、何かしらの痕跡や記録が部屋に残っているだろうとは思うのですが」
思慮深い顔で、小暮警部はアイボリー色の箪笥の引き出しを一つ一つ丁寧に開けては閉めて、を繰り返す。しかしそこに何もないとわかると、その度に、いたく残念そうにため息を吐いた。
「若宮に聞き込みをさせていますが、今のところ被害者との間にトラブルを抱えていたというような人物は挙がってきていません。もともと内気で、人付き合いも決して派手ではなかったということです」
「それ故に、警部は今回の犯行は顔見知りによるものと考えていらっしゃる」
「おっしゃる通りです。しかしながら、顔見知りとはいえ、その犯行はおそらく突発的なものだったのではないかとも、私は考えています」
「と、いいますと」
「凶器の果物ナイフは、この部屋のキッチンにあるものでした。果物ナイフの刃の部分のカバーが、そこから発見されています。最初から被害者を殺すつもりがあるのなら、犯人自ら凶器を持参するものでしょう」
犯人の行動心理からするに、それは妥当な考えである。だが、あるいは犯人は、この部屋――中谷美弥子のこの部屋に、凶器に相応しいものが置いていることを、予め知っていたのかもしれない。彼女の生活面を、ある程度把握していた人物による犯行。仮にそうなれば、容疑者は随分絞られてはくるのだが。
安っぽい化粧台の前に立ち引き出しに仕舞われた化粧品を手に取りながら、吾妻は思案する。引き出しの中の半分近くが、試供品と思われる小さな袋に入った化粧品だった。金に困っているといった風でもないが、盛りの年代である女性にしてはやや質素とも言えるような生活臭が漂っていた。洋服の仕舞われているクローゼットを調べていた警部が、ふとその手を止めてぽつりと呟く。
「部屋を荒らすなどして物取りの犯行に見せかけようとしなかったのは、単に焦っていたためなのでしょうか」
「あるいは、誰か罪を被せたい人物がいた、という可能性もあります」
「しかし、ここまで痕跡を残さないとなると逆にその人物の特定は難しいですね」
クローゼットを閉め腕組みをする警部を横目に、吾妻は一通り調べ尽くしたであろう空間をぐるりと見渡した。
「それにしても何といいますか。この空間からは、被害者が一体何を楽しみに、何を生活の糧として生きていたのかということが今ひとつ把握しかねますね」
「それは、最初にここを調べたときに私も感じたことでした。彼女の趣味、好きなもの、こだわり――中谷美弥子という女性が、一体どういう人物だったのか。この部屋には、それらを感じさせるものが何一つとしてないんです。強いて言えば、綺麗好きだったということくらいですかね」
綺麗好き、というよりも、そもそも中谷美弥子は、物を持ちたがることに抵抗でもあったのだろうか。雑品の入った箪笥や化粧台、小さなテーブル、テレビ、簡易ベッドが所定の位置にきちんと配置されている以外、ぬいぐるみやちょっとしたアンティークな置物や装飾なども一切なく、シンプルすぎるぐらいだった。化粧台がなければ、男か女の部屋かの判別も難しかったかもしれない。
「ああ、そうだ。趣味と言えば、唯一、中谷美弥子の勤務先の同僚から“本を読むことが好きなようだ”といった証言が得られていました。お伝えするのをすっかり忘れていましたが」
「読書、ねえ。それにしたって、この部屋には仕事に関するようなもの以外の娯楽的な本は一切なかったようですが」
少なくとも吾妻が見つけたのは、仕事関連の資格取得の雑誌と、数冊のビジネス書のみである。
「中谷美弥子の財布から、図書館利用の貸し出しカードが見つかっています。貧乏性とまでは言いませんが、あるいは読書も彼女にとってはさしたる趣味でもなかったのかもしれませんね」
小さく肩を竦める警部に、吾妻は「中谷美弥子の利用していた図書館に行ってみましょう」とだけ告げた。
捜査にちょっとした進展が見られたのは、小暮警部の運転する車が県立図書館に到着したときだった。報告者は、中谷美弥子の交友関係を洗っていた若宮刑事である。
「中谷美弥子は、事件のおよそ二ヶ月ほど前、勤務先の会社で社員の心身のケアやセクハラ、パワハラなどの相談を受ける専門の女性医師に“ストーカー行為にあっているかもしれない”と相談をしていたようなんです。女性医師から証言が得られました」
スマートフォンの通話をスピーカー状態にして、警部と吾妻は若宮刑事の報告を聞いていた。
「ストーカー行為とはいっても、帰り道に後をつけられているような気がするとか、ポストの中身を見られているような気がするとか、どれもはっきりとした根拠はなく、実害も出ていなかったそうです。ただ」
「ただ?」
「ただ、被害者が事件の二週間ちょっと前に、鍵をなくしたという話があったじゃないですか。もしかしたら、その鍵も、被害者をつけまわしていたストーカーが何らかの拍子に彼女から盗んだものなんじゃないかと、女性医師は話していました。勿論、あくまでその医師の想像ですけど」
通話終了のボタンを押した小暮警部は、「参りましたね」と白髪を丁寧に撫で付けた頭を掻いた。吾妻は拳で顎の先を軽く叩きながら、
「中谷美弥子殺害にストーカーが関連しているのだとしたら、顔見知りや彼女に近しい者による犯行だという警部の予想は危ういものになってきます」
「大家の枝野初惠が話していた雨宿りの男とやらを、早急に見つけ出す必要がありそうです」
県立図書館は街の喧騒から離れ、芸術劇場や美術館、博物館などを備え付けた大きな公園のような空間の中にあった。連日雨続きのためか、外には雨合羽を着込み犬の散歩に勤しむ老人を除けば誰も見当たらない。逆に、館内には紙の本特有の乾いた匂いに包まれ、勉学や読書など各々の世界に浸る利用者の姿が多く目立った。
カウンターで「こんにちは」と柔らかな笑顔を見せた眼鏡の女性に、警部は警察手帳を掲げ簡潔に用件を伝える。一瞬驚いたように目を丸く見開いた彼女は、だがすぐに落ち着いた対応で「少々お待ちください」と立ち上がりその場を離れた。
程なく姿を見せた彼女に先導され、カーキ色のコートと黒のロングコートをそれぞれ羽織った二人の男がカウンターの中に入る。両手に四、五冊ほどの本を抱えた白髪の老人が、場違いにも見える彼らを怪訝そうな表情で眺めていた。
「こちらが、中谷美弥子さまの図書貸し出しリストになっています。画面に表示されているのはここ一ヶ月の分のみですが、この機器には過去半年までの貸し出しの記録が残されています」
「その、貸し出し記録のデータをお借りしても?」
警部の要望に、眼鏡の女性は「お待ちください」と穏やかに答えた。
A4白紙に印字された中谷美弥子の貸し出し記録を手に、警部と吾妻は館内をぐるりと一周する。しかし、数こそ多くはないものの、そのジャンルには統一性がなく、中谷美弥子の読書傾向はやはり把握しかねるのだった。
「『K県郷土歴史』、『こんなにも美しい数学理論』、『ロシア革命の全容』、『知っておいて損はない! 役立つ家庭菜園のコツ』――彼女はこの本を読んで、自身の郷土歴史について学んだり、新しい理論を発見した過去の数学者に尊敬の念を抱いたりとしていたのでしょうか」
「あるいは、ロシア革命の隠された悲劇に驚愕し、いつか自宅の庭で家庭菜園をつくることを夢見ていたのかもしれませんね」
ため息を吐き、「真面目に考えましょう」と漏らす警部の声は、ほとほと困り果てているようだった。『こんなにも美しい数学理論』を手に取ると、ペラペラとページを捲り始める。その後しばらくの間、二人は無言でテーブルに積まれた十冊の本を数回ずつ斜め読みする作業に没頭していた。
「共通性、とすると」
不意にぼそりと口を開いた吾妻に、片手で目頭をマッサージしていた警部が視線を向ける。
「この、一見するとジャンルもバラバラで統一性のない貸し出し記録。むしろ、これこそが被害者の貸し出しの共通性、ルールと考えることならできます」
「統一性のないところが統一性、というわけですか」
「だとするならば、彼女がここに通っていたことには趣味というよりも何か別の理由があ――」
言いかけて、『伊藤マンショが見てきたもの~天正遣欧少年使節が果たした役目』のページを捲る手を止めた。開かれたページに、老眼かというくらいに目を近づけて、忙しなく視線を動かしている。そして、唐突にいくつかページを戻す。一連の奇妙な動作を無言で繰り返す吾妻に、警部は「先生?」と訝しげな声で問い返した。
「もしかすると――ああ、そのもしかするとかもしれないな。警部、やはりこれらの記録は“共通性がない”ということが共通性なのかもしれません」
盛大な音を立てて本を閉じた吾妻は、「警部、いくつか確認したいことがあります」と興奮冷めやらぬ声で告げた。
「雨が降った日に、あなたは必ず、中谷美弥子さんの住むアパートの向かいにある小さなコインランドリーで雨宿りをしている。その姿を、美弥子さんと同じアパートに住む複数の住人が目撃しているんです」
「それが、何か」
「コインランドリーを使うでもなく、ただじっと、アパートを見上げていたそうじゃないですか。一体なぜです」
僅かに語気を強める若宮刑事に、対面に座る男は先ほどからの抑揚のない口調で「別に」と短く返す。
「別に、じゃないでしょう。そんな人間を見たら、誰だって不審者か何かと怪しみます」
「怪しむのは、見た人の勝手です」
「そういうことを言っているんじゃないんです。あなた、中谷美弥子さんをストーカーしていたんじゃないですか」
新米刑事の詰問に、だが男は黙秘する。アリバイを問えば、「家に一人でいました」の一点張り。そしてまた、コインランドリーでの雨宿りへと話は戻る――この一時間、取調べは堂々巡りの状態だった。
「浅田俊樹と中谷美弥子の唯一の共通点は、図書館の貸し出し記録のみ。目撃証言も、雨の日のコインランドリー以外では大したものは上がってこず、事件当夜のアリバイも、やはりありません」
「しかし、この二ヶ月で中谷美弥子が借りた本全てに、まるで後を追うようにして浅田の貸し出し記録が残っている。これを偶然と呼ぶには、ちょいと厳しいところがありますね」
「ええ。二人に何かしらの接点があることは間違いないはずです」
刑事の感、というやつなのだろうか。刑事一本三十年のベテラン警部は、眉間に皺を寄せマジックミラー越しに取り調べの様子を静観していた。
浅田俊樹、三十二歳。独身。数度の転職を経て、現在は車の部品製作を取り扱うS市内の小さな工場に勤めている。一人暮らしのアパートは、事件現場から車で二十分ほど離れた場所にあった。黒の太いフレーム眼鏡を掛けたひょろ長い男は、長い手足をやや窮屈そうに折り曲げパイプ椅子に腰掛けている。
浅田の取調べが一時間と三十分を経過したときだった。一人の屈強な体躯の刑事が、「すみません、警部」と野太い声を上げ部屋に入ってきた。
「被害者の部屋に残された指紋ですが、検出されたのはいずれも被害者の家族のもののみでした。玄関のドアノブにのみ、第一発見者の秋山及び神庭の指紋が付着していましたが、室内の被害者以外の指紋は全て、被害者の母である中谷朱美、父の中谷克彦、そして兄の中谷秀矢のものと判明しました」
簡潔に終えると、屈強な刑事は無言で頭を下げ部屋を出た。ベテラン刑事は「参りましたね」と目元の皺を一層深める。
「部屋から第三者の指紋が見つからないとなると、仮に犯人が中谷美弥子のストーカーであった場合、予め指紋を残さぬようにして彼女を襲ったことになる。しかし、そこまで考えていたにも関わらず、肝心の凶器には彼女の部屋にあったものを使用した」
「計画的とも言えるはずですが、凶器の点がどうしても腑に落ちません」
「まあ、どんな家にでも包丁やナイフの一つや二つはあるでしょうが、場合によっては(特に、二十代ともなると)部屋の住人が料理を極端にしない人物という可能性も少なくない。凶器をわざわざ部屋で見つけることを考えると、犯人が持参した方が格段に効率がいいのは否めません」
「全くもっておっしゃる通りです。しかし先生」
話題は変わりますが、というような口ぶりで、警部は話を続ける。
「よくもまあ、あの十冊の本全てにある特定のページの活字に針を刺した跡が残されていたことを見つけましたね。私なぞいくら目を凝らしても見つけられませんでした」
「私だって、鑑識に確認していただいてようやく“やっぱりな”と思った次第ですからね」
吾妻は苦笑した。中谷美弥子がここ二ヶ月で貸し出した十冊の本全てを鑑識が調べた結果、その全ての本の中に、安全ピンなどの針で活字に跡を残しているページがあること、そしてそのいずれのページの隅にも、微かに鉛筆でしるしをつけたような痕跡が残されていることが判明した。それが、図書館での吾妻のあの奇妙な行動の意味なのである。同時に、当然のことなのだが、これらの本には浅田の指紋もしっかりと残されていた。
「十冊の本に残された跡――その跡の残っている活字のみを抜き出したら、何かしらのメッセージが浮かび上がってくるのでしょうか」
「それがわかれば、浅田と被害者を結びつける大きな手がかりになるでしょうね」
針の跡が残った活字にメッセージ性が生じてくれば、浅田と中谷美弥子の間に何らかのやり取りがあったことを裏付ける強い証拠となってくる。そもそも、二人が貸し出した十冊の本は元の貸し出し利用者が少なかった(内容が内容なだけはある)。貸出率の高いものだとより多くの利用者の手に渡るため、秘密のやり取りの痕跡が万一露見してしまうことも想定しての選出だったのだろう。が、それがかえって裏目に出た結果となり、推理作家吾妻の目に留まることとなってしまった。
鏡の向こうの空間には、額に手をあて刑事人生初の取調べに苦戦している新米刑事の姿がある。そんな彼の向かいでは、能面のように表情一つ変えない顔の男が、いつまでもその重い口を閉ざし続けていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
捜査三 吾妻の考察(事件三日目)
新米刑事の手をとことん煩わせた容疑者は、結局その日は開放されることとなった。また、容疑者と被害者を結びつける十冊の本は、一冊につき跡のつけられたページ数が存外に多いことから、内容の解読には今しばらく時間がかかるとのことだった。
事件から二日が経過した、二十日。市内のマンション「ラルジュ水穂」七階の七○五号室に居を構える吾妻の元を、二人の刑事が訪れていた。言うまでもない、K県警の小暮警部と若宮刑事である。中谷美弥子殺害事件について、新たな情報が入ったとのことだった。
「浅田俊樹に関してなんですが、彼は現在の勤務先である工場に入る以前、複数の職場を転々としていました。実は、現在の勤務先の前に勤めていた職場が、K県市内にある市立図書館であったことが分かったんです」
「市立図書館? 県立ではなく、ですか」
「ええ。しかし、調べてみたところ、被害者が市立図書館を利用したことは僅か二度ほどしかありませんでした。そこで浅田との接点があったかどうかは分かりかねます」
ベテラン警部の報告に若手刑事も続く。
「被害者が勤務先の女性医師に相談していたストーカーのことについて、被害者のご家族にも話を訊きました。実害はありませんでしたが、やはり家族は中谷美弥子を心配している様子でした。特に母の朱美は、一度は警察へ相談することを提案したそうです。しかし、兄の秀矢は“警察は実害が出てからじゃないとまともに動いてくれない”などと、母親の提案にはあまり賛同できなかったようです」
複雑な表情を浮かべる若宮刑事に、警部も「お恥ずかしい限りです」とどこかやるせない声を上げた。
「特に、彼女の部屋の鍵がなくなってからは、兄の秀矢が時折妹の様子を見にアパートを訪れるなどして、ストーカーを警戒していたようです。また、不動産会社に鍵の紛失について問い合わせていたのも秀矢だったようです」
「だが、結局中谷美弥子の部屋の鍵は事件当日まで新しいものに代わることはなかったんだろう」
「はい。何でも、新しく取り付けるシリンダーの種類などについて相手会社と一悶着あったそうで、結局交換に時間がかかってしまったのだと、秀矢から証言が得られています」
「秀矢さんはさぞかし後悔したことでしょうね。“自分がもっと行動を早くしていたら”と」
虚空を仰ぐ警部に、若宮刑事は「俺だったらめっちゃ後悔しますよ」と拳を握る。歳の六つ離れた妹がいる彼の目には、今回の事件がより痛ましいものとして映っているのかもしれない。
「あと、参考になるかはわかりませんが、神庭真緒の証言をもとに、中谷美弥子のスマートフォンの電話帳記録を調べてみました。確かに、会社の同僚や上司、友人など、ほぼほぼの人物がフルネームで登録していたことも判明しています。ただ」
「ただ、何ですか」
「ただ、ですね。神庭真緒の証言していた兄の秀矢についてなのですが、彼の番号に関しては『お兄ちゃん』と登録していたんですよ」
神庭真緒の証言と、食い違っているということだ。
「父親と母親に関しては」
「そのお二方は、それぞれ『父』、『母』と登録していますね」
「何となく気分で変えたんじゃないですか。特段怪しむ点でもないようにも思えますけど」
若宮刑事の言葉に、警部はしかし腑に落ちない様子で手元に開いた手帳を指で叩いている。吾妻の出したコーヒーを啜っていた後輩刑事は、「あ」と思い出したようにスーツのポケットを漁り始めた。
「それとですね、これも参考になるかはわからないですけど」
三人が囲むテーブルの上に置かれたのは、ジッパー付きの透明な袋に入った一本の口紅だった。
「これは」
「女性用の口紅です」
「見れば分かるだろう。どこにあったかと訊かれているんだ」と、警部が若宮を小突く。
「ええと、被害者の勤務先のデスクに仕舞われていました。DNA鑑定の結果、彼女が使用していたもので間違いないだろうということでしたが、社内の方に話を訊いたところ、彼女がこれをつけているところを見たという人物はいませんでした。また、これを彼女が持って帰っているというような話も聞くことはできませんでした」
袋に入ったまだ真新しく見えるそれを、吾妻は手に取る。
「ブランドものの口紅だな。しかも、最近発売されたばかりの新商品だ」
「え、そうなんですか。すごいですね、作家先生は化粧品の流行まで知識として取り入れるんですね」
「しかし、ほとんど使うこともないブランド物の化粧品が、なぜ社内のデスクに」
警部の疑問に、吾妻は黙ったまま顎に手を当て考え込んでいる。
「彼女、もうこの化粧品を使うことはないんでしょうね。恋愛や結婚だって、まだこれからだったのかもしれないのに」
「好きになった男のために、この口紅をつける。そんな些細なときめきすら、中谷美弥子は犯人から奪わたんだ」
今は亡き被害者を想ったのか、二人の刑事は感傷に浸っているようである。
「それなら、私たちは彼女の輝かしい未来を奪った憎き犯人を、何としてでも炙り出さなければなりません」
テーブルに口紅を置くと、吾妻はロングコート片手に立ち上がった。目を真ん丸にした二人の視線を受け、挑発的な笑みを浮かべる男がそこにいた。
「警部、若宮刑事。調べてほしいことがあります。雨夜に紛れた犯人を、白日の下に晒し出すための証拠を」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
真相 雨宿りをする男(事件五日目)
その日も、雨が降っていた。春も間近な二月下旬。しかし、冬の抜けきらない雨降りの夜は、底冷えするような寒さがあった。
中谷美弥子の部屋には、四人の人間が集っていた。ロングコートのポケットに両手を突っ込んだまま部屋の中央に立つ吾妻に、紺のダウンジャケットを着こんだ男が、苛立たしげに足踏みをしている。
「あの。せめて、暖房でもつけませんか。一応、この部屋まだ電気は通っているみたいなので」
「寒いですか」
飄々と問うた吾妻に、中谷秀矢は「そりゃ、まだ二月ですし」と明らかに不満げな声を上げる。
「まあ、さっさと終わらせるのでちょいとばかり我慢して聞いてください」
秀矢の希望をそっけなく撥ね退けた推理作家は、閑散とした部屋で朗々とバリトンボイスを響かせる。
「今から四日前、奇しくも、今宵と同じように冷たい雨の降っていた日の夜。中谷美弥子の住むこの部屋で、一体何が起きたのか」
舞台役者のように、両手を広げてみせる。
「事件の影は、実はそこからさらに二週間ほど前。中谷美弥子が、この部屋の鍵を失くした日その日から、刻一刻と彼女に迫っていたんです。ところで、事件から私たちは、彼女が鍵を“失くした”とばかり言っていましたが、実は彼女は、鍵を失くしたのではない。鍵は、彼女から盗まれたんです。誰に? 噂に上っている、ストーカーの男にです」
「やっぱり、美弥子はストーカーに殺されたんですね」
悔しさを堪えるような表情の秀矢に、吾妻は「残念ながら」と首を縦に動かした。
「教えてください。妹を亡き者にした、その犯人の正体を」
「ほう、知りたいですか」
おどけた声の吾妻に、秀矢は「当然です」と力強く言い切った。
「では、教えてさしあげましょう――とは言っても、実はもう、この部屋にお呼びしているのですがね」
「は?」
呆けた声で言葉を切らした彼を、長身の探偵役者は無言で見つめている。
「どういうことですか、刑事さん。彼は、一体何を言っているのでしょう」
助けを求めるように、傍らに立つ小暮警部と若宮刑事に問いかける秀矢。だが、二人はただ無言で小さく首を横に振った。
「では、ここで事件二週間前からの犯人の行動を遡ってみましょう。ここからは、あくまで私の想像を交えてのお話です」
右手の人差し指をぴんと立て、舞台のセリフめいた調子でロングコートの男は話を始める。
「犯人は、中谷美弥子に一種の支配欲を抱いていました。そのため、普段から彼女の行動を逐一把握していたかった。しかし、犯人だって仕事をしている身です。そのうえ、彼の住まいはここから遠く離れたY県にあった。それに、中谷美弥子に頻繁に連絡を取ろうにも、彼女がそれを嫌がっていた。
犯人の不安は日に日に積もります。もし、自分の知らない間に、彼女に男ができたら。もし、自分の知らぬ間にそいつを部屋に連れ込んでいたら――不安で眠れない夜を過ごしたときも、あるいはあったのかもしれません。
そこで、彼は考えた。自分がいつでも、彼女の様子を見に行くことのできる口実を作ればいいのではないか。あるいは、彼女が自分を頼ってくれるような、そんな状況を作り上げればいいのではないか」
ここで、吾妻は目の前の男に一度、視線を戻す。男は、突き刺すような鋭い視線を吾妻に向けたまま微動だにしない。
「男は、妙案を閃いたと思ったでしょう。早速、その案を行動に移します。まずは、彼女の部屋の鍵を盗んだ。わざわざ休暇をとって、彼女の暮らすこのK県にやって来たんです。彼女の行動パターンをある程度していた犯人にとっては、造作もないことだったでしょうね。因みに、犯人にかつてスリの前科があったことは彼らが確認済みです」
刑事二人を手で示し、吾妻は悠々とした様子で先を続ける。
「次に、犯人は適当に彼女に対しストーカーまがいの行為を行なうことで、彼女に恐怖感を与えます。しかし、仮にも彼女を愛しているが故の行動ですからね。この時点では、まだ彼女を傷つけるような凶行には及んでいません。
ストーカーの影に次第に怯えるようになった彼女は、犯人に助けを求めます。犯人はさぞかし優越感に浸ることができたことでしょう。実在しない架空のストーカーに慄く彼女は、まるで犯人の掌の上で踊る操り人形のよう――勿論、その糸を動かしているのは犯人自身です。
ある意味、それが続けば平和だったのかもしれません。少なくとも、犯人にとっては、ね。
犯人が彼女のストーカーと成り果ててから二週間が経った、その日。犯人は、いつものように彼女の部屋を訪れます。“ストーカーの標的にされた可哀相な妹を心配して訪ねてきた兄”を演じるために」
雨脚が強くなっていた。先ほどよりも幾分声のボリュームを上げ、吾妻は畳み掛けるように言葉を紡いだ。
「部屋に入って彼女を見た途端、犯人は違和感を覚えます。引っ掛かり、と言ってもいいでしょう。いつもの彼女と、何かが違う――犯人は、彼女に問いかける。“お前、何か変わったか”とでもね。彼女は当然、否定します。犯人はどうも納得がいかず、再び同じ質問をする。が、やはり同じ答えしか返ってこない。苛立たしさを募らせた犯人は、彼女の部屋を漁り始めたことでしょう。もしや、男でもできたのではないか。そんな自身の不安を打ち消すために。
しかし、ここが被害者の運命の分かれ道となってしまった。犯人同様、いや、もしくはそれ以上に、彼女もまた怒りを募らせていた。そして、それが爆発した。
彼女は、自分の痛くもない腹をしつこく探る犯人に抵抗した。彼女の、人間として、そして女性としての自由をことごとく奪ってきた犯人が、どうしても許せなかった。中谷美弥子は、自由になりたかった」
中谷秀矢は、頭を垂れたまま沈黙を守っていた。温度のない平坦な吾妻の声が、冷たい部屋の壁に吸い込まれていく。
「犯人は、彼女の人間としての自由という大きなものを奪い取っておきながら、仕舞いには、彼女のその命までもを奪った――中谷秀矢、あんたのその手で、な」
「何で、何で彼女を殺したりなんかしたんです。あなたにとって、可愛くて大切な妹だったんじゃないですかっ」
声を詰まらせながら問い詰める若宮刑事に続き、小暮警部がとどめを刺すように口を開いた。
「Y県からこのアパートまでの最短ルートをいくつか挙げて、そのルートの途中にある全てのガソリンスタンドをしらみ潰しに調べました。高速道路と一般道路の両方を含めてです。すると、事件当日の十二時十分頃、一般道路のY県とK県の県境あたりのガソリンスタンドの監視カメラに、あなたの姿が映っているのを確認しました。迂闊でしたね、凶器の指紋までふき取り、この部屋への出入りも人に見られないよう細心の注意を払っていたのでしょうが。無事に犯行を終えたという安堵ゆえだったのかもしれませんが。
それと、ご両親にも再度、話を伺いました。昔から、あなたは妹想いの兄だったそうですね。彼女が学校で男子生徒に嫌がらせを受けたときには、その男子生徒と喧嘩沙汰になったとか。彼女が高校生のとき、クラスの男子生徒と下校していたところを咎めに行ったとか。あるいは、彼女が大学に進学して化粧を覚え始めたとき、男の目を引く化粧をしないよう、厳しく化粧品を制限したのだとか」
まだ言わせますか、と言わんばかりに、床に座り込み項垂れる男を見下ろす警部。
「あんたの歪んだ支配欲に苦しんだ彼女は、その苦悩を第三者に漏らしていた。そいつの証言まであってなお、あんたは逃げ道をつくるのか。答えろよ、中谷秀矢」
怒気を孕んだ声で犯人を糾弾する吾妻。やがて、沈黙を貫いていた犯人は肩を震わせ、身を捩じらせる。笑っているのだ。
「な、何がおかしいんだよ。あんた、家族を殺しておいて何を笑っているんだよ」
信じられないという声色で叫ぶ若宮刑事に、秀矢は「だって」となおも笑い止まない。
「だってさ。あいつは、美弥子は、俺だけのものだったんだよ。他の男に色目使ったり、他の奴らを頼ったり。俺だけを見ていてくれれば良かったんだ。ずっとっずっと、俺だけの美弥子であってほしかった。あいつにずっと、“お兄ちゃん”って呼ばれていたかった。なのに」
突如笑い止み、今度は泣きそうな顔で長身の吾妻を見上げる。
「なのにあいつは、あの日俺に向かって叫んだんだ。“お兄ちゃんなんか大嫌い。出てって、出てってよ”って――許せなかった。ずっと、ずっと俺が守ってきてあげたのに。俺が、世界のあらゆる悪からあいつを隔離して、守ってあげてきたっていうのに。あいつは、美弥子は、恩を仇で返すようなことをしたんだ」
だから、殺した。それが、男の告白だった。
「でも、あいつは俺が殺した。俺の手で。だから、あいつはずっと、俺のものだ。俺が死んでからだって、きっとあの世で再会できる」
再び嬉しそうに笑い始めた男を、吾妻は冷たい闇を湛えた目で見降ろす。身勝手で、なおかつ自己満足でしかない彼の犯した罪に裁きを下す、断罪者の目だった。
壊れたからくり人形のような男の笑い声は、降りしきる雨の音に紛れ、そして消えた。
「あんたは、中谷美弥子をストーカーしていたんじゃない。ストーカーに怯える彼女を、守ろうとしていたんだな」
カラン、と、軽やかなドアベルの音が店内に響いた。既に二十分ほど前に運ばれてきたコーヒーに、浅田俊樹は手をつけようとはしない。
「図書館の本に針でメッセージを残そうという提案は、あんたが彼女に持ちかけたんだな。あんたが市立図書館で働いているときに、彼女にメモなんかを挟んだ本を渡して。それ以降は、本に残された跡のみで、中谷美弥子と連絡を取り合っていた。次にメッセージを残す本のタイトルも、予め教え合っていたんだろうな。大変だったろう、あんな見えるか見えないかの跡をページから見つけ出すのは」
饒舌な吾妻に、だがやはり、浅田は首を竦めるようにして俯いたままである。
「彼女のアパートに行くのに雨の日を選んだのは、やはり目立たないようにするためか。それとも、雨宿りという口実を持たせることで、いざってときに真の理由をカモフラージュさせるためか」
まあ、どちらでも構わんが――肩をちょいと上げて、すっかり冷めたコーヒーに口をつける。
「逆に、ストーカーだと怪しまれてしまったんですね」
不意に、浅田がぽつりと漏らした。吾妻は「そりゃそうだろう」と呆れ声だ。
「でも、それでもよかったんです。少しでも、彼女の役に立ちたかった」
「だが、彼女は殺されてしまった。しかも、ストーカーの正体は彼女の兄だった」
「悔しいです。現状を知っていながら、僕は何もできなかった。何も、彼女のためにできなかった」
「本当に何もできなかったのか。考え方は、あんた次第だけどな。因みにだ、刑事さんが根気よく聞き込みを続けた結果、中谷美弥子が何故か、雨の日に限って退社前に化粧直しをしているところを目撃していた、という社員の証言があった」
テーブルの上には、中谷美弥子の遺品となってしまった口紅が置かれる。吾妻の言葉に、浅田は顔を上げると「それは、どういうことですか」と縋るような声で問う。だが、返ってきた答えは「自分で考えろ」というものだった。
「あんたが今までのことをどう受け止めようとも、それはあんたの自由だ。ただ」
「ただ?」
「いつまでも過去の中で雨宿りしてたんじゃ、何も変わらないし、誰も救われない」
どういう意味ですか、となおも問いを重ねる男に、吾妻は返事もせずに席を立った。コーヒー二杯分の伝票を握った片手を、ちょいと振る。
雨が止んであんたが動くんじゃない。あんたがその一歩を踏み出さなきゃ、雨はいつまでだって降り続く。
推理作家が最後に言い残した言葉を反芻しながら、男はぼんやりと窓の外を眺めていた。先ほどまで降り続いていた雨はいつの間にか小降りになり、道行く人は開いていた傘を閉じる。黒のロングコートに水飛沫を飛ばす影が、段々と小さくなっていく。鉛色の雲がナイフで切り込みを入れたように裂け、そこに一筋の光が差し込んだ。
店内のテレビが、天気予報を伝えている。日本列島に長らく滞在した雨雲も去り、明日以降は太陽を拝める日が続くだろうということだった。
立て続けの投稿、失礼します。
いつもよりやや文字数が多かったため、最後の見直しで力尽き、ややおざなりになってしまっている部分もあるかもしれません…誤字脱字、その他推理の過程に穴を見つけられたら、ご指摘ください。