ぴざでり
「お電話ありがとうございます。韋駄天ピザ808号店、担当の東雲がご注文を承ります」
韋駄天ピザ808号店の電話口で、東雲あざみが注文を取る。
少し栗色がかった髪の色、透き通るような白い肌、茶色い瞳、髪を右で結わえたボブカット、そして韋駄天ピザの赤白のチェックの制服とサンバイザー。それが彼女の姿だった。
韋駄天ピザ808号店はJR東中野駅改札から出て左に進み、坂を下ったところにあった。
彼女は受けた注文を紙に書き留める。メールでピザが注文できるこのご時世、この店は未だにこのようなアナログでアナクロな手法をとっていた。
「韋駄天スペシャルエクストラチーズアンチョビ抜きLサイズ、オーダー入りました!」
彼女は厨房に元気な声で注文を伝えた。そして、注文を書き留めたメモ紙を厨房の目立つところに貼り付けた。
「あいよ!」
この店のベテランピザ職人、東海林多佳が元気よくこたえた。長髪を後ろで束ね、無精髭をたくわえ、190cmもの長身と鋭い目を持っているのが彼の姿だった。それはピザ職人というよりは陶芸家といった雰囲気を持っていた。
彼は、発酵させておいたドウを麺棒で伸ばし、ある程度広がると、ドウを高く回転させながら真上に放り投げ、遠心力でドウを広げていった。そしてきっちり直径35cmの大きさに伸ばすと、ピザソースをドウに広げ、トッピングをしていく。最後にこれでもかとばかりにたくさんのモッツァレラチーズをふりかけ、ピザ焼き窯に投入した。
韋駄天ピザは、一応チェーン店なのだが本格派で、ピザ焼き窯はナポリで職人によって作られたものを使っている。火力は窯にくべられた薪によってまかなわれている。窯焼きピザのいいところは、予熱で焼き、窯全体にまんべんなく熱が通るため、遠赤外線効果でピザに全体的に熱が行き渡り、生地の外側はパリっと、中はもっちりと仕上がるところである。
多佳は微妙な頃合いを見て焼きあがったピザを窯から取り出した。出来立てのピザは溶岩のごとくチーズがプチプチとはじけていて、いかにも旨そうである。
「ちょっと切ってみろ」
多佳は新人の東方雄二に言った。雄二はひょろっとした体型で、眼鏡をかけおり、いかにもひ弱そうだが、生真面目な性格がうかがい知れるみてくれだった。彼はローラー型のピザカッターで、出来上がったピザに切れ目を入れた。
「こんなもんでどうっすかね?」
「ま、そんなところだな。韋駄天スペシャルエクストラチーズアンチョビ抜きLサイズあがったよ!」
多佳を聞いたデリバリー係の東進は箱詰めしたピザを受け取った。進は、某バトルマンガに出てくるようなツンツン頭で、右頬にはちょっと目立つばってんの傷があった。そして、傷を負った右目には角膜が移植されており、右と左で眼の色が違ういわゆるオッドアイだった。しかしそのようなエキセントリックな顔立ちに似合わず飄々とした印象を持ち合わせているのである。
「トッピングこぼすなよ」
「了解」
進は多佳から受け取ったピザの箱を、ピザバッグに入れ、バイクがある店のガレージへと進んだ。彼はなぜかピザバッグを荷台のボックスには入れず、ボックスの上にある金具に留めた。
進はバイクのキーを回し、セルでエンジンに火を入れた。すると人工知能を備えた音声ナビ付きカーナビが起ち上がり声を発する。
「マシン異常なし。現在山手通り混雑の模様。進路クリア」
「時計合わせよし! レディー!」
「スリー、ツー、ワン、ゴー!」
進はスロットルを全開にすると、ホイールスピンをさせながら道路に出た。
韋駄天ピザ808号店を出発してすぐの直線で、強烈な蛇行運転を繰り返し、どんどん車を追い抜いていった。そしてコーナーに差し掛かると、車体を傾けハングオンで右折した。鉛の入ったニーパッドとバイクのマフラーがアスファルトをこすりつけられ、火花が散った。
交差点に差し掛かると、信号は赤のままで、横断歩道に多くの歩行者がいたが、進はためらうこと無くアクセルを全開にし、前輪を持ち上げた。すると200㎏の車体が浮き上がり、歩行者達の頭上を飛び越していった。飛び越えられた歩行者の女性はたまらず悲鳴を上げる。
道端にある自動販売機のそばでは、二人の白バイ隊員が缶コーヒーを飲みながら休息をとっていた。
「おい、なんか変な音が聞こえないか?」
「え? そうか? 空耳じゃねぇのか? それより交通課のミキちゃんとは昨日どうだったんだよ?」
「それがよぉ、聞いてくれよ」
と白バイ隊員二人がくだらない話をしていると、一陣の風のように進の乗ったバイクが時速150キロで通りぬけ、その衝撃で二人は飲みかけの缶コーヒーをしこたま顔にかぶった。
「くそ! またあいつかぁぁぁ!」
「あのピザ野郎!」
「今度こそとっちめてやる」
「国家権力をなめるなよ!」
二人は飲みかけた缶コーヒーを投げ捨てバイクに乗り込み、サイレンを鳴らしながら進のあとを追った。
「警察追跡中。規模、白バイ二台」
進のバイクに搭載されたカーナビが警告音を鳴らしながら進に告げた。
「はぁ。面倒クセェな。逃走モード!」
進がカーナビに告げると、バイクのナンバープレートが収納され、車体に描かれた店のロゴが隠れた。
そこに白バイ二台がついてきた。
「そこの原動付き自転車、止まりなさい! 止まりなさいったら! だから止まれっつってんだよ!」
「無駄だよ、無駄無駄、仕事だ」
白バイは進のバイクに追い付いてきた。白バイは進に体当たりをしかけるも、進のバイクは二台の白バイの猛攻をひょいひょいとかわす。
「クソ、埒が明かねえ。おい、例のやつ行くぞ!」
「了解!」
白バイ二台は進を挟みこむように並走する位置についた。そして、白バイは少し進のバイクから離れると、挟み撃ちを仕掛けてきた。
「行くぞ! せーのっ!」
その瞬間を待っていた進は白バイ隊員たちに一度左手で敬礼をすると、ニトロをエンジンに吹き込むボタンを押した。
「き、消えた!?」
「やばい!」
進は信じられないような急加速で走り去り、目測を誤った白バイ隊員たちは衝突し、二台とも道路に積まれていたゴミの山に突っ込んだ。白バイ隊員たちは頭からポリバケツをかぶっていた。
「だしてくれー! 暗いよ狭いよ怖いよー!」
一方、韋駄天ピザを注文した家。
「ねえ、進お兄ちゃんのピザ頼んでくれた?」
「うん頼んだよ。ねえ、そんなに進むお兄ちゃんって格好いいの?」
「うん、すごくかっこよくてはやいんだよー。でねー、進お兄ちゃんのお店のピザはすごくおいしいんだよ」
「でも、せっかくのお誕生日なのに、まあ子、ピザなんかでいいのか?」
「いいの! まあ子、進お兄ちゃんのとこのピザ食べたいってずっと決めてたの!」
「もっと美味しいごちそうとかお母さんが作ってくれるのになー」
「いいの! 進お兄ちゃんのピザがいいの!」
「お母さんのご馳走の方がおいしいのになー」
「いいの! お母さんのご馳走は夕ごはんだからいいの。」
「ははは、まあ子は欲張りだな。お母さんに似て」
「まあ」
いかにも幸せそうな一家はみんなで笑い合う。
すると呼び鈴が鳴った。
「進お兄ちゃんだ!」
「おいおい、いくらなんでもこんなに早くは来ないよ、まあ子。どうせ新聞の勧誘かなんかだろう。母さん、適当にあしらってきなさい」
「絶対進お兄ちゃんだってば!」
「はいはい」
母親は玄関まで行った。
「はーい、どちら様ですか?」
するとそこには満面の笑みをたたえた進がピザバッグを持って立っていた。
「お待たせいたしました。韋駄天ピザです。ご注文のピザをお届けに上がりました」
すかさずまあ子が玄関まで駆け寄ってくる。
「進お兄ちゃんだ!」
まあ子の母親は呆気にとられていた。
「あ……あの……」
「どうかなさいましたか?」
「あのね、まだね……注文してから五分くらいしか経ってないから……」
困惑する母親をよそに、進はまあ子に微笑みかけた。
「お、まあ子ちゃん、お誕生日おめでとう! これ、僕からのプレゼントね」
進はそう言ってジャケットの中から小さな花束を取り出すと、それをまあ子に差し出した。
「ありがとう! 進お兄ちゃん! あのね、進お兄ちゃん、幼稚園でね、お守りを作ったの。これあげる」
とまあ子が紙で作ったお守りを進に渡した。お守りには『こうつうあんぜん』と書かれてあり、進は少し引きつった顔をした。
「ははは、まあ子ちゃん、ありがとう」
「すいませんね、こんなことまでして頂いて。でもこんなに早く来るの大変でしたでしょう?」
「いやあ、それぐらいどうってことないですよ。うちはどこよりも早く届けるのが信条ですから。まあ、ちょっとしたショートカットがあるんですよ。途中で、白バイ……いや、道が混んでいたもので、すこし遅くなってしまいましたが……でもほら」
と言って進はピザの箱を開けた。まだピザのチーズがプチプチと弾けていた。
「まあ!」
***
そのころ韋駄天ピザ808号店の厨房では多佳と雄二が仕込みをしながら話をしていた。
「多佳先輩、さっきの人、進さんでしたっけ? あの人のバイク、ホントに原付きなんですか?」
「おう、おめぇは新人だから知らねぇのも無理はねぇな。あいつはな、うちの『飛び道具』なんだよ。」
「トビドウグ?」
「おうよ、うちの名物てぇところかな。ほら、一応うちのチラシには30分以内に届けるって書いてあるだろ? それが、あいつのお陰で、調理時間も含めてほとんど5分以内で届けちまうんだよ。」
「ゴ、5分だって!?」
雄二は手を止め多佳の方を向いた。
「無理だと思うだろ? 普通だったら無理だ。でも奴は違う。まず、あいつが使ってるバイク、あれははっきり言って原付きなんて代物じゃぁない。何しろ1000ccのエンジンを積んでんだからな。詳しいことはよくわからんが、何でも∨型4気筒、ツインカムスーパーチャージャー付きで、ニトロも積んでるとか何とか奴は嘯いてたっけな。おまけに人工知能を積んだ音声入力式GPSカーナビもついてやがる。それに……」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! おかしいですよ! 大体どうやって1000ccのエンジンをデリバリー用の屋根付き原付バイクに積むことができるんですか?」
「まあ普通はおかしいと思うよな。でも、あいつ、ピザ運ぶ時、普通使っているピザ用の荷台ボックス使っていたか?」
「そういえば使っていなかったような……」
「そのピザ用の荷台ボックスがエンジンルームになってるんだ。そうするとどうやってピザを運ぶか、それが問題になってくる。はじめの頃、あいつぁそのままエンジンルームにピザ入れて運んで大失敗をやらかしたんだ」
***
ピザを頼んだ客の家の玄関で、進は黒焦げになったピザを前にして呆然としていた。
「……」
「……」
「あの、僕、イカ墨ピザは頼んでないんですけど……」
「そ、そうですか……ですよね……ハハハ」
進は顔を引きつらせながら空笑いしていた。
***
「ギャハハハ」
「馬鹿な話だよ。あいつは時々そういうおマヌケなことをやっちまうんだよな。まあ、そういう教訓から、荷台ボックスの上にピザバッグを取り付けられるアタッチメントを付けて、配達してるってわけだ。しかし、ホントにすごいのは奴のテクニックだ。あんな化け物を自分の手足のように使いこなしちまうんだからな」
「……でも、それって完全に違法改造っすよね?」
「まあ……そういうことになるかなぁ。でもうちの店長はおおらかな人だから」
「おおらかって……そういうことですかねぇ?」
与太話をしている二人の後ろから店長の東雲源右衛門が近づいてくる。やや薄くなった頭髪で中年太り、さらに着古したオーバーオールと言った風体は豪快な中にどことなくユーモラスな印象を与えていた。あざみの父親でもあるが、あざみは完全に早世した母親似なので、将来このような姿になることはないだろう。
源右衛門は後ろから多佳と雄二の肩を抱き込むように叩いた。
「おお、やっとるな、新入り。いいか、ピザ作りはなんてったって早さが命だからな。サッとドウを伸ばし、サッと強火で焼き上げる。一辺に二枚くらいは作れるようになってくれよな。多佳、ちゃんとドウの伸ばし方教えたか?」
「へいっ。店長の直伝を」
「よしよし。雄二、ちゃんとわかったか?」
「はいっ。ちゃんと教わりましたであります!」
「よしよし、元気があってよろしい。頑張ってくれよ。グワッハッハッハ」
店長が二人の肩をバンバンと叩くと、雄二はその強さに押されてよろめいた。そして店長は奥へと引っ込んでいった。
「いやあ、いつも店長には圧倒されますね。とんだところにはいっちゃったなぁ」
「普段はああだけど、あの人の作るピザは芸術品だ。俺なんか足元にも及びやしない。まあ、お前もそのうち食べる機会があるはずだ。お、野郎もうけえってきやがったな」
進がバイクで戻ってきたのか、ブレーキが軋む音が店の外から聞こえてきた。そんな進をあざみが出迎えた。
「お帰り、進。さっきのどうだった?」
「えーと、3分25秒……」
進は決まりが悪そうに答えた。
「そう、まあまあってとこね」
「いやあ、途中で後ろから白いの来ちゃってさ」
「あら、またやらかしちゃったの? ちょっとまずいですねぇ。くれぐれも安全運転ね」
「そう、安全運転!」
二人は仲睦まじげに笑いあった。
「進さん、すごいなあ。あの人がいるおかげでデリバラー一人で済んじゃうんだもん」
「まあな」
多佳はピザ生地のトマトソースの仕込みをしながら生返事をした。
「それより、多佳先輩、あざみさんのことどう思います?」
雄二は小声でたずねた。
「どうって?」
「だーかーらー、あざみさんってなんていうか、僕の好みのタイプなんですよね。優しくってきれいで、スタイルいいし、細かいところまで気が利くし……なんちゃって……ははは……」
すると多佳は咳払いをして答えた。
「雄二、老婆心ながら一つ忠告しておこう。……野暮なことは考えるな」
と言うと多佳は親指を進とあざみの方に向けた。
進はまあ子にもらったお守りを取り出してあざみといい雰囲気で笑い合っていた。
「そっかぁ……ご予約は既に締め切られていましたかあ。がっかりだなあ。はああ……せんぱーい」
「なんだ?」
「失恋レストランってどこにあるんですかね?」
「バカヤロ! くだらねえこと言ってねえで仕事しろ! 古いこと言ってんじゃねぇ! 俺よりずっと若いくせに」
進達が働いているピザ屋はとても変わっている。はっきり言ってこの店は変だ。同じフランチャイズ店でも、他の店舗は、オートメーション設備を取り入れたり、メールでの注文を受付けているというのに、この店ときたら手間を惜しまないハンドメイドだし、やってることはむちゃくちゃだ。
雄二は思った。こんな非常識がまかり通る店があって良いものなのか? しかしそのような違和感にもかかわらず、彼はすぐにこの店が好きになった。近所での評判はすこぶる良いらしい。先輩の多佳は厳しいけれどいろいろなことを知っていて勉強になるし、店長はとってもお茶目で豪快で見ていてスカッとする。店長の娘のあざみはきれいだ。そして、進は破天荒なヒーローのようだ。
しかし雄二には疑問があった。なぜ進はあそこまで速さにこだわるのか? あれだけの運転テクニックがありながら、なぜ一介のピザリバラ―に甘んじているのか?
その答えは程なくして分かった。彼らのぬるま湯のような日常に冷水を浴びせかける、あの出来事とともに。
***
源右衛門宅午前2時。
急にけたたましく電話が鳴った。
「ったく、何時だと思ってるんだ?」
源右衛門は寝ぼけ眼をこすりながら電話に出た。
「はい、東雲です。はい……はい……え!?」
源右衛門は受話器を落とすと、後退りして、へたりとその場に座り込んだ。
「あいつが……あいつが……」
「もしもし? 東雲さん? 東雲さーん?」
静まり返っていた源右衛門宅に受話器の向こうからの声だけがこだましていた。
その日、韋駄天ピザ808号店の店先には「本日臨時休業」の看板が掲げてあった。
そこへ雄二がやってきた。
「あれ? 今日シフト入れといたはずなんだけど……」
雄二が店の中を覗きこむと果たして808号店のいつもの面々がいた。
「なんだ、みんないるじゃん」
雄二は店の中に入った。
「おはようございます」
「おお、雄二か。びっくりしただろ?」
「一体どうしちゃったんすか?」
「今日の明け方、東出グループの社長が亡くなったんだって」
あざみが答えた。
「東出ぐるーぷ?」
「韋駄天ピザチェーンの元締めだ」
進が答えた。
「うちのパパ、その社長さんのお通夜に行ってるの。でもいくら会社のトップが亡くなったからといって、店長程度の人がお通夜まで行くかしら?」
「それはちょっと変ですね」
店の面々の間にはなにやら重たい空気が流れていた。
***
一方、通夜が行われている東出郁三宅。
長尺な鯨幕が豪邸の周りを覆っており、掲げられている大量の花輪が生前の郁三の影響力を物語っていた。
源右衛門は霊前の郁三の遺影を目の前にして、しばらく呆けていた。
「しけた面しやがって……なんで……なんで死ぬ前に死ぬって一言言ってくれなかったんだ……」
源右衛門は焼香を済ませると、通夜の席を外れ、人のいないところでしばらく星空を眺めていた。
「東雲さん! 東雲さんじゃないですか!」
源右衛門が自分を呼ぶ声の方を向くと、そこには郁三の一人息子、京介が立っていた。ブリーチした髪ををオールバックにし、いかにもチャラチャラとしたイタリアものの白いスーツを着崩し、ネクタイをせずに襟を開けている、一見チンピラ風情の姿……それが京介だった。周りには黒服にサングラスのいかつい男たち数人が取り巻いており、厳かな通夜の雰囲気には到底似つかわしくなく、世が世なら『傾奇者』とも呼ばれる、そんな感じだった。
「! ……坊っちゃん、坊っちゃんじゃありませんか!」
「ハッハッハ、大の大人に坊っちゃんはやめてくださいよ、東雲さん」
「これは大変失礼いたしました、京介様。しかし、すっかりご立派になられました、この度はさぞ……」
「それは東雲さんとて同じことでしょう。生前、父からは東雲さんのことは色々と聞かせていただきました」
「あいつ……いや、お父上には本当に色々とお世話になっておりました。あんなに元気だったのにこれほど急にお亡くなりになるとは……」
「まあ、人間はいつか死ぬものです。済んでしまったことをいつまでもくよくよ思っていても仕方ありません。これからは不肖東出京介が東出グループの社長として頑張っていく所存であります。」
(父親の通夜の日にもう自分が社長などと……)
「それでは失礼致します」
京介は一礼して立ち去る。と、源右衛門も深々とお辞儀をした。
すると京介は突然立ち止まって、振り返った。
「東雲さん」
「はい」
「これからもまた色々とお世話になりますよ、ハハハ」
源右衛門は、京介が不敵な笑みを浮かべていたのを見逃さなかった。
(あの小僧、何を企んでるんだ?)
***
数日後、韋駄天ピザ808号店で、進がデリバリーから帰ってくると、他のメンバーは作業を止めて、店で座っていた。
「ちょっと、進、大変よ」
「あれ? なんで皆仕事しないの? ひょっとして今日はもう閉店?」
「その通りだ!」
いつも明るい店長が大真面目な顔をして答えた。
「……いったいどうしたんですか?」
「いいか、今日これから社長がお見えになる」
「社長って、前の社長の息子さんですか? どうして……」
「よくはわからない。極秘事項らしくてな。ただその用事というのはわしではなくお前にあるらしい」
「!」
進は驚きとともに嫌な予感を覚え、表情を曇らせた。
(進さん、やっぱりわけありなんだ)
雄二は心のなかで思った。
「ともかくみんな座って待っていてくれ」
店内に不穏な空気が流れる中、店の前に黒いリムジンが停まった。リムジンから東出京介が姿を表し、黒服の取り巻きとともに店内に入ってきた。
「こんにちは。皆さんお揃いで。お仕事ご苦労さまです」
店長以下、韋駄天ピザ808号店の店員全員が社長に向かって深々とお辞儀をした。
「社長、今日はどのようなことでいらっしゃったのですか?」
「まあまあ、そう話を急かさないでください。これから、私は長い台詞があるので、ちょっと緊張しているのですよ。それでは」
京介は咳払いをして続けた。
「ええ、皆さんも御存知の通り、私の父であり東出グループの前社長であった東出郁三は数日前天に召されました。父は非常に勤勉実直な男で、裸一貫からこの東出グループを一代にしてここまで築き上げました。東雲さん、貴方の力を借りて」
一同は源右衛門の方を見た。
「父は貴方の類まれなる料理の才能を助けに試行錯誤を繰り返しました。そしてこのような大企業を作り上げた」
「ちょっとまった! 一つ聞きたい事がある。だったらどうしてそんな人を支店の一店長に押しとどめたんだ?」
「多佳、やめろ! それはわしの望みだったんだ。わしはどんなに店が、会社が大きくなろうと一人の料理人として生きていたかったのだ」
「まあそういうことです。うーん、しかしその横槍は演出上いらなかったかな? ともかく、父と東雲さんのお陰で実質的な企業価値は非常に良い水準まで達しました。あとはこれをいかに維持し、成長させていくかが問題です。そこの君、この後どうすればいいと思う?」
急にふられた雄二はびっくりしながらも答えた。
「え!? ぼ、僕ですか!? ええと……ええと……広告や宣伝効果をあげる、所謂プロモーションに力を入れる……なんてどこでもやってますかね」
「正解! 君はなかなか頭が冴えてるねえ。就職活動の時はぜひいらっしゃい。しかし、父は今までそのようなことを怠ってきました。そこに新社長である私がメスを入れたいと思っているわけです。じゃあもうひとつ聞こう。私がこれからやろうとしているプロモーションがどんなことかわかるかな?」
「え? また僕ですか? うーん……なにか大きなイベントを開催する……なんてことは普通思いつきそうだしなあ……」
「またまた正解! まさしくその通り。そしてその具体的な内容は?」
「うーん、そうですね。デリバリーピザの最大のポイントである早さにこだわり、バイクのレースにレーサーを投入す……る……って」
と、そこで雄二は進をチラッと見るやはっとして、京介のペースにのせられたことに気づいた。
「大正解! 3ポイントゲットで勝ち抜け決定! 君、大学卒業したら絶対うちの就職試験受けなさい。すぐ重役になれますよ。まあそういったわけでいささか唐突ではありますが、うちのデリバラ―で有能な者を鈴鹿の八時間耐久レースに投入することに決めました。そこで出番になるのが……」
「わかった! 進ね」
「ピシャリ、その通り!」
「社長、いい加減にしてください。ウチから大切な人材を引き抜かないでください!」
「パパ、どうして? 進だったら絶対いいレーサーになれるわよ」
「お前は口出しするな!」
「まあまあ、職場で親子喧嘩はやめましょうよ。東進さん、失礼ながら貴方のことを調べさせてもらいました。汚いことだとはわかっています。でもこれが私の役回りですから。あなた、この店で相当派手なことをなさっているみたいですね。なんでも調理時間含めて5分でピザを届けることができるとか。まあ、それもそのはず、かつて貴方は鈴鹿八耐の本物のレーサーだった」
京介の口から発せられた衝撃の事実に808号店の面々は言葉を失った。
「かつてバイクレースの世界に彗星のごとく現れた一人の天才レーサーと一人の天才メカニックマンがいた。そのコンビはあらゆるレースで次々と優勝を勝ち取ってきた。しかし、そのレーサーはある事故をきっかけにレース界から忽然と姿を消してしまった。それが貴方です」
「……」
「そしてその事故というのが……」
「やめろ! もうやめてくれ! レースだって? そんな茶番に俺を巻き込まないでくれ!」
「……なるほど。そうですか……貴方の気分を害してしまったことにはお詫びいたします。が、社長である私のたっての願いを聞き入れてもらえないのであれば話が変わってきます。『じゃあ、君、クビね』、と普通の社長なら言ってしまいますが、それではこの物語は終わってしまいます。それではドラマとしてあまりにも面白くありません。かつてシェイクスピアは、この世界を劇場にたとえ、我々人間はその舞台でドラマを演じる役者だといいました。そうですね、このドラマを盛り上げるために一つ、新しい場面を設けましょう。そう、ゲームをするというのはどうでしょう?」
「ゲームだと?」
「そう、ゲームです。拙宅に30分以内にピザを届けてください。貴方にとっては簡単な事でしょう。無論私が今台本に手直しをしてできた場面ですから、何が起こるかわかりませんが。もし貴方が勝てば望み通りとりはからいます。が、貴方が負ければレースに出ていただきましょう……それが聞き入れてもらえないのであれば、貴方を即刻解雇の上、貴方の交通違反記録を警察にリーク。こんなところでどうでしょう? 日取りは一週間後。それまで熟考に熟考を重ねてください。それでは私は失礼致します」
京介は取り巻きとともに店を後にした。
店の中にはしばし重たい空気が流れた。
どれくらいの時間が経ったであろうか。進は意を決したように荷物をまとめ始めた。
「店長、今まで本当にお世話になりました。後のことはよろしくお願いします」
店長は進を静止するわけでもなく、ただ黙って頷いた。
「ちょっと、どこ行くの?」
「僕はこのままではみんなに迷惑をかけてしまう。だから黙って消えるんだ」
「どうして……わからないよ、こんなチャンスめったにないのよ。どう転んでも貴方はレースに出場できる。それはあなたにとってチャンスじゃないの?」
あざみは目を充血させながら言った。
「悪いけど、もう行かなきゃ」
「逃げるの? 東進って言う男はそんなに意気地がないの? あんなゲームがなんだって言うの? 挑戦を受けるのを決めることすらできないの? そんなの男じゃないわ」
あざみの言葉が進の心に耐え難いほど深く突き刺さった。
「お前に何がわかる!」
「えー、わかるもんですか。そんな簡単な事もできない進の気持ちがね!」
「俺も見損なったね、おめーがそんな肝のちいせー野郎だったとは」
多佳があざみに続いて言った。
「進さん、社長の挑戦を受けてくださいよ」
店のみんなから責められている気がして、進は今すぐその場から消え去りたい気持ちになっていた。
「おい、みんな。もうそのへんで勘弁してやってくれ。誰だってできることとできないことがあるんだ。進はただ、これが自分に取ってできないと判断しただけなんだから」
進にとって店長の言葉が唯一の救いだった。
すると、あざみは進のところまでつかつかと歩いて行きおもいっきり頬をはたいた。
「弱虫! あんたみたいなバカなんかどこにでも行っちゃえばばいいのよ!」
あざみは目から水滴をこぼしながら店の奥へ走って引っ込んでいった。
進にとっては、はたかれた頬の痛みより心の痛みのほうがよっぽど耐え難かったが、それでも決意は固く、黙って店をあとにした。そして、店の外からは進のバイクが音を立てて遠ざかっていくのが聞こえた。
突然激しい雨が降りだした。
「店長、進のこと何か知ってるんじゃないですか?」
多佳は改まって店長に聞いた。
次第に雨脚が強くなっていく。
「……腹、みんな腹減ってないか?」
「また、店長唐突だなぁ」
「ピザでも作るか。おい、あざみ、進ならもう行ったぞ。そんなところに隠れていないで出てこい。ピザ作るからコーヒー淹れてくれ」
あざみは目を赤く腫らしながら出てきてふてくされながらコーヒーの準備を始めた。
源右衛門は芸術的な手さばきでピザを焼き上げた。その様はまるで舞を踊っているかのようだった。あっという間にピザが焼きあがった。
源右衛門はサッと焼き上げたピザをテーブルに置き、店のみんなはそれを囲んだ。
源右衛門の焼いたピザはチーズとペパロニだけのシンプルなものだった。
「なんてうまいピザなんだ。今まで食べたピザは一体何だったんだ」
「店長のピザを食べるたびに自分の腕の無さを痛感してしまう。しかしこの雄弁な味わいの前ではそんなことはどうでも良くなってしまう」
「そう、パパのピザはずるいんだ。魔法がかかってるから。ママが死んじゃった時、泣き止まない私にピザを焼いてくれた時もそうだった」
源右衛門のピザを食べることで、店のみんなは冷静さを取り戻した。
「みんな腹の塩梅がよくなったところで、知りたがっていることを話そう。進はな、あのボンボンが言っていた通りレーサーだったんだ。そしてあいつには素晴らしいパートナーがいた。天才的なメカニックマンであり、そして進にとっての無二の親友であった東条正也という男だ。進はレースの時に事故を起こして、東条ってやつを死なせてしまったらしい。進も目を怪我して、その東条ってやつの角膜を移植したらしい」
「そうか、それで奴はレースに出ることができなくなっちまったのか」
「そう、しかし、走ることしか脳のないあいつはレースから足を洗ったあと、すっかり腑抜けになっちまって、そらぁ酷い生活をしていたらしい」
源右衛門はコーヒーを一すすりすると嘆息し、降りしきる雨の音に耳を傾けた。
「ある日のことだ。あれはそう、今日みたいな嫌な雨が降る夜だったな。あいつはいつもの様に飲んだくれて泥酔した挙句、無一文になって店の前に倒れていたんだ。
***
店長はその日、店を閉めようとシャッターをおろそうと店の外にでてみると、道に倒れている男を見つけた。
「行き倒れか? おい、若いの、しっかりしろ! ったくしようがねえな」
店長は男を担いで店の中に入れ、テーブルに座らせた。
「おい、大丈夫か?」
「腹が……三日前から……何も……」
「何? 腹が減ってるのか? ちょっと待ってろ」
店長は急いでピザを数枚焼いて男に振る舞った。
「ピ……ピザ……か?」
「どうした、若いの。ピザは嫌いか? 遠慮するこたぁねえぞ」
すると、男はピザをむさぼり食いだした。そして、あっという間に数枚のピザを平らげた。
男は自ら東進と名乗った。腹が満たされたからなのか、進の頬には生気が戻ってきたようであった。
「へえ、見事な食いっぷりだな」
「ありがとうございます。でも俺はお金が……」
「んなこたぁ気にすんな。それより立ち入った言を聞くようだが、相当荒んだ生活をしているみたいだな。訳がありそうだが……」
「……」
「仕事なにやってんだ?」
進は首を横に振った。
「どうだい、うちで働く気はないか?」
「え?」
「何、大したことじゃない。ただバイクでピザを届けてくれりゃいいことだ」
「バイク……」
「あ、そうか、バイクってのは免許がいるんだったな。お前さん免許は持ってんのか? 見せてみな。なんだ、大型とってんじゃねぇか。うちは原付きだ。赤ん坊だって運転できる」
「本当にいいんですか? こんな俺のような人間を……」
「そらぁ大歓迎だ。何しろこっちは人手不足でな」
「ありがとうございます! この御恩は一生忘れません。ありがとうございます」
進は源右衛門に泣きながら抱きついた。
「こらこらよせよ、きたねぇな。風呂でも入って来い」
***
源右衛門の昔話が終わる頃にはコーヒーカップは空になっていた。
「へえ、そんなことがあったんですか」
「あいつはあれから猛烈に働いたよ。よっぽど恩を感じたみたいだな。こんな骨のある奴は今時珍しいくらいに思った。ちょうど昔の俺と前の社長ががむしゃらに働いていた時みたいだったな」
雄二はあざみがうなだれていることに気がついた。
「あざみさん、どうしたんですか?」
「あたしってなんて嫌なやつなんだ。気がついたら進が店にいて、普通に働いていて、それが当たり前だと思っていたけど、進の言う通り、私、何も知らなかったんだ。なのに……あたしったら……あたし……」
あざみは声を上げて泣き崩れた。
「こらこら、振り出しに戻るんじゃない」
雄二は自分ができる最大限の優しさを振り絞ってあざみに言った。
「あざみさん、人って気持ちが伝わらない時のほうが多いと思います。すれ違いの連続なんです。不器用な人のほうが多いんです。だから不器用な人なりのやり方でいきましょうよ、不器用なりのやり方で」
その日の夜はみなすぐに眠りにつくことができなかった。心も体も疲れきっているはずなのに。どんなに忙しい日よりも疲れているはずなのに。
それから数日が過ぎたが進は戻って来なかった。
***
鈴鹿八耐レース、進は苦戦していた。マシンも悲鳴を上げていた。
「進、もう棄権しよう。このままだとマシンがもたない!」
正也は進に苦渋の決断を迫った。
「何言ってるんだ! もう少しでトップだ。俺達の夢が叶うんだぞ。よし、出る!」
進は正也の制止を振り切り、ピットをあとにした。
「進ー!」
進のバイクは前半で遅れた分を取り戻しつつあり、トップグループに迫りつつあった。
しかし、マシンは限界だった。ブレーキのトラブルが起こったのだ。
「クソ! こんな時に……ピットに……」
再び進はピットインしようとする。しかしブレーキが利かずに止まれない。
「止まれ! 頼むから止まってくれ!」
すると、目の前に正也がマシンを止めるために飛び出してきた。
「おい! 正也! 何やってるんだ! どけ! やめろ! やめろー!」
「はあ、はあ、はあ……クソ! またか! 畜生。しばらく見てなかったのに……」
進は夢から覚めると、ベッドからがばっと起き上がった。
進はサイドテーブルの引き出しからレンズの割れた眼鏡を取り出した。それは正也の形見の品であった。
「俺は、レースから足を洗ってよかったのだろうか?」
不意にあざみに言われた『弱虫』という言葉が頭をよぎった。
「そう、俺は弱虫だ。弱虫……のままでいいのか?」
進は正也の眼鏡を握りしめた。
***
進が店に来なくなり、店のみんなの胸にはぽっかりと穴が開いたようだった。
約束の期限まであと一日になっていた。
店内には電話が鳴り響いていたが、呆けているあざみはその音に全く気がついていなかった。
「あざみ、おい、あざみ、電話だぞ! ったくもう」
あざみのかわりに多佳が電話に出た。
「お電話ありがとうございます。申し訳ありませんが、ただいまデリバリーを中止しておりまして、はあ、その代わりお持ち帰りですと半額になりますが、はい、そうですか、申し訳ありません」
多佳は肩を落として受話器を置いた。
「ったくこの有り様じゃあ、ピザなんて作れやしねぇ。電話は出ねぇは、運ぶやつぁいねぇ。どいつもこいつも何考えてやがるんだ。このままじゃこの店も潰れちまうぞ。そうでしょう、店長?」
「……そうだな。おい、あざみ、ちょっと外の空気吸ってこい」
「でも、パパ……」
「もやもやしてたら仕事なんかできないだろう」
「あたし、どうしたら良いか……」
「お前が行かなきゃいけないところは、一つしかないんじゃないのか?」
あざみははっとした。なんでそんなアタリマエのことに気づかなかったんだろう? 自分の鈍感さを恨んでいる暇はなかった。
「パパ、あたしちょっと出かけてくる!」
あざみは鉄砲玉のように店から飛び出していった。
***
進は寂れたアパートの一室で久々に酒浸りの生活に戻ってしまっていた。
酒を飲んではぼんやりと天井を眺める。そんな中時間だけがいたずらに過ぎ去っていった。
「正也。お前は俺のために死んでくれた、しかし、俺はお前のために何をしてやればいいんだ? 何をして償ってやればいいんだ?」
不意に呼び鈴が鳴った。
進がドアを開けると、そこには店のユニフォームを着たままで、息を切らせていたあざみが立っていた。
「あざみ……」
「あたし、知らなかった。。進があんな辛い思いをしてたなんて……それなのにあたし、進のこと弱虫だなんて言って……最低よ……あたしって。あたしね……」
「店……」
「え?」
「店に戻ろうか」
「進……」
「俺も逃げてたってしかたない。明日あのボンボンの家にピザを届けにゃならんからな」
あざみはその言葉を聞いて表情はぱあっと明るくなった。それと同時に目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ススムー!」
あざみは思わず進に抱きついた。
「おい、こらよせよ!」
そういいながら進もあざみをしっかりと抱きしめた。
***
あざみは韋駄天ピザ808号店に進と一緒に戻ってきた。
進は店に入ると、レーサーの帰還を待ちわびていたみんなの顔を見渡した。
「みなさん。ご迷惑をおかけしました」
「大したやつだよ、お前は。どの面下げてこの店の敷居またげると思ってるんだ? でも、まあ、いいか。済んじまったことよ」
「進さん、僕ずっと信じていました。戻ってきてくれることを」
「よく戻ってきたな。決心はついたか?」
「はい。やれるだけのことをやってみます」
こうして、韋駄天ピザ808号店のいつものメンバーが揃った。その場にいる者はみな、これから辛い試練があることを知っていた。しかし、彼らはもうしばらくこのひとときの、メンバーが勢揃いした安心感を味わっていたかったのである。
***
その日の夜、店のガレージではつなぎ姿の進がマシンの整備をしていた。
すると不意に進の横からコーヒーカップが差し出された。
「はい」
あざみだった。
「お、わりいな、ちょっと一息入れるか」
進とあざみはガレージの壁に寄りかかって隣り合わせでしゃがみこんだ。
「みんなは?」
「もう帰ったわ。進ももう遅いから帰ったほうがいいよ」
「そうだね。もうちょい……あざみ……」
「なあに?」
進はコーヒーをひとすすりして言った。
「もし、ゲームに勝ったら……いや、なんでもない」
「明日どうなるかね」
「まあなるようになるさ。俺はこいつを信じてるから。こいつには正也がチューンしてくれたエンジンが載っかってんだ」
「……勝っても負けても、進のしたいようにすればいいよ。ただね……」
あざみは立ちあがった。
「ただ?」
「怪我しないでね」
そう言うとあざみは小走りでガレージを後にした。
「ありがと」
静まり返ったガレージで進は一人小さくつぶやき、コーヒーをひとすすりした。
***
その頃、雄二は自宅二階の窓辺に座って物思いにふけっていた。
明日、進は人生の岐路に立たされている。そして進は真っ向からその状況に立ち向かっていこうとしている。雄二は今日の出来事で一人一人の人間にそんな時があることに気付かされた。それは同時に雄二自身にも将来そんなときが来ることを意味している。自分はそんな時、進と同じように立ち向かう事ができるのだろうか? いくら考えても答えは出てこないので、雄二は寝ることにした。
***
明くる朝、空はこれでもかと言わんばかりに晴れ渡っていた。進は店の外でバイクに乗り静かに戦いの時を待っていた。
店の扉には『臨時休業』との貼り紙が貼ってあった。
店内は異様な静けさに包まれていた。各自が配置につき、電話が来るのを今か今かと待っている。するとその静寂を打ち破るように電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます。韋駄天ピザ808号店、担当の東雲です」
外でスタンバイしていた進は、あざみが電話を取るのを見て、カーナビのボタンを押して、30分からのカウントダウンを開始した。
「韋駄天スペシャル2枚、メキシカンホット1枚、アメリカンデラックス1枚、ピザ・ロワイヤル1枚、オールLサイズでお願いします!」
あざみは京介邸からの注文を読み上げた。
「はいよ! 雄二、お前アメリカン作れ。あとは俺と店長でやる。ヘマすんじゃねえぞ!」
「は、はい!」
源右衛門、多佳、雄二は早速ドウを伸ばし、ピザソースを塗り、チーズとトッピングを散らせて、全員同時に、薪が赤々と燃えている窯の中にピザを入れた。そして、源右衛門は長年の勘を頼りに一番いいタイミングで窯からピザを取り出した。すぐにそれをカットし、箱詰めし、ピザバッグに入れ、あざみに手渡す。
あざみはピザバッグを抱え、店の外で待機している進にピザバッグを渡した。
「こっちはOKよ!」
「よし!」
「安全運転ね」
「わかった。行ってくる!」
進はいつもの通りスロットルを全開にして、ホイールスピンをさせながらマシンを駆った。
「頑張って!」
あざみが進の背中に向かって声を張り上げる。その時、あざみの上空にヘリが現れ、進のマシンを追いかけていくのが目に入った。
「こちら追跡班。目標がただいま店を出ました。オーヴァー」
京介は何台ものモニターが並んだ部屋で進が走っている映像を観ていた。
「ご苦労、引き続き追跡されたし。進君、せいぜいこのゲームを大いに盛り上げてくれたまえ」
進はいつものごとく激しい蛇行を繰り返し、車と車の隙間を通りぬけ、どんどんと車を追い抜いていった。
しかしさすがにラッシュアワーだけあって、追い越せる車にも限りがあった。進は道路の左に寄り、ガードレールの上に飛び乗ると、その上を走行していった。
次の交差点を右折しようと思ったが、タイミング悪く赤信号になってしまった。その時、左から大型トレーラーが走ってきた。進はこれ幸いとばかりにガードレールからジャンプし、王型トレーラーの上に乗った。乗っかったと同時に急ブレーキをかけ右に曲がり、大型トレーラーの上を走り、そのままジャンプして、トレーラーの前に降りた。
「ショートカットして時間を稼いでおくか」
生け垣に囲まれたとある金持ちの屋敷。立派な庭の、これまた立派な池には、見事な錦鯉が泳いでいる。しかし、妙なことに錦鯉の一匹一匹に値札が付いている。
いかにも偏屈で金汚そうな老人が母屋から出てきた。
「さて、総額5624万円の盆栽ちゃん達の世話でもするかな」
老人は植木棚の方に歩いて行く。無論、盆栽の一つ一つにも値札が付いている。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
遠くの方から奇声が近づいてくる。
「な、何の声だ?」
老人が剪定用の植木バサミを握りながらキョロキョロしていると、声の正体が生け垣から飛び出してきた。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
声の主はいかなる障害物も気に掛けないと言った素振りで、速度を緩めること無く植木棚に突進し、その上置かれた盆栽もろとも破壊した。そしてそのまま反対側の生け垣に突っ込み、老人の屋敷から走り去っていた。
「こらー! 5624万円弁償しろー!」
老人は疾風の如く通り過ぎていった何者かに向かって大声を張り上げた。
進の進路の先にはガソリンスタンドがあった。その日は珍しく混雑していて、その入口には何台もの車が列を作って並んていた。
そこへスモークシールドをした黒塗りのベンツが強引に割り込んできた。そして中から、金のチェーンのネックレスをして、ローレックスの金時計を腕に巻き、パンチパーマを当てたいかにもと言った感じの男が出てきた。その男はガソリンスタンドの店員の肩を掴み振り向かせると、胸ぐらをつかみながら言った。
「おい兄ちゃん、はよガソリン入れんかい、ワレ。こっちは急いどんのや」
「すすすすすいませんんんん。なにぶん混んでおりますので、その、もう少しお待ち……」
「はよ事務所に帰らんと、『ハイジ』の再放送観れんやないかい、ああ? 兄ちゃんそないなったら、どう落とし前つけてくれんのかい?」
「申し訳ありませんんんん! ごめんなさいいいい!」
ガソリンスタンドの店員はいまにも泣き出しそうな顔で男に向かって謝った。
「けっ、おもろないな」
いかにもな人は胸ぐらを掴んでいる手を突き放しながら、タバコを一本取り出して咥えた。
「お! お客様! おタバコはおやめください!」
「ああ? 文句あんのかい?」
と言って、いかにもな男がライターに火を点けた瞬間、気化したガソリンに炎が引火し、ガソリンスタンドは炎に包まれた。
ちょうどその時、進はガソリンスタンドの脇を通りすぎているところであった。進のマシンも炎に包まれ、爆風で車のタイヤが転がり出てくる横で、かろうじて黒煙の中から飛び出すことができた。
「あのボンボンめ、あんなことまでしやがって!」
モニター室でその状況を観ていた京介は、黒メガネでスキンヘッドの身長が2メートルくらいある側近の男に尋ねた。
「おい、あんなのシナリオに入っていたか?」
「いえ、まったくのアクシデントでございます」
「ハハハ、こいつは傑作だな! 神はこんなにおもしろい筋書きを用意していたとはな」
京介はそう言うと満足そうにモニターを見つめた。
進がやっとのことで火炎地獄から抜け出すと、左前方の銀行の入り口から目だし帽をかぶった強盗が出てきて、今まさに逃げ出そうというところであった。強盗は手に持っていたショットガンを銀行入り口のガラス窓に向けると、続けざまに3発散弾を発射した。銃声とともにガラス扉が粉々に砕け散り、銀行内から女性行員の悲鳴が聞こえた。
「……あの野郎!」
進は歩道に乗り上げ、加速し強盗に接近した。
「韋駄天ラリアアアット!」
進の左腕が強盗の首に強烈な一撃をお見舞いした。強盗は衝撃で吹き飛ばされ、銀行の植え込みの中に頭から突っ込んだ。
そこへいつもの白バイ隊員二人組が通りかかり、出てきた女性行員に声をかけた。
「どうしたーーー!?」
「ご、強盗です!」
白バイ隊員二人組は前方に見覚えのある原動機付き自転車が走り去っていくのを認めた。
「ああ!! またあいつだ!」
「あの野郎、ただの変態ピザ野郎だと思っていたら強盗までやってやがったのかあ!?」
「クソ! 今日こそとっ捕まえてお白洲へ送ってやる! 天誅!」
そう言うと白バイ隊員二人組は植え込みの強盗には目もくれず、進を追いかけるように走り去った。
「あのー、強盗はここですよー」
と、女性行員は呆気にとられた表情で、遠くに走り去った白バイ二人組を見送った。
「警察追跡中。規模、白バイ2台」
進のマシンが警告した。
「はあ、こんな時に……今日は厄日だ。逃走モード!」
進が面倒くさそうに言うと、マシンのナンバープレートが格納され、店のロゴも隠れた。そうこうしてる間に後方からサイレンの音が近づいてきた。
「もう今度は警告なしだ!」
右手後方の白バイ隊員が声を荒らげて言った。
「そして小細工もなしだ。今日こそ交通機動隊の恐ろしさ、思い知らせてやる!」
左手の白バイ隊員は右手の隊員に向かって頷くと、二人はさらにアクセルを開いた。
薄暗いモニター室の中で、京介は白バイに追われる進をヘリコプターからの中継を通して観ていた。
「こいつは愉快だ。わざわざこちらが役者を用意しなくてもこんなにおもしろくなるんだからな。……この世は魑魅魍魎うごめく、一寸先は闇といったところか。進君、さあどうする?」
白バイに徐々に追い詰められる進は、二人の殺人タックルをカミソリ一枚の差でなんとか交わし続けていたがなかなか彼らの猛攻から逃れられずにいた。
「ここでニトロを使ったら後で辛いな。チィ、遠回りになるがやってみるか?」
進は幹線道路から細い脇道に入っていった。
「社長、ターゲット、最短コースから外れます」
黒メガネの側近が京介に告げた。
「いや、的確な判断だ。あの男はテクニックだけでなく頭も冴えている。ますます欲しい人材だ」
白バイ二人組と進の攻防戦。どちらかが前に出ては、もう一方がそれに追い付くことの繰り返しで、両者とも一進一退の状態だった。
「クソ! 直線じゃこっちが不利だ。あのコーナーはまだか?」
すると、前方に、待ち望んでいた急カーブの標識が見えてきた。進は急加速をかけ、一瞬だけ白バイ隊の前に出ると、そのままのスピードでヘアピンカーブに突っ込んだ。白バイ隊のバイクより、進のマシンの方がタイヤが太いため、コーナリングの性能は勝っていた。進は地面に顔がつこうかというほどの鋭角なハングオンでヘアピンカーブをギリギリで乗り切るが、白バイ隊はこれに追随することはできなかった。
「こんなの無理だああああああ!」
白バイ二人組はコーナーに積んであったゴミの山に突っ込んだ。
「なんでいつもこうなるの!?」
白バイ二人組はまたしても損な役回りに涙するのであった。
一方、モニター越しの映像によると、地獄のヘアピンカーブをクリアした進は軌道修正して、京介邸への最短コースに復帰していたようだった。
「社長、そろそろターゲットが我々の縄張りに入ります」
「ようやく我々の用意したセットと役者の出番だな」
「あいつら、大丈夫かな?」
進が白バイ二人組がどうなったのかほんの少し心配していると、前方にキラっと光る糸のようなものがあるのに気づいた。
「ヤバイ!!」
進は頭を引っ込めると、細い針金がバイクの屋根を、火花を散らせながら切り落とすのを確認した。
「あいつら正気か!?」
この先どんな狂った仕掛けが用意されているのだろう? とかんがえる間もなく進は川にかかる橋に辿り着いた。すると、川の岸辺からバレーボールを発射する砲台が現れ、進のマシンに容赦なく連射を仕掛けてきた。バレーボールがマシンに当たり、進はよろめいた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
進は死に物狂いで橋を全速力で渡りきった。
「クソ、なんて奴らだ。たけし城みたいな物まで作りやがって。こんなところ早く抜けださねえと」
進のマシンは細い路地から再び幹線道路に入った。交差点を通り過ぎると、路地から黒尽くめのライダー集団が出てきて、進の追跡を開始した。
進はバックミラーでライダー集団を確認すると、京介の筋書きがクライマックスに差し掛かっているのを感じた。
「やっこさん達、ようやくおいでなさったか」
黒いライダーの一人が進のすぐ横まで出てくるとゴルフクラブを振り回して殴りかかってきた。
ゴルフクラブが進の目の前に振り下ろされ、マシンのフロントカウルが完全に砕け散った。
進は左手で振り回されているゴルフクラブをつかむと、それで黒いライダーの首元を突いて転倒させた。
すると、わらわらと現れた他の黒いライダー達が右から左からとゴルフクラブを振り回し波状攻撃を仕掛けてきた。進は左右からのゴルフクラブの嵐を辛くもかわし続けた。
「このままではヤバい!」
進は急いで加速をかけ前にでた。
「オートクルーズモード」
進はカーナビに指示した。
「速度と進路固定します」
「よし!」
マシンが自動操縦に切り替わると、進はシートの上に立ち上がり、後ろを向き、右手にはゴルフクラブ、左手にはヘルメットを持って構えた。
「屋根がちぎれてなければこんな芸当はできなかっただろうな」
進は追い付いてきた黒ライダー軍の波状攻撃を、シートの上でジャンプしながらかわしてはゴルフクラブとヘルメットで殴りつけ転倒させていった。そして横づけしている黒ライダーたちを一通り片付けると、進のマシンの後方に一列に並んでる黒ライダー集団にヘルメットを投げつけた。
「これでおしまいだ!」
ヘルメットが命中した先頭のライダーが転倒し、それに続いていたライダー達も巻き込まれて次々と転倒していき、黒ライダー集団は完全に任務遂行が不可能になった。
進は背中にゴルフクラブを挿し、シートに座り直すと、オートクルーズを解除した。
「マーヴェラス! 素晴らしいよ。君の勇気と機知を讃えよう!」
「……」
薄暗いモニター室の中、心から楽しんでいる京介と、なかなか進を撃退できずにやきもきしていた背の高い側近との間には微妙な温度差が生まれていた。
黒ライダー集団を撃退し、進は京介邸のある長い坂の裾まで来ていた。
「残り3分か。たのむ、もってくれよ」
進はマシンをローギアに固定し、発進した。そしてニトロを使って急勾配の長い坂をトップスピードで駆け上っていった。
その時、前方でオレンジがたくさんつまった紙袋を抱えたおばあさんが転倒し、坂の上の方から、紙袋よりこぼれ出たオレンジがたくさん転がってきた。
「あ!」
進は背中に挿していたゴルフクラブで転がってくるオレンジを次から次へと打ち上げ、おばあさんの持っている紙袋に放り込むと、おばあさんの頭上を飛び越えた。
「はて? オレンジをこぼしてしまったと思ったけど、気のせいだったか……」
おばあさんは起き上がると、そのまま何事もなかったかのように再び歩き始めた。
「ふう、ドライバーじゃなくてサンドウェッジで良かった……」
問題の本質はそこではないが、進は彼なりに安堵した。
「ブラボー! 素晴らしい! レーサーがダメでもプロゴルファーになれるではないか!」
京介は進に惜しみない拍手を送った。
すると長身の側近が耳元でささやいた。
「社長、私、妙案を思いつきました。彼の性格からするとどんな困難な状況でも、先程の老婆のような弱いものを助けようとする行動に出ます。それを利用して……」
「奴がフルスピードの状態で突然猫でも飛び出させろというのか?」
「!」
「どうも君とは意見が合わないようだな。いいかな? 悪役と言うものには二つパターンがある。一つは、徹底的に悪事に走り、卑怯なこともお構いなしに平気でやってのけ、見ているものに嫌悪感を抱かせるタイプの悪役だ。まあそういう悪役というのは悲惨な最後を遂げ、観客にカタルシスを与えるのだが……そして、もうひとつは主人公と双璧をなすほどの機知に長け、一種の『悪役の美』というものを確立している、洗練され、粋な悪役だ。私は自分の役回りを知っているつもりだ。無論後者だ。しかし、君は胸糞の悪くなるような前者の悪役を私に押し付けようとしている。それは君自身がそのような悪役だからではないのかね?」
「しかし、社長……」
「ちょっと君、彼はもうお帰りのようだ」
京介が他の側近たちを呼ぶと、長身の側近は二人に両脇を捕まれ、モニター室からつまみ出されることになった。
「そんなことを言ってたら奴に負けますよ!」
長身の側近は精一杯の抵抗をしてみせた。
「今後私に意見があるなら、我が社の広報を通していただきたい」
「社長、社長! あんたは何もわかっちゃいない。そんなことばかりやってると後で後悔するぞ! 社長!」
側近はモニター室から強制退出され、ドアが閉められた。
「そう、私は何もわかっちゃいない。だから人生は面白いんじゃないか」
「クソ! あの若造め」
京介邸の外に追い出された長身の側近はそう毒付いた。
一方進はあと少しで京介邸にたどり着くというところまで来ていた。緑道の街路樹からこぼれ落ちる緑の木漏れ日を浴びて猛スピードでマシンを走らせながら、進は異様な静けさに気付かされた。
「静かだ。静かすぎる。俺はこのゲームに勝ったのか?」
その時、黒服で長身の男が進の前方で猫をはなすのが目に入った。
進が猛スピードのままハンドルを切ると、マシンが宙を舞った。そして進は十数メートル投げ出され、焼け付いたアスファルトの上を転がっていった。
「ピザを……ピザを届けなくては……」
進は息も絶え絶えになりながら、ぶちまけられたピザを食べている猫を見ていた。そして彼は気を失った。
モニター室で進の様子を見ていた京介達はすぐに屋敷の外に出てきた。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ! 救急車を呼べ! はやくしろ!」
***
気が付くと、進は暗い一本道を歩いていた。
「ここはどこだ?」
すると目の前に既に亡くなったはずのエンジニア、東条正也が現れた。
「そうか、俺はもう死んだのか」
「そうじゃない。俺はお前に言いたいことがあって来た」
正也はあの日かけていた眼鏡の向こうの優しい目で進を見つめながら話しかけてきた。
「言いたいこと?」
「そうだ。進、お前はもう十分苦しんだ。そろそろ俺からのしがらみを抜けだすんだ。そしてお前の生きたいように生きてくれ。俺の分まで。できることを精一杯に。自分のできることを。……お前を待っている人がいる」
正也はそう言い終わると後ろを向き立ち去っていった。
「おい、待ってくれ、俺はもっとお前に聞きたいことがあるんだ。待ってくれ! 待ってくれ、正也!」
進は意識を取り戻し、ガバっと飛び起きた。そこは病院のベッドだった。横にはあざみが付き添っている。
「気がついた?」
「……いつつ……」
進は包帯が巻かれている頭を押さえた。
「ダメよ、まだじっとしてないと」
「……そうだ! ゲーム! あざみ、俺はゲームに負けたのか?」
「それがよくわからないのよ。進は社長の家の前まで辿り着いたけど、転倒して意識を失ってたの。でも社長が、あのゲームは無効にしたいと言ってきたのよ。どうするの? 進」
「……俺、ずっと夢を見ていたようだ。色んなことが頭の中を駆け巡っていて……俺、デリバリーをやめてレーサーになるよ。そして……」
「そして?」
「君も一緒に来て欲しい」
「進……」
あざみはしずかにコクンと頷いた。
そしてカーテン越しに二つの影が重なるのが見えた。
「店長、お嬢さんと進のやつ、ここまで進展していたとは。どうするんです?」
病室に入るタイミングを逃して、ドアのところから覗いていた多佳が小声で源右衛門に聞いた。
「どうするも何も、できちまったものはしょうがねえだろう」
「何やってるんです? 二人とも。お見舞いに来たんでしょ? 病室に入らないんですか?」
空気も読まず、多佳と源右衛門に大声で声をかけたのは雄二だった。
「バ、バカ! しーっ!」
多佳は雄二の首根っこをひっつかんで、口に手を当てた。
***
それからまもなく、進とあざみは結婚した。雄二は京介の言葉を鵜呑みにして、東出グループの入社試験を受けるため店を辞め、大学に戻って猛勉強している。源右衛門は店長を引退し、悠々自適の生活を送っている。多佳は新しい店の店長になった。
だからもう韋駄天ピザ808号店は存在しない。恐ろしいスピードでピザを届けるデリバラーも今はいない。韋駄天ピザ808号店にいた面々には新たなストーリーが始まろうとしていた。
***
鈴鹿サーキットのピットには見慣れたデリバラ―バイクと、それに乗る若者がいた。
客席にはあざみ、多佳、雄二、そして源右衛門がいた。
「進! 安全運転ね」
「OK。安全運転ね。行ってくる」
進もマシンもコンディションは抜群だった。
目の前に広がるアスファルトの道の照り返しの眩しさに、進は少し目を細めていた。
東進。ポールポジション。周りのマシンからは空ぶかしの音がけたたましく聞こえていた。
スタートのカウントダウン。
そして進の新たなるストーリーがはじまるのだった。




